救ったのは家族とスケートだった。
昨年12月初め、浅田は舞さんの前で泣いた。「もう跳べない」と、だだっ子のように大粒の涙を流した。中京大の更衣室。舞さんも選手だ。浅田の肩の重さが痛いほど伝わってきた。
舞さんは「これまで何万回も跳んできて、一日で跳べなくなるなんて、ないよね」と励ました。一緒に中華料理を食べ、買い物に行った。浅田が誘い、赤いひも状のネックレスをおそろいで買った。浅田はこのネックレスを付けて全日本を制し、五輪出場を決めた。
全日本に来られなかったタラソワ・コーチからもメールが届いた。「わたしは真央の力を知っています。真央が真央でいられることを祈っています」。浅田は「すごくうれしかった」とすぐに返信した。
中京大のリンクで、練習にやってくる子供たちと一緒に滑ることもした。浅田は笑顔で氷上を舞った。ジャンプもスピンも新しいことに挑戦することが大好きで、氷の上にいるだけで楽しかった時代があった。浅田の関係者は「あの時間で滑る楽しさを思いだしたのかもしれない」と笑う。
4年前。トリノ五輪は年齢制限で出場がかなわなかった。誕生日が87日規定に足りなかった。最初からわかっていた。「バンクーバーに出る」と誓って練習を積んでいた。母の匡子さん(47)に「何で早く生んでくれなかったの」と冗談は言っても、「トリノに出ていたらなぁ」と想像したことは一度もない。
初めての大舞台はほろ苦さが残った。誰もが魅了される笑顔は弾けなかった。「五輪は五輪」だという。笑顔も金メダルも世界選手権では取り戻せない。「また出たい」−。4年後は23歳。忘れものを取りに必ず戻ってくる。