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聖都のひずみ・エルサレム:/上(その2止) 帰属めぐり続く争い

 ◇中東和平の最難問

 【エルサレム前田英司】ユダヤ、キリスト、イスラム教の聖都エルサレムは、その支配をかけた争いの歴史に翻弄(ほんろう)されてきた。パレスチナ国家樹立によるイスラエルとの「2国家共存」を目指す中東和平交渉でも、最難問の一つはエルサレムの帰属を巡る対立だ。

 エルサレムには東西二つの「顔」がある。ユダヤ人主体の西エルサレムと旧アラブ人地域の東エルサレムだ。東西エルサレムを治めるイスラエルは、ここを「永久不可分の首都」と定めるが、国際社会は認めていない。

 「(エルサレムを)二度と分断しない」と繰り返すネタニヤフ首相に対し、アッバス・パレスチナ自治政府議長は東エルサレムを将来の「首都」と譲らない。

 ◇混迷招いた英国

 エルサレムの歴史は複雑だ。16世紀以降、オスマン・トルコの支配下にあったが、その衰退に伴い、西欧列強が次々に進出した。

 第一次大戦時、英国はこの地域を巡り、アラブ人に独立を約束して対トルコ蜂起をあおる一方、ユダヤ人の「祖国建設」も支持。さらに両者を裏切る形でフランスとは分割統治を密約した。この「三枚舌外交」が現在に続く混迷を招いたといえる。

 結局、第一次大戦後、エルサレムは英委任統治下に。国連は第二次大戦後、この地域をユダヤ人とアラブ人の2国に分ける案を採択したが、エルサレムについては「国際管理」として妥協を図った。だが、直後の第1次中東戦争(48年)で、西エルサレムは誕生したばかりのイスラエル、東エルサレムは隣国ヨルダンの支配下に入った。さらに、第3次中東戦争(67年)でイスラエルは東エルサレムを占領、併合し、現在に至っている。

 ◇差縮まる人口比

 約1キロ四方の城壁に囲まれた旧市街(東エルサレム)。この一角に、かつての神殿の外壁とされるユダヤ教の「嘆きの壁」▽イエスが処刑された場所に建つというキリスト教の「聖墳墓教会」▽預言者ムハンマドが昇天したと伝わるイスラム教の「岩のドーム」--といった3宗教の聖地が集まっている。

 東西エルサレムの人口は約76万人。うち65%がユダヤ人、35%がパレスチナ人(アラブ系)だ。20年前は7対3の比率だったが、出生数の違いなどでその差は縮まった。

 国連人道問題調整事務所によると、イスラエルは00年以降、東エルサレムで750戸以上のパレスチナ人住宅を取り壊した。無許可の「違法建築」との理由だが、ユダヤ人入植者が住む同様のビルの解体には、当局は「抵抗」している。エルサレムのバラカト市長はパレスチナ人の人口増大を「脅威」とみており、パレスチナ人住宅の取り壊しやユダヤ人入植地の拡大からは、ユダヤ人の社会的優位を維持する意図が透けて見える。

毎日新聞 2010年2月26日 東京朝刊

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