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陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感 [2010-02-28 00:00 by kollwitz2000]
朝鮮学校排除問題と<佐藤優現象> [2010-02-24 00:00 by kollwitz2000] イデオロギーの終焉(下) [2010-02-21 00:00 by kollwitz2000] イデオロギーの終焉(中) [2010-02-20 00:00 by kollwitz2000] イデオロギーの終焉(上) [2010-02-19 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優、北朝鮮の米ドル札偽造の証拠として『ウルトラ・ダラー』を挙げる [2010-02-12 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優の不思議な弁明――「慰安婦」決議をめぐって [2010-02-11 00:00 by kollwitz2000] メモ11 [2010-02-06 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優、自分は朝鮮総連に対して差別的な扱いなどしていない、と主張 [2010-02-05 00:00 by kollwitz2000] 菅直人幻想 [2010-02-04 00:00 by kollwitz2000] 佐藤優、自分は北朝鮮とは「対話による平和的解決」が必要と言っているのだ、と主張 [2010-02-03 00:00 by kollwitz2000] あの安田好弘弁護士が佐藤優弁護人として登場!! 第5回口頭弁論期日報告 [2010-02-01 00:01 by kollwitz2000] 陰謀論的ジャーナリズムの形成(3) 佐藤優の売込みを図る岡本厚『世界』編集長 [2010-02-01 00:00 by kollwitz2000] 1.
『世界』最新号(2010年3月号。2月8日発売)には、佐藤優が、歳川隆雄との対談相手として登場している。以前にも指摘したように、『世界』誌上での佐藤と大田昌秀との対談は長らく中断しており、最新号においても休載中のままだが(わざわざ「休載」と告知されている)、ついに約半年振りに、佐藤が誌面に復活したわけである。 「『世界』2010年1月号と<佐藤優現象>」で、私は、佐藤優の対談連載が中断されている原因は、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」が10月1日に出されたことの影響があるのではないか、と推測した。この推測自体は正しいと考えているが、いずれにせよ、『世界』は、(私とは違い)『世界』の執筆者や熱心な読者すら署名している「共同声明」を、一片の説明もすることなく、無視した、ということである。 これは、『世界』が新しい段階に入ったことを示唆しているように私は思う。要するに、小沢一郎の政治資金規制法違反関連の問題をめぐる、このところのジャーナリズム上の大騒ぎの中で、これまでの右傾化路線の延長上ではありつつも、『世界』がもう一段階上のフェーズに移行したのではないか、ということである。また後日指摘するが、これは、『金曜日』もそうであり、例えば最新号(2月26日号)では、「在日外国人参政権には反対です」という見出しで、前田日明へのインタビューが掲載されている。 私は、1月21日にアップした文章「陰謀論的ジャーナリズムの形成(1)」で、以下のように述べた。 「恐らく今後、一連の「小沢VS検察」をめぐる言説を通じて、『世界』や『金曜日』のようなリベラル・左派ジャーナリズムやその周辺の書き手たちは、この種の「国策捜査」論的陰謀論者たちと融合していくと思う。既にその傾向はあったし、人脈的にもかなり重なっているが、この件を通じて一体化が完了するのではないか。《THE JOURNAL》は、不偏不党な公正なジャーナリズムではなく、政治家や特定団体のプロパガンダ機関であろうが、リベラル・左派ジャーナリズムもそれと融合してブラック・ジャーナリズム化する、ということである(リベラル・左派ジャーナリズムのブラック・ジャーナリズム化については、以前にも触れた)。 また、小沢の影響力が低下すれば、割と早い時期に、民主党は社民党と国民新党を切って、公明党と連立を組むと思う。そうなれば、護憲派ジャーナリズムや市民団体は、民主党と対決するどころか、民主党の個々の政治家から捨てられないために、ますます小沢にすり寄っていくだろう。共産党系の憲法学者も、今回の件で検察を批判していたことから考えると、共産党系の書き手の一部(大部分?)もこういった流れに実質的に合流していくように思う。9・11陰謀論が一角にあっても、さして違和感を感じさせない構成になるだろう。 日本の大衆は、マスコミや知識人ほど政治的判断力が低くないから、民主党の小沢擁護論は完全に浮き上がっている。こうして形成される陰謀論的ジャーナリズムも、大衆から遊離していくだろう。」 『世界』最新号は、『世界』がこの方向を着実に進んでいることを示している。以下、その現れと思われる点を見ていこう。 2. ①法治主義の否定 今号の掲載の文章(「民主党の民主化を」)で、山口二郎は、以下のように述べている(強調は引用者、以下同じ)。 「検察が権力悪を追及する正義の味方というイメージは、もはや過去のものとなった。佐藤優が広めた「国策捜査」という言葉は、メディアに定着した。国策なるものの実体があるかどうかは別として、検察はしばしば自ら描いた筋書きに沿うよう、むりやり無実の人間に罪を着せることがありうることは、むしろ常識となった。」 何重にも馬鹿げた文章だが、まずは、ここで山口が、佐藤優の事例(の本人による宣伝)から、「 検察はしばしば自ら描いた筋書きに沿うよう、むりやり無実の人間に罪を着せることがありうることは、むしろ常識となった」としているのであるから、佐藤優が無実であり、検察によって罪を着せられた、と述べていることを指摘しておこう。 だが、周知のように佐藤の有罪は最高裁で確定している。山口がいかなる根拠で佐藤が無罪だと言うのかも謎なのだが、有罪が確定している以上、このような発言は司法の機能の否定ではないのか。「残念ながら司法は不当判決を行なったが、自分は佐藤の無実を確信している」という言い方ならば分かるが、そうではなく、確定した判決についてあたかも存在しないかのように扱った上で、「無実」という、判決と相反する主張を自明の前提とすることで、法治国家が当然有する司法の権威性を完全に否定している。 この姿勢は、山口の同じ文章の以下の一節にも貫徹している。 「 通常国会開幕直前に、石川知裕衆議院議員など小沢一郎幹事長の関係者が逮捕されたことで、政治論議は必然的に資金問題をめぐる小沢と検察の戦いに集中することとなった。政権交代による日本政治の変革、政策の転換に期待を託していた人々にとっては、これは困ったとしか言いようのない事態である。 今回の事件に対する当惑は、民主党を陰で支配している小沢幹事長の金権腐敗ぶりが明らかになって困ったというものではない。既に昨年春、西松建設による不正献金事件が立件され、小沢は代表を退いた。国民は小沢が違法かどうかはともかく、巨額の政治資金を集めてきたことを承知の上で、民主党に政権を託した。さらに言えば、自民党竹下派の嫡子であり、企業から巨額の政治献金をかき集めてきたという小沢の来歴を承知の上で、ひ弱な民主党を束ねる必要悪として、豪腕小沢の存在を許容してきた。今頃になって、今度は水谷建設の裏金が流れたということで検察が国会議員の逮捕を含む強制捜査に乗り出したことが、困った話なのである。」 これも何重にも馬鹿げた主張であるが、ここでの文脈の関係から一つだけ指摘しておくと、選挙結果が検察による捜査の正当性を妨げない(妨げるべきでない)のは自明である。中学生でも踏まえているであろう原則である。これも、司法の機能の否定という点で、その上で挙げた一節と共通している。 検察捜査の否定という点では、岡本厚『世界』編集長も同様の主張を行なっている。岡本編集長は、佐藤と歳川の対談で司会役を務めているが、その中で以下のように語っている。 「小沢氏が不透明な資金を得て、その政治力としていることは推定できる。しかし、民主党や政権首脳が小沢続投を支持、あるいは沈黙しているのは、メディアがいうように、単に小沢支配への恐怖があるというのみならず、検察の捜査(またそれと一体化したメディア)への不信があるからだろう。 」 民主党政権成立後、『世界』権力批判の立場と公正性を消失してしまっていると思われることは、既に指摘してきているが、ここでも同様の問題が指摘できるとともに、その深化を見ることができると思われる。なぜならば、岡本編集長は小沢が「不透明な資金を得て、その政治力としていること」自体は「推定」しているのだから、本来はその「推定」=嫌疑に基づいて、捜査の徹底を要求し、(『世界』をはじめとした)メディアによる小沢資金問題への取材・調査を行なうべきだろう。ところが、それとは180度逆に、岡本は、「民主党や政権首脳が小沢続投を支持、あるいは沈黙している」という事態を積極的に肯定しているのである。 このような、小沢が「不透明な資金を得て、その政治力としていること」を推定した上で、それ自体を容認・肯定する姿勢は、北村肇『金曜日』編集長の、最近の以下の発言も同じである。 「「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。 特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。 小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。」 http://www.kinyobi.co.jp/henshucho/articles/ippituhuran/20100205-78.html 北村編集長のこの超絶文章には突っ込む気力ももてないが、「政治改革を目指しての集金」ならば問題ないと北村編集長がしている点は、重要なものを示唆していると思う。山口・岡本編集長・北村編集長の上記言説について、「司法の機能の否定」だけを見るのは適切ではないのである。集金が「政治改革を目指して」のものなのか「私利私欲」のためなのかを判断するのは誰か?北村編集長らリベラル・左派メディアの編集者・言論人である。これらの人物の、「司法の機能の否定」「法治主義の否定」の背景にあるのは、「善悪を決定するのは自分たちだ」という独善そのものの世界観が控えているのだと思われる。 北村の上の一文のタイトルは、「小沢一郎氏と地検、どちらが「不正義」かを判断するのは、マスコミではなく市民」である。これらの人物は、自分たちの権益を主張する場合、「決めるのは市民だ」などといった仮面を使うのである。 ②世論からの乖離 陰謀論的ジャーナリズムの形成に応じて、大衆からの遊離が進行していくことを以前指摘した。『世界』の今号では、その遊離が早速現れている。 まず、上で引用した、山口の「困った話」云々という発言がそうである。各種の世論調査から明らかなように、大多数の「国民」は、「検察が国会議員の逮捕を含む強制捜査に乗り出したこと」に困っているどころか、むしろ支持している。困っているのは山口のような民主党政権応援団だ。 岡本編集長の、上記の対談での以下の発言も同様である。 「有権者は、いま迷っている。小沢氏も信じられないが、検察も信じられない。思考停止のような状態が沈黙の背景にあると思う。」 大多数の「有権者」は別に迷っていない。検察の捜査を支持している。岡本が、その愚民観から、「思考停止」していると描きたいだけだ。もちろん岡本はそのような現実に直面したところで、今号の「編集後記」などで「メディア検察」という造語までしてメディアと検察との一体化を批判しているところから推測すれば、有権者の検察捜査支持をメディアに流されたポピュリズムによるものだと主張するだろう。 前から書いてきているように、マスコミやアカデミズムの住人に比べて、一般の大衆の方がメディアに流されることなく、自らの政治的利害に沿った、合理的な行動をとる。その「合理的」な行動は、えてして権益確保のための侵略や対テロ戦争の擁護であったりもするが、自らの政治的利害には概ね合致している。メディアに特に流されやすいのは、マスコミやアカデミズムの(半)住民、インテリや亜インテリといった層である。カルト宗教に高学歴出身者が多いのに似ている。そして、現在のリベラル・左派ジャーナリズムはカルト宗教化してしまっている。 ③馴れ合いの顕示 今号の特徴としては、執筆者による他の執筆者への賞賛が目につくことである。これは、単なる偶然ではなく、陰謀論的ジャーナリズムの形成を通じて、執筆陣が同質化・党派化しつつあることの徴候だと思う。 上で挙げた、山口による佐藤の無実を自明視する発言が典型であるが、その山口について、同号で、斎藤貴男は以下のように書いている。事業仕分けについてのルポの中の一節である。 「北海道大学の山口二郎教授(政治学)に会った。自他ともに認める民主党の有力なブレーンだ。」 「ブレーン」か?いや、民主党も、山口をブレーンにするほど馬鹿じゃないよ。山口は確かに民主党の政治家たちと懇意らしいが、民主党が山口に期待しているのは、山口の政治学者としての能力ではなく、山口の宣伝役としての能力である。山口はマスコミやアカデミズム、市民運動、連合など労働組合関係に広範な人脈を持っているから、山口を持ち上げておけば、山口は勝手に左派系を中心にして、民主党擁護の論陣を作ってくれるわけである。恐らく山口もそのことが分かっているからこそ、自分の(利用)価値を高めるために、人脈作りにより熱心になる、という構図になっている。 山口の見解を取り入れて民主党(議員)が主張を形成しているのではない。恐らく全く逆で、民主党議員や関係者がやりたい政策(といっても叩き台を作っているのは多分官僚)を水面下で直接聞くか間接的に耳にするかして、それを周辺の学者たちによって練り直し、観測気球的に主張するのが山口の役割なのだと思う。 そもそも山口は、ここ20年ほど研究している素振りが見えないし、むしろ、研究者としての道よりも、政治ブローカーとしての道(もちろんその担保は山口が著名な「政治学者」であることである)を意識的に選択しているようにすら見受けられる。 山口の政治評論の空疎さ、無内容さについては改めて言うまでもないが、私が不快に思うのは、編集者や学者といった、山口の周辺の人物も、山口は駄目だと思いながら起用したり、共同で活動したりしているのではないか、ということである。 昔、なぜ山口を使い続けるのか、と山口と昵懇の編集者二名に聞いたことがあるのだが、「なんだかんだいって正義感が強い」、「政治学者で時事的な問題をタイミングよく書いてくれるのは山口さんくらい」といった回答で、到底納得できるものではなかった。そして、山口の政治評論の内容それ自体に肯定的な人物を、編集者・学者の中で、私は見たことがない。 山口の政治評論の空疎さ、無内容さは周辺人物も共有しつつも、「政治学者としての第一人者」という共同幻想は存在する。山口に執筆させたり共同活動を行なわせることによってその共同幻想を増幅させ、そのことによって山口の政治的価値はより高まり、山口の人脈はより広がる。そして、山口を持ち上げる周辺人物たちは、山口を媒介として人脈や政治的影響力を広げられるという構図。山口がこの20年間、大して本も売れないのに、空疎かつ無内容な政治評論を書き続けてこられたのは、このような構図が回転しているからであるように思われる。 この構図は、<佐藤優現象>とほぼ同型である。実際に、山口を持ち上げる周辺人物は、見事なまでに、リベラル・左派内部で佐藤優を持ち上げる面々と重なる。その意味で、ここ20年ほどの<山口二郎現象>は、<佐藤優現象>の先行形態である。 多分、山口の上のような構図に内心気づいていて、その共同幻想を維持するために、あれほど文章を書き続けるのではないかと思う。その意味では(どうでもいいが)孤独な人物なのかもしれない。かつてあれほど山口を罵倒・嘲笑していた渡辺治が、現在は山口と同じようなことしか言っていないことからもわかるように、山口は、リベラル・左派内部の言説戦争に関して、その空疎さと無内容さによって勝利したのだが、上で一例を示したように、最近の山口の壊れっぷりは尋常ではない。一日で黙って意見を豹変させることすらしており、もはや言論人としての体面すら捨てて、なりふり構わず爆走しているように見える。どこに向かっているかは不明だが。周辺人物はこうした時にこそ、ちゃんと山口先生を心配してやるべきだと思う。かつて私が聞いた、「山口さんって、講演や打ち合わせの東京出張代を科研費で処理してるけど、あれ、ヤバイんじゃないの?」という心配ではなくて。 山口ネタで脱線してしまったが、かつて私がその文章の質の低さに驚いた神保太郎の連載について、岡本編集長は今号の「編集後記」で、「本誌に神保太郎氏の連載「メディア批評」が始まったのは、2008年1月号である。最近は講演の依頼なども時折編集部に舞いこむ神保氏だが、むろんペンネームであり、特派員経験もあるジャーナリストとしか、今は明かせない。/権力を市民に代わって監視し、真実を伝え、時代の課題を示すことがジャーナリズムの役割、任務なのに、それが放擲されているのではないか、というのが氏の一貫した問題意識である。」などと持ち上げている。そもそも、現役のジャーナリストに対して、大した内容でもないのに、ペンネームで書く場を提供してやる理由がどこにあるだろう(多分、有力者なのだろう)。これも内輪ぼめであり、馴れ合いである。 3. 前回論じたように、民主党政権内部で、4月からの「就学支援金」支給対象から朝鮮学校を外そうという動きが有力になりつつあるが、こうした動きが、『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行とほぼ同時期に起こっているのは興味深い現象である。民主党が排外主義的姿勢を鮮明にしつつあることと、『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムがよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつあることは、恐らく同質のものである。『世界』その他が朝鮮学校への差別措置案を批判しようと、それは関係ない。 佐藤優は、今号の対談で、以下のように述べている。 「今の民主党の戦略は、まず左のウィングを伸ばせるだけ伸ばしていて、社民党を与党に入れているだけでなく、たとえば雨宮処凛氏と湯浅誠氏を内閣に入れた。雨宮氏が賛助会員であるフリーター全般労組関係者は、麻生邸見学ツアーで逮捕された。湯浅氏の派遣村も、連合系と共産党系と新左翼系の労組の連合という見方があった。さらにJR総連は参院週の組織内候補を民主党の二次公認で出馬させるという。 右ウィングはどうか。高野山での小沢氏のキリスト教批判発言は非常に重要だ。高野山は真言密教で、歴史的に神道と近い。私はあの発言のターゲットは、神道政治連盟、つまり神社本庁と見ている。伝統的宗教・非伝統的宗教という言い方をして、神道系の保守勢力の本丸にまでウィングを広げている。それによって、自民党は日本会議と統一教会と産経新聞に支持されるだけの極右勢力になる。 参院選では石井一氏が選対委員長に据えられた。彼は創価学会の施設を監視せよと主張する人だから、創価学会と選挙で組むつもりはないことがわかる。今ハードルを上げて、参院選後に公明党が接近するのを持っているのだ。現に、習近平氏の天皇会見に関しても、山ロ那津男公明党代表は、宮内庁長官の辞任に言及した小沢氏は「問違っていない」と言った。補正予算案にも賛成の立場で、もはや公明党は半分与党になっている。大政翼賛会体制下でも、非翼賛の議席は二割弱だった。公明勢力、そして左右に進出するこの勢いが続くならば、民主連立政権は大政翼賛会を超えている。」 「国会が大政翼賛会化してしまう一方、社会の要求が満たされないという不満が出てくると、弱い人は黙ってしまうが、中間層などがファシズム化する恐れがある。 いま、小沢・検察戦争に対して極端な政治的無関心が広がっている。新聞も、検察批判が検察のリークとともに記事として伝えられるような、まったく整合性のとれない紙面になっている。インターネットのニュースランキングでは、小沢氏のニュースと、和歌山の「たま駅長一カ月程度の休暇」が 並んでいる。こうした状況を構造的に見れば、我々はいまファシズムの前段階にいることがわかる。日常的な政治とのインタラクションのなかで、ファシズムをより強化するようなことを無意識のうちにやっている可能性もある。不気味なことが進行しているが、それに対抗していく力がどこにもない。」 形式的には、佐藤はこの「大政翼賛会」状態を危惧しているが、そうではなくて、これは、佐藤が現在の「大政翼賛会」状態を誇示している、と読むべきである。そして、例によって「ファシズムの前段階」論を主張しているが、前から指摘しているように、佐藤が言っているようなありもしないファシズムの脅威など問題ですらなく、<佐藤優現象>こそがファッショ的である。いまだに自民党や右派を叩いて満足している左派が存在するが、それは、佐藤が正しく指摘する「大政翼賛会」化を促進しているだけである。 自民党にせよ民主党にせよ、日本国家・日本社会の排外性・親ファッショ的な性格を問題にしていないのだから、両党の抗争がそれなりに互角の場合には、相手に攻撃材料を与えないためにそうした傾向の顕在化を自重するが、権力が集中すれば、排外的・ファッショ的に必然的になるのである。それは、民主党や社民党がどのような看板を掲げようが関係ない。したがって、人権と平和に関心がある人間がまず批判すべきは、もはや力を失っている自民党や右派ではなく、「大政翼賛会」化している民主党政権であり、それと癒着を深めるリベラル・左派ジャーナリズムである。 1.
民主党政権内で、4月からの「就学支援金」支給対象から朝鮮学校を外そうという動きが活発化している。第一報を聞いたのが、「イデオロギーの終焉(上)」で、安倍政権と鳩山政権の連続性を指摘した直後だっただけに、その符合に驚いた。 今回の差別措置案については、kscykscy.氏がブログ「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」で明快かつ明晰に論じておられるので、未読の方はそちらを是非ご参照いただきたい。 「「公的確認」の論理と教育「内容」の問題――朝鮮学校と高校「無償化」問題②」 http://kscykscy.exblog.jp/12886916/ それにしても、下の産経の社説を読むと、その余りのご都合主義とむき出しの排外主義ぶりにうんざりさせられる。 「【主張】朝鮮学校 無償化除外へ知恵を絞れ」 http://sankei.jp.msn.com/life/education/100223/edc1002230302000-n1.htm この社説がすごいのは、今回採られる可能性が高い差別措置について、文科省は「外交問題を考慮しない」などと建前を整えようと(整えながら行なおうと)しているにもかかわらず 、産経はそのような建前について、「それは建前です」とはっきり言ってしまっている点である。「知恵を絞れ」と言っているのだから。外交上の「国益」の観点から、ましてや戦時でもなく平時に、生徒の大半が相手国の国民であるという理由だけから差別措置を採るということは、法治国家である以上さすがにできない。だから、それを法形式上可能にするように「知恵を絞れ」というのである。そして、確かに文科省や平野官房長官らは「知恵を絞」って、「無償化にふさわしいカリキュラム(教育課程)かも含め、文部科学省がチェックしなければならない」などという建前を打ち出してきているわけだ。産経の主張は、今回採られようとしている措置がどれほど差別的かつ排外主義的なものであるかを浮き彫りにしている。 2. 産経の主張は、こうした差別措置を積極的に肯定する「国民感情」に政権が応えるよう訴えている。 そして、このような「国民感情」におもねり、それを助長するための発言を、「論壇」で最も精力的に行なってきたのが佐藤優であることは、私が再三指摘している通りである。以前書いた記事「佐藤優、自分は朝鮮総連に対して差別的な扱いなどしていない」で詳しく書いたが、以下、佐藤の発言を改めて引用しておこう。 まず佐藤は、「「北朝鮮を叩き潰すという前提でマスタープランを組み立てよ」という国家意思が明確に示された場合の筆者の腹案」として、以下のように述べている(強調は引用者、以下同じ)。 「「平壌宣言」の廃棄だけでは、日本国内から民間のカネや物が北朝鮮に流れることを阻止できない。そこで警察庁、国税庁、検察庁が一体となって国策捜査を展開するのだ。日本は法治国家である。従って、違法な捜査はしない。しかし、これまでは「お目こぼし」の範囲内にあった違反行為でも徹底的に摘発し、逮捕、長期勾留、厳罰、マスコミに対する情報のリークで、北朝鮮とビジネスをすることで利益を得ている者を、朝鮮籍、韓国籍をもつ在日外国人であるか、帰化日本人であるか、生まれたときからの日本人であるか、中国人、アメリカ人などのその他の外国人であるかを一切問わず、徹底的に叩き潰すことである。(中略) 実は北朝鮮はこの国策捜査のシナリオを何よりも恐れている。北朝鮮政府の事実上の公式ウェブサイト「ネナラ(朝鮮語で「わが国」の意)・朝鮮民主主義人民共和国」が2006年3月28日付の北朝鮮外務省スポークスマン声明を掲載しているが、ここに大きなヒントが隠れている。(中略) 「敵が嫌がることを率先して行う」というのはインテリジェンス工作の定石だ。北朝鮮政府が重要なシグナルを出しているのだから、それを正確に読み取って、「現行法の厳格な適用」という国策捜査を用いて、北朝鮮に流れるカネ、物の元栓を完全に閉めるのだ。日本国家の暴力性を最大限に発揮した国策捜査は経済制裁よりも効果がある。」(佐藤優「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」(『別冊正論』Extra.02所収、2006年7月刊) この「腹案」は、一応、仮定上のものということになっているが、佐藤の別の文章である「「ネナラ」、北朝鮮からのシグナル」(『地球を斬る』角川学芸出版刊、66頁。初出はインターネットサイト「フジサンケイビジネスアイ」「北朝鮮からのシグナル」2006年4月13日付)では、仮定上のものだったはずの主張が、以下のように、佐藤の自論として主張されている。 「 なぜ北朝鮮はこのタイミングでシグナルを送ってきたのか。このヒントは「ネナラ」に掲載された3月28日の北朝鮮外務省スポークスマンの声明にある。 〈日本当局は3月23日、警視庁公安部の主導のもとに数十人の大阪府警察機動隊を動員して、在日本朝鮮人大阪府商工会とわが同胞が経営する商店や家宅など六ヵ所に対する強制捜索を強行するなど、総聯の弾圧に平然と国家権力を投入した。のみならず、日本当局はすでに総聯の中央会館や東京都本部の会館、出版会館に対する固定資産税減免措置を取り消して差押処分を下し、ついで「現行法の厳格な適用」という美名の下に、全国のすべての総聯関連施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置を完全になくそうとするなど、総聯を崩壊させるための財政的圧迫をさらに強めている〉 日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。 政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制(けんせい)することが拉致問題解決のための環境を整える。」 すなわち、ここで佐藤は、上述の「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」と同じく、「2006年3月28日付の北朝鮮外務省スポークスマン声明」から引用した上で、2006年3月23日の在日本朝鮮人大阪府商工会等への警視庁による強制捜索、および「現行法の厳格な適用」という名目の下での、「全国のすべての総聯関連施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置」の廃止について、「拉致問題解決のための環境を整える」と肯定的な見解を示している。当然、「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」で記されていた、「日本国家の暴力性を最大限に発揮した国策捜査」をも佐藤は肯定的であると見るべきだろうし、実際、後者(時系列的にはこちらの方が先に発表されている)の読者は、仮定と断った上であっても、佐藤がこの「国策捜査」に肯定的であると見るだろう。 これは未確認だが(雑誌の実物が国会図書館にない。持っている方はご一報いただければ幸いです)、東京アウトローズWEB速報版によれば、佐藤は以下のような発言も行っている。 「たとえば、『国家の罠』という本で、私は『国策捜査』という言葉を使ったけれども、じつは『国策捜査がいけない』とは一言も書いていません」、「国策捜査が必要な時は、否応なく来ます。たとえば北朝鮮と対峙する場合、これは当然、国策捜査で行くべきでしょう。緒方元公安調査庁長官の事件でも、結局は朝鮮総連が被害者になるような筋立てになってしまっていますが、そんな体たらくでどうするんだといいたいですよね。ああいう事件は当然、政治的に利用すべきですし、ここはしっかり国策捜査すべき局面でしょう。総連に対して圧力をかければ、拉致問題を巡る交渉も有利になるからです。それは先の段階で総連に対する圧力を緩めるということが、外交カードになるからです」 また、これは「<佐藤優現象>批判」でも引用したが、朝鮮総連系の機関・民族学校への強制捜索に関して、佐藤は左派雑誌の『情況』で、以下のように語っている。 「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」(佐藤優・和田春樹「対談 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)問題をどう見るか」『情況』2007年1・2月号) もちろんここで言われている「法の適性執行」とは、「現行法の厳格な適用」と同義である。対談相手の和田は、ここでは佐藤の発言を黙認しているから、朝鮮総連系の機関・民族学校への「国策捜査」を肯定する<空気>は、『情況』という左派雑誌を通じても醸成されたと言える。 以上の佐藤の発言例はあくまでも私が認識したものであって、この他にも、私の把握していない場所で、佐藤が同様の主張を展開している可能性は高いだろう。周知のように、佐藤は極めて多くの媒体や講演で発言を行っているから、その社会的影響力も加味して考えれば、このような、「拉致問題」の解決、「国益」のためには在日朝鮮人に対して差別的に扱ってもよいという論理の鼓吹において、近年、佐藤は最も貢献した人物だと言えると思われる。 3. そして、佐藤優の論壇席巻という<佐藤優現象>を最も熱心に推進してきた出版社の一つが、岩波書店であることは改めて言うまでもない。岩波書店学術一般書編集部編集長の馬場公彦の、「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」などという発言が、佐藤を積極的に起用する行為が、岩波書店編集者たちによって<運動>として取り組まれていることをよく示している。以前にも指摘したが、岡本厚『世界』編集長が、佐藤を韓国の有力者たちに売り込んでいる、と見なさざるを得ない行動を行っているのも、同様の文脈にあると思われる。 昨年10月1日に発表された「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」は、「『世界』『週刊金曜日』その他の「人権」や「平和」を標榜するメディア」(「当該メディア」)について、以下のように指摘している。 「佐藤氏は、言論への暴力による威圧を容認し、イスラエルの侵略・抑圧行為や在日朝鮮人の民族団体への政治的弾圧を擁護する等の、決して許容できない発言を、数多くの雑誌・著作物で行っています。当該メディアが佐藤氏を積極的に誌面等で起用することは、人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らかです。」 今回の民主党政権内で浮上している朝鮮学校への差別措置が、「拉致問題」の解決、「国益」のためには在日朝鮮人に対して差別的に扱ってもよいという「国民感情」を背景としてなされているのは明らかだが、そのような「国民感情」の醸成は、この共同声明で指摘されているように、<佐藤優現象>によって大きく助長されたと思われる。逆に言えば、<佐藤優現象>が政治的に可視化されたものが、今回の差別措置案である。 『世界』最新号(2010年3月号。2月8日発売)には、佐藤優が、歳川隆雄との対談相手として登場している。以前にも指摘したように、『世界』誌上での佐藤と大田昌秀との対談は、最新号においても休載中のままだが(わざわざ「休載」と告知されている)、ついに約半年振りに、佐藤が誌面に復活したわけである。民主党政権内における差別措置案の浮上と時期的にほぼ並行していることは、なかなか興味深い。 4. 仮にこの差別措置案が政権によって採用された場合、だが、『世界』や『金曜日』など、<佐藤優現象>を推進するリベラル・左派メディアは、自分たちのことを棚にあげ、今回の差別措置案を批判するかもしれない。間違った論拠であるとはいえ(kscykscy氏の最新記事参照)、このあからさまな差別に対しては、朝日新聞ですら批判するくらいであるから。 これまでの論調からして、その場合、これらのメディアの論調は「朝鮮学校の件は確かに問題だが、「高校無償化」政策が実現したことは歓迎」といったものになるはずである。「レイシズムには反対だが、総論としては賛成」というものだ。 だが、このような主張こそが典型的なレイシズムである。以前指摘したが、日本社会の健全さを示す上で在日朝鮮人への差別があるかないかは関係ないとする山口二郎のケースと同じだ。そこにおいては、在日朝鮮人の存在の大きさが極小化されている。こうした主張は、「高校無償化は、朝鮮総連にカネが流れるから反対」といった主張よりも、言葉の正しい意味においてよりレイシスト的・排外主義的であり、在日朝鮮人(もちろん韓国国籍も含まれる)にとって脅威であると言える。 「就学支援金」支給対象から朝鮮学校を外そうという動きが、差別的であることは明らかだが、これは、<佐藤優現象>と同質のものであり、またその帰結でもある。そして、リベラル・左派メディアに、仮に朝鮮学校排除に対してそれなりに真っ当な批判が掲載されるとしても、当該メディア全体の枠組みとしては、レイシスト的な、排外主義的なものにならざるを得ないだろう。リベラル・左派メディアのそのようなものへの変質は、既に終わっている。 これは在特会問題とも通じるが、朝鮮学校排除案の成立阻止が最優先であることはもちろんであるが、それとともに、朝鮮学校排除案を成り立たせているような土壌――その象徴が<佐藤優現象>である――自体が問われなければならないだろう。今回の排除案こそが、佐藤が主張していたことの現実化であり、<佐藤優現象>の政治的可視化なのであって、そのような姿勢で今後の展開を見ていく必要があると思う。 5.
経済体制に関しても、消費税増税と格差是正のセットという形で、既に落としどころは成立している。構造改革を推進する側からしても、社会不安の回避から低所得者層への一定の手当てを必要としているのであって、今後、民主党政権であろうが自民党政権であろうが、このセット以外にはあり得ない。そして、どのような状態を指して「福祉国家」と呼ぶかは主観に委ねられているから、一定の手当てがなされているこの状態を指して、リベラル・左派は「新福祉国家」または「福祉国家への過渡的形態」と呼ぶだろう。これは、少し前まで渡辺治らが主張していた、多国籍企業・大企業の社会的規制による「新福祉国家」とは全く別のはずなのであるが、そのようなものだとして、左派は強弁するだろう。保守派は、そのように左派が理解(誤解)してくれていれば、体制批判がなくなるどころか擁護者になってくれるわけだから、そのような理解(誤解)を歓迎するだろう。 もはや『世界』がかなり前からそういう論調なのであるが、消費税増税と格差是正のセットを容認するリベラル・左派の一例を挙げておく。このたび、政府税調・専門家委員会委員長に就任した、神野直彦は、質問に答えて以下のように発言している。 「--消費税は、どう位置づけるべきでしょう? ◆福祉や子育てなど公共サービス充実のため、国民全体で等しく負担を分かち合うという理念であれば、消費税も有力な選択肢になる。友愛型の社会を目指すなら、消費税と所得税を税収の両輪とし、環境税などで補完する仕組みが望ましいのではないか。一方、日本が米国型の「小さな政府」を標ぼうし、公共サービスを最小限に抑えるというなら、高所得者の課税に重点を置いた所得税中心の税制を築き、消費税自体を廃止する選択肢もあり得る。どういう社会を目指すのか、将来ビジョンをまず明確にすることが必要だ。」 http://mainichi.jp/select/biz/news/20100204ddm008020022000c.html この発言は、消費税増税容認論(推奨論)である。神野が、リベラル・左派系のメディアで消費税増税慎重論を唱えていようが、そうである。この発言の主眼は、「どういう社会を目指すのか、将来ビジョンをまず明確にすることが必要だ」などという主張ではなく、神野が擬似的な二者択一の形で問題を設定し(この選択肢で「米国型の社会」を選ぶ人間はほぼ皆無だろう)、消費税増税による「友愛型の社会」に読者を誘導している点である。この専門家委員会が、消費税増税論を打ち出してくることはほぼ間違いないだろう(神野自身は「自分は積極的賛成ではないが、他の委員に押し切られた」というポーズを打ち出すかもしれないが)。 この種の擬似的な二者択一論は、消費税増税論では紋切り型である。著名な消費税増税論者の、石弘光の著書から引用しよう。冒頭の部分である。 「本書では、増税が絶対に必要だと一方的に主張しているわけでない。むしろ、政府から公共サービスの受益を要求するなら、それに応じ必要な費用をわれわれ国民は負担せねばならないと訴えているのだ。これからの日本経済あるいは国民生活との関連で税制のあるべき姿を考えると、いたずらに増税阻止を主張するだけでは得策でないと思う。それより財政赤字累積の重圧の中で少子高齢社会を迎え、国民の安心と安全を確保するためにセーフティーネットたる社会保障制度を持続可能な形にせねばならない。そのためには、国民皆が「広く」「公平に」税負担するのが最善の政策選択であると考えている。(中略) もちろん税負担増を避ける選択肢もある。それはアメリカ社会のように政府介入を極力避け、個人の自助努力を全面的に押し出す低福祉・低負担の仕組みを志向することである。たとえば、自分や家族の老後も病気、介護もすべて公的な制度に依存せず自己責任でやるなら、現状程度の税負担で収まるかもしれない(もっともこれまでの財政赤字累増に伴う元利払いの費用は、別途負担せねばならないが)。そのかわりに老後の生活の備え、健康管理、介護などすべて自己負担になる。公平な税や社会保険料を支払う形で負担するか、それとも個人的な自己負担でするのか、どちらが良いのかの選択となろう。日本人の多数がこの自己負担型を好むというなら、それも一つの目指すべき方向となる。しかし日本の伝統や経済的、社会的、文化的背景を考えると、私はこの方向を選択するのに必ずしも賛成ではない。 最近、若い世代を中心に負担が増えてもよいから、自分たちの将来の夢と安心のためにしっかりした公的な制度を構築して欲しいという声を聞く。「いま、何故増税論議が必要なのか」を解説した書物を執筆してくれといった出版社からの依頼も、これまで私のところに数多く寄せられている。本書は、これに答えるといった意味合いもある。」(石弘光『税制改革の渦中にあって』岩波書店、2008年1月、ⅴ~ⅵ頁) 同書はまさに、消費税の「増税が絶対に必要だ」と主張している本だが、上の神野の発言と何と似通っていることか。「米国型の社会」を持ち出して、二者択一という形で、高い公共サービスと消費税増税のセットを呑ませるという手法である。繰り返すが、こうした擬似的な二者択一を設定すること自体が、消費税増税論を主張するのと同義である。 6. このような、「国家的重大懸案」に関するイデオロギー論争の終焉という事態は、既に、半世紀前に欧米では成立していたものだと思われる(欧米の大多数の左派は、日本と異なり、冷戦構造における西側の一角を担う軍事的役割を承認していた)。ダニエル・ベルは以下のように指摘している。 「こうしたすべての歴史のなかから、ひとつの単純な事実が浮かびあがってくる。すなわち、急進的インテリゲンチャにとって、ふるいイデオロギーはその「真理」と説得力を喪失したということだ。「青写真」を作成できるなら、あとは「社会工学」によって、社会的調和のとれたあたらしいユートピアをもたらすことができる、と真面目に信じる人はもはやほとんどいない。同時に、ふるい「対抗信念」もまた、思想としての力を喪失してしまった。国家が経済においていかなる役割もはたすべきではない、と主張するような「古典的」自由主義者はほとんどいないし、少なくともイギリスやヨーロッパ大陸において、福祉国家が「隷従への道」である、と本気で言じている保守主義者はほとんどいない。それゆえ、欧米の世界では今日、政治的争点をめぐって、おおまかな合意が知識人のあいだに存在する。すなわち、福祉国家の容認、権力の分権化の望ましさ、混合経済体判ならびに多元的政治体制への合意にほかならない。この意味においてもまた、イデオロギーの時代は終わったのである。」(ダニエル・ベル『イデオロギーの終焉――1950年代における政治思想の枯渇について』岡田直之訳、東京創元社、1969年、262頁。原著は1960年刊) 弱肉強食の新自由主義路線、社会主義的な「新福祉国家」路線、侵略と植民地支配の責任追及と清算を志向する「反日」路線、憲法9条を実現しようとする非武装平和主義路線、「東京裁判史観」の打破を目指す復古主義的路線など、さまざまなイデオロギーは終焉し、「福祉国家」を時に標榜する、リベラル・デモクラシー体制を落としどころとして、政治論議は収斂している。 現在の言説状況は、ベルが半世紀前に成立を指摘した「イデオロギーの終焉」状態に、日本がようやく到達したことを示しているのであって、あとの主な政治的議論は、一般大衆には関心が持てないテクニカルな話か、年金負担率などの生活に密着した話か、欧米での中絶問題のようなシングル・イシューか(日本では死刑廃止問題が、中絶問題の代替物になるだろう)、といった形になろう。「イデオロギーの終焉」後、アメリカやイスラエルのように、左右の政治的議論はむしろ活発になるかもしれないが、これまでのそれとはもはや意味が変質している。 7. 恐らく、こうした事態は、一般的には既にある程度気づかれていると思う。日経や読売が民主党政権にそれほど批判的でない(日経はむしろ好意的)なのは、自治労や日教組、それに連なる護憲派団体や市民運動、リベラル・左派ジャーナリズムが、もはやイデオロギーを喪失し、「国益」論的なものに変質していることを正しく認識しているからだと思われる。首相の靖国神社参拝や「大東亜戦争」の大義、金正日体制打倒による拉致問題解決に固執する、まさにイデオロギー的な草の根の保守の方が、「国益」上の観点から見れば、極めて有害であることを、日本の支配層はこの数年間で学習したのであって、そうした支持層に左右されやすい自民党よりも、脱イデオロギー的な民主党の方が、「普通の国」としての大国主義的な諸施策の展開や、企業のアジア進出、中韓(企業)と日本(企業)の提携等、今の経済界が必要としている諸方策の展開を進める上で、都合がよいのである。そうした、イデオロギー的な右派に左右される政党に対抗するために、必要悪として、既に脱イデオロギー化した左派を利用している、という構図だと思う。 また、言説レベルにおけるイデオロギーの終焉という事態は、雑誌ジャーナリズムの終焉の大きな要因にもなっていると思う。もともと論壇関係の雑誌を買うような人間は、イデオロギー的な志向を持った人が多い一方、雑誌を作る編集者や書き手は、左右を問わず、脱イデオロギー化してしまっているからである。論壇誌の中でも、『月刊現代』や『論座』が早期につぶれ、「リベホシュ」化を狙った『諸君!』が廃刊に追い込まれたことが、そのことを示唆している。 また、<佐藤優現象>も、「イデオロギーの終焉」を促進するとともに、その結果でもある。 だが、こうした「イデオロギーの終焉」という事態は、マスコミやアカデミズム、そこでの言説を再生産するだけの大半のブロガーといった、主としてプチブル層にのみ生じているものであって、大衆的な支持を得ているわけではない。<佐藤優現象>や、民主党政権翼賛といった、近年のリベラル・左派の急速な変質は、村山政権誕生時の社会党の大転向にも比すべきものであるが、当時の社会党の転向が、何ら大衆的支持を得ていなかったのと同じである。これらは、同質的な<空気>の下で、<空気>を読みあった上で形成されているものにすぎない。 「イデオロギーの終焉」の下での「左」「右」対立というものは、現在の論壇がそうであるように、八百長プロレスの枠を出ない。これは、客観的に(外部から)見れば、「総保守」である。だが、言説レベルでは、「左」「右」は基本的な認識を共有するに至っているので、「政策論争」はむしろ活発化するだろう。こうした擬似的な「左」「右」対立に絡め取られることなく、全体を批判していく必要がある。 3.
この「イデオロギーの終焉」という事態においては、従来型の「右」か「左」か、という区分は、全く意味をなさない。ある意味で、全部が「右」になったとも言えるし、「右」と「左」が国益論の枠組みで再編された、という言い方もできるだろう。ここにおいては、従来の左派は、国民レベルではより平等主義的に、対外国人レベルではより排外主義的な傾向を強めると思う。 例えば、外国人労働者問題について考えてみよう。この場合、政策的には、一定流入させて単純労働力は阻止、という方針自体は左右ともに変わらない。だが、財界や保守派においては、対外関係への顧慮という要素があるのに比べて、左派は、「新自由主義」に反対するとの口実で、外国人労働者流入反対を公然と掲げるようになるだろう(既になっている)。 関連して、左派が、閉鎖経済への傾向を持っていることも指摘できよう。例えば、ポピュリズム系の護憲派の典型である『通販生活』を発行するカタログハウスが掲げる「商品憲法」には、「日本が「自給自足国」に近づけるよう、国内製品の販売を心がけています。」とある。「小社は決して国粋主義の小売りではありませんが、できるだけ、メイド・イン・ジャパンの商品をご紹介することで、急増する失業率を少しでも減らしていければと思います。」と。ここにおいては「新興国、途上国」の雇用や経済成長、世界経済への影響といったものが全く考慮されておらず、ただひたすら保護主義的な欲望のみが表れていることが指摘できよう。「自給自足国」に近づけば、実際には却って日本国内の雇用も減ると思うのだが。そして、先進国の経済的特権性という自意識すら皆無な、こうした保護主義的傾向が、「国粋主義」的な傾向を帯びざるを得ないことも明らかである。 4. また、在日朝鮮人への対応についても考えてみよう。リベラル・左派において、近年、「在日朝鮮人に、権利としての日本国籍取得権を与えるべき」という主張が見られる。与えるべき権利として、地方参政権の次には日本国籍、といった議論も同質である。 こうした主張は、善意で言われている(ように見える)がゆえに、より脅威的である。仮にこのような法案が成立すれば、在日朝鮮人が韓国国籍または朝鮮籍で留まることは「反日」を選択したという表象が生まれ、日本国籍を取得しない在日朝鮮人への社会的抑圧はより強まるだろう。単純な話であるが、なぜ在日朝鮮人が侵略国の国籍を取得し、日本国民とならなければならないのか。そのことが精神的苦痛を伴うであろうという発想を持たない点にまず驚く。 この場合、帰化を拒否するのは、日本の帰化制度が排外的だから、または、当該在日朝鮮人が「民族主義」に侵されているから、ということになろうが、「元在日朝鮮人」の浅川晃広が指摘するように、近年の日本の帰化行政は、在日朝鮮人に対して、他の外国人に比べて帰化しやすいよう「配慮」しているのだから、前者は理由にならない。このような理由で帰化しないと主張している人物(例えば辛淑玉)は、「在日」言論人として食べていきたいとか、別の理由があると見なした方がよいのであって、現実に近年、多くの在日朝鮮人が帰化していっている。 したがって、在日朝鮮人が韓国国籍または朝鮮籍を保持し続けるのは、朝鮮民族の一員としての自らの歴史的アイデンティティを位置づけているからと基本的に考えるべきである(念のために書いておくが、私の主張を指して、「自分も在日だが、自分は「朝鮮民族の一員」などといった議論には全く興味がないが、帰化する気もない。金の言うことは、在日の実態を反映していない」という反論が出てきても一向に構わない。私が言っているのは、朝鮮民族の一員という位置づけを持っていなければ、今すぐに帰化しろ、という主張に反論できないということであり、そうした人々はそのうち帰化するだろう(または帰化を迫られるだろう)から、「韓国国籍または朝鮮籍を保持し続ける」人々に数えなくてもよいからである)。 だが、厄介なことに、アカデミズムのポストコロニアル研究をはじめとした日本のリベラル・左派においては、「民族主義」それ自体を抑圧と排外主義の源泉、などと捉える言説が一定の力を持っている。これは、自分たちだけは一般の差別的な「日本人」ではなく、「日本ナショナリズム」に感染しておらず、「良心的」で知性と教養のある人物だ、という自意識を持っている人間のみが共有可能なものであるから、一般大衆レベルではあまり影響力を持っていないが、リベラル・左派の言説としてよく見られるものである。 上野千鶴子を代表とするこうした言説は、民族主義をカルト宗教のようなものと捉え、知性や教養があれば感染しないもの、と位置づけている(異論は認めない)。上野がどれほど馬鹿げた主張を行なっているかは後日指摘するが、近代社会において、「自分は~~人という意識を持っていない」などと言えるのは、国民としての特権を享受して、民族意識を持たなくてもよい環境におかれているからに過ぎないのであって、こうした民族=宗教といった表象は、「民族主義に自分は感染していない」とする亜インテリの自意識を満足させるだけの、悪質な機能を果たしていると言える。もちろん、あらゆる集団や概念は宗教的なもの、という考え方もありうるが、だとすればことさらに民族(または民族主義)を取り出す必要はない。 「民族主義」それ自体を抑圧と排外主義の源泉と位置づける主張は、ほぼ例外なく、民族=宗教としているのだが、どれほど問題を起こそうとも宗教自体が否定されるはずはないように、民族主義を旗印に掲げた運動がもたらした野蛮や愚行は、民族主義それ自体を否定するものではない。こうした主張は何重にも支離滅裂である。私は自分を「民族主義者」だとは特に思わないが、それを否定するような状況では「民族主義者」を名乗る。 こうした民族主義否定の主張は、ポストコロニアリズム系の左派とされる研究者も言っているので往々にして見分けにくいが、民族自決権を否定する傾向を持つという点で、むしろ(当人は絶対に認めないと思うが)排外主義に親和的である。何回も書いてきているが、「日本国民としての責任」という立場(この文脈では「大和民族としての責任」でもよいが)から、在日朝鮮人の民族自決権を尊重する、という観点でない限り、在日朝鮮人問題に関わる日本人は必ず無自覚なままに転向していくのであって、民族主義批判や、「日本国民」といった「主体」を立ち上げること自体が問題、などと主張する日本人は、必ず転向していくだろう。それは、戦後の「日韓連帯」または「日朝友好」運動の無数の例が示している。 在日朝鮮人の民族自決権とは、当たり前であるが在日朝鮮人が独立するとか自治区を作るとか治外法権を持つとかといったものではなく(往々にしてそのような馬鹿げた誤解がウェブ上には散見されるが)、植民地支配の結果日本に居住せざるを得なくなった、朝鮮半島の国家を祖国とする者として、「すべての人民は自決の権利を有する。この権利に基づきすべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する」、「この規約の締約国は、国際連合憲章の規定に従い、自決の権利が実現されることを促進し、及び自決の権利を尊重する」(国際人権A規約第1条。国際人権B規約第1条も同趣旨)という前提の下、日本国内において民族教育権や生活権(これは、差別禁止や在留権の安定、居住権の保障といった、権利保障の問題であって、生活保護を優先的に享受させるなどといった社会福祉的な意味ではない。そのような「在日特権」は実態としても存在しない)が保障されることである。そこに、国内の差別問題一般としては(内外人平等原則のみの問題としては)括れない特殊性がある。 日本政府が在日朝鮮人に対して行なうべき諸施策とは、民族自決権に基づいた諸権利を尊重するということだけなのであって、民族教育の保障を全く欠き、人種差別撤廃条約で義務付けられている差別禁止の法的措置(私はマスコミ規制には基本的に賛成だが、インターネット規制には慎重であるべきと考える)も全く行なわないまま、(善意で)日本国籍取得権を与えるとするのは、客観的に見れば帰化推奨策である。 もう少し言うと、大多数のリベラル・左派の一般的認識は、日本国家が侵略と植民地支配について一定の謝罪を行なえば、「普通の国」として他の先進国と同じように制約なく対外派兵してもよい、在日朝鮮人も帰化しない理由は本来ない、というものだと思われるが(リベラル・左派内部の対立は、「一定の謝罪」の程度の問題にすぎない)、そうではなくて、侵略と植民地支配の謝罪の証が、憲法9条の対外的軍事力不行使であり、在日朝鮮人の民族自決権の保障であるべきであるし、論理的にもそうでなければおかしいのである。日本国内に、日本国籍でない在日朝鮮人が存在するという事態を異常と捉え、そうした在日朝鮮人に日本国籍を取得させたいという欲望を、レイシズムまたは排外主義と呼ばれるものである。 若干わき道にそれたが、保守派の方が、日韓関係への顧慮や、「民族主義」に対して左派ほど違和感を持っていないこと、在日朝鮮人に対して対して関心がないことから、在日朝鮮人側としては対処しやすいだろう。だが、民族自決権を認めないリベラル・左派は、溢れんばかりの善意で、日本国籍取得法案の実現を図り、民族主義批判の言説を垂れ流しながら、「在日」との「共生」を可能にする「寛容さ」を持った社会をつくろうと、有難迷惑としかいいようがないおしゃべりをやめないだろう。一部のリベラル・左派は、その排外主義性と、「在日」へのフェティシズム的な関心(何回も言うが、在日朝鮮人問題の核心は、民族自決権という抽象的権利の承認にあるのであって、在日朝鮮人の「友人」がいて親しいとか、在日朝鮮人について詳しいとかいったことは何ら関係ない)において、<嫌韓流>に似てすらいる。 1.
現在の言説状況は、要するに、イデオロギー論争の終焉、という言葉でまとめることができると思う。これは、マスコミ・ジャーナリズム・アカデミズムを問わず、そうである。大半のブロガーも、基本的にはマスコミやアカデミズムの言説とあまり変わらないので、大まかにはこのように言えると思う。 何が言いたいかというと、以下の東郷和彦の主張が実現した、ということである。 「日本外交は安保・歴史問題についての戦後60年の国内対立を乗り越えて、国民的コンセンサスを定着させる時期にきていると言わねばならない。」(東郷和彦『歴史と外交』講談社現代新書、2008年12月、18頁。強調は引用者、以下同じ) 「戦後、60年の漂流を続けてきた日本の歴史問題について、いまだに私たちをとらえている猛烈な左右対立を、「もうそろそろ終わりにしなくてはいけない」。 意見の違いは、最後まである。それは、徹底的に議論しなければいけないと思う。しかし、そういう意見の違いを乗り越えて、お互いを尊重し、同じ日本人として、オール・ジャパンとしての大きな方向性を、そろそろ見出さなければいけないのではないか。」(同書、20頁) こうした主張は、こと新しいものではない。実はこれは、表現は異なるが、加藤典洋がかつて述べたことと同じ意味である。 「 わたしの考えをいえば、戦後というこの時代の本質は、そこで日本という社会がいわば人格的に二つに分裂していることにある。 ここで特に人格的な分裂と断わるのは、たとえば米国における民主党と共和党、イギリスにおける保守党と労働党の併立、というような事態を指して、わたし違は国論の二分というが、日本における保守と革新の対立を、これと同様に見ることはできないからである。 わたしはその違いを、比喩的に、前者においては、二つの異なる人格間の対立であるものが、後者においては、一つの人格の分裂になっている、といっておきたい。 簡単にいうなら、日本の社会で改憲派と護憲派、保守と革新という対立をささえているのは、いわばジキル氏とハイド氏といったそれぞれ分裂した人格の片われの表現態にほかならないのである。」(加藤典洋『敗戦後論』講談社、1997年、46~47頁、初出発表は『群像』1995年1月号) この前提から、かの「300万の自国の死者への哀悼をつうじて2000万の死者への謝罪へといたる道が編み出されなければ、わたし達にこの「ねじれ」から回復する方途はない」(同書、86頁)という主張が出てくるわけである。加藤の上記の前提は、一見、東郷の主張と正反対に見えるが、同じことを指している。戦後日本においては、国民が共有できる歴史観が確立できなかったから、「普通の国」としての主体化もできないまま来てしまった。だから、国民的コンセンサスとしての歴史観を確立した上で、アジア諸国との「和解」を目指すべきだ、と。加藤の主張はその後の現実政治を先取りしている(『敗戦後論』の初出発表時は、「。そして、ここで加藤が、発表時点では日本では見ることができないとしていた、「たとえば米国における民主党と共和党、イギリスにおける保守党と労働党の併立、というような事態」が、まさに成立したのが、「政権交代」後の二大政党下における現在である。 ことは歴史観に限らず、安全保障問題や、経済体制にも関連してくる。東郷らが主張している「国民的コンセンサス」の共有は、「大連立」を可能にするものでもあるが、「大連立」勢力の中心的人物である渡辺恒雄が20数年来言い続けていることでもある。 「 今年の政治課題は、①安保・外交政策についての国民的合意の拡大、②行政改革、③教育改革、④財政再建の4つである。このいずれをも軌道に乗せるためには、現在の自民党と新自由クラブによる小連立政権では十分だとは言えない。(中略) いくつかの有力新聞が、先の総選挙でも与野党伯仲を招来せよと叫んだ。時によっては、伯仲政治の妙味もあるが、国家的重大懸案を解決せねばならぬ今、思い切った施策を可能にする強力な安定多数政権が必要だ。(中略) 前述の四大懸念が解決されたあとなら、伯仲政治による与野党妥協の議会運営の時期の出現を否定するものではない。」(「伯仲政治より安定政治を」1984年2月発表、渡辺恒雄『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』博文館新社、1999年、14~15頁) 東郷・加藤・渡辺の主張は、安全保障・歴史問題を中心とした「国家的重大懸案」を解決させ、「同じ日本人として、オール・ジャパンとしての大きな方向性」、「国民的コンセンサス」を見つけ出し、そうした点に関しては基本的な立場を共有した上で、「左」「右」の再編を図ろう、ということである。 東郷は周知のように佐藤優の盟友であるが、東郷は、<佐藤優現象>の背景にあった(ある)論壇の<空気>をよく捉えていると思う。そして、言説レベルでは、歴史認識問題・安全保障問題・経済体制の方向性に関して、従来の左右対立は既に収斂してしまっているのである。 2. 歴史認識問題に関して言えば、従来の左右対立は、大体以下のような認識を落としどころにして、収斂している。 ・・・・・日本の侵略と植民地支配下における残虐行為は、ナチス・ドイツのような比較を絶する一回限りのものではなく、イギリスやアメリカのような通例の戦争犯罪である。したがって(というのもおかしいのだが)、日本が周辺諸国に謝罪し、戦後補償を支援する活発な市民運動も存在するなど日本が「平和国家」として変貌している以上、「和解」がなされないことについては、各国の過剰な反日ナショナリズムとそれに助長される日本の偏狭な歴史修正主義者たちに原因がある。日本の国際的地位の向上(例えば国連常任理事国入り)のためにも、アジア諸国への経済進出と企業提携のためにも、日本国内の歴史修正主義者たちの力を抑制し、未解決の戦後補償問題を一定解決し、アジア諸国の反日的ではない人々と協調して、「和解」を実現していくことが必要だ。 こうした認識が、戦後補償運動に携わる人も含めた左から右の大多数が共有しているものだと思う。新聞で言えば、朝日・読売・日経・毎日・東京がこれだ。産経も枠組みとしてはこれに含まれる。歴史認識問題については、言説上の次元では、東郷が言う「国民的コンセンサス」が既に成立しているのである。 ことは安全保障問題でも同じである。まとめると、安保容認は当たり前であって、北東アジア・東南アジアを中心として、国際秩序の安定のため(対テロ戦争)に自衛隊を海外派遣しなければならない、ただし、そのプロジェクトには、国連決議または国連の関与がなければならない。また、中国の軍備強化という現状では、安易に軍縮すべきでなく、朝鮮半島または台湾有事に備えて、自衛隊が十全に軍事展開できるよう法制整備しておく必要がある。北朝鮮の金正日体制が近い将来に倒れる可能性は少ない以上、拉致問題一辺倒で迫るのは得策でなく、軍事的圧力による抑止を前提として、交渉を行っていかなければならない。北朝鮮の核には、非核三原則を緩和し、核持ち込みを容認して対抗する。中国・北朝鮮の軍事力に対して、韓国との軍事的連携を深めることで対抗する。 安全保障問題に関しても、共産党系を含めた左から右の大多数が共有している認識は、こういったものだと思う。改憲するかどうかということは既に大した問題ではなくなっているのであって、今後、改憲問題は、安全保障のあり方を問う、といったものではなく、実態に条文を合わせるか合わせないか、「平和国家」というイメージづくりのためのカード(憲法第9条)を持っておくか、法治国家としての整合性を優先するか、という問題になるはずである。 こうした、左右の主張の収斂といった事態の基礎を作ったのは、以前にも指摘したが、安倍政権(下での編成)だと思う。安倍政権というのは右派版の村山政権のようなものであって、安倍政権は「戦後レジームの打破」を掲げたにもかかわらず(掲げたからこそ)、中韓との協調という「現実主義」外交や、河野談話・村山談話の踏襲の結果、従来は「戦後レジーム」に否定的だった右派の一部が「戦後レジーム」に取り込むことになった(これが小林よしのりを、右派知識人たちの変節として激怒させた事態である。小林は安倍政権末期には、安倍政権不支持を表明している)のである。また、実態としては「戦後レジームからの脱却」どころではなかったにもかかわらず、リベラル・左派は、安倍政権や「小泉・安部政権の新自由主義」に対して、「戦後社会の肯定」という形で対抗した(これが<佐藤優現象>の基盤である)。こうした流れは、安部政権とのカラーの違いを出さざるを得ない福田政権下で、さらに進んだ。安部政権下あたりから大手紙でも取り上げられるようになった「格差社会論」も、「戦後社会」の擁護に帰結したから、こうした動きをますます強めたと思われる。 要するに、安倍政権において、「戦後レジーム」の擁護という形で、左右が収斂していったのであり、これが現在の「イデオロギーの終焉」という事態に直結している。 これは今後検討しなければならない点だが、政権の政治的性格から見れば、安倍政権から鳩山政権までを連続したものとして捉えるべきであって、断絶はむしろ小泉政権と安倍政権の間にあると思う。「民主党革命」なんてものはない。安倍政権と鳩山政権は、「近隣友好即排外主義」という点においては何ら変わらない(鳩山政権下での、在特会の蛮行の野放し、地方参政権対象者からの朝鮮籍の排除を見よ)。また、官邸主導を打ち出そうとする政治姿勢、格差是正という建前も、両者は共有している。左右を問わず、安倍政権を右翼政権、鳩山政権を左翼政権として描いているから、連続性が見えなくなっているだけではないかと思う。 既述のように、佐藤は被告準備書面(2)で、論文「<佐藤優現象>批判」(以下、論文と略)内の9箇所について、佐藤の発言を「曲解している」などと主張している。今回は、この9箇所のうちの4箇所目を紹介しよう(1箇所目、2箇所目、3箇所目については既に述べた)。
今回の論点は、佐藤が、アメリカが主張してきた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の米ドル札偽造問題が,アメリカの自作自演だった可能性が高いという『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事を、「北朝鮮の情報操作」だと、いかなる反証の根拠も示さずに断定していた件である。 前回に引き続き、これまた、佐藤はここで形式論に終始しているのだが、鑑賞のポイントはそこだけではない。なんと、「反証の根拠」として佐藤が挙げたのは、手嶋龍一の『ウルトラ・ダラー』(新潮社)だったのである(しかも、佐藤側は「手嶋」を「手島」と、『ウルトラ・ダラー』を『ウルトラダラー』と誤って表記している。)。いや、さすがにこれはないのではないか。小説を「反証の根拠」だと言い張る姿勢には呆れざるを得ない。『ウルトラ・ダラー』の主人公の外交官(田中均がモデルと思われる)は、母親が在日朝鮮人の北朝鮮工作員で、だからこそ日朝交渉に邁進している、ということになっている。「反証の根拠」として挙げるくらいであるから、佐藤はもちろん、この設定も真実だと言ってくれるに違いない。 今回争点となっている私の論文内の記述は、原告準備書面(2)でも引用しているが、 《アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が,アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して,佐藤は「アメリカ政府として,『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら,証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり,北朝鮮を利してしまうからだ」と,いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で),「北朝鮮の情報操作」と主張しているが》 という箇所である。 まずは、いつものように、佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する(下線強調は原文)。 ------------------------------------ (5)「論文」130 頁上段10行目~12行目 《・・・いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが》との記述がある。 しかしながら、以下のとおり、反証の根拠は示している(下記下線部分)。 すなわち、フジサンケイビジネスアイ「地球を斬る」2007年3月22日「北朝鮮の情報操作」(乙5号証)において「筆者は、アメリカが偽札を作成したという一連の報道は北朝鮮による巧みな情報操作と考えている。筆者は何もCIAを擁護しようと思っているわけではない。 CIAが過去も現在 も乱暴な工作を行っているのは事実であるが、特にCIAは官僚化しているので、議会に露見した場合、CIA組織自体が解体されてしまうような偽ドル工作に関与することは、(仮に一部の工作担当官がそれを望んだとしても)不可能である。 アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ。もっともわれわれ日本人は幸運だ。小説という形態であるが手島龍一氏の『ウルトラダラー(新潮社)を読めば、北朝鮮がアメリカ造幣局の特殊用紙をどのように盗み、ドイツ製印刷機を中国経由でどのように手に入れたかなどの秘密がわかる。」 ------------------------------------ この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である(太字強調は引用者)。 ------------------------------------ (5)「論文」130 頁上段10行目~12行目 被告は,原告の「論文」の《アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が,アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して,佐藤は「アメリカ政府として,『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら,証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり,北朝鮮を利してしまうからだ」と,いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で),「北朝鮮の情報操作」と主張しているが》との記述について,「反証の根拠は示している」と主張している。 だが,これは被告の「曲解」と言うほかないのであって,原告は,「アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が,アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道」に対して,被告佐藤が,根拠を示さずにそれを「北朝鮮による巧みな情報操作」と述べていることを指して,「いかなる反証の根拠も示さずに」と記述したのであり,また,被告佐藤が「証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり,北朝鮮を利してしまうからだ」と,北朝鮮が偽ドルを作っている証拠をアメリカ政府は提示できないとしているにもかかわらず,「北朝鮮による巧みな情報操作」だと主張していることを指して,「( 反証の必要性を封じた上で)」と記述したのである。 したがって,被告が,「反証の根拠は示している」との主張の根拠として挙げている,「特にCIAは官僚化しているので,議会に露見した場合,CIA組織自体が解体されてしまうような偽ドル工作に関与することは,(仮に一部の工作担当官がそれを望んだとしても)不可能である。」という箇所は,被告佐藤が「『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事」を「北朝鮮による巧みな情報操作」と主張するための根拠となっておらず,被告の主張は失当である。 また,被告は,「反証の根拠は示している」との主張の根拠として,「もっともわれわれ日本人は幸運だ。小説という形態であるが手嶋龍一氏の『ウルトラダラー』(新潮社)を読めば,北朝鮮がアメリカ造幣局の特殊用紙をどのように盗み,ドイツ製印刷機を中国経由でどのように手に入れたかなどの秘密がわかる。」という箇所も挙げているが,小説がそのような根拠たりえないことは明白である。被告の主張は失当である。 既述のように、佐藤は被告準備書面(2)で、論文「<佐藤優現象>批判」(以下、論文と略)内の9箇所について、佐藤の発言を「曲解している」などと主張している。今回は、この9箇所のうちの3箇所目を紹介しよう(1箇所目と2箇所目については既に述べた)。
今回は、9箇所のうちの6番目のものを取り上げる。 私は、佐藤の文章を読んで、佐藤は2007年のアメリカ下院の「慰安婦」決議について、不正確な事実に基づくもので不当だ、と見なしていると思っていたので、論文でそのように指摘した。ところが、佐藤は、そうではないと言うのである。佐藤のここでの反論は、なぜこれが反論足りうると思ったのか不思議に思う水準なのだが、ここでは、佐藤の弁明がどれほど形式論に終始したものであるかという点と、そしてそれすら全く成立していない点を鑑賞していただきたい。 まずは、佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する(下線強調は原文、太字強調は引用者)。冒頭で、私の「<佐藤優現象>批判」のうち、佐藤が「曲解している」と主張している箇所が引用されている。そして、最後に、私が取り上げている文章の一部が引用されている。 --------------------------------------------------------- (6)「論文」131頁上段10行日~16行日 《産経新聞グループのサイト上での連載である(地球を斬る)では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「無茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている。》との記述がある。 しかしながら、被告佐藤は、「慰安婦問題を巡るアメリカの報道には無茶苦茶なものが多い」という事実を指摘しているのであって、《アメリカの報道を「無茶苦茶」と非難し》ている事実はない。 さらに、「安倍発言は従来の政府見解と何ら齟齬を来していない」と言っているのであって、原告が言うような《正当》か否かということについては何ら述べていない。また、「安倍総理は、慰安婦問題について強制性を認めているのである」と言っており、《あたかも「慰安婦」決議自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている》というのは曲解である。 すなわち、フジサンケイビジネスアイ「地球を斬る」2007年8月8日「米下院の慰安婦決議(上)」(乙6号証)では、『慰安婦問題を巡るアメリカの報道には無茶苦茶なものが多い。『20万人のアジア女性をレイプ・センターに入れた』などという事実無根な話が独り歩きしている。 3月1日の安倍総理の発言についても冷静に考えてみる必要がある。安倍発言の趣旨は慰安婦について「狭義の強制性はなかった」という認識を示したのであり、これは従来の政府見解と何ら齟齬を来していない「狭義の強制性はなかった」という認識は「広義の強制性はあった」という前提でなされている。「強制性があったかなかったか」という設問に対して、「あった」という回答になる。安倍総理は、慰安婦問題について強制性を認めているのである。それだけのことだ。』 -------------------------------------------------- この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である(原文は強調なし、太字強調は引用者)。余談だが、ここで引用したように、佐藤が「アジア女性基金」(「国民基金」)を擁護していることは、「国民基金」の性格を考える上で大変示唆的である。 -------------------------------------------- (6)「論文」131頁上段10 行日~16行日 被告は,原告の「論文」の《産経新聞グループのサイト上での連載である(地球を斬る)では,「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「無茶苦茶」と非難し,「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして,あたかも「慰安婦」決議自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている。》との記述について,「被告佐藤は,「慰安婦問題を巡るアメリカの報道には無茶苦茶なものが多い」という事実を指摘しているのであって,《アメリカの報道を「無茶苦茶」と非難し》ている事実はない。」と主張している。 だが,被告佐藤の「慰安婦問題を巡るアメリカの報道には無茶苦茶なものが多い」という発言を,「「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「無茶苦茶」と非難し」と要約したことは,何ら「曲解」と言えず,ましてや,被告佐藤の主張を「曲解」しており,「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように言っていることに当たらないことは明白である。被告の主張は失当である。 また,被告は,「「安倍発言は従来の政府見解と何ら齟齬を来していない」と言っているのであって,原告が言うような《正当》か否かということについては何ら述べていない。また,「安倍総理は,慰安婦問題について強制性を認めているのである」と言っており,《あたかも「慰安婦」決議自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている》というのは曲解である。」と主張している。 だが,被告佐藤は同じ文章で,「ワシントンの日本大使館やアメリカ各地の日本総領事館が慰安婦問題に関する政策広報をきちんと行っていればこのようなことにならなかったはずだ。筆者の理解では,外務省が「アジア女性基金」の活動をアメリカで正確に紹介していれば,事態がここまで悪化することを避けることができた。「アジア女性基金」は「従軍慰安婦」という用語を用いず「慰安婦」としている。また,「狭義の強制性」も認めていない。慰安婦の人々に日本の総理が「おわびの手紙」を出している事実をアメリカ議会関係者に日本の外交官がていねいに説明していれば事態の展開は異なった。」と主張しており,「アジア女性基金」を肯定的に評価している。 また,被告佐藤は,『国家と人生』(甲42号証,竹村健一との共著,太陽企画出版刊,2007年12月5日発行)でも,277頁から278頁にかけて,「過去,日本は村山首相談話や河野洋平官房長官の発言などで,アジア各国に公式に謝罪しました。アメリカ側はこれでは不十分だというのですが,ともあれ,日本の内閣総理大臣や官房長官が公式に謝罪した以上はそれを継承するべきです。外交面ではマキャベリックな発想が必要です。 たとえば慰安婦問題なら,「アジア女性基金」のメンバー,三木元首相夫人の三木睦子さんなどをアメリカに派遣し,アジア女性基金の活動を報告してもらえばよい。」「アジア女性基金は民間団体ということになっていますが,実際の運営資金は国が援助しています。元慰安婦に対しては内閣総理大臣,厚生労働大臣,厚生労働省から見舞金が出されており,内閣総理大臣も手紙を書いています。こうした活動ぶりをアメリカ側に説明すれば,アメリカの世論は割れると思います。アメリカ世論は,日本は何も責任をとっていないと誤解しているのですが,過去,日本は談話も発表しているし,きちんと対応しているとアピールする。 こうした活動を展開してアメリカ世論を味方につける。これぞまさしくインテリジェンスというものだと思います。」と述べており,被告佐藤が「アジア女性基金」を肯定的に捉えていることは明らかである。 この「アジア女性基金」は,「従来の政府見解」と同義である。そして,被告佐藤は,「安倍発言の趣旨は慰安婦について「狭義の強制性はなかった」という認識を示したのであり,これは従来の政府見解と何ら齟齬を来していない。」と主張しているのであるから,被告佐藤は,「従来の政府見解と何ら齟齬を来していない」安部発言を「正当」と見なしていると言える。 したがって,原告の「論文」における,「安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして」という記述は,何ら「曲解」ではなく,ましてや,「言ってもいないこと」をさも被告佐藤の主張のように言っていることに当たらないことは明白である。被告の主張は失当である。 また,被告佐藤は,同じ文章で,「慰安婦問題を巡るアメリカの報道には滅茶苦茶なものが多い。「20万人のアジア女性をレイプ・センターに入れた」などという事実無根の話が独り歩きしている。」などと述べた上で,「ワシントンの日本大使館やアメリカ各地の日本総領事館が慰安婦問題に関する政策広報をきちんと行っていればこのようなことにならなかったはずだ。筆者の理解では,外務省が「アジア女性基金」の活動をアメリカで正確に紹介していれば,事態がここまで悪化することを避けることができた。」と主張しているのであるから,被告佐藤が《あたかも「慰安婦」決議自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている》ことは明らかである。したがって,「論文」の記述は「曲解」ではなく,被告の主張は失当である。 『金曜日』はもう影響力もほぼなくなったようなので放置していたのだが、読むと必ず私の心の琴線に触れるネタを提供してくれる。
今号(2010年2月5日号)の佐高信と中島岳志の対談「21世紀の石橋湛山」での、中島の発言より引用する(強調は引用者)。 「僕は保守陣営から『週刊金曜日』の編集委員になって、あいつはやっぱり左傾化したって言われてると思うんですが。しかし、重要なことは、左と自認する人たちとどこまで合意形成ができるか。お互いの思想をちゃんと分かち合いながら語り合うこと。他者との価値の葛藤に耐えながら合意形成をする。それしか僕、新自由主義の越え方ってないと思うんですよ。そしてこれが、保守の構えであると思います。湛山が大切にしたのは、そういうもののはずだ、というのが僕の考えているものです。」 私はこの一節を読んで唖然としてしまった。中島は、「僕は保守陣営から『週刊金曜日』の編集委員になって、あいつはやっぱり左傾化したって言われてると思う」などと言っているが、これは真逆ではないのか。「保守陣営」の一般的な中島評価は、もともと「サヨク」である中島が、「健全な保守」が朝日をはじめとしたリベラル・左派にウケがよいから、論壇政治上、「保守」の仮面をかぶっているだけ、というものである。そして、その評価に異論の余地はない。あまりにも見え透いているから、「保守陣営」の中でも、西部邁や佐藤優のような、「論壇政治」で動く人物とその子分しか相手にしていない。中島は、『金曜日』読者(私は違うが)を完全にナメている。 中島が、自分への「保守陣営」によるそのような評価を知らないはずがない。それでも中島があえてそのように発言しているのは、もちろん、新自由主義反対という名目での左右連携をプロパガンダしている、佐高をはじめとした論壇政治屋に対して、自分を高く売り込むためであろう。 中島が「保守」しようとしているのは、「伝統」でも「国のかたち」でもない。「論壇」や「マスコミ利権」や「アカデミズムとマスコミとの馴れ合い」である。この馴れ合いたがる人々においては、表向きの看板と違って左右対立などもともとなく、巨人対阪神、という程度の意識しかない。そのような「保守」であるからこそ、大して本も売れていないのに、中島は「保守」思想家としてマスコミで活躍できるわけである。 既に述べたように、佐藤は被告準備書面(2)で、論文「<佐藤優現象>批判」(以下、論文と略)内の9箇所について、佐藤の発言を「曲解している」などと主張している。今回は、この9箇所のうちの2箇所目を紹介しよう(1箇所目については既に述べた)。
順番的には、相手側が挙げてきた9箇所のうちの9番目のものを取り上げることにする。これは、9箇所のうちには取るに足りないものもいくつかあるので、順番に取り上げていっては内容がダレてしまうからである。 今回、この9番目の箇所を取り上げるのは、佐藤の在日朝鮮人に対する攻撃性と、その弁明の支離滅裂さが、大変鮮明に現れているからである。佐藤はここで、朝鮮総連に対する「国策捜査」すら擁護している。かなり長いが、是非ご一読いただきたい。 ここでは、私が、佐藤は朝鮮総連とその他の(日本国民の)団体との間で「二重基準」を適用している、と主張しているのに対し、佐藤は、自分はそのような「二重基準」は適用していない、と述べている。また、他方で、「朝鮮総連は朝鮮民主主義人民共和国という特定の国家と結びついており、その意味において、部落解放同盟やJR総連と同列に扱うことはできず、《二重基準》という主張の前提がそもそも成り立たない」とも述べている。こうした主張に対して、いや、佐藤は「二重基準」を明確に適用しているし、後者の主張も佐藤自らが実は否定しているのだ、というのが私の主張である。 まずは、佐藤側の主張、被告準備書面(2)の該当箇所を紹介する(下線強調は原文、太字強調は引用者)。冒頭で、私の「<佐藤優現象>批判」のうち、佐藤が「曲解している」と主張している箇所が引用されている。 ------------------------------------------------------- (9)「論文」157,8頁註(55) 《なお、佐藤は、日本がファシズムの時代になり、「国家に依存しないでも自分たちのネットワークで成立できる部落解放同盟やJR総連の人たち」がたたきつぶされると、左右のメディアも弾圧されて結局何もなくなると主張する(「国家の論理と国策操作(ママ)」『マスコミ市民』2007年9月号)。ところが、佐藤は同じ論文で、緒方重威元公安調査庁長官の逮捕について、「国民のコンセンサス、を得ながら朝鮮総連の力を弱める国策の中で、今回の事件をうまく使っている」と述べており(傍点引用者)、朝鮮総連の政治弾圧には肯定的である。この二重基準に、「国民戦線」の論理がよく表れている。「国民戦線」の下では、「人権」等の普遍的権利に基づかない「国民のコンセンサス」によってマイノリティが恣意的に(従属的)包摂/排除されることになる。》との記述がある。 しかしながら、「この事件をうまく使っている」というのは、検察が自分たちにとっての「きれいな社会」を作るために緒方公安調査庁元長官の事件をうまく使っているという意味であり、これに対し被告佐藤はそのような考えこそが全体主義なのだと否定的な評価をしている。さらに、この記事において被告佐藤は朝鮮総連についてはその力を弱める国策があるという事実を述べているだけで、総連の政治弾圧にはここで肯定的評価も否定的評価もしていない。従って、《二重基準》という「論文」の指摘は当たらない。原告によれば、この曲解に基づいた「二重基準」に、被告佐藤が言ってもいない「国民戦線」の論理がよく表れているそうである。 さらに言うならば、朝鮮総連は朝鮮民主主義人民共和国という特定の国家と結びついており、その意味において、部落解放同盟やJR総連と同列に扱うことはできず、《二重基準》という主張の前提がそもそも成り立たない。 被告佐藤が、『マスコミ市民』2007年9月号「国家の論理と国策捜査」(乙8号証9,10頁)に記述した内容は以下のとおりである。 「基本的に検察官は、『きれいな社会』を作りたいという情熟のみで、『国が滅びても正義が実現すればいい』という発想ですから、国益というより『公益観』なのだと思います。ただし、この『公益観』は市民が下から築きあげた本物の公益とは異なる司法官僚の出世の基準にすぎません。 緒方公安調査庁元長官が捕まった事件は、『きれいな社会』を作ろうとする検察の本質を能く表していると思います。この事件は一種の国策捜査ですが、これは権力内の内部抗争です。警察は『俺たちの上でいつもえらい顔をしている検察の中はどうなっているのだ』と、先に手をつけたかったと思うのです。そうなると検察の権威は丸潰れですから、『うちの出身であってもお目こぼししない』と、緒方元長官を捕まえたのだと思います。さらに検察は、朝鮮総連を被害者にすることによって、“朝鮮総連に対してもわれわれはフェアーに対応している”という外観を装いました。『被害者だから協力しろ』と言いつつ、被害者なのか加害者なのかわからないような取り調べをしていると思います。そして国民のコンセンサスを得ながら朝鮮総連の力を弱める国策の中で、今回の事件をうまく使っているのだと思います。 歴史上、極端にきれい好きな政治家はアドルフ・ヒトラーでした。独裁国の街は非常にきれいです。つまり『きれいにしたい』ということは、自分の思うとおりに何でもしたいということですし、『きたない部分』とは、自分の思うとおりにならない部分です。それを除去していく考えこそが、全体主義なのです。」 ---------------------------------------------------- この箇所については、佐藤側の主張はこれで全部である。以下は、私の反論(原告準備書面(2))である(下線強調は原文、太字強調は引用者)。論証するために、かなり長くなってしまったが、ここまで言っておいてよくシラを切れるなあ、という内容なので、是非お読みいただきたい。 ----------------------------------------------------- (9)「論文」157,8頁註(55) 被告は,原告の「論文」の《なお,佐藤は,日本がファシズムの時代になり,「国家に依存しないでも自分たちのネットワークで成立できる部落解放同盟やJR総連の人たち」がたたきつぶされると,左右のメディアも弾圧されて結局何もなくなると主張する(「国家の論理と国策操作(ママ)」『マスコミ市民』2007年9月号)。ところが,佐藤は同じ論文で,緒方重威元公安調査庁長官の逮捕について,「国民のコンセンサスを得ながら朝鮮総連の力を弱める国策の中で,今回の事件をうまく使っている」と述べており(傍点引用者),朝鮮総連の政治弾圧には肯定的である。この二重基準に,「国民戦線」の論理がよく表れている。「国民戦線」の下では,「人権」等の普遍的権利に基づかない「国民のコンセンサス」によってマイノリティが恣意的に(従属的)包摂/排除されることになる。》との記述について,「「この事件をうまく使っている」というのは,検察が自分たちにとっての「きれいな社会」を作るために緒方公安調査庁元長官の事件をうまく使っているという意味であり,これに対し被告佐藤はそのような考えこそが全体主義なのだと否定的な評価をしている。さらに,この記事において被告佐藤は朝鮮総連についてはその力を弱める国策があるという事実を述べているだけで,総連の政治弾圧にはここで肯定的評価も否定的評価もしていない。従って,《二重基準》という「論文」の指摘は当たらない。」と主張している。 また,「朝鮮総連は朝鮮民主主義人民共和国という特定の国家と結びついており,その意味において,部落解放同盟やJR総連と同列に扱うことはできず,《二重基準》という主張の前提がそもそも成り立たない。」とも主張している。 だが,以下に述べるように,「二重基準」という原告の「論文」の指摘は,被告佐藤の主張を的確に表現したものである。 被告は,「「この事件をうまく使っている」というのは,検察が自分たちにとっての「きれいな社会」を作るために緒方公安調査庁元長官の事件をうまく使っているという意味であり,これに対し被告佐藤はそのような考えこそが全体主義なのだと否定的な評価をしている。」と主張しているが,被告佐藤は同じ文章で,「政治の力で公平配分を担保するシステムは,ある程度の腐敗がつきものです。その構造にメスを入れて「きれいな社会」を作りたいという考えが,検察の国益観です。」と述べており(9頁),また,「緒方公安調査庁元長官が捕まった事件は,「きれいな社会」を作ろうとする検察の本質をよく表していると思います。この事件は一種の国策捜査ですが,これは権力内の内部抗争です。」とも述べている(10頁)。したがって,被告佐藤は,「国策捜査」について,検察が「きれいな社会」を作りたいという考えに基づき行なうものとして,「否定的な評価をしている」と言うことができる。 ところが,他方,被告佐藤は,朝鮮総連に対する「国策捜査」の適用に関しては,以下で示すとおり,肯定的である。 被告佐藤は,前記論文「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」(甲41号証(注・『別冊正論』Extra.02所収,2006年7月刊)において,「読者からの「軟弱だ」という非難を覚悟した上で言うが,筆者自身は北朝鮮国家を生き残らせる方向が日本の国益により適うと考える。その理由については後で説明するが,まず,「北朝鮮を叩き潰すという前提でマスタープランを組み立てよ」という国家意思が明確に示された場合の筆者の腹案を記したい。」(31頁)と前置きした上で,その「腹案」の中で,以下のように述べている。 「「平壌宣言」の廃棄だけでは,日本国内から民間のカネや物が北朝鮮に流れることを阻止できない。そこで警察庁,国税庁,検察庁が一体となって国策捜査を展開するのだ。日本は法治国家である。従って,違法な捜査はしない。しかし,これまでは「お目こぼし」の範囲内にあった違反行為でも徹底的に摘発し,逮捕,長期勾留,厳罰,マスコミに対する情報のリークで,北朝鮮とビジネスをすることで利益を得ている者を,朝鮮籍,韓国籍をもつ在日外国人であるか,帰化日本人であるか,生まれたときからの日本人であるか,中国人,アメリカ人などのその他の外国人であるかを一切問わず,徹底的に叩き潰すことである。」(31~32頁) 「実は北朝鮮はこの国策捜査のシナリオを何よりも恐れている。北朝鮮政府の事実上の公式ウェブサイト「ネナラ(朝鮮語で「わが国」の意)・朝鮮民主主義人民共和国」が二〇〇六年三月二十八日付の北朝鮮外務省スポークスマン声明を掲載しているが,ここに大きなヒントが隠れている。少々長いが全文を正確に引用する。 〈朝鮮民主主義人民共和国外務省代弁人の談話 最近,日本当局の反共和国・反総聯騒ぎは新たな様相を帯びて,いっそう悪辣に繰り広げられている。 すでに報道されたように,日本当局は去る3月23目,警視庁公安部の主導のもとに数十人の大阪府警察機動隊を動員して,在日本朝鮮人大阪府商工会とわが同胞が経営する商店や家宅など6か所に対する強制捜索を強行するなど,総聯の弾圧に平然と国家権力を投入した。 のみならず,日本当局はすでに総聯の中央会館や東京都本部の会館,出版会館に対する固定資産税減免措置を取り消して差押処分を下し,ついで「現行法の厳格な適用」という美名のもとに,全国のすべての総聯関連施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置を完全になくそうとするなど,総聯を崩壊させるための財政的圧迫をさらに強めている。 われわれは,いま日本でヒステリックに繰り広げられている総聯と在日朝鮮公民に対する殺伐たる弾圧騒ぎを絶対に袖手傍観することはできない。 元来,日本政府は,歴史的見地からしても当然,総聯の活動を保障し,在日朝鮮人の生活を保護すべき法的・道徳的責任を担っている。 日本の総理は,朝日平壌(ピョンヤン)宣言を採択した時をはじめ多くの機会に,在日朝鮮人が差別されないよう友好的に彼らに対するという立場を繰り返し表明し,日本政府もこの2月の初めに,北京における朝日国交正常化会談でこれを再確認した。 にもかかわらず,「法治国家」を自任する日本が,解決済みの「拉致問題」を故意に総聯と結びつけ,国家権力まで発動して無頼漢のように総聯と在日朝鮮公民に対するファッショ的暴挙を強行し,われわれに「圧力」をかけようとするのは,実に浅ましく卑劣であり,笑止の至りである。 総聯は,わが同胞の諸般の民主主義的民族権利を擁護する朝鮮民主主義人民共和国の合法的な海外公民団体であり,朝日両国間に国交がない状況のもとで日本人民との友好親善をはかる外交代表部の役割を担い,果たしている。 こうした尊厳ある総聯と在日朝鮮公民に対する弾圧は朝日平壌宣言を踏みにじるものであり,わが共和国に対する許しがたい主権侵害行為である。 日本の悪辣かつ無分別な振る舞いは,わが軍隊と人民の限りない嫌悪感と満身の怒りを湧き立たせている。 われわれは,日本政府の直接的な庇護,助長のもとに体系的に強行されている総聯と在日朝鮮公民に対する弾圧行為を徹底的に計算し,それに強力に対応するであろう。 日本当局は絶対に,それによって招かれる重大な事態の責任を逃れることはできない。2006年3月28日 平壌〉 「敵が嫌がることを率先して行う」というのはインテリジェンス工作の定石だ。北朝鮮政府が重要なシグナルを出しているのだから,それを正確に読み取って,「現行法の厳格な適用」という国策捜査を用いて,北朝鮮に流れるカネ,物の元栓を完全に閉めるのだ。日本国家の暴力性を最大限に発揮した国策捜査は経済制裁よりも効果がある。」(32~33頁) 以上のように,被告佐藤はここで,「北朝鮮政府の事実上の公式ウェブサイト「ネナラ(朝鮮語で「わが国」の意)・朝鮮民主主義人民共和国」」の「二〇〇六年三月二十八日付の北朝鮮外務省スポークスマン声明」において批判されている,2006年3月23日の在日本朝鮮人大阪府商工会等への警視庁による強制捜索,および「現行法の厳格な適用」という名目の下での,「全国のすべての総聯関連施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置」の廃止を「国策捜査」と規定している。 上の文章で示されている「腹案」は,一応,仮定上のものとして記述されているが,「「ネナラ」,北朝鮮からのシグナル」(甲43号証,『地球を斬る』角川学芸出版刊,66頁。初出はインターネットサイト「フジサンケイビジネスアイ」「北朝鮮からのシグナル」2006年4月13日付)では,仮定上のものだったはずの主張が,以下のように,被告佐藤の自論として記述されている。 「 なぜ北朝鮮はこのタイミングでシグナルを送ってきたのか。このヒントは「ネナラ」に掲載された三月二十八日の北朝鮮外務省スポークスマンの声明にある。 〈日本当局は三月二十三日,警視庁公安部の主導のもとに数十人の大阪府警察機動隊を動員して,在日本朝鮮人大阪府商工会とわが同胞が経営する商店や家宅など六ヵ所に対する強制捜索を強行するなど,総聯の弾圧に平然と国家権力を投入した。のみならず,日本当局はすでに総聯の中央会館や東京都本部の会館,出版会館に対する固定資産税減免措置を取り消して差押処分を下し,ついで「現行法の厳格な適用」という美名の下に,全国のすべての総聯関連施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置を完全になくそうとするなど,総聯を崩壊させるための財政的圧迫をさらに強めている〉 日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。 政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制(けんせい)することが拉致問題解決のための環境を整える。」 すなわち,ここで被告佐藤は,上述の「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」(甲41号証)と同じく,「北朝鮮政府の事実上の公式ウェブサイト「ネナラ(朝鮮語で「わが国」の意)・朝鮮民主主義人民共和国」」の「二〇〇六年三月二十八日付の北朝鮮外務省スポークスマン声明」から引用した上で,2006年3月23日の在日本朝鮮人大阪府商工会等への警視庁による強制捜索,および「現行法の厳格な適用」という名目の下での,「全国のすべての総聯関連施設に対する地方自治体の固定資産税減免措置」の廃止について,「拉致問題解決のための環境を整える」と肯定的な見解を示している。 以上から,被告佐藤は朝鮮総連に対する「国策捜査」を肯定的に捉えている,と言える。 したがって,被告は「「この事件をうまく使っている」というのは,検察が自分たちにとっての「きれいな社会」を作るために緒方公安調査庁元長官の事件をうまく使っているという意味であり,これに対し被告佐藤はそのような考えこそが全体主義なのだと否定的な評価をしている。さらに,この記事において被告佐藤は朝鮮総連についてはその力を弱める国策があるという事実を述べているだけで,総連の政治弾圧にはここで肯定的評価も否定的評価もしていない。」と主張しているが,被告佐藤が他の媒体で朝鮮総連への「国策捜査」に肯定的であることを明示しているのであるから,「国民のコンセンサスを得ながら朝鮮総連の力を弱める国策の中で,今回の事件をうまく使っている」という被告佐藤の記述を,「国民のコンセンサスを得ながら」および「うまく」という,通常肯定的な意を持つ表現が用いられていることにも留意して,朝鮮総連への政治弾圧を肯定したものとして解釈することは,正当である。 また,被告佐藤は朝鮮総連への「国策捜査」に肯定的であるのだから,「国民のコンセンサスを得ながら朝鮮総連の力を弱める国策」という記述に関して,その前にある,被告佐藤が肯定的であると考えられる「被害者なのか加害者なのかわからないような取り調べ」を受けているものと捉え,「朝鮮総連の力を弱める」ために,検察が「今回の事件をうまく使っている」と解釈することも,正当である。 そして,この記事においては,「「国家に依存しないでも自分たちのネットワークで成立できる部落解放同盟やJR総連の人たち」への「国策捜査」には否定的と見なしうる一方で,前述のように,朝鮮総連への政治弾圧には肯定的であると見なしえ,しかも,朝鮮総連への「国策捜査」には肯定的であるから,これを指して「二重基準」だと言うことも正当である。 また,被告は「朝鮮総連は朝鮮民主主義人民共和国という特定の国家と結びついており,その意味において,部落解放同盟やJR総連と同列に扱うことはできず,《二重基準》という主張の前提がそもそも成り立たない。」と主張しているが,被告佐藤自身が,原告の「論文」発表(掲載号は2007年11月10日発行であるが,実際には,11月初頭には販売していた書店も存在した)後に刊行した,『国家論』(甲44号証,日本放送出版協会刊,2007年12月25日発行,「あとがき」の日付は「二〇〇七年一一月一八日」)においては,「いま重要なのは,JR総連のような労働組合,部落解放同盟,そして在日外国人の運動――これは朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)も含みます――です。このような,国家に頼らずに,お互いで助け合っていける団体がある。国家に対する異議申し立て運動をして,国家に圧力を加えられたとしても,自分たちの中で充足して,生き延びていくことができる。そのようなネットワークがないといけません。」(136~137頁),「朝鮮総聯の日本社会の民主化を担保する機能もきちんと理解しておく必要があります。」(137頁)などと,朝鮮総連を「部落解放同盟やJR総連と同列に扱」っているのであるから,朝鮮総連と「部落解放同盟やJR総連」を同列に扱うことは正当である。また,『国家論』(甲44号証)以前に発表された被告佐藤の記事において,朝鮮総連と「部落解放同盟やJR総連」を同列に扱った上で,姿勢の相違を「二重基準」と評することは,その根拠があれば正当であると解されるべきであり,前述のように,原告はその根拠を提示している。 図書館で時間待ちのために冗漫な床屋政談を読んでいたら、読み捨てできない発言に出くわしたので、思わずコピーをとってしまった。
「木下 この間、民主党の主要な政治家の中で、最も位置づけがはっきりしないのが菅なのですが、鳩山と小沢は菅の何を警戒しているのでしょうか。 渡辺 鳩山にしてみれば、菅が権力を握ると、構造改革停止を求める国民の声と、財界やアメリカの圧力の中で、どちらかというと反構造改革的な声の方をポピュリスティックに政権に反映するだろうという懸念があります。簡単にいえば、支配階級の安定した政治からの逸脱が起こるのではないかという懸念です。一方の小沢は、菅に対して、今は自分のコントロール下に入るように振舞ってはいるけれど、いったん権力を握ったらきっと自分に刃向かうようなやつで信頼できない、という非常に強い不信感があります。」(渡辺治/木下ちがや(聞き手)「鳩山政権100日の攻防とその行方」『現代思想』2010年2月号、対談日付は1月11日、強調は引用者、以下同じ) 「ポピュリスティック」という言葉は使っているものの、いまだに渡辺は菅に幻想を持っているようである。これは、渡辺が民主党に抱いている幻想(「過渡的政権」という規定自体がそうである)と対応している。菅の政治的な無節操は周知のことであり、菅がどれほど口当たりのいいことを言おうが、「支配階級」に背く可能性はない。そのことは大衆には周知のことであって、そのような過剰な期待または不安を持っているのは、リベラル・左派とネット右翼だけである。 渡辺の情勢分析が、なぜ一読する限りはそれなりの説得力を与えるのに、現実にはほとんど当たらないのかというと、渡辺が、政治家や官僚の発言を余りにも真に受けるところに一因があると思う。渡辺は、あらゆるところに支配層内部の路線対立を見出そうとするが、一見対立しているように見えても、そうした対立は往々にして、土地の値段を上げるために「立ち退き反対!」を主張している住民が存在するように、はじめから落としどころは決まっているのである。この、元来の渡辺の欠点が、政権が共産党にも媚を売る中で、悪い形に結果している。渡辺は、民主党を、新自由主義派、開発主義派、新福祉国家派の3つに区分けし、その「分裂」を利用しようとしているが、それは却って自らや追随者を利用される位置に追いやることになる。そして、現にそうなっている。 また、上の発言は、「反構造改革的な声」が大衆的にわき起こっている、という認識の下で発せられているが、私はそれ自体が幻想だと思う。そもそも渡辺のこうした主張の根拠は恐ろしくあやふやである。そのことは、渡辺による、総選挙結果の分析の杜撰さを指摘するだけで足りよう。 渡辺は、「新自由主義転換期の日本と東京――変革の対抗的構造を探る」(『世界』2009年12月号)で、以下のように述べている。 「宮崎県からみてみよう。宮崎県は長年、自民党の利益誘導型政治のために自民党の金城湯池であった地域の一つである。2001年には自民党の得票の全国平均を7.37ポイントも上回る強さを誇った地域であった。それが構造改革、とりわけ小泉政権で強行された「三位一体改革」で交付税交付金や補助金を減らされ、衰退を余儀なくされる中で自民党票は一路減少を続けた。なんと小泉自民党が圧勝した、あの05年総選挙ですら、宮崎では得票率が下がっていたのである。宮崎県のグラフは、民主党勝利の原動力が構造改革の政治に対する国民の批判にあったことを明瞭に示している。」 なんでこれだけで「宮崎県のグラフは、民主党勝利の原動力が構造改革の政治に対する国民の批判にあったことを明瞭に示している」なんて言えるのよ。グラフが示しているのは、宮崎では自民党の得票率が下がっているという事実だけであって、低下の理由が「構造改革の政治に対する国民の批判」にあるとする根拠は何もない。もちろん、このグラフで示されている事実について、恣意的に、「構造改革の政治に対する国民の批判」だとすることも可能であるが、このグラフからは、同じように、「自民党の腐敗・無能がどうしようもないから有権者が離れていった」という、よく言われる説(そして、この方が渡辺説よりもはるかに妥当性があると私は思う)も成立してしまう。 しかも渡辺は、同じ文章で、少なくとも2003年までの民主党は「自民党より急進的な構造改革路線を掲げていた」と記述しているから、上の渡辺の解釈はより珍妙なものになってしまう。2003年まで民主党が「自民党より急進的な構造改革路線を掲げていた」ならば、自由党の合流があったとは言え、なぜ2001年から2003年にかけて民主党の得票率は大躍進しているのか?渡辺説では説明できないではないか。 もちろん私も、今回の選挙結果について、「構造改革停止を求める国民の声」がある程度は反映したであろうことを否定するわけではない。だが、このグラフのみから選挙結果が「構造改革停止を求める国民の声」だと読み取れるとは到底言えない。ここから読み取れるのは、選挙結果を「構造改革停止を求める国民の声」が繁栄した「歴史的」なものだということにしたい、渡辺の欲望・衝動だけである。 菅の愛人と報じられた人物(本人は否定)の手記本には、政治家としての菅直人への幻想が溢れている。 「一般市民の菅直人。ロイヤリティが大好きで、権威やしがらみに弱いこの国で、大岡越前ではない、いわゆる銭形平次が総理にならんとしている。そして実行者が変わると、確実に変わるのだということを見せようとしている。・・・彼のような人を総理にすることができる国なのかどうか。日本は今、それを試されているのだと思う。彼を重要な公共財と私が思う所以だ。彼のような普通の人間を総理にできる国とは、たとえば身障者の人が年収1000万円稼げる国であり、大学に行っていない人が弁護士になれる国だと思ってみるのもいい。・・・菅直人を総理にすることは、日本がそういう国に脱皮できる早道だと、私は考えている。彼が総理になれば、たぶん日本全体の価値観が変わっていく。」(205~206頁)といった類の文章だ。渡辺やリベラル・左派の幻想も、この人の幻想と同じである。 上の手記本からも推測できるのだが、菅は多分、マスコミによくいる、「この男はすごい!」「この男ならやってくれるに違いない!」というオーラだけは半端ないが、中身は何もない、という人物である。そして、菅は、リベラル・左派系の学者に流し目を送ったり、岩波新書を書いたりするように、そうした「幻想」の利用価値をよく認識しており、「幻想」を活用することに意識的であるように思われる。 「菅直人を総理にすること」が現実味を帯びつつあるが、今後、こうした菅直人幻想もより広範にまき散らされることだろう。リベラル・左派をはじめとしたマスコミやアカデミズムは、渡辺の例から見ても、簡単にひっかかるだろうが、こうした幻想は極めて有害であって、断固として拒否しなければならない。
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