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かき養殖の歴史(広島湾)

養殖形態の変遷
  • 江戸時代の初期,広島沿岸の各地に,それぞれの潟独自の方法で自然発生的に養殖が始められ次第に広まっていった。
  • 元禄初年(1688),草津に河面仁右衛門という人があって,生産したカキが過剰にならないように大都会へ送って,無限の消費をはかる必要があると考え,大阪にカキ船を仕立てて,都会の人々の口に上すようにした。(カキ船の起源)
  • 大正末期に開発された筏垂下式養殖法が戦後大きく普及し生産量が大きく増えた。この方法は,これまでの干潟を平面的に利用した養殖にくらべて,水深20〜30mまでの海面を立体的に利用するので,単位面積あたりの水揚げに格段の増収をもたらした。そればかりでなく,衛生的で歩留まりがよく,しかも成長が早いという画期的なものであった。
表 カキ養殖形態の変遷
時 代 主な養殖法
江戸時代〜大正末期 石蒔,竹ひび
昭和初期 杭打ち式(簡易垂下式)
昭和23〜4年以降 筏垂下式養殖法
垂下養殖法-水産試験場の実験開始

 大正11年4月,広島県庁内に水産試験場本場が設置された。ついで12年には鞆町と草津町に支場ができている。
 草津支場では,かき養殖に関する研究をはじめ,垂下法による身入促進の試験がおこなわれたのは,大正15年からであった。翌年草津町の高橋定一は,水産試験場の指導で,杭打垂下法(簡易垂下法ともいう)による身入促進を試み,好成績を得たのであった。
 この杭打垂下法は,改良されてつぎのような形になった。干渇に,高さ1m30〜40cmの棚を作っておく。一方,2mぐらいの針金を用意し,貝殻と竹の管を交互に通した連を作る。この連を棚にふり分けてぶらさげ,採苗ならびに育成をおこなう方法である。ひび建法だと,竹の枝についたかきを1つ1つもいでとったり,落ちたものをかき集めたりしなければならない。ところが,杭打式だと1本が連になっている。連ごとの操作ができ,作業も能率的である。地蒔式などに比べて身入りもじつによい。ひび建に比べると,一歩も二歩も前進した方法であった。
 昭和初期には,早くもひび建養殖は,杭打式垂下法と変わっていった。そして,25年頃からは,筏式垂下養殖法が,急速に発展したのである。
 この垂下式のはじめは,ひび建養殖で育てたかきを針金で括り,それを垂下して肥らせる括りかきだった。(高橋定一氏のおこなったのも括りかきである)以下その後の推移を,年代順に追ってみよう。
 水産試験場は,付着器による採苗試験を開始(昭和4年),この種苗を使った本格的な垂下養殖を,生産者に委託した(同5年)。そして,水産増殖事業の一つとして,まがき種苗の配給を始めた(同7年)。
 生産者みずからが,付着器による採苗をやるようになり(同8年),やがて一般に普及した(同10年頃から)。
 その方法は,夏に採苗連の貝穀に付着した種を,そのまま干潟の棚にかけておく。干潟は1日のうちの8時間は干出する場所なので,成育はするが,それほど大きくはならない。(これは半抑制することになり,ひび建養殖の場合と同じ成長度合を示す)この4〜5cmに大きくなった種苗を,翌春に垂下養殖し,秋に収渡する,というやり方である。
 これが,戦争のすんだ20年頃から急速に発展していった。広島工業港を作るため,雄大な干潟(干潮のときは1里も沖まで干上るほど)の大半が埋立てられ,干潟の漁場が少なくなったこと。それに,戦後は作ればいくらでも売れる時代であった。今までの養殖場はすべて干潟を利用していたが,いつも水のあるところの利用法を考えたわけである。今までは,1連の長さが2m位の針金を2重に折って使っていたが,一躍1本4m長さの針金を用いるようになったのである。
 昭和20年代が,この杭打式垂下法の全盛時代であったが,この方法にも一つの泣き所があった。
 この頃の話は,山科美里氏の経験を語ってもらおう。
「今日では,夜磯にいくという事は昔話になっている。しかし,かきのシーズンの冬,太田川おろしの凍るようなぶぶきの中を夜磯に出ていくことは,ほんとうにつらかった。夜機のはじまりは夜の10時ごろであった。だいたい,潮は1時間ずつおくれてくる。つぎの日は11時,その次は12時というようにおれてくるわけである。したがって,この夜磯も,後半になると,わずか2〜3時間しか眠れない,あるいは徹夜作業になる日が続くようになる。昼間はかき打作業に忙殺され,夜はかきの積込作業……おまけに,冬の海は寒く危険である。それでも,私の父や母の話では,”お前たちの時代はまだいいよ。私達の若い時は長靴なんかない時代,草鞋がけで手甲,脚絆で冬の海に入ったものだ。手も足もしぴれて,まったく無感覚になり,おまけに吹雪に包まれて帰る道に迷ったこともあった”とのこと。
 そういえば,私の幼い日,記憶にある母の手は,あかぎれをいっぱいきらしたものであった。
 潮は,1日2回の干満がある。3月頃から10月にかけては昼の潮がよくひき,10月から3月までの冬の間は,夜の潮がよくひく。太陽月の関係だろう。」
 この宿命的な夜間作業は,杭打式垂下法でも取除くことはできなかった。
 一方,1年生かきの養殖も始まった(昭和17年)。7月上旬に採苗したツユ種を1か月ほど高いところへおいて抑制する。夏の終りに垂下養殖し,その年の冬に収獲する,というもの。採苗から収穫まで1年以内であるところから,こう呼ばれた。もっとも,半抑制の大型種苗を使う2年生かきに,大量斃死がつづいた,という事情もあって,1年生かきの養殖をせざるを得なかったのである。
 広島県水産試験場が宮島水道で,筏養殖法を開始(昭和7年)。当時は,杉や檜で組み立てた筏だったので耐波性にやや劣っていた。また動力船を使わなければならなかったが,その投資能力に欠けていたこと,さらに,漁場開発にも制限があったこと,などの理由で普及するにいたらなかった。
 ところが,孟宗竹で組み立てた筏で試験してみると(同28年),製作費は安く,耐波性にすぐれていることから,急速に一般化した。入海の静かな場所のみであった養殖場が,江波沖のような南風のあたる荒海でも養殖できるようになったのである。
 筏数は492台から1339台にふえ(同29年),その後も増加の一途をたどり,10000台を突破するまてになった(同44年)。
 当然,漁場も,5年ごとに切替えられる漁業権の免許によって拡大していった。第1次沿岸漁業構造改善事業が発足したことから(同36年),五日市町沖,宮島周辺,能美島と倉橋島のあいだの早瀬水道,広島湾中央に浮ぶ津久根鳥周辺,中部海域の三津湾,など広範囲に開発された(同38年)。草津,五日市沖,海田湾等,埋立計画で消えた漁場もあるが(同48年),大黒神島や能美島南側があらたに開発された。とくに大黒神島の漁場は,第2次沿岸漁業構造改善事業により,約1000台の筏を収容できる規模である。
 また,1経営体あたりの所有数も,年を追ってふえている。単純平均所有数0.7台だったものが(昭28年),10.8台となり(同42年),14.5台となっている(同48年)。
 筏自体の大きさも,最初は,横3m,縦8m位の小さなものであった。風に耐え波に耐え,潮流に耐えるためには,どのような形がよいか。どれほどのワイヤーやアンか−が必要か。小さな筏からはじめて,今日では横10m縦20mの大きなものに発展した。
 筏式養殖が今は全盛である。生産高も飛躍的にのび,年間30000トンにもなった。これは日本の生産量の70%にもあたる量である。
 今や広島かきは名実ともに日本一の座を占めているのである。  (引用 資料05

参考「88年前にかき筏養殖試験」水試だより

近年の広島県のかき養殖漁場
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