この本は、数学界のノーベル賞といわれる”フィールズ賞”を受賞された『広中平祐』氏の著書です。
『生きること 学ぶこと』 広中 平祐著
○ はじめに
最近、私は、若い人からよくこんな質問を受けることがある。この間も、あるテレビ番組で、このような質問を受けた。「学校で、いろいろなことを勉強するが、一体その何パーセントが、将来の自分の職業や人生に役立つんでしょうか?」
一言で答えるには、難しい質問である。確かに、実社会で立派に活躍している人でも、中学・高校で学んだことを現時点でテストしたら、少なくとも現実の仕事と関係のない科目では、できのよい中学・高校生以下の成績に終わるのがオチだろう。習ったことのかすかな記憶はあっても、ほとんどのことは忘れていて、解答を出すことは容易ではない。多くの人の体験でいえば、学校生活のそうした記憶は勉強内容よりも、あの先生にこういう風に褒められたとか、叱られたとか、因数分解は忘れたけれども、因数分解を習っている時には苦労したとか、課外活動やスポーツでの愉しさとか、そういったことが一番印象に残っているのである。
では、なぜ人は学ぶのか? 人間の脳は、過去の出来事や過去に得た知識を、きれいさっぱり忘れてしまうようにできている。もっと正確にいえば、人間の脳は記憶したことをほんのわずかしか取り出せないようにできているのだ。それなのに、なぜ人は苦労して学び、知識を得ようとするのか。私はそれに対して、「知恵」を身につけるためだ、と答えることにしている。学ぶという中には知恵という、目に見えないが生きていく上に非常に大切なものが作られていくと思うのである。この知恵が作られる限り、学んだことを忘れることは人間の非とならないのである。例えば、忘れたことをもう一度必要に迫られて取り戻そうとする時、一度も勉強したことのない、全然聞いたことも経験したこともない人と違って、最低心の準備ぐらいはできるし、時間をかければさほど苦労しなくてもそのことを理解できることだってある。知恵には、そういう側面がある。私はそれを「知恵の広さ」と呼んでいる。さらに、その「知恵」には、物事を深く見つめる「深さ」という側面がある。そして、物事の決断力を促す、「強さ」という側面もある。人は、なぜ、ものを学ばなければならないのかという問いに対して、私は、そういった「知恵」を身につけるためだということを解答にしている。
私は、本書で学問の愉しさ、喜びを語ろうとしている。
本来、学問や勉強という言葉には、”受験勉強”という言葉に代表されるように、苦痛を伴う退屈なものというイメージがある。ましてや私の専門は数学という学問である。学問の愉しさなどとは全く縁遠い存在だと見られがちである。それでも私は、学問は愉しいもの、喜びを味わうものだと語りたい。なぜか。それは学ぶこと、考えること、創造することの愉しさ、喜びを味わうことができるからだ。学ぶこと、それは愉しい。前述した「知恵」を身につけるためにも、それは愉しいことである。そして、考えることは、さらに愉しい。人生上、難問題にぶつかった時に深く考えなければならないことは、確かに大変な苦痛を伴う。でも、全般的な意味でいえば、愉しいものだといわざるを得ない。そして、ものを創造すること。私は、常々「創造のある人生こそ最高の人生である」と言っている。「創造」とは何かという問いもまた難しい。だが、この創造することは決して学者や芸術家の専売特許ではない。われわれの日常生活の中で、絶えず積み重ねられなければならないものであると考えている。創造することの愉しさ、喜び ― それは、おそらく自己の中に眠っていた、全く気付かなかった才能、資質を掘り当てる喜び、自分という人間をより深く認識理解する喜びではないか、と思う。
私は、この本の中で、自分の人生を赤裸々に語ったつもりでいる。私はまだ数学者として”現役”で、自分の学問に頭を痛めている段階だ。本来ならば、自分の人生を振り返って語るには、時期尚早だと思っている。でも、私は編集部の求めに応じて語ってしまった。五十年を超える私の人生の中で、数学という学問への関わりはその半分を超えてしまった。だから、私の人生論はすなわち学問論だともいえる。とはいっても、なるべく専門的な部分は避けて、一般的な話を織り込んだつもりでいる。若い読者の人たちに、恥ずかしながら語った私の人生・学問論の一つでも、生きていく上の参考になれば、この本を書いた意義も生まれてこようというものである。
第一章 生きること学ぶこと
○ 創造の発見
人は、自分の人生を歩む中でさまざまな「夢」を抱くものである。生まれてこの方、およそ夢らしきものを人生に抱いたことはない、と首を横に振ってみせる人でも実は、現実に夢多き人生を送っている人と比べて、優るとも劣らないほどの夢を抱いたことがあるに違いないのだ。ただ、それらの夢が時の流れの中に捨てられて、すくい上げられないままに消えていってしまったということに過ぎないのである。
夢には、ささやかな夢もあれば、「大望」という言葉に置き換えられる、胸がはちきれんばかりの大きな夢もある。歳月を経てもなお色あせず、はぐくまれていくこともあれば、見果てぬうちに、年と共にうたたかのように消えてしまうこともある。夢にはまた、すぐにも現実の中で実現できそうなものがあるかと思うと、一方で、いかに時間と労力を費やしたところで結局は夢のままで終わるだろうと思われれる、現実離れした途方もない夢もある。しかし、夢とは、不可思議なものである。実現は不可能と見極めをつけたそういう夢でも、それを胸に抱き続けているだけで、その人が生きる力を与えられ、あるいは、心豊かになることがある。
私も、若い時期にそういう夢を抱いたことがある。今から三十年前といえば大学三年生の時だが、そのころ私は、自分の天職と心に決めていた数学の中で、「代数幾何」という学問分野にひとしお興味を覚え、かなり熱をあげて勉強していた。代数幾何という学問は、およそ百年前に主にイタリアを中心として発生した学問だから、歴史は浅い。だが、その源は古く、フランスの哲学者であり、物理学者、数学者でもあったデカルトにまで遡るのである。すなわちデカルトは、X座標、Y座標といった座標軸を考えだしたが、これによってさまざまな図形は代数の方程式に変換できるようになり、また、その座標系の発展に伴って、今度は逆に、複雑な方程式から図形が作られることになったのである。その代数方程式によって定義された図形「代数的多様体」の構造を解き明かすことを目的として生まれ発展してきたのが、この代数幾何学である。
私はもともと幾何学が好きだったが、当時この代数幾何の勉強を意欲的に行っていた京都大学のセミナーに出ているうちに、幾何にはない、代数にもない面白さを感じたのである。ある時、そのセミナーで、代数幾何学上の未解決のテーマが紹介されたのである。次のような問題であった。例えで、問題の概略を説明しよう。遊園地の乗り物にジェット・コースターと呼ばれるものがある。そのジェット・コースターが、今、うららかな春の光を浴びている光景を目に浮かべて頂きたい。乗った経験がある人はおわかりであろうが、ジェット・コースターの軌道はまことに巧みにできている。軌道は力学的に計算された滑らかな曲線を描いているいるし、だからこそ、車体が急速に降下するたびに乗客は悲鳴ともつかぬ歓声を上げこそすれ、まず身の安全は保障されているのである。ところが、そのジェット・コースターの軌道が地上に落とした影を見ると、そこには極めて煩雑な図形が描き出されていることが見て取れる。物体の影というものは総じて煩雑に見えるものだが、ジェット・コースターの軌道の影も、線と線とがさまざまに交差し合い、ある部分では、尖ったような形になっているに違いない。実際、その軌道の影だけを見ていたら、歓声が上がるたびに思わずヒヤリとさせられるような、それはひどく剣呑な図形なのである。図形の中のこのような線と線とが交差した点、あるいは尖った点を、代数幾何学では、「特異点」と名付けている。この「特異点」は、代数の方程式から作られた図形の多くに生じるのだが、このことは数学の実用的側面から見れば、はなはだ不都合で厄介なのである。 では、この特異点をなくすにはどうしたらよいか。どのような定理を使えば、特異点のある図形を、特異点のない図形に変換できるのか。それが、大学のセミナーで紹介されたテーマであった。「特異点解消」と呼ばれる問題である。
特異点解消の定理とは、少し神秘的な言い方をすると、物体の本質とその影との関係を解き明かしたものだといえる。ジェット・コースターの軌道の例でいえば、特異点のないジェット・コースターの軌道の本質と、特異点のあるジェット・コースターの軌道の影との関係を証明するものでなければならない。そのような定理が見つかれば、全ての影は本質に帰し、特異点は余すところなく解消される筈なのである。そこで、私が当時抱いた夢の話になる。私はまだ数学の技術も十分に修得できていたとはいえなかったし、といって特別の才能を持ち合わせていたわけでもなかったから、この問題を解いてやろうなどという大それた野望は全くなかった。私がいかに時間を費やし、もてる能力の限りを尽くして見たところで、所詮は徒労に終わるだろうと見極めをつけていたのも事実である。だが一方で、私はこの問題にかなり魅せられていた。それは、まだ見たこともない、否、所詮出会うこともない美しい女性に恋をするのと、多分同じような感情であったかと思う。なぜ、魅力を感じたのか。それを語ると、「何と大それたことを ・・・」と、人から思われてしまうかもしれない。それから十年の歳月を経る。結局、私はその夢を実現することができたのである。だが、後に詳述するが、私はその間、特異点解消一筋に仕事をしてきたわけではない。そもそも私に解けるなどとは思ってもみなかった問題だったのだが、ある時点で、自分が学んだこと、仕事をしたことの全てが、忽然として特異点解消に向かって収束していったというのが、いつわらぬ所なのである。結果的にいえば、学生の頃に抱いた夢に、目に見えない形で引きずられながら、私は数学という学問の世界に生きてきたことになるのである。
○ 人生の師
天才も二十歳過ぎればただの人 ― という言葉がある。確かに少年時代、青年時代に天才の誉れ高かった人が成長してから並の人間になった例は、過去にもずいぶんあったようだ。だが、例えば、ドイツの数学者ガウスのように、少年の頃に天賦の才をあらわし、天才のまますくすくと成長し、純粋数学、応用数学そのほかの学問の分野に計り知れない偉大な業績を残した人間も、また少なくないのである。数学という学問の世界に三十年余り生きてきた私も、ガウスのような息の長い天才に幾度か会った。そして、その度に、神様はどうしてこうもいたずらが好きなのだろうとため息をついたりした。才能を平等に万人に与えなかったのは、神のいたずらといっては悪いだろうか。
ところで、そうした天才の生きざまは、ごく平凡な常識的なレベルの人間とは全く無縁であり、何一つ教わるところがないかというと、私はそうは思わない。例えば、ニュートンやアインシュタインの伝記を読む。彼らの才能の偉大さは断わるまでもないが、やはりそこには、凡夫の人生にも糧となる英知がちりばめられている。これを汲み、自分の人生に活かすことは、必ずしも不可能ではないのである。過去五十一年、日常生活の中で出会ったさまざまな無名の人間から、生きる姿勢といったものを、多く学んだように思う。私の”人生の師”は、身近な人間であることが多かったように思う。書物によって偉人の人生に触れることは、若者にとってもちろん大切なことだ。しかし、現実の身近にいる人間、親や友人などにも、かけがえのない”人生の師”がいることも忘れてはならない。
○ 父に学ぶ
成長する前の一人の人間にとって、最も身近で具体的な大人のモデルは親である。親を尊敬していようとしていまいと、その事実を否定することは誰にもできない。子供にとって、最も身近にいるその親には、非常に大ざっぱな分け方だが、二つのタイプがあると思う。一つは、我が子から尊敬される親になりたいために、常に自分の非は見せず、いいところだけを見せようとする親。もう一つのタイプは、あるがままの姿をさらす親である。こうした親は、子どもの前で、自分の短所も長所もかくそうとしないのはもちろん、苦しいときには苦しい顔をし、悩みごとがあれば子供にもそれを打ち明け、くたびれた時はだらしない格好を子供の目の前にさらすことがある。では、どちらの親が子供にとって人生のよき見本であるかというと、少なくとも私は、後者つまり、あるがままの姿を子にみせる親こそ、より多くのことを子供に教えるのではないかと思う。私の父親がそうであった。いま振り返って私は、親から自分の人生を支えてきた、何物にも代えがたい大事なことを、学びとっていたことに気付くのである。私の父広中泰輔は、山口県の東のはずれにある玖珂郡の由宇町というところで、商いをしていた。織物問屋を営み、工場ももっていた。丁稚から、「旦那さん」と呼ばれるくらい程の財をなすまでに、父はそれなりの苦労をなめ尽くしたにちがいない。織物工場では、景気のいい時には五十人からの工員さんがフルタイムで働き、できた製品は台湾や大陸にも輸出されるほどであった。父はまた、三千五百坪程の農地を所有する「不在地主」でもあった。田舎町では「金持ち」の上に「大」がつけられる、そういう家が私の生家であった。だが、終戦を迎えた頃から、我が家は急速に悲運に見舞われたのである。まず、敗戦と共に、父が所有していた満鉄と台湾製糖の大量の株が、反古同然になってしまった。織物工場の経営も原料が入手できなくなったために、たちまち行き詰まってしまった。さらに転落への追い打ちをかけたのは、昭和二十一年から施行された農地改革である。不在地主の父は、三千五百坪の農地を、ただ同然の三千五百円程で否応なく売却させられてしまった。その上に新円切り替えである。父が営々と築き上げてきた財産は、こうして、まさしく泡沫のように消えてしまったのである。誰の人生にも、生存を脅かされるような、このような出来事がいつなんどき起こるかわかったものではない。生存を脅かすのは、この場合のように、単に食べることの困難である時もあれば、きわめて精神的な深い懊悩である時もあるだろう。いずれにせよ、逆境というものが人間に襲いかかるのは、このように不意討ちである場合が多いのである。だが、人間の真価が問われるのは、こうした逆境にある時、言葉をかえていえば、不遇の時代にどう対処したかである。古今東西で度量や器量を備えた人間は、必ずといっていいほどの不遇な時代を持ち、そのマイナスの時期をプラスに転じて、陽の当たる場所に出てくるのである。そのころの父は、まさにその不遇の時代だったのである。しかし、父はたいして慌てなかった。八方ふさがりのどん底に陥っても、父一流のやり方で対処した。行商をやり始めたのである。父は、かつて身につけたこともない粗末な着物を着て、おかずもろくにない手弁当をさげ、毎日朝早く商品の織物を自転車の荷台に載せて、近くの町や村を行商して回ることになった。昨日まで「旦那さん」と呼ばれていた人間が、家々の門口で頭を下げて安物の織物を売り歩くようになったのだから、父を知っている人にはずいぶん奇異な光景に映っただろう。だが、父は平然としていた。以前と全く変わらない、絶えず「この俺を見ろ」といっているような、したたかな生きざまに満ちあふれた父であり続けた。強がりではなく、実際父はしたたかな生きざまをもっていたのである。行商人になろうと、その生きざまに対する自信を父から取り上げることは、誰にもできなかった。いったい父のその自信は何だったのか。それは、独力で稼ぐことほどこの世で尊くて強いものはないという、過去の人生で身につけた生活哲学からくる自信だったのではないかと、私は思う。
まだ、わが家が完全に転落する前のことだが、こんなことがあった。終戦直後、高校生だった私はアルバイト土木工事の仕事を手伝ったことがある。山の木をどんどん伐採したため、大雨が降れば水があふれて、堤防が決壊する。その護岸の工事がたびたびあった。その工事を友達と一緒に手伝った。家計を助けるためではない。家はまだ、売り食いでどうにかもちこたえていた頃のことだから、単に好奇心から働きだしたのである。私は一ヵ月ほど大人に混じって働いた後、給金を受け取った。たいした金額ではなかった。ところが、そのお金を持ち帰った日の父の喜びようは、ひととおりのものではなかった。「これはお前が自分の手で稼いだ初めてのお金だ。こりゃあ素晴らしいことだ」といって、私の給金を仏壇に供えると、私を隣に座らせて、「さあ、拝め」と父はいった。その時の私は、せっかく稼いできたのにわざわざそんなことをしなくても、という気持ちがあって、なぜ父が、そんなに仰々しいことをしなければならないのか合点がいかなかった。だが今思うと、子供が自らの汗を流して、自分の力だけで初めて稼いだということが、父には拝むに値する尊い、記念すべき出来事だったと納得されるのである。「生きる」ということは、自分で稼いで自分で食べていくことだ。誰にも頼らずに、自分一人の力で稼ぎ、食べるためにはなりふりなどかまっていられない。それこそが人間の値打であり強さなのだという人生の姿勢を、一家の生活危機に際して身をもって父は示したのだ。私は、稼ぐことは一見無縁に見える学者として身を立て生きてきたが、父のそのような身の処し方を無意識のうちに学び、自分の人生にも活かしてきたように思う。いずれにせよ、逆境というものが人間に襲いかかるのは、このように不意討ちである場合が多いのである。だが、人間の真価が問われるのは、こうした逆境にある時、言葉をかえていえば、不遇の時代にどう対処したかである。古今東西で度量や器量を備えた人間は、必ずといっていいほどの不遇な時代を持ち、そのマイナスの時期をプラスに転じて、陽の当たる場所に出てくるのである。そのころの父は、まさにその不遇の時代だったのである。しかし、父はたいして慌てなかった。八方ふさがりのどん底に陥っても、父一流のやり方で対処した。行商をやり始めたのである。父は、かつて身につけたこともない粗末な着物を着て、おかずもろくにない手弁当をさげ、毎日朝早く商品の織物を自転車の荷台に載せて、近くの町や村を行商して回ることになった。昨日まで「旦那さん」と呼ばれていた人間が、家々の門口で頭を下げて安物の織物を売り歩くようになったのだから、父を知っている人にはずいぶん奇異な光景に映っただろう。だが、父は平然としていた。以前と全く変わらない、絶えず「この俺を見ろ」といっているような、したたかな生きざまに満ちあふれた父であり続けた。強がりではなく、実際父はしたたかな生きざまをもっていたのである。行商人になろうと、その生きざまに対する自信を父から取り上げることは、誰にもできなかった。いったい父のその自信は何だったのか。それは、独力で稼ぐことほどこの世で尊くて強いものはないという、過去の人生で身につけた生活哲学からくる自信だったのではないかと、私は思う。
まだ、わが家が完全に転落する前のことだが、こんなことがあった。終戦直後、高校生だった私はアルバイト土木工事の仕事を手伝ったことがある。山の木をどんどん伐採したため、大雨が降れば水があふれて、堤防が決壊する。その護岸の工事がたびたびあった。その工事を友達と一緒に手伝った。家計を助けるためではない。家はまだ、売り食いでどうにかもちこたえていた頃のことだから、単に好奇心から働きだしたのである。私は一ヵ月ほど大人に混じって働いた後、給金を受け取った。たいした金額ではなかった。ところが、そのお金を持ち帰った日の父の喜びようは、ひととおりのものではなかった。「これはお前が自分の手で稼いだ初めてのお金だ。こりゃあ素晴らしいことだ」といって、私の給金を仏壇に供えると、私を隣に座らせて、「さあ、拝め」と父はいった。その時の私は、せっかく稼いできたのにわざわざそんなことをしなくても、という気持ちがあって、なぜ父が、そんなに仰々しいことをしなければならないのか合点がいかなかった。だが今思うと、子供が自らの汗を流して、自分の力だけで初めて稼いだということが、父には拝むに値する尊い、記念すべき出来事だったと納得されるのである。「生きる」ということは、自分で稼いで自分で食べていくことだ。誰にも頼らずに、自分一人の力で稼ぎ、食べるためにはなりふりなどかまっていられない。それこそが人間の値打であり強さなのだという人生の姿勢を、一家の生活危機に際して身をもって父は示したのだ。私は、稼ぐことは一見無縁に見える学者として身を立て生きてきたが、父のそのような身の処し方を無意識のうちに学び、自分の人生にも活かしてきたように思う。
こういう風に語ると、当時の私が父をこよなく尊敬していた子供のように受け取られかねないが、必ずしもそうではない。軽蔑こそしなかったが、私を商人にしようとしていた父に反発を覚え、時には面と向かって衝突したこともある。そういう子供だった私ですら、父からこのような精神的遺産を知らぬうちに受け継いでいるのだ。好むと好まざるとにかかわらず、親は子供にとって、いかなる教科書にも書かれていない生の人間の手本であり、その手本から、子供は無意識に人生観を学びとっていくようにできているのである。ならば、最も身近な存在である親のあるがままの姿から、意識的、積極的に学ぶ態度でいる人には、その後の人生を支えていく、より多くのかけがえのないことが学べるはずである。
○ 母の生き方
自分に厳しく他人にやさしい人間は、世の中、そういるものではない。自分に厳しければ他人に対しても厳しくなるのが尋常の人間だろうと思う。私の父は自分に対して厳しかったが、そういう人間の常として、他人にも終始厳しかったのである。こういう父親をもった子供は、ともするとひねくれてしまうものである。現に、そういう実例は、しばしば見かけられることである。しかし、私も兄弟姉妹も、どうにかひねくれずに成長できたのは、子供達に絶対服従を強い、常に君臨していたそういう厳しい父から、私達子供をかばってくれた母がいたからだった。『スポック博士の育児書』という超ベストセラーを書いた米国のスポック博士と対談した時、「子供の成長には絶対的味方になってくれる人が身近にいることが大切である」といわれた。私の母は、博士のいう「絶対的味方」だったのである。こう語ると、私の母がいかにも子供を手塩にかけて育てたように受け取られかねないが、事実は逆だった。つまり、今日的な表現を使えば「自由放任」が母の子育てを貫いた姿勢だった。確固とした教育理念があって母はそういう姿勢をとっていたのではない。必然的に子供を放ったらかしにしなければならない事情があったのである。私の母、広中マツエと父は、互いに再婚同士で結ばれた。双方とも配偶者をなくし、父の亡妻の妹にあたる母が、広中家に嫁いできたのである。その時の母には生まれたばかりの男の子がいたし、広中家にも男の子二人を含む四人の子供がいたから、母は嫁入りすると同時に、五人の子持ちになった。それから夫婦の間にできたこどもは十人、しめて十五人の子供の母親になったわけである。子だくさんの家が珍しくない時代だったが、十五人といのは当時でも、とびきり多い方の部類に属しただろう。こうなると、十五人の子どもを一人ひとり手塩にかけて育てるという教育は、現実として不可能であり、いきおい、母は自由放任にならざるを得なかったのである。しつけもそれほどうるさくはなく、また、子供がやりたいこと、なりたいと思うことに対しても終始「いいよ」と賛成してくれる母親だった。だが、そのような母親にも、子育てに対して、一定の枠を設けているところがあったのである。つまり彼女は、百パーセントの自由放任主義者ではなかったのである。彼女が作っていたその枠とは、いかなることがあろうと最悪の事態だけは避けなければならないということだ。最悪の事態。例えば、わが子が死ぬことは母にとってその最たるものだった。十五人の子供のうち、私の兄の一人はニューギニアで、もう一人は中国で、いずれも二十二、三才の若さで戦死した。しかし、残る十三人の子供は今に至るまで健在である。そのことを、現在七十八歳の母はしきりに自慢するのである。確かに十三人の子供の中には、大ケガをした子もいる。私も八歳の時、戸棚の高いところにある菓子を盗み食いしようとして、ガラス窓をよじ登り、つい足を滑らせてガラスに踏み込んだことがある。そのケガはいまだに傷跡が消えないほどの重傷だったが、母はその時驚きながらも「ああ、死なんでよかった」といった。ケガをしても死ななければいい。それが母の作っていた枠の中で最も大切な枠であり、それを子供十三人がはみ出さずに生きてきたことが、彼女の自慢のタネであった。子供に対して、母はいつもこの式だった。成績はよくなくても、学校に通っていさえすればいい。偉くならなくても、人を傷つけたり家族を苦しめたりさえしなければいい。ともかく最悪の事態さえ避ければいいという育て方だったのだ。私の母のこうした教育が一般論として正しいか間違っているか、私にはわからない。だが、現在、高校と大学に通っている子供を育ててきた私自信を振り返ってみると、私もまた、わが子に対して母と同じ考えに立って接したことに気づかされるのである。否、親としての私だけでなく、一個の学者として生きてきた私にも、最悪の事態さえ避けられればいいという考え方が常に抜けきれなかったように思う。私は自分の母から、そういうことを受け継いだのである。あるいは、無意識のうちに学びとっていたのかもしれない。
このような母に、私はもう一つ学んだことがある。ものを考えることは、考えることそ
のものに意味がある、価値がある、ということだ。子供の頃は誰しもそうだろうが、私も母に、いろいろなことを尋ねた。数えの五歳頃だったと思うが、母と一緒にお風呂に入りながら、「お湯の中では、どうして手が軽くなるの?」と、尋ねてみたことがある。母は、いわゆるインテリとは正反対の人である。父同様、学問とはおよそかかわりのない人生を生きてきた母には、私のそんな質問に答えるだけの知識がなかった。「声はどこから、どんな風にして出るの?」「鼻は、なぜ匂いを嗅げるの?」「目はこんなに小さいのに、どうして大きな家や、広い景色が見えるの?」 そのほか私はいろいろな質問をしてきたが、母はまず答えられたためしはなかった。しかし母は、「わからない」とは言わなかった。「そんなこと、たいしたことじゃないけ、考えんでええ」と、うるさがることもなかった。「さあ、どうしてじゃろうなあ」と母が首をかしげると、また私が質問した。「どうしたらわかるじゃろうか?」 すると母は、「大きくなって勉強したらわかるようになるんよ」といいながらも、一緒に考え込んでくれるのである。ところが、考え込んでも答えは一向に見つからない。すると母はどうするかというと、私を連れて近くの神社の神主さんの所にいくのである。あるいは、懇意にしている医者の家を訪ねるのである。神主も医者も、その頃の田舎町では数少ない知識人だった。そのインテリさんに、この子がこんなことを尋ねているのだが、ひとつ説明してやって下さい、こういって母は頭を下げるのだ。おかげで私は、よくわからないながらも、ともかく答えを得ることができた。このような経験を繰り返すうちに、私は子供心に、ものを考えることは考えること自体に意味がある、ということを知ったのである。母は私に、考えることの喜びを身をもって教えてくれたのだ。学者としてだけではなく、一人の人間としての私にも、このことは何にも代えがたい精神的財産となった。繰り返すが、私の母は普通の母親である。むしろ学識といったものは世の尋常の母親よりも低かったといわなければならないし、また、子供の人生の上に糧となることをあえて教え込むような人でもなかった。一定の枠さえ守ればあとは何をしてもいい、何になってもいいという、自由放任主義の立場をとらざるを得ない人間であった。そのような母親からも、こちらに学ぼうとする気持ちさえあれば、いくらでも大事なことを学びとることができるのだ。
○ 深く考える力
人間は親を選択することはできないが、友を選ぶ自由は認められている。友人を選択する方法は人によって千差万別だろうが、選んだその友人によって自分の人生が大きく変わることがあるものだ。友人という存在は、親ほど身近ではないが、やはり自分の人生にプラスとなるもの、逆にマイナスとなるものを豊かにもっているのである。私は、今もそうだが、常に身近なところに尊敬できる人物を探し求め、その人から何かを学びとろうとしてきた。意識してそういう学び方をするようになったのは、おそらく中学生の頃からではなかったかと思う。これは多分に私の性格によるのかもしれないが、そればかりとはいえない。生まれながら才能に恵まれた、あるいは向学の家庭に育った子供なら話は別だが、そうではない並の頭をもち、並の家庭に育った子供が勉強していくには、その方法しかないと自覚していたからである。いま振り返ってみて、これは私のような人間にふさわしい、最もいい学び方だったと思う。
人と人との出会いには、もちろん運不運がつきまとう。友人との出会いも同様である。この意味で、私は幸運だったといえる。すでに中学校に入ったときから、このような学び方を自覚していた私に、学問の上で、ひいては人生の上で後々まで役だった価値のあることを教えてくれた友人を、幾人かもつことができたからである。当時の中学は四年制だったが(五年で卒業してもよかった)、戦争が終わって間もなく、中学四年が終了した昭和二十三年四月、学制改革があって、四年生はいきなり新制高校の二年に進むことになった。つまり私は、旧制の柳井中学に四年通い、新制の柳井高校に二年通い、そして第一回目の卒業生になったわけである。この中学、高校時代を通して私が親しくしていた友人の一人に、藤本繁という同級生がいた。彼は学校の成績が飛び抜けてよかったわけでもなかったが、学校で特異な存在とみなされていた。寡黙な性格で、ほとんど誰とも口をきかずに、いつも孤立して何か沈思黙考しているような男だった。藤本君はそのために「へんくう」というあだ名をつけられていた。偏屈者というほどの意味である。いずれにせよ、いつも黙りこくっているために、かえって目立っていたのである。そういう彼に、私はいつの頃からか近付いていって、口をきき合うようになった。なぜか関心をもったのである。いま考えてみると、なぜ彼に関心をもったのか、およそ見当がつく。私は今でもそうだが、ひどくあけっぴろげな人間で、誰とでも語り合いそれを楽しむところがある。だが、その半面、一人になってじっと物を考えているのも大好きなのだ。そこには、人と交わっているときの私とは別人のような私が、確かにいるのである。孤独の中で思考することを愛する、もう一人の私が、おそらく藤本君に関心をもち、接近していったのだろうと思う。また彼は彼で、私のそういう半面を感じとっていたから私とつき合えたのに違いない。彼と私は、通学の途中、哲学とは何かとか、芸術は社会に約立つかとかの問答をしたり、一緒に考え込んだりした。私が「ショパンの音楽は、きれいな音の組合せだ」というと、彼はしばらく考えて、「いや、ショパンほど情感の深い音楽を作る作曲家はいない」という。「情感とは何だ」と問うと、彼はまた考え込むといった情景であった。このように、彼と私の会話は、およそ現実離れした命題、いいかえれば哲学的な問題についてのお互いの考え方、意見の交換である場合がほとんどだった。由宇の一つ先の神代という駅から毎朝汽車に乗ってくる彼と私とは、車中で、また駅を降りて学校に向かう途中で、互いにポツリポツリと哲学的な言葉を交わし合った。学校の勉強とはおよそ無縁な、いわば雲上の問題であっても、二人にとっては深刻な、大切な問題だったし、また二人とも、それを深く考え合うことをどこかで楽しんでいるところがあった。余談であるが、近年、哲学者の梅原猛氏と対談する機会があって、こんな会話を交えたことがあった。梅原氏が、フィールズ賞の対象になった私の理論がわからないというので、「特異点解消」を前述したような例えで説明すると、梅原氏は、「いや、実に哲学的な話やね。哲学の話を数学で証明しているみたいだ。存在論やね」と言われた。それに対して私は、「数学というのは、最終的には論理的にやらなきゃいかんから、問題をどんどん制限していって、定式化して、やっと証明できるんですよ。だけど数学にしても出発点は人間が考えるわけだから、その背景には絶えず曖昧模湖としたものがあるから、フィロソフィ(哲学)ですね」と答えたのである。フィロソフィ ― 数学という学問は、まさにその人間の哲学から出発するのである。そういう点で、青春時代に、藤本君と学校の勉強を離れて、哲学的な話を交えることができ、彼のような個性を知り得たことは有意義だったといえる。さて話を戻そう。私は母から、考えることの喜びを学んだ。考えることそのこと自体に価値があることを教えられた。そしてこの藤本君と知り合い、語り合ったことで、物を深く考える力が促進されたと思う。物を深く考える力というが、やみくもに、何でも深く考えるのはあまり勧められたことではないだろう。目に止まるもの、耳に届くこと全てを深く考えていては、第一、仕事がはかどらない。しかし長い人生には、ここ一番、深く考えなければならない時が何度もあるはずだ。例えば、私の父が経験したように生活上の危機が、誰の人生にも絶対に襲ってこないとも限らない。あるいは、自分や肉親の誰かがとんでもない過ちを犯して、死を選びかねない傷心に陥るようなことも、長い人生にはないとは限らないのである。私は、そのようなときこそ人間に深く物を考える力、深い思考力が要求されると思う。立ち直る見通しがまるでつかない、どこから手をつけて解決すればいいのか見当がつかない、そのような大問題を抱え込んだとき、頼りとなるのは自己の思考力であり、それ以外にはないと思うのだ。藤本君との交友から学んだ、物を深く考える力を、私は自分の人生にそのように活かしてきたつもりである。「人間は考える葦である」とパスカルはいった。考えない人間はいないのである。だが、ここ一番という時に、より深く考える力、素養を身につけておくことは、親の手を離れる前に是非ともやっておくべきことだと思う。実は、私達が勉強する目的の一つは、この思考力を培うことにあるのだ。
○ 学ぶことと人間の知恵
人は、なぜ勉強しなければならないのか。一つは思考力を培うために、と私は今言ったが、実は、この問いに対する答えは私にもわからない。わからないなりに勉強してきたというのが本音である。だが、学生諸君からそんな質問を受ける度に、いつも答える言葉がある。私はここで、それに触れておきたい。人間の脳は、過去の出来事だけでなく、過去に得た知識をも、きれいさっぱり忘れてしまうようにできている。物を忘れる能力、これはコンピューターやロボットにはない人間の長所、あるいは短所と言えるだろう。忘却という人間特有のこの能力が、長所となって現れる場合はずいぶんある。例えば、日常生活を営んでいく上で何ら支障をきたさない瑣末なことが記憶から去らなかったり、いやな出来事、腹立たしいことなどが忘れられなかったら、人はまず確実に神経衰弱に陥り、悪くしたらその方面の病院で一生を送らなければならなくなる。してみれば、物を忘れることができるという人間の能力は、この点ではまことに尊い能力だといえるわけである。
では、この能力が短所となって現れる場合は、どういう場合だろうか。例えば、高校で勉強して得た知識を、大学入試に合格すると間もなく忘れてしまう。また、大学で学んだことを、めでたく就職すると忘れたり、あるいは国家試験に向けて汗水流して覚え込んだ知識を、ライセンスを取得するとどこかへやってしまう。このようなことは、一見、人間の忘れる能力が短所となって現れる例といえそうである。そこで問題は、勉強してもどうせ忘れてしまうものをなぜ苦労して勉強しなければならないか、ということになる。私は、学生からこう尋ねられると、「それは知恵を身につけるためではないか」と答えることにしているのだ。つまり、学ぶことの中には知恵という、目には見えないが生きていく上に非常に大切なものが作られていくと思うのである。この知恵が作られる限り、学んだことを忘れることは人間の非とならない。学ぶことは、結果として無駄にはならないのだ。だから大いに学び、大いに忘れ、また学びなさい。と私は答えることにしている。では、いったい「知恵」とは何だろうか。それはきわめて曖昧なもので容易に分析し難いものだが、ただし、人間のどこにそれが作られるかは、はっきりしている。脳である。脳である。してみれば、知恵は人間の脳の仕組みと何らかの関係をもつものではないか、こんな推論ができそうな気がする。人間の脳の特性を明らかにするには、猿などの動物のそれと比べるより、やはり脳をもった機械、コンピューターやロボットと比較するのが、一番手っとり早いと思う。まず私は、物を忘れることはコンピューターやロボットなどにはない人間特有の能力だ、と前に述べた。だが、実はそれは正確な言い方ではないのである。人間の脳には百四十億の細胞があって、出来事や知識を無数に蓄積できるようになっているし、事実、蓄積されているのだ。ただコンピューターは記憶したことを自由自在に百パーセント取り出すことができるのに対して、人間の脳は、記憶したことをほんのわずかしか取り出すことができない、という相違にすぎない。ともあれ、脳に無数の情報を蓄積しているのは厳然とした事実なのである。つまり人間は「忘れる」のではなく、「脳に蓄積し取り出せない状態にする」能力をもつといったほうが正確な表現といえる。私はこれを、コンピュータなどにはない、人間の脳のみが有する「ゆとり」だと思う。私がこの場合に使った「ゆとり」は数学的な意味での「ゆとり」である。すなわち、わずかしかない「いつでもすぐ取り出せる」情報に対して、実は膨大な量の情報が「すぐ取り出せない」形で脳に蓄積されているという、後者の前者に対する比率の大きさを「ゆとり」ということにしている。人間の脳にあるこの「ゆとり」が、実は知恵というものをつくる要素の一つなのだ。ここで一つの例を挙げる。ある文科系の大学生が卒業論文を書く上で、どうしても高校生の頃に習った数学の因数分解を用いなければならない必要が生じたとする。ところが、彼は文科系の学問ばかりしてきたために、いつの間にかすっかり数学の因数分解を忘れてしまっている。どうするか。彼はおそらく図書館に直行して調べるか、理科系の友人に尋ねてみるか、何らかの手段を講じるに違いない。そして、そのようにちょっとした労をとった彼は、すぐに「ああ、なるほど」とうなずくことができるに違いない。なぜかというと、彼の頭の中には高校時代に習った因数分解の基礎的な知識が蓄積され眠っているからだ。それ故、一度も数学を勉強したことのない人ならば理解するのに長い時間と労力を要するところを、彼は短時間でさほど苦労せずに理解できるのである。このように、脳に蓄積され取り出せない状態にされていた知識は、永遠に取り出せないものではなく、ちょっとした手間ときっかけを作れば、容易に取り出すことができるのだ。人間の脳に「ゆとり」があるからこそ、それが可能なのである。知識とは、一つはこのような側面をもったものだと思う。私はこれを「知識の広さ」と呼ぶことにしている。この「知識の広さ」は勉強しては忘れ、また勉強しては忘れているうちに、自然と脳の中に培われていくのである。知恵が作られる場所である人間の脳は、また、コンピューターなどと違って、物事を幅をもって見つめ、考えることができるようにできている。つまり寛容な思考態度をとることが人間にはできるのだ。例えば、コンピューターに映画を見させても、彼は鑑賞することができない。なぜなら、一つ一つのコマがバラバラな画面に見え、そこにある連続した動きがコンピューターには見えないからだ。ところが人間は、一つのコマを見てイメージをはっきり残し、次のコマへ移るまでのきわめて短い間を無視し、前のコマのイメージを持続させて次のコマのイメージと重ねることができる。これは人間の脳があるときは敏感に働き、ある時は鈍感に働き、また刺激に対する反応の余韻を残すという特性をもっているからだが、ともかくも、人間はそのような不連続なものから連続したものを読み取る能力をもっているのだ。人間の脳にあるこの寛容性は、ものを考える上でも発揮される。その一つは連想である。文章、特に詩とか格言のようなものを読む時、その中の言葉から連想される異なった言葉を、思いつくまま列記しておくとする。列記された言葉のいくつかを組み合わせて新しい文章を作ってみる。こうした後で、もう一度、もとの文章を読み直すと、意味の理解が深みと新鮮さをもつものだ。連想は、言葉の意味と感じに幅をもたせてみるという脳の寛容性から生まれる。また、連想の習慣は、いくつかの異なるものの間に共通点を読み取る脳の働きにもつながる。数学の簡単な例でいうと、円と三角形の共通点は、平面を内側と外側の二つに分割するという性質である。コの字には、この性質はない。8の字は、平面を三つに分割する。実際生活でも、議論をまとめる時に、異なった意見の共通点を発見する能力は大変有用である。このように、人がものを考える時は幅をもった考え方をするものであり、またそれでこそ、思考は発展性をもって深まっていくのだ。私は、人生には深くものを考えなければならない時期があり、その深い思考力を培うことも勉強の目的の一つだ、と前に言った。これはいいかえれば、勉強してこそ作られる「知恵の深さ」である。勉強しない人の脳は、人間特有の幅をもった思考のレッスンをしないから深くものを考える力、つまり「知恵の深さ」が身につかないのだ。知恵には、「広さ」があり、「深さ」があり、また「強さ」というものがある。「知恵の強さ」とは、すなわち決断力である。私たちが人生で当面する問題には、クイズやテストのようにあらかじめ答えが用意されているものはない。クイズの問題は解答を見つけるだけの問題だが、人生の問題は、相当の時間をかけなければ問題そのものの真意もつかめないし、到底真の解決にいたらない難問ばかりである。だから、長い年月をかけて、すべてを知らなければ何の行動も起こせないという姿勢だけに固執していては、この世は渡っていけない。医者が、現在医学の水準ではある病気について数パーセントしか解明されていなくても、目の前で苦しんでいる患者に何らかの診断を下さなければならない時があるように、それがいかに未解決の難問であろうと、どこかで決断しなければならないのである。飛躍しなければならないのである。人間の脳は、不連続のものから連続したものを導き出す寛容性をもっている。と私は言った。いいかえれば、実は飛躍であることを飛躍でないととらえられるのが、人間の脳である。だから、人間は飛躍ができる。コンピューターやロボットには、それができない。決断できる力、どこかでエイッと飛躍できる力。知恵のそういう「強さ」も、人生とは直接かかわらないように見える勉強を積み上げていく中で、身についていくものなのだ。
知恵には、以上私が述べたほかにもいくつかの側面があるはずだ。いずれにせよ私は、「人はなぜ学ばなければならないのか」の答えがあるとすれば、「それは知恵を身につけるためだ」と、答えるほかないのである。
○ 「根気」を教えてくれた友
ものを考える、ということに話を戻す。ものを考える態度には、短時間で考える即考型と、長時間思考型があると思う。「考える達人」というのは、おそらく、この二種の思考態度を、考える対象や問題に応じて自在に使い分けられる人のことをいうのだろう。ところが、今の中学校、高等学校の教育環境は、後者の長考型思考法を十分に鍛錬できる環境ではないだろう。そこで訓練されるのは、入学試験の場でいかにして問題を短時間で解けるかという、前者の即考型の思考法が大半であるような気がする。これは不幸で不完全な教育法である。長考型思考の訓練ができていない人は、とにかくものを深く考えることができない。従って、前に述べた、「知恵の深さ」は、いくらそのような即考型の勉強をしたところで身につかないのである。この点で、私の中学、高校時代は、いたって恵まれた時代だったといえる。現在ほど受験制度が厳しくなく、自分の好きな勉強、スポーツ、課外活動に時間を有効に使えたことをとっても、その時代は今からは考えられないほど、ゆとりがあったのだ。といっても、世の中がのんびりしていたのではない。何しろ戦争をはさんだ前後の時代だったので、世は激変を繰り返し、教育環境も混乱していた。ことに戦後は、引き揚げ者の子弟の入学、父兄の転地による入学、また、軍関係の学校の生徒の復員入学などで生徒が急に増え、なんとなく学校は落ち着かない雰囲気に包まれていた。加えて、旧制中学から新制高校への学制改革で、教科、教材が混乱を極めた。こういう混乱した教育を受けたことが、その後の人生にマイナスになった人も、私と同世代の人の中にはいるに違いない。たが、少なくとも私には、ありがたい時代だったと今にして思われるのだ。教育が整然としていないだけに、かえって自由に勉強ができたし、また、一つのことをじっくりと時間をかけて考えるゆとりが与えられたからだ。どの科目もそうだったが、数学もカリキュラムが系統だっていなかった。もともと中学の四年間で教えられるようにカリキュラムが組まれていたのだが、学制改革で三年延長されて教えられることになったのだから、混乱するのは当然だった。担当の先生も何回も替わり、替わる度に同じことを教えられることさえあった。基本的なことを徹底的に繰り返された。このために、私はかえって、一つの数学問題を長い時間かけて考えることができたし、数学にとって何が大事なのか、数学の本質がおぼろげながらわかってきたのである。数学という学問は、「抽象性」「普遍性」「一般性」ということが非常に要求される学問である。また別の視点から見れば、数学は一定のルールさえ守れば自分の世界を自由に構築できる学問である、ということもいえる。集合論の創始者として有名なドイツの数学者カントールは、「数学の本質はその自由性にある」といった。決められたルールさえ守れば、名誉や地位、経済性、政治性といったものに束縛されることのない自由な学問だというのである。数学の本質をついた素晴らしい言葉だと思う。ところで、この高校時代に長時間かけて解いた数学の問題の中で、いまだに忘れられない問題がある。”三角形の二つの底角のそれぞれの二等分線を引き、それぞれの線が対辺に交わる点までの長さが等しいとき、この三角形は二等辺三角形であることを証明せよ。”という幾何の問題である。この問題は三角関数を用いれば容易に解けるが、当時は三角関数を習っていなかったので、難問中の難問だった。だが私は、二週間、ほかの勉強には一切手をつけず、食事の時もトイレの中でも、この問題を解くことばかり考え続けた。そしてついにこの問題を三つか四つのケースに分けて証明することができた。この時のことだが、あまりに数学のことばかり考えていたため、道を歩いていて電信柱に頭をぶっつけ友達から失笑をかった。それくらい熱中したわけであるが、今から考えるとこの体験は私にとって貴重な体験だった。人はどの道を歩むにも、時として爽快感、満足感といったものを味わう必要があるのではないか。常に苦痛だけを友としていては、歩み続けるのが嫌になってしまうのではないか。では、この爽快感、満足感は何から生まれるのかというと、どんな小さなことでもいいから、それに「成功」することから生じるのだ。小さな成功をなし、それによって気持ちのよさを味わい、その体験を無数に積んでいくことによって、初めて人は自分の道を歩み続けていくことができる、私はそう思うのである。ところで、このように一つのことに成功するには、やはり根気というものが必要だ。粘り強く、コツコツと努力していく力がいる。だが、私はもともと、いわゆる努力型ではなかった。学校の成績はそう悪くはなかったのだが、勉強にムラがあった。つまり勉強するときは人一倍やるが、やらない時はまったくやらないという風で、そのためかどうか、小学校の頃はついに一番の成績になったためしがなかった。気分がのれば集中的に仕事をするやり方は、芸術家ならたぶん許されることだろうが、、学者という職業には、よほどの才能がない限り、ふさわしくないやり方なのだ。だから、私がもしそうしたムラのある学び方のまま成長していたら、とても学者としてはやっていけなかっただろうと思う。私に、コツコツと努力することの大切さを教えてくれたのは、やはり中・高時代に身近にいた友人だった。友人の名前は守田孝博といった。彼は軍人の家庭で厳しく育てられ、世の中に対する考え方も大人びていたし、物腰にも常にNとした様子が感じられた。守田君は一般の学科だけでなく、体育も、常にトップを占めていた。当時、優秀な子供は幼年学校に入り、士官学校に進み、将校になる夢を一様に抱いていたのものだが、彼も幼年学校に入り、戦後私の学校に復員入学してきたのである。余談だが、私も幼年学校の入学試験を昭和十九年の時に受けたが、見事に落ちたことがある。彼はそのようにトップの座を誰にも渡さない成績優秀な生徒だったが、決して天才肌というのではなかった。徹底した努力型だったのである。私はそういう彼に近づき、彼と親しくする中で、コツコツと勉強する姿勢を学びとったのだ。私はそのときから今日まで、粘り強く努力する姿勢、根気を意識して自分に植え付けてきたつもりだ。そして現在では、このことにかけては誰にも負けないと自負できるようになった。私は数学を研究する上で、「粘り強さ」を自分の信条としている。私は問題を解く一歩手前にいくまで人より時間がかかるが、最後までやり抜く粘り強さにかけては、人にひけはとらないつもりでいる。人が一時間でやってしまうものを私は二時間かかっても、あるいは一年でやるところを二年かけてやったとしても、要は、最後まで成し遂げることが大切だと、私は信じているのだ。こういう信条が身についてくると、一つの問題を選んだら、最初から人の二倍、三倍の時間をかけようと腹がすわるものである。人間は百四十億もの脳細胞をもちながら、普通はその十パーセントから、せいぜい二十パーセントぐらいしか使用していないそうである。眠っているそのほかの細胞を生かして、よりいい仕事をするには、人の二倍、三倍と時間をかけるしかない。少なくとも私には、その方法しか考えつかないのである。そして、普通の頭脳を持った人間には、それは唯一最上の方法ではないかと信じるのだ。
○ 人生の選択と志
一人の人間が一つの道を選び、生きていこうと決心するまでには、普通、大なり小なり紆余曲折があるはずだ。そのシグザグの道程で、自分の中でどういう力がどのように働き合うものなのか。それはもちろん、個々によって違うだろうが、万人に通じる法則があるような気もするのである。気がするだけで、私には全くその法則が見えないのだが、まだ進路がしっかりと定まらない若者達にそれを示すことができたら、きっとためになるに違いないと常々思っている。あるいはそれを示唆できるかもしれないという願望も含めて、私はここで、どのようにして自分が数学という学問を専攻するようになったか、冗長にならないように心しながら、語ってみたいと思う。私が子供の頃、最初になりたいと思ったのは、浪曲師だった。時期は、小学校の高学年にいる時か、中学校に入りたての頃だったと思う。私は当時の浪曲師の中でも特に広沢虎造という人の浪花節が好きで、一度彼が柳井に口演に来た時、聴きに行ったことがある。虎造の『三十石船』という、森の石松を主人公とした作品などは絶品だったと今でも思う。元来、血生臭いはずの侠客の世界を扱いながら、その血生臭さを少しも表には出さず、温かいユーモアの世界に聴衆を誘っていく虎造のストーリーを構成する才能は、群を抜いていた。そんな具合いに浪曲に熱中していたから、ラジオでそれが放送される時は、ほとんど欠かさずに耳を傾けていた。たまに、浪曲番組があることをすっかり忘れて遊びに行ってしまった時などは帰ってきて本当にくやしがった。大声でくやし泣きして祖母を閉口させたこともある。柳井高校二年の頃から熱中し出したのは、クラシック音楽だった。四、五人で音楽部を作り、私がピアノを担当した。一つのことに熱中しはじめると、歯止めがきかないところが、私の生来の癖であるらしい。ピアノにもかなり凝ってしまった。私は毎朝始発電車に乗って学校へ行き、学校に一台しかないピアノを授業開始まで弾き続け、昼休みも、また放課後も夜七時頃まで残ってピアノを弾くことに熱中した。私がこのように音楽に熱中したきっかけの一つは、高橋豪という友人と知り合ったことにある。高橋君は途中から転校してきた生徒だった。私は彼と仲良くなり、よく彼の家に遊びに行くようになった。彼の家には非常に高価な蓄音機とスピーカーがあって、レコードも豊富にあった。クラシックのレコードが壁いっぱいの戸棚にぎっしりとつめられて並んでいた光景が今でも目に浮かぶが、ともかく、私が高橋家を訪ねる楽しみの一つは、音楽を聴かせてもらうことにあった。私は彼の両親にも気に入られたようで、訪ねっていったとき、たまさか彼が不在でも、お母さんか、お父さんかが、「せっかく来たのだから、音楽でも聴いて行きなさい」と勧めてくれるのが常だった。私は遠慮せずにあがりこんで、三時間も四時間も、クラシックに聴き惚れることができた。こういうことを繰り返すうちに、いつしか私は音楽に魅せられ、ますます熱を入れて入ったのである。高橋君は、藤本、守田の両君と同じくらい、私にとっては親友だった。私は、外国暮しを経験されたお父さんの影響で洗練された国際感覚を身につけていた彼から、他の友人にはないものを学んだと思う。私が後に外国に留学するようになったことも、そういう彼と親しんだ経験が、間接的に影響しているようだ。それはともかく、音楽部に入ってピアノの練習に励むうちに、私は本心から音楽家になりたいと思うようになっていた。だが、私は諦めた。諦めたというより、音楽家にだけは絶対になるまい、と心に誓った。練習の甲斐あって、町の音楽会で、ショパンのノクターンを弾くことになった時のことである。私は一生懸命にピアノを弾いた。まずまずの演奏だったと自分では思った。ところが、私の演奏はさんざんな酷評を浴びた。校内報に載った評は、「あれは音楽というべきものではない。第一、奏者はピアノのペダルを全く使わなかったではないか」と書かれていた。信じられない話と受け取られそうだが、実はピアノにペダルがあることも、それの使い方も私は知らなかったのである。しかし、私は非常にくやしかった。音楽家になんかなるものか、と居直った。数学にひかれていったのは、その頃からである。数学は、もともと私の得意な科目の一つだった。好きでもあった。性格が単純で、抽象的なことを好む私に、この学問が向いていたからかもしれないが、とにかく数学にかけては幾度も私は気をよくした経験があった。先ほど語った「成功経験」などもそうである。中学に入って間もない頃だったが、当時中学三年生の姉が数学の宿題を前にして頭を抱えていたことがある。因数分解の問題だった。当時の私は「因数分解」という用語さえ知らなかったが、とにかく先生に教えられたようにやれば解けないはずがないと思い、姉のノートを見せてもらった。そして、それにかいてある通りに解いたところ、結局答えが自然に出せたのである。姉も、兄たちも「すごい!」と口々に私を褒めたてた。褒められれば気分はいい。そういう経験が積み重なって、数学は私が最も好きな科目になっていた。だが、数学者になろうなどという気持ちは、更々なかった。私は音楽家になりたかったのである。しかし、その音楽家になる志を捨てた頃から、音楽に変わって私が熱中し出したのは、数学だった。その時を振り返る時、私は、ある人間が私に与えいていた影響の強さを思わないわけにはいかない。その人は、私の叔父の南本厳であった。叔父は、当時他の誰も小学校しか出ていない私の家系にあって、ただ一人、大学に進んだ人だった。叔父が入ったのは現在の東京工業大学である。彼は理数系の科目を得意とし、中でも物理や数学をこよなく愛していた。私は小学校に入る前から、大学生だったその叔父に誘われて、よく散歩したことがある。私の母の実家は由宇川が海に注ぐ有家という所にあって、松原が近かった。叔父は夏休みなどで帰郷したときに、私を連れてその松原まで行き、陽光にきらめく瀬戸の海を眺めながら話をして聞かせてくれた。話は、世界的な物理学者や数学者のさまざまなエピソードが大半を占めていた。そういう話をしながら、叔父は物理や数学、特に数学という学問の素晴らしさ、美しさを幾度も熱っぽい口調で語って聞かせるのである。幼い私には、叔父の話の大部分が理解できなかったが、耳を傾けながら、何故か不思議な感動を覚えた。一人の人間をこんなにも夢中にさせるものが、この世にある。私は、そのことに心をうたれたのである。だが、叔父と私が顔を合わせたのは、せいぜい五度くらいだった。大学院に進み理数系の学問で身を立てようと意欲を燃やしていた叔父だったが、一人息子であったがために大学卒業後は否応なく就職しなければならなかった。そうして四十二歳で交通事故のために世を去ったのだ。叔父は見果てぬ夢を、親類の中で少し成績がよかった私に、託そうとしたのかも知れない。それは、もはや怨念のようなものだったかもしれない。その怨念が子供だった私に、いつしか乗り移っていた。そして、音楽家になることを諦めた私を、次第にその怨念が支配するようになった。どの道もそうだろうが、数学もまた、師事した先生によって、学ぶ者の意欲が左右される。私がこの時期に、谷川先生という数学の先生についたことは、非常に幸運だった。
私がこの時期に、谷川先生という数学の先生についたことは、非常に幸運だった。「タンジェント」というあだ名がつけられていた谷川先生の数学の授業は、まことに風変わりであった。谷川先生の教え方は、一言でいえば、大変に意地悪だった。谷川先生は独学で中学校教師の資格をとった人で、数学教育に独自の見解をもっていた。それは問題の解き方を記憶させるのではなく、問題を解いていく過程の発想を身につけさせるやり方だった。だから、谷川先生は解答を出したためしがほとんどなかった。といって、解き方を懇切に教えるというのでもなかった。途中まで教えて、「これがアイデアだ。あとは自分で考えろ」と、チョークを置くのが常だった。テストも、多くは零点、平均点は三十点前後というのが普通だった。問題も難しかったが、何よりも問題を解く発想を重んじた採点方針があったので、そういう結果にならざるを得なかったのである。
『△ABCと同一平面上に点Pがある。Pを通る直線を引き、AB、ACとの交点をD、Eとするとき、BD=CEとなるようにせよ。』
この幾何の問題も高校時代に谷川先生から出題された問題である。当時、この問題が解けたのは私のクラスでは、私一人だけだったらしい。こういう問題はおそらく現在の高校では出題されないであろう。当時の数学のカリキュラムにあった問題かどうか今になってはわからないが、多分、谷川先生の独自の出題ではないかと思う。それくらい、谷川先生はユニークな数学教師であった。だが私は、ある時、そんな先生から満点をもらったことがあった。そのとき私が出した答えは明らかに間違っていたのだが、問題を解いていく過程の鍵となる発想をきちっとおさえていたので、異例の百点を先生は私につけてくれたのである。先生自身も、出した解答が間違っていることがよくあった。例えば、物の体積がマイナスで出たこともある。しかし、そういう時も先生は「本筋は正しいのだから、これでいいのだ」と平然としていた。私のその時の解答も間違っていたが、先生のいう「本筋」が正しかったので、百点満点の恩恵に浴したわけだった。この百点をもらってから、俄然私は先生が好きになり、数学に熱中するようになった。前に書いた、一つの問題を二週間かけて解くという意欲がもてたのも、先生のそうした教え方に心からひかれていたからだ。大部分の生徒には、谷川先生の数学教育は好感をもたれなかったようだが、この先生から発想の大切さを教えられたことは後の私に大いにプラスとなった。アイデア、つまり発想こそは、数学者が最も大切にしなければならないことである。発想さえ確かであれば、後は時間と労力の問題という面が、数学という学問にはあるのだ。私は、その発想の大切さを、タンジェント先生から徹底的にたたき込まれたのである。
○ 数学者への道
こうして数学に熱中するうちに私は卒業を迎え、ちょうど朝鮮戦争が勃発した昭和二十五年四月、京都大学理学部に入学した。試験を受けた大学はここだけで、もしそれに落ちたら生涯大学に入ってはならない、と父から言い渡されていたが、なぜか落ちる不安は感じられなかった。京都大学を選んだのは、京都という町がなんとなく好きだったこと、それから姉が京都の織物商に嫁いでいたので下宿させてもらえたこともあったが、何よりも、その前の年の十二月十日、ノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹博士に憧憬を抱いたからである。物理学をやろうと思って大学に入ったのも、当時京都大学にいた博士に憧れたからだった。
この湯川先生の日本人初のノーベル賞は、敗戦にうちひしがれていた多くの日本人を勇気づけたし、私自身にも特別の感慨をもたせるものであった。そして、実際に京都大学に入学すると、私は物理学のセミナーと、数学のセミナーの二つを受けた。当時、物理学のセミナーでは、アインシュタインの理論を学ぶことになっていた。バーグマンが書いた『相対性理論』という本の翻訳をテキストにしてアインシュタインの理論に触れようというのだったが、私はそれに興味を覚えて学ぶうちに、どうしても数学にひかれていったのだ。
この相対性理論は、物理学の理論の中でも、最も数学的な理論である。また、この理論を立てたアインシュタインその人が、きわめて数学的な物理学者であった。アインシュタインは少年時代、数学が得意で叔父ヤコブの手ほどきで代数や幾何学をものにしたらしい。特に後年になるとその傾向が顕著になり、例えば、一九二九年、重力場と電磁場との統一を試みた「統一場理論」などは、あまりにも数学的、抽象的で、物理学的実験のスケールからはみ出したような理論であったから、物理学者の間ではほとんど相手にされなかったぐらいである。アインシュタインという学者は、非常に単純な、数学的な根本原理からすべてが演繹されるのではないかという夢を抱き続けた数学的ロマンを捨てきれなかった人間ではなかったかと思う。芸術家肌の学者、美意識にこだわった人ともいえる。私は、アインシュタインのそうした数学的な面に魅せられて、物理学者になりたいという気持ちをまだ抱きながらも、数学に傾いていった。数学という学問があらゆる科学の基本であることも魅力であった。
そして、それに拍車がかけられたのは、一方で受けていた数学のセミナーで学んでいたことに、かなり興味を覚えたからである。そのセミナーでやっていたのはポントリャーギンが書いた『連続群論』に関する書物だった。世の中の自然できれいな形は、いくつかのシンメトリー(対称性)をもっている。人間の顔が左右対称であるというのは、写真を裏表にとっても、違いがわからないということである。長方形は、上下と左右のシンメトリーがある。円になると、中心を通るあらゆる方向にシンメトリーをもっている。いいかえると、シンメトリーが連続的に存在する。シンメトリーは群を作る。それが連続的なとき、連続群という。連続群の理論は、トポロジー(位相幾何)、解析(微分、積分など)、代数などさまざまな数学の理論に関係して、大変面白いのだ。
私は、こうして物理と数学の両方を学ぶうちに、数学がますます面白くなり、ついに自分の適性は数学に向いているとまで確信するようになった。二年間の教養過程を終え、専攻を決める段階になり、私は数学を選んだ。つまり、本気で数学者への道を歩む第一歩を踏み出したのはこの時、大学三年の春ということになる。
以上、私がどういう経緯をたどって数学を専攻することになったかを、おおよそ述べてみた。私はこのように、数学という学問を知ったときから数学者になろうと思っていたのではない。数学が好きで、自分に向いていることをおぼろげに自覚しながらも、数学で身を立てようと決意するまで幾度も試行錯誤を繰り返したのだ。数学者の家庭に生まれ、数学者の父が数学者にしようとして幼少の頃から特訓した子供や、数学の才能豊かに生まれついた子供ならいざ知らず、現在数学者として生きている人の多くは、みな大なり小なりこうした試行錯誤を重ねたあげく、この道に入ってきたのではないか。
否、一人の人間が生涯の道を選ぶまでには、誰しもこのような試行錯誤の繰り返しを避けることはできないのではないかと私は思うのだ。常識的な人間の人生は、直感的ではない。ジグザグしているのが普通である。だが、その過程で繰り返した試行錯誤は、絶対に無駄ではないのだ。私が中学時代に音楽に熱中したことも、音楽とはまるで無縁に見える数学の研究をする上で、生かされていると思う。それについては後で述べようと思うが、人間、学んだこと、あるいは学ぼうとして努力したことは、必ず後に役立つものなのだ。
仏教に「因縁」という言葉がある。因というのは、”おおもと”の意で、内的なものである。この内的な因に対して外的なものが縁である。内的条件(因)と外的条件(縁)が結びあって一切のものが生じ、またこの結合が解消されることによって一切のものが滅するというのが、仏教の説く「因縁」である。一人の人間の一生は、あるいはこの「因縁」に支配され続けるものかも知れない。親から受け継いだもの、身近な友人から学んだもの、また幾度か試行錯誤することによって得た体験的知識などが、目に見えないかたまりとなって自分の中に蓄積され、「因」をつくる。そして、その「因」が「縁」を得て、その人の志しとなり、行動となり、願望となり、道となっていく。
私は自分のこれまでを振り返って、そんな気がしてならないのだ。生きていることは、絶えず何かを学んでいることである。そして、学んだそのことが、個々の人間の生きざまをつくっていくのだとしみじみ思う。