近頃、どうも子どもを狙った犯罪が多いですね。
21世紀に入ってから、まず、●大阪教育大学池田小での児童殺傷事件がありました。そのあとしばらくして●奈良県女児誘拐殺人事件、そして最近では、●広島での日系ペルー人の女児殺害もありましたし、●栃木県では通学路で女児が殺される事件など、まだ(05年12月14日現在)犯人が見つかっていません。
そして、なんといっても、土曜日の●例の事件です。(不謹慎ですみません、私昨日の授業で、「私はハンマーと包丁は持っていません。御安心ください」という発言等、笑いのネタにしまくりました。幸い、みんな楽しく笑ってくれたのでよかったです。結構、関心が高いようで・・・。)
個別の事件をいちいち分析しても、後々の役に立たないと感じています。報道での取り上げ方が、どうもそのような傾向があるので、私なりにこれらの一連の事件から学ぶことができる事柄をまとめたいと思います。
ちなみに、私は例の事件の容疑者のように、犯罪学を学んではいませんが、理論的裏付けがない点についてはご容赦ください。
結論から言ってしまえば、上に挙げた犯罪は、「負け組犯罪」と名付けるべきかと思います。
「負け組犯罪」とは、我欲の充足による自己実現を充足できない者(男性)による犯罪のことを言います。典型的なのは、性犯罪です。●こちらの資料でも、上に挙げたような事件が起こり始めた辺りから増加に転じているのがわかります。
さて、勝ち組、負け組という表現は、近年マスコミが意味もなく吹聴している概念ですが、私は、「負け組」というのは、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している人を言うのではないかという気がしています。つまり、年収が引くかろうと、社会的地位が低かろうと、「自分には満足だ」「これで十分」と心から感じている人は、負け組ではありません。
自分が「こうありたい」という観念と、現実の自分には開きがある人は、いつの時代にも少なからずいたはずですが、ここに至って日本で「負け組犯罪」が増えたのはどうしてか。
識者でも犯罪学専攻の大学生でもない私ですが、以下のようなことを思いつきました。
1.高度成長の頃のメンタリティなのに、パイが小さいのでうまくいかない
経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのが、1956年のことです。それ以降、日本は一貫して好況でした。特に60年代から70年代前半は高度成長期と言われています。石油ショックという「事故」はありましたが、それでもそのあと安定成長→バブル景気です。
そして、戦前育ちの人々が子育てを離れると、子どもを持つ大人のほとんどが右肩上がりの時代しか知らないことになります。
高度成長の時代は、「努力すれば何とかなる」「夢は叶う」という考えに、かなりのリアリティがあったと思うのです。また、夢破れたとしても、ちゃんと働けば車やら家やら家族(配偶者)やらを手に入れることはできたのです。
ところが、今はグローバルな競争を強いられる時代です。なにしろ、日本の隣りにとにかく安くものを作れる国(その内情は●こんな感じですが)があって、日本のお家芸である製造業は青息吐息です。切りつめて、競争力を付けなければやっていけないわけです。小泉首相が「改革!改革!」と叫ぶことには(是非はともかく)、ある種必然性があります。そうしなければ、日本が滅んでしまうという思いもあるのでしょう。まあ、だからといって、2000年以上続いた皇室制度を変えていいなどとは絶対に思いませんが。(詳細は、●こちらのサイトをご覧ください)
ともかく、そういう時代ですから、望む仕事について、なんとなく過ごせば思い通りに「自己実現」ができるという時代ではないのです。私も同じ試験に4回も落ちているので(笑)、「こんなはずでは・・・」と嘆きたい気持ちは分からなくもありません。幸いにも、犯罪をやりたいと思うまでは至りませんが・・・。
2.学校教育やコマーシャルで「なりたい自分」「やりたいことをやる」という自己実現至上主義ばかりが吹聴されている
1.のような状況にも関わらず、高度成長の時代しか知らない親御さんは(ペルー人の彼にはこの定義は当てはまりませんが・・・)、がんばれば何とかなると思って、子どもたちの置かれた状況を顧慮しません。それ以前に、親や教員が「夢を持て」「頑張れば必ずむくわれる」と吹聴している以上、後に引けなくなっているのです。
そればかりでなく、広告も我欲の充足としての「自己実現」を煽るような商業広告ばかりが目に付きます。
我々も、日常生活の中で、いろんな願望を口にしますね。
「みんな持ってるからプレステほしい」
「(異性の気を引くため)きれいになりたい」
「クリスマスにステキなデートをしたい」
「車を買って彼女とドライブがしたい」
「安定した職業につきたい」「自分の望む仕事をしたい」
「綺麗なお嫁さんがほしい」
「一軒家がほしい」「息子は○○高校に行かせたい」
「老後は海辺の家で静かに暮らしたい」
・・・一応人生の時系列に沿って並べてみましたが、どうやら我々の生活は、ことごとく商業主義の餌食になっている(笑)ようですね。年代別の雑誌でも買えば、そういう広告を全てチェックできます(というか、無理矢理させられる)。
しかし、残念ながら、このような事象を通じて自己実現できる人々はあまり多くありません。もともとある種の素質や、家庭環境や運に恵まれていないと実現が困難なものもあるからです。
それにも関わらず、教育や広告が「なりたい自分になれる」「楽しくなければ人生じゃない」という文句で欲望を煽り続けるのです。能力や財産に恵まれない人間には、毎日が生殺し、欲求不満の日々でしょう。飢えて苦しんでいるときに、分厚いガラスの向こうで豪華な立食ディナーパーティーを開かれているようなものです。
そのような絶望感が、弱者に欲望を向ければよいという形で転化すると、「負け組犯罪」ができあがるというわけです。
3.女性の立場が「向上」し、男性が女性を巡って過当競争をしている
高度成長期に、いわゆる「団塊の世代」の人々が一般化してしまった行動様式の中に、「個人の自由意思に基づく恋愛」や「同年代との恋愛結婚」というものがあります。
団塊の世代の人々は、戦前を「ひきずった」(戦前=悪という匂いがして、管理人はこの言葉は好きではない)社会に生まれたにも関わらず、初めて「戦後民主主義教育」や、日教組の「平和人権至上主義」に洗礼された世代です。彼らが大人になる頃、まるでホームドラマにあるアメリカ人のような自由な恋愛、そして幸福そうに見える結婚に憧れたのも無理はありません。団塊の世代にとっては、自由な恋愛こそ「個人の尊厳」や「男女平等」の具現化だったのです。
もちろん、全ての人が望むような恋をして、望むような伴侶を得たわけではありません。しかし、戦後の経済成長が物質的欲求を次々満たすことによって恋愛や結婚に関する不満を吸収していたので、問題が起こらなかったのです。
しかし、現状は1.で述べたような状況であるわけです。女性を、高度成長の時代同様の生活スタイルで養えるような経済力を持っている男性はそう多くはありません。それにも関わらず、家庭というのはそういうものだと教わってきているので、なかなか結婚ができないわけです。
しかも、商業主義がやたらと女性、女性と吹聴するので(たとえば、「レディースデー」。管理人は「メンズデー」というのを聞いたことがない)、女性の意識は相当高くなっています。恋愛で言えば、もともと男女の数が不均衡であるのも手伝って、完全に女性が選ぶ時代になっていると言えます。
これに文句を言っても始まらないのですが、小さい頃からメディアや親によって、大人になれば彼氏や彼女がいて、恋愛結婚するのが当然だと植え付けられているとなると、いささかまずい事態になります。そういうことができない自分は、規格から外れた人間であるという認識を持ってしまう人が出てくるわけです。
上に挙げた「奈良県女児誘拐殺人」の小林薫被告にしても、経歴・職業・見た目どれをとっても異性に対して訴求力がありません。ああいう人間がもともと歪んでいることは確かでしょうが、このまま生きていてもどうせろくなことがないという絶望感が、異常性に磨きをかけたのは間違いないでしょう。程度の差こそあれ、異性問題についての不全感は多くの人が抱えているのではないでしょうか。
恋愛や異性について問題は、個人の主観が大きく左右するものなので、私自身客観的に分析できているかは疑問ですが、あえて説明させてもらいました。
「負け組犯罪」がこのような背景を持って生まれてきている一方で、大きな問題があります。それは、刑事司法制度が「負け組犯罪」の犯罪者に対して何の役にも立たないということです。
たとえば「模範囚」や「仮出獄」という制度は、犯罪者を野に放つのを早めるだけの結果に終わっています。刑務所の中で規則正しく振る舞っていても、「負け組犯罪」の根っこは残ったままです。
矯正教育が、そもそもダメなのです。規則正しい生活をし、職業訓練をすれば犯罪者にならずに済む、というのは、高度成長が更生した人間を労働力として吸収していた時代だからこそ意味があったのです。
悪いことだったと自覚させるのも無駄です。「池田小事件」の宅間守死刑囚は公判廷で、「世の中のやつは全部敵や」と発言しています。また、小林被告は取調べに対し、「悪いことをしたとは思っていない。」と供述していたそうです。世の中が自分のやりたいことをやらせないからいけない、という反社会的思考に陥っている負け組人間に、矯正教育などやっても無意味なのです。
同じくらい意味がないのは、とにかく厳罰を科せばよいと言う考えです。
「負け組犯罪」は、窃盗や詐欺のような「ビジネス」に近い犯罪と異なり快楽計算によって行われるものではありません。極端な話ですが、負け組にとっては望む仕事にもつけず、異性とも付き合えない人生そのものが地獄なのです。だから、性行為目的で誘拐した後、殺すような馬鹿な真似まで出来てしまうのです。これでは厳罰で威嚇しても、効果は薄いのが目に見えています。
死刑を科せば、犯罪者を「駆除」できるかも知れません。しかし、「負け組犯罪」を醸成するような社会環境を放置すれば、このような犯罪は決して無くなりません。それこそ、アメリカと原理主義テロリストのようないたちごっこになるのがおちです。一定の厳罰化は国民の意識の高まりから必要でしょう。しかし、それをもって犯罪の発生自体は抑止できません。死刑判決をたくさん出しても、儲かるのは葬儀屋だけです。
では、「負け組犯罪」はどうやったら少なくできるのでしょうか。
私は、どこかの馬鹿な教職員組合のように、「社会がおかしい」とか、「学校で平和や人権の尊さを訴え続ければ、犯罪はなくなる」などと思っていません。それどころか、今の学校教育が依って立つ理念そのものに、「負け組犯罪」を生む根っこがあるとさえ考えています。
次回は、私自身の体験も踏まえながら、解決方法を具体的に論じたいと思います。(後編は●こちらです)
21世紀に入ってから、まず、●大阪教育大学池田小での児童殺傷事件がありました。そのあとしばらくして●奈良県女児誘拐殺人事件、そして最近では、●広島での日系ペルー人の女児殺害もありましたし、●栃木県では通学路で女児が殺される事件など、まだ(05年12月14日現在)犯人が見つかっていません。
そして、なんといっても、土曜日の●例の事件です。(不謹慎ですみません、私昨日の授業で、「私はハンマーと包丁は持っていません。御安心ください」という発言等、笑いのネタにしまくりました。幸い、みんな楽しく笑ってくれたのでよかったです。結構、関心が高いようで・・・。)
個別の事件をいちいち分析しても、後々の役に立たないと感じています。報道での取り上げ方が、どうもそのような傾向があるので、私なりにこれらの一連の事件から学ぶことができる事柄をまとめたいと思います。
ちなみに、私は例の事件の容疑者のように、犯罪学を学んではいませんが、理論的裏付けがない点についてはご容赦ください。
結論から言ってしまえば、上に挙げた犯罪は、「負け組犯罪」と名付けるべきかと思います。
「負け組犯罪」とは、我欲の充足による自己実現を充足できない者(男性)による犯罪のことを言います。典型的なのは、性犯罪です。●こちらの資料でも、上に挙げたような事件が起こり始めた辺りから増加に転じているのがわかります。
さて、勝ち組、負け組という表現は、近年マスコミが意味もなく吹聴している概念ですが、私は、「負け組」というのは、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している人を言うのではないかという気がしています。つまり、年収が引くかろうと、社会的地位が低かろうと、「自分には満足だ」「これで十分」と心から感じている人は、負け組ではありません。
自分が「こうありたい」という観念と、現実の自分には開きがある人は、いつの時代にも少なからずいたはずですが、ここに至って日本で「負け組犯罪」が増えたのはどうしてか。
識者でも犯罪学専攻の大学生でもない私ですが、以下のようなことを思いつきました。
1.高度成長の頃のメンタリティなのに、パイが小さいのでうまくいかない
経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのが、1956年のことです。それ以降、日本は一貫して好況でした。特に60年代から70年代前半は高度成長期と言われています。石油ショックという「事故」はありましたが、それでもそのあと安定成長→バブル景気です。
そして、戦前育ちの人々が子育てを離れると、子どもを持つ大人のほとんどが右肩上がりの時代しか知らないことになります。
高度成長の時代は、「努力すれば何とかなる」「夢は叶う」という考えに、かなりのリアリティがあったと思うのです。また、夢破れたとしても、ちゃんと働けば車やら家やら家族(配偶者)やらを手に入れることはできたのです。
ところが、今はグローバルな競争を強いられる時代です。なにしろ、日本の隣りにとにかく安くものを作れる国(その内情は●こんな感じですが)があって、日本のお家芸である製造業は青息吐息です。切りつめて、競争力を付けなければやっていけないわけです。小泉首相が「改革!改革!」と叫ぶことには(是非はともかく)、ある種必然性があります。そうしなければ、日本が滅んでしまうという思いもあるのでしょう。まあ、だからといって、2000年以上続いた皇室制度を変えていいなどとは絶対に思いませんが。(詳細は、●こちらのサイトをご覧ください)
ともかく、そういう時代ですから、望む仕事について、なんとなく過ごせば思い通りに「自己実現」ができるという時代ではないのです。私も同じ試験に4回も落ちているので(笑)、「こんなはずでは・・・」と嘆きたい気持ちは分からなくもありません。幸いにも、犯罪をやりたいと思うまでは至りませんが・・・。
2.学校教育やコマーシャルで「なりたい自分」「やりたいことをやる」という自己実現至上主義ばかりが吹聴されている
1.のような状況にも関わらず、高度成長の時代しか知らない親御さんは(ペルー人の彼にはこの定義は当てはまりませんが・・・)、がんばれば何とかなると思って、子どもたちの置かれた状況を顧慮しません。それ以前に、親や教員が「夢を持て」「頑張れば必ずむくわれる」と吹聴している以上、後に引けなくなっているのです。
そればかりでなく、広告も我欲の充足としての「自己実現」を煽るような商業広告ばかりが目に付きます。
我々も、日常生活の中で、いろんな願望を口にしますね。
「みんな持ってるからプレステほしい」
「(異性の気を引くため)きれいになりたい」
「クリスマスにステキなデートをしたい」
「車を買って彼女とドライブがしたい」
「安定した職業につきたい」「自分の望む仕事をしたい」
「綺麗なお嫁さんがほしい」
「一軒家がほしい」「息子は○○高校に行かせたい」
「老後は海辺の家で静かに暮らしたい」
・・・一応人生の時系列に沿って並べてみましたが、どうやら我々の生活は、ことごとく商業主義の餌食になっている(笑)ようですね。年代別の雑誌でも買えば、そういう広告を全てチェックできます(というか、無理矢理させられる)。
しかし、残念ながら、このような事象を通じて自己実現できる人々はあまり多くありません。もともとある種の素質や、家庭環境や運に恵まれていないと実現が困難なものもあるからです。
それにも関わらず、教育や広告が「なりたい自分になれる」「楽しくなければ人生じゃない」という文句で欲望を煽り続けるのです。能力や財産に恵まれない人間には、毎日が生殺し、欲求不満の日々でしょう。飢えて苦しんでいるときに、分厚いガラスの向こうで豪華な立食ディナーパーティーを開かれているようなものです。
そのような絶望感が、弱者に欲望を向ければよいという形で転化すると、「負け組犯罪」ができあがるというわけです。
3.女性の立場が「向上」し、男性が女性を巡って過当競争をしている
高度成長期に、いわゆる「団塊の世代」の人々が一般化してしまった行動様式の中に、「個人の自由意思に基づく恋愛」や「同年代との恋愛結婚」というものがあります。
団塊の世代の人々は、戦前を「ひきずった」(戦前=悪という匂いがして、管理人はこの言葉は好きではない)社会に生まれたにも関わらず、初めて「戦後民主主義教育」や、日教組の「平和人権至上主義」に洗礼された世代です。彼らが大人になる頃、まるでホームドラマにあるアメリカ人のような自由な恋愛、そして幸福そうに見える結婚に憧れたのも無理はありません。団塊の世代にとっては、自由な恋愛こそ「個人の尊厳」や「男女平等」の具現化だったのです。
もちろん、全ての人が望むような恋をして、望むような伴侶を得たわけではありません。しかし、戦後の経済成長が物質的欲求を次々満たすことによって恋愛や結婚に関する不満を吸収していたので、問題が起こらなかったのです。
しかし、現状は1.で述べたような状況であるわけです。女性を、高度成長の時代同様の生活スタイルで養えるような経済力を持っている男性はそう多くはありません。それにも関わらず、家庭というのはそういうものだと教わってきているので、なかなか結婚ができないわけです。
しかも、商業主義がやたらと女性、女性と吹聴するので(たとえば、「レディースデー」。管理人は「メンズデー」というのを聞いたことがない)、女性の意識は相当高くなっています。恋愛で言えば、もともと男女の数が不均衡であるのも手伝って、完全に女性が選ぶ時代になっていると言えます。
これに文句を言っても始まらないのですが、小さい頃からメディアや親によって、大人になれば彼氏や彼女がいて、恋愛結婚するのが当然だと植え付けられているとなると、いささかまずい事態になります。そういうことができない自分は、規格から外れた人間であるという認識を持ってしまう人が出てくるわけです。
上に挙げた「奈良県女児誘拐殺人」の小林薫被告にしても、経歴・職業・見た目どれをとっても異性に対して訴求力がありません。ああいう人間がもともと歪んでいることは確かでしょうが、このまま生きていてもどうせろくなことがないという絶望感が、異常性に磨きをかけたのは間違いないでしょう。程度の差こそあれ、異性問題についての不全感は多くの人が抱えているのではないでしょうか。
恋愛や異性について問題は、個人の主観が大きく左右するものなので、私自身客観的に分析できているかは疑問ですが、あえて説明させてもらいました。
「負け組犯罪」がこのような背景を持って生まれてきている一方で、大きな問題があります。それは、刑事司法制度が「負け組犯罪」の犯罪者に対して何の役にも立たないということです。
たとえば「模範囚」や「仮出獄」という制度は、犯罪者を野に放つのを早めるだけの結果に終わっています。刑務所の中で規則正しく振る舞っていても、「負け組犯罪」の根っこは残ったままです。
矯正教育が、そもそもダメなのです。規則正しい生活をし、職業訓練をすれば犯罪者にならずに済む、というのは、高度成長が更生した人間を労働力として吸収していた時代だからこそ意味があったのです。
悪いことだったと自覚させるのも無駄です。「池田小事件」の宅間守死刑囚は公判廷で、「世の中のやつは全部敵や」と発言しています。また、小林被告は取調べに対し、「悪いことをしたとは思っていない。」と供述していたそうです。世の中が自分のやりたいことをやらせないからいけない、という反社会的思考に陥っている負け組人間に、矯正教育などやっても無意味なのです。
同じくらい意味がないのは、とにかく厳罰を科せばよいと言う考えです。
「負け組犯罪」は、窃盗や詐欺のような「ビジネス」に近い犯罪と異なり快楽計算によって行われるものではありません。極端な話ですが、負け組にとっては望む仕事にもつけず、異性とも付き合えない人生そのものが地獄なのです。だから、性行為目的で誘拐した後、殺すような馬鹿な真似まで出来てしまうのです。これでは厳罰で威嚇しても、効果は薄いのが目に見えています。
死刑を科せば、犯罪者を「駆除」できるかも知れません。しかし、「負け組犯罪」を醸成するような社会環境を放置すれば、このような犯罪は決して無くなりません。それこそ、アメリカと原理主義テロリストのようないたちごっこになるのがおちです。一定の厳罰化は国民の意識の高まりから必要でしょう。しかし、それをもって犯罪の発生自体は抑止できません。死刑判決をたくさん出しても、儲かるのは葬儀屋だけです。
では、「負け組犯罪」はどうやったら少なくできるのでしょうか。
私は、どこかの馬鹿な教職員組合のように、「社会がおかしい」とか、「学校で平和や人権の尊さを訴え続ければ、犯罪はなくなる」などと思っていません。それどころか、今の学校教育が依って立つ理念そのものに、「負け組犯罪」を生む根っこがあるとさえ考えています。
次回は、私自身の体験も踏まえながら、解決方法を具体的に論じたいと思います。(後編は●こちらです)
>「社会が悪い」と愚痴る前に行動を
>起こさなければならない
社会党がこういうことを考える人たちの集まり
だったら、日本はもっとまともな国になっていた
でしょう。
「現状批判=インテリ、かっこいい」という
図式が、未だに残っているのがこの国です。
日教組も、いじめだの不登校だの社会の汚点として
取り上げるくせに、それについて何も具体的な
行動を起こさず、「子ども国会」のような
オルグのためのイベントばかりやっています。
そりゃあ軽蔑されますよね(笑)。
大人は責任を持って行動できる人という行動原則
が戦後も守られていたら、もう少しまともな
国になっていたと思うのですが・・・。
ろろ さんのブログは大変勉強になります。
興味を持って読ませてもらっています。
最近本当におかしいと思うことは、言っていることとやっていることが大きく乖離している人たちのことです。
無防備都市を宣言しようという動きがありますが、こんな事件があれば無防備の危険性がクローズアップされますよね。
某組合の連中も本来の教師の仕事をしないで、政治活動ばかり自分たちの生活を守るための組合活動は手を抜いて、国民の共感の得られないことばかり言っている。
言うこととやることが違うから、信用できない。信頼されないのがわからないのかなぁ
>乖離している人たち
漫画やドラマみたいにかっこいいこと言ってるのに、
実行が伴っていない人でしょう?(笑)
子供時代、森田健作のドラマとか見ていた団塊の
世代には、本当にこういう人が多いです。
うちの父など、まさにそういう人間でした。
かっこつけたり威張ったりするには、責任が伴う
ということを分かっていないのです。
光の当たる部分しか見てこなかった人たちが
今の日教組の、いや、官僚組織や大企業の中心に
いるわけです。そりゃあ、おかしくもなりますよ(笑)。
自分が何者であるかという確固たる像がないから、
外国人に屁理屈やごり押しをされるとすぐに
譲歩してしまう。
子どももそうですが、屁理屈だと思ったら屁理屈など
聞く必要はないのです。
それを判断するための基準というのがない。
むしろ、そういうものを持ちたがらない。
中立でいるのが、バランスがいいのが格好いいという
ことなんでしょう。昔私もそういう理想を描いて
いたのでわかります。
今から振り返ると、ずいぶんと偏っていましたが(笑)。
そうですねぇ・・・・私何かも大学デビューの年が東証は3万9千円で終了みたいな感じでバブルにどっぷり浸かった世代ですから、中々その癖が抜けないところもあるのは自覚しております。(笑)
ただ、個人的にはカネへの執着は無くなった感はありますね。転職の合間の一年弱のプータロー生活で悟りを開いたのかもしれませんが、月収15万でもその五倍程度でも私の場合給料日前にすっからかんという事実は変わらないなということと、無ければそれなりの生活も出来るもんだということに気づいた次第です。(汗)
思っております(笑)。
>無ければそれなりの生活も出来るもんだ
>ということに気づいた
ほとんどの人がこう思ってくれれば、ア○ムや
プロ○スなど必要がないのですが・・・。
自己実現→自己破産という転落は嫌ですね。
私は余程、目立つらしく修学旅行の中学生によく一緒に写真に写ってくれと頼まれる事があるのですが、面白い話を聞かせてくれた子がいました。モー娘。などのブロマイドを買う事は「女の子を比較するから」と禁止されているのに女子がジャニーズのブロマイドを買う事は男子も「努力してああなればいい」と認められているそうです。抱腹絶倒ですね?
>結果」なのだから「(もっと)×2」していい
>そうです。そういう恩恵に授かれるのは一部の
>人なのに!
まあ、実際はそういう「反社会的行為」を賛美している人間も、恩恵にあずかれる人間でないことが多いのですが。(笑)
>モー娘。などのブロマイドを買う事は
>「女の子を比較するから」と禁止されているのに
>女子がジャニーズのブロマイドを買う事は男子も
>「努力してああなればいい」と認められている
>そうです。
それホントですか?一体誰が唱道してそういう
事態になっているんでしょうか?
よほどアイドルにコンプレックスのある女教師や
PTA役員がいるんでしょうね。
そういうのを、ニーチェの言葉で「ルサンチマン」と
言います。
努力という言葉を、過度に多用する人間に限って
努力はあまりしていない気もします。