2010年01月28日 (木)視点・論点 「著作権の時代に」

弁護士 福井建策

先日私は「著作権の世紀」という新書を刊行しましたが、その中で「擬似著作権」という言葉を紹介いたしました。
著作権じたいについては、皆さんご存じでしょう。音楽、映画、小説などの著作物について、それを創作した人に与えられる独占管理権のことです。
情報化社会の進展の中で、著作権は今、かつてないほど注目を集めています。
人の顔写真などの風貌は、著作物ではありませんが、同じように肖像権という権利が認められて、一定程度、本人が独占管理できます。
著作物や人の肖像などの、広く情報に及ぶ権利を、知的財産権といいます。
これらは法的に認められた、正当な権利です。

ところが時に、一見こうした知的財産権を装ったような、主張がされることがあります。
法的根拠はないか、せいぜいが非常にあやしいもので、にもかかわらず関係者はまるで法的な権利があるかのように思い、ふるまっているもの。
本ではそれを、擬似著作権と呼びました。
著作権の重要性が高まる中で、擬似著作権の波紋もまた、静かに広がりを見せています。

たとえばペットの肖像権です。公園にいて、鳥を追いかけているかわいい犬を見たとしましょう。その写真を撮って、ブログに載せたり、あるいはプロの写真家が作品集に載せることもあるでしょう。
その時に、ペットの飼い主の方からクレームを受ける。なぜ断りもなく、うちの犬の写真をブログや写真集に載せたのだ、という訳です。
そこで写真を載せた方が謝って、犬の写真を取り下げる。
これだけならば、飼い主の方の感情に配慮してそうするケースが多いのはうなづけます。
ところが最近耳にするのは、そこで慰謝料としていくばくかのお金を請求されたり、謝罪文の提出を求められ、また実際にそうしたというケースです。
これはどうも一歩先を行っています。まるでお金を求める側も、支払う側も、ペットの肖像に法的な権利があるかのように振る舞っていますね。
しかし実際には、動物の肖像権は最高裁が判例で否定しています。現在、ペットに肖像権は、ありません。
つまり、これが擬似著作権の例です。

街角で見かけたスタイリッシュな乗用車の写真だったら、どうでしょうか。
自動車は、実用品です。
そしてこうした実用品のデザインは、原則として著作物ではない、と考えられています。
ですから、誰かが写真に撮って利用しても、少なくとも著作権の問題はなさそうです。
買って来たおいしそうなお菓子を、写真に撮ってホームページに載せて、そのお店からクレームを受けるケース。
これまた、使われた方によってはクレームしたくなるお店の気持も、わからないではありません。
しかし、お菓子や料理もまた、おそらく実用品です。ですから、いくらおいしそうに作ってあっても、その姿に著作権までは生まれないケースが大半でしょう。
中には、商品が他社の宣伝広告に使われる場合など、商標権といった別な権利が問題になるケースも、ない訳ではありません。
しかし、そうした特別な事情がないのに、自動車やお菓子の写真をめぐって、損害賠償を求めたり、差止を求めたりするようでは、法的な根拠はかなり希薄ということになります。
これも擬似著作権の例といえるでしょう。

擬似著作権は、美術作品のような通常の著作物をめぐっても、時に生まれます。
絵画などの美術作品は、しばしば売買されます。
売買されると、その絵の所有権、つまり物理的な所有者は買った人に移ります。
しかし、絵の著作権、つまり絵という情報を独占管理する権利は、別段の取り決めがない限りは作家の側に残るのです。
つまり、作品の所有権は買主に、著作権は著者に、あることになります。
何年も何十年も経って、作品の画像をテレビで放送したり、ネットで配信したいと思う方が現れた場合、許可をとるべき相手は著作権を持つ著者の側です。
しかし、所蔵家の権利という名前で、しばしば作品を所有している個人や団体が、金銭その他の主張をすることがあります。
もちろん、撮影のために美術館などの所蔵家の協力が事実上必要なので、そうした協力をお願いしたり、時には御礼を渡すこともあるでしょう。これは不自然ではありません。
しかし、そうした協力が不要なケースでまで、作品の所蔵家が何らかの権利があるかのような主張をするならば、法的な根拠はやや疑問です。

さて、著作権には、保護期間というものがあります。日本の原則をいえば、著者の生前全期間と死後50年間が原則で、その期間が過ぎると著作権は消滅します。著作権が切れれば、以後は原則として誰でも自由に利用できるようになります。
しかし、時には保護期間が切れても、あたかも著作権が続いているかのように、関係者が振る舞っている作品があります。
たとえば、日本でも人気の「ピーターラビット」です。戦前のピーターラビットの絵本については、日本での著作権はもう切れています。先日、大阪高裁の判決でも確認されました。
しかし、日本では「ピーターラビット」の著作権が消滅している、という事実は広く知られてはおらず、いまだに権利が続いているように考えられ、扱われているケースが少なくありません。
このように、保護期間の切れたキャラクターをめぐっても、擬似的著作権が時に生まれます。

さて、いうまでもなく、創作者の正当な著作権は、尊重されるべきです。
擬似著作権の中にも、それなりにうなずける理由があって主張されているものも、中にはあります。
しかし、いわば「言ったものがち」、「権利のように装ったものがち」と呼びたくなるようなケースも、少なくありません。
権利を装った過大な主張が増えるようならば、軌道修正が必要でしょう。

情報というものは、土地やお金といった物と違い、本来はひとりで使おうが百人で使おうが、少しも減るということがありません。その点だけに注目すれば、大勢で使う方が皆が得をします。これを情報の「非競合性」といいますが、こういった性格ゆえに、情報は基本的には複製され、自由に流通する本質を持っています。
著作権のような知的財産権は、こういった自由流通される情報のうち、一部を切り取って、特に創作者などに独占管理を許す制度です。
そこには、創作者やそれを支える人々が、作品から収入を確保するための手段といった、正当な理由があります。
それゆえにこそ、法的な権利といえども、主張するメリットがないようなケースで過大な要求に使われることは避けるべきです。
それはかえって文化を窒息させ、創作活動をも窒息させるからです。

著作権法の1条では、文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利を保護することで文化の発展をはかることが、目標に掲げられています。
著作者等の正当な利益がしっかりと守られること。
その一方で、社会は文化の所産を公正に利用できること。
これが、創作者と社会の間の契約です。
両者がその約束を守りながら、あるべき権利の姿を考えていく。
情報化社会を生き抜く上で、私たちは、何度もこの美しい条文に立ちかえり、スタートし直さなければならないように、思います。

 

投稿者:管理人 | 投稿時間:23:25

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