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人と四季が輝く魚沼から生産者株式会社の魚沼産コシヒカリ・ネット通販 About KOSHIHIKARI of UONUMA

味再発見!魚沼産コシヒカリの誕生

越後の最高級米、魚沼産コシヒカリの元である「越光」は1944年新潟県農事試験場で交配処理され誕生しました。その後福井農事改良実験所に渡された間も改良が続けられ、1956年に福井から新品種として、水稲農林100号とコシヒカリという名で登録されました。これが「魚沼産コシヒカリ」の先祖にあたるコシヒカリ誕生の瞬間です。最大のポイントは魚沼の立地条件に最適な品種であった事です。

コシヒカリ誕生の稲穂のイメージです。

魚沼産コシヒカリ以外では出せない味

魚沼地域でしかあり得ない実入り時期の霧発生のイメージです。

コシヒカリは当初より味も良く粘りの強い特徴を持っていたため、またたく間に人気品種となり、作付けも多くの地域に広がっていきました。とりわけ三国連山-魚沼丘陵に囲まれた地域で栽培された「魚沼産コシヒカリ」は抜群の美味しさで日本一の座にまで登り詰めました。「魚沼産コシヒカリ」は高い山々から流れ出す雪解け水、著しい昼夜の寒暖差、実入り時期の霧発生といった魚沼地域でしかあり得ない条件によって育まれたのです。まさに「魚沼産コシヒカリ」は魚沼で採れる米の宝石なのです。

生産者株式会社がお届けする「魚沼産コシヒカリ」

当社・生産者株式会社がお届けする「魚沼産コシヒカリ」は本社所在地・魚沼市小平尾を筆頭にした魚沼全地区の中から、厳選された経験豊かな生産農家だけが可能である、最高の手間ひまをかけた天日乾燥による「はざかけ米」・「有機栽培米」を契約栽培。生産者直送、農家の縁故米をお客様の玄関口まで、一粒の風味も逃さず、インターネット通信販売でダイレクトにお届けしています。

天日乾燥による「はざかけ米」のイメージです。

魚沼産コシヒカリとは

冷めても美味しい魚沼産コシヒカリのご飯のイメージ写真です。

魚沼産コシヒカリは他では得られない粘りが持ち味です。他の産地で栽培されたコシヒカリに比べても粘りが有ります。また、食味評価が高く、甘み豊かで噛めば噛むほど味が出る、後味が長く残ります。さらに冷めても美味しく、魚沼産コシヒカリで作ったおにぎりなどは最高の美味しさです。

お米の好みと品種について

人にも色々の好みがあります。軟らかめが好みの方に硬めの米を奨めても美味しく感じませんし、逆も同じです。また米には軟質米、硬質米があります。玄米の時点で粒が小さく炊き上がりで大きく膨らむのが軟質米です。硬質米はその逆です。このような品種同士でたとえブレンドしても美味しくはなりません。また最近人気を呼んでいるミルキークイーンのように粘りある米が好みの方に一般的な米を奨めても物足りないとほとんどの方がお答えになります。逆にミルキークインのような粘りある品種は一般的な米とブレンドすると食味的にも良好で人気を呼んでいます。日本人は統計的に粘りある米を好む人が多いです。

魚沼産コシヒカリのイメージ写真です。

本年4月より新農政改革スタート

魚沼産コシヒカリの商品イメージ写真です。

生産者自身の選択により流通経路の経費の削減かつ安心、安全、鮮度、生産者の顔の見える商品を格安で雪国の輝く地帯から届け致します。是非一度試食してみて下さいませ。

魚沼産コシヒカリの商品イメージです。


コシヒカリ開発由来、過去、現在、未来。

Dokuta.tanakakisaikiji

<新潟県農試 高橋浩之 池隆肆 仮谷桂> 1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。  田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。  高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。 1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。 1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。  高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。

昔では想像も付かない状況の写真です。温室で3日位で芽が出てくる映像です。
昔では想像も付かない状況の写真です。温室で3日位で芽が出てくる映像です。
種籾を殺菌洗浄をして良い種籾だけを選定をしている作業工程です。
種籾を殺菌洗浄をして良い種籾だけを選定をしている作業工程です。

1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。 <福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎> 1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。 1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。 1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。

国道352号道路沿いの両サイドの積雪です。如何に豪雪地帯の山間部の集落かお分かりになるでしょう。
国道352号道路沿いの両サイドの積雪です。如何に豪雪地帯の山間部の集落かお分かりになるでしょう。 小平尾の小さい集落の棚田田圃の黄金色に実った稲、秋一番の旬の新米を環境に優しい田舎、雪国豪雪地帯から美味しさをそのままで全国にお届けいたします。
小平尾の小さい集落の棚田田圃の黄金色に実った稲、秋一番の旬の新米を環境に優しい田舎、雪国豪雪地帯から美味しさをそのままで全国にお届けいたします。

1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。  石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。 <新潟県農試 杉谷文之> 1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長のS.Yさんが奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長S.Yさんの意のままであった。  一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試のH.Yさんの働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。

平成20年魚沼市小平尾田圃雪解け風景3月中旬今年は大変積雪が少ない年でした。例年ですと、3月でしたらとても田圃の土壌は見えない状態が当たり前です。大変春一番天候に恵まれた映像に収めました。
平成20年魚沼市小平尾田圃雪解け風景3月中旬今年は大変積雪が少ない年でした。例年ですと、3月でしたらとても田圃の土壌は見えない状態が当たり前です。大変春一番天候に恵まれた映像に収めました。
豪雪地帯の現状写真風景ご覧下さい。車が見えなくなる程積雪吹雪に出会うと1時間くらいでこのような現状です。皆さん信じられますか、いかに豪雪地帯であるかを生の現地より18年3月映像風景です。
豪雪地帯の現状写真風景ご覧下さい。車が見えなくなる程積雪吹雪に出会うと1時間くらいでこのような現状です。皆さん信じられますか、いかに豪雪地帯であるかを生の現地より18年3月映像風景です。

1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。 1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。 1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。

魚沼市でも手間ひまが掛かる(はざかけ米)が姿が消えたはざかけが、魚沼全体でチラホラと件数は少ないが、姿が昨年当たりから再度見かけるようになり、現地18年産小平尾9月23日田圃写真風景です。現在では幻のお米一味違う(はざかけ米)数量に限りあり予約販売をしている状況です。昨年を大変好調で品切れにしまして大変迷惑をおかけ致しました。今年は早めに予約お願いします。
魚沼市でも手間ひまが掛かる(はざかけ米)が姿が消えたはざかけが、魚沼全体でチラホラと件数は少ないが、姿が昨年当たりから再度見かけるようになり、現地18年産小平尾9月23日田圃写真風景です。現在では幻のお米一味違う(はざかけ米)数量に限りあり予約販売をしている状況です。昨年を大変好調で品切れにしまして大変迷惑をおかけ致しました。今年は早めに予約お願いします。
魚沼産コシヒカリ18年産から現地魚沼市より毎日生育状況を苗と話をしながら毎日更新当社ブログで送り続けています。20年産で魚沼市で今年一番早い田植えの棚田田圃の5月3日風景映像です。
魚沼産コシヒカリ18年産から現地魚沼市より毎日生育状況を苗と話をしながら毎日更新当社ブログで送り続けています。20年産で魚沼市で今年一番早い田植えの棚田田圃の5月3日風景映像です。

1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。 1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。  表彰状  高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿  貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します  昭和34年12月7日      農業技術協会長 秋元眞次郎 <コシヒカリの独り立ち> 1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。

ロングマット水耕苗による新しい田植え技術の時代が市町村で姿を見かけ。現在は魚沼市では行っている生産者は居ないようだ。最大の特徴は一人で田植えが出来る。簡単で一人で出来て、新農政に経費削減最適な未来の田植え機いらっしゃい。汚い、重い、さようなら?
ロングマット水耕苗による新しい田植え技術の時代が市町村で姿を見かけ。現在は魚沼市では行っている生産者は居ないようだ。最大の特徴は一人で田植えが出来る。簡単で一人で出来て、新農政に経費削減最適な未来の田植え機いらっしゃい。汚い、重い、さようなら?
                    

1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。 1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。 1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。

雪解けの権現堂山、田圃を風景に5月中旬の映像です。
雪解けの権現堂山、田圃を風景に5月中旬の映像です。
生産者の後ろの田圃山すそに5月中旬での白く見えるのは雪です。毎年雪を見ながらの5月下旬が田植えですね。3〜4メートルの豪雪地帯です。
生産者の後ろの田圃山すそに5月中旬での白く見えるのは雪です。毎年雪を見ながらの5月下旬が田植えですね。3〜4メートルの豪雪地帯です。


1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。 

集落自体が山間部でありこのような小さい田圃が多い地域です。雪解けの水は豊富のところです。昼夜の温度差が同じ魚沼でも平地とは2度くらい違いますし、積雪などは約倍くらい違います。夏は毛布じゃ寒いくらいですね。秋一番に実り稲が車のライトに反射されると逆に反射が戻ってきます。輝きのあるダイヤモンドのような魚沼産コシヒカリを是非一度ご賞味下さいませ。
集落自体が山間部でありこのような小さい田圃が多い地域です。雪解けの水は豊富のところです。昼夜の温度差が同じ魚沼でも平地とは2度くらい違いますし、積雪などは約倍くらい違います。夏は毛布じゃ寒いくらいですね。秋一番に実り稲が車のライトに反射されると逆に反射が戻ってきます。輝きのあるダイヤモンドのような魚沼産コシヒカリを是非一度ご賞味下さいませ。
現在83件の集落です。毎年稲が黄金色に実る時期には温暖の差が激しいくらいに霧が発生します。これらが隠れた美味しい秘密とも言われています。
現在83件の集落です。毎年稲が黄金色に実る時期には温暖の差が激しいくらいに霧が発生します。これらが隠れた美味しい秘密とも言われています。



育種研究に重ね重ね戦争にも乗り越え一時は研究を中断し再度福井県と新潟県、新潟県は豪雪地帯魚沼が最適な地域土地柄であることが発見されたこと。(豪雪地帯の雪解け水、昼夜の温暖差、土壌)、他県には無い最大の美味しさの秘密、条件と地域土地柄であった事。