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民団の沿革と歴史
   
   
   
   
民団の誕生
     
   1946年10月3日は、我が民団の創団日である(1947.1.10 京都府本部創団)。
 民団の歩んできた道はまさしく在日同胞の歴史でもある、日本の植民地から解放された当時、236万名にも及ぶ同胞たちが存在しており、解放の喜ぴに沸いた同胞たちは帰国の為の準備と、帰国するまでの間に日本での生活を守る為の結束を図ってきた。

 そのひとつに、日本で生まれた子供たちが帰国をしても困らないようにと、言葉と習慣を覚えさせるための学校を開いた。その当時の学校とは、日本の敗戦下ということもあり、人の家を借りて教えるような寺小屋式であり、その数は雨後のタケノコのように増え、京都だけでも信明学校をはじめ30数ヶ所、日本各地で数百にも上った。これが現在の民族学校の原形となった。

 そして、もうひとつは解放直後の1945年、戦後の混乱期を生き抜くために同胞たちが集まり組織を作った。それが「朝鮮人連盟」(朝連)と呼ぱれる組織である。しかし、この朝連という組織は、当時の旧本共産党と結ぴ、急激に思想的に左傾化(暴力事犯化)をはじめてしまった。その行動は本来の生きるための組織から政治組織と変わったために、一部の有志達が「このままではいけない」と反旗を翻し、45年11月16日東京の新橋に3000人が集い、「朝鮮建国促進青年同盟」(建青)を組織した。

 当時、建青は東京・育山の旧陸軍大学跡に本部を置き、3階建ての屋舎の2階までを建青が使用し、3階には朴烈が委員長を務める「新朝鮮建設同盟」(建設同盟)が入っていた。

 建青と建設同盟は、朝聯に対抗する自由民主主義に則った真の大衆組織を作ろうと、他の20余の同胞団体と結集して、1946年10月3日、朝連を脱退「在日朝鮮人居留民団」が結成された。これが現在の民団なのである。
 そして、その後の朝聯はといえぱ、余りにも左傾化しすぎたためにGHQによって1949年10月解散させられたが、1955年5月に「在日本朝鮮人総聯合会」(朝総聯)が結成されたのであった。

 
「民団」と「朝総聯」、イデオロギーによる宿命の対決へ
     
   1948年8月15日、韓半島38度線を境に南側には大韓民国が、そして、同年9月9日北側には朝鮮民主主義人民共和国が成立する。これにより民団の名称は「在日本大韓民国居留民団」と改称された。
 韓半島がこのように南北に分断されたことで、在日同胞社会においても否応なくその影響を受けざるを得なくなる。同胞社会にもイデオロギーによる分断が持ち込まれたのである。

 そして、その影響は韓国動乱(6.25動乱。日本では朝鮮戦争と呼ぱれる戦争)をきっかけに、決定的なものとなるのである。1950年6月25日北側の侵攻によって引き起こされたこの戦争は、南北に大きなダメージを与えただけではなく、同族同士の戦争ということで、在日同胞の人々の中に大きな悲しみと傷痕、そして、不信感を残す結果となった。

 この時、民団では641名(京都22名)の志願制による青年学生義勇軍を編成し、国連軍(UN)に編入され、仁川上陸作戦に参加、北側と一戦を交えた。
 その後、民団と朝総聯は互いの「祖国」を持ちながら、それぞれのイデオロギー政策の中で、在日同胞を軸に不毛な争いと競争を繰り広げることになった。