電話の歴史

〜電話の発明にまつわるお話〜

2000/03 作成
2005/01 改訂
2006/04 改訂

 
 
 電話の発明者は一般にグラハム・ベルと言われています。しかし事実はかならずしもそう単純ではなさそうです。
初めてこの事を知ったのは、「栄光なき天才たち」というマンガでした。

 そこでは孤高の天才として もう一人の発明者エリシャ・グレイが紹介されていたのです。ですが、最近になって調べてみると、かなり脚色や誤謬があり、実際にはどろどろした人間の争いが顔を出していたのです。 日本のサイトでは十分な情報が得られなかったので、いくつかの書籍や米サイトで調べた結果をここに書いておきます。誰が真の発明者か?という結論は皆さんにお任せしましょう。

電話発明にかかわった三大技術者

 電話の発明は人類のコミュニケーションに関する大きな進歩と言われますが、実は声を遠くに届けるという目的を追い求めた末に発明されたものではありませんでした。どちらかといえば、その当時、大きなビジネスチャンスであった新型電信機の開発競争の最中に産み落とされた副産物でした。

 よくありがちなのですが、発明された当初、電話という商品価値を正しく理解できる人はほとんどいませんでした。発明にかかわった人々ですらその重要性を正しく認識していたとはいえないでしょう。

しかし、この頼りく何に使ったら良いか分からない装置は、その後の電気通信ビジネスを大きく盛り上げる原動力になり、人々の生活まで一変させる力を秘めていたのです。

その発明に深く関わった人間が3人います。

一人は、現代でも電話発明者として名を知られるグラハム(グレアム)・ベル。もう一人は誰もが知っている発明王、エジソン(エディソン)。そして最後の一人がほとんど名前を知られることが無いエリシャ(イライシャ)・グレイです。


グラハム・ベル
(Alexander Graham Bell:1847-1922)
エリシャ・グレイ
(Elisha Gray:1835-1901)
トーマス・エジソン
(Thomas Alva Edison:1847-1931)
 電話の発明で知られる音声生理学者。
スコットランド、エディンバラ出身。
1870年カナダに渡り、72年にボストン大学教授。 その後、AT&Tの前身、ベル電話会社を設立する。
彼の父は、読唇術の発明者で、本人も聾唖教育に力を尽くした人物でもある。
 発明家。米国オハイオ州出身。電気通信技術を中心に、多重電信機、電話機、ファクシミリを発明。
 後年、オーバリン大学教授。彼が中心となって設立したグレイ・アンド・バートン社はウェスタン・エレクトリック社(現ルーセント社)やベル研究所の母体となった。
 発明王。米国オハイオ州出身。
新聞売りから始まり、電信士の職に就き、フリーの電気通信技術の発明家として名を馳せた。その後、電球、映画、蓄音機を発明したことで有名であるが、実際、蓄音機を除いて彼自身の手による発明は少ない。
 ただ、実用化に関しては他を寄せ付けなかった。

 3人は、電信技術の究極の改良として、または、聴覚という医学的な観点からのアプローチで電話の発明に迫っている

 ベルは父親が視話法の発明者であり、元々、聴覚障碍者の教育に力を注いでいたが、音声学方面からのアプローチから「多重電信」開発へ傾倒していきその中で電話を思いつく。電気はブリッジ回路や電信機で有名なホイートストン博士に学んでいるものの、3人の中では一番の素人でありった。

 エジソンはほぼ独学で電信士となり、電気技術を身に付けていった。電話発明の頃には、既に通信方面での多彩な活躍を見せていた時期である。彼の発明人生は電信技術の改良から始まっている。電話発明の2年前には1本の通信線で4通信が可能な多重電信装置を発明していた。彼自身も聴覚障碍者であり、ベルとの因縁が深い。事実、生涯にわたってベルと張り合うことになる。

 グレイは技術者であり、電信技術の開発競争の先駆者である。周波数分割多重方式の多重通信機の発明をはじめ、FAXの原型となる装置(Teleautograph)を発明するなど、多彩な活躍を見せている。
 彼は電話発明の2年前、シンセサイザーに似た装置で音を2400マイルにわたって伝送することに成功している。

電話の始まり

 時は19世紀後半、モールス符号による電信網が急速な発展時期にあった時代。
電話の発明は上の3人が中心となって競われたと言っても過言ではない。

 既に1860年、ドイツの物理学者ライス(Johan Philipp Reis 1834-1874) は実用的ではないものの「電話」に類似した装置を作っていた。
(その装置はフランスのブルサール(Charels Bourseul 1829-1912)が1854年に理論的な提案をしたものである。)

 この装置は木を耳の形に削り、そこに豚のソーセージの薄い膜をつけて音声を電流の断続に変えるもので、受話器は縫い針にコイルを巻いたものをヴァイオリンの上に取り付けただけの簡単なものだったようだ。

 構造的には音声振動で電気スイッチを開閉するもので、音声周波数は伝送できても、音声の強弱まで伝送できなかった。

 したがって、音声はあまり明瞭ではなく実験的な物にとどまったものの、彼がこれを「テレフォン」と呼んだことは興味深い。

 ドイツでは、これらの先駆的な業績から、ライスこそが電話の発明者であるとされる根拠となっている。



ライスと電話機
 


電話特許の同日出願!


 事態が急展開を見せるのは、1876年2月14日、アメリカのベルとグレイが、同日に特許申請した日からである。ベルは午前11時頃、グレイは午後1時頃の出願と言われ僅か2、3時間の差であったのは有名な話である。

だが、双方とも出願の時点では、まだ電話という装置はこの世に存在していなかった。

 しかも、ベル側の出願に至っては、本人が意図して出願したものですらなかった。 そしてその「同日出願」にも偶然とは言い切れない要素があったのである。

 出願に踏み切ったのは、ベルの後援者で弁護士のG.G.ハバード(ヒューバードともいう)であった。グレイがワシントンに向かったのを察知して、ベルに無断で独自に動いたのである。
(・・・とは言っても全くベルが関与していない訳わけではなく、ベル自身が書いた特許明細書である。)

 ベルとグレイは独立して電話を発明したとも言われるが、実際にはお互いのことを相当意識していたことは事実であったようだ。


 グレイにとって不利だったのは、出願が遅れたことではなく、「予告記載」(Caveat)だったことも一因だったようだ。
予告記載とは正式な特許出願ではなく、発明ができるまで自分のアイディアに優先権を認めてもらう制度である。

一時は優先権争いになりかけたものの、特許は驚異的な速さで処理され3月7日、許可された(米国特許174,465号)。

 その後、出願は受理されたものの、実際に動くものを「発明」できなければ意味はない。これまでの実験で、音声が伝送できそうな感触を得ていたベルであったが、人工音は送れても、人の音声まではっきりと伝送できるようにはなっていなかった。

(備考[調査中]:ベルの特許申請書は「電信機の改良(IMPROVEMENT IN TELEGRAPHY)」であり、音声を伝える電話の特許そのものではなくて、周波数分割方式の多重電信機をその主要な目的とした特許申請だった。現代風にいうと方形波によるディジタル伝送を改良した、正弦波によるアナログ伝送(ベルの記載では『波状電流』)方式全体を包括する基本特許である。一方グレイの予告記載申請は「音声信号」の伝送を明確に述べた申請書であった。ただ、グレイ側は別の「本来の特許」の情報漏洩を防ぐため、後援者のホワイト氏の助言もあり、優先権を主張せず取り下げたようである。

 様々な実験を繰り返した結果、3月10日になって、たまたま動くものができているのを知った。
皮肉なことに、ベルの考えていた送話器はまともに動かなかった。

 グレイが考案した液体抵抗型送話器を実験していた際のこと、うっかりズボンに液体(希硫酸)をこぼしてしまった。
「ワトソン君、用事がある、ちょっと来たまえ(Mr.Watson , come here , I want you!)」と悲鳴を上げたのが 助手のワトソン技師に通じたのである。

 このことから、ベルはグレイのアイディアを盗んだのではないかと疑われ、裁判にまでなっているのだが、偶然なのか盗作なのかは
今もってはっきりとは分かってはいない。

下にある図はベルとグレイ、それぞれが描いたスケッチである。ここまで似ていることに驚かされる歴史的スケッチも珍しい。



ベルの実験ノートのスケッチ(1876年3月9日)
この次の日に音声を伝送することに成功する。



グレイのスケッチ(1876年2月11日)
電話の予告記載の3日前のスケッチ。
彼はこのアイディアを当時流行っていた糸電話(恋人たちの電信-Lovers' Telegraphと呼ばれた)より着想したという。


 その1年後-1877年4月27日、エジソンはベルの電話機を改良し炭素型マイクを特許申請(研究所員に発明させた)。
この型のマイクは、つい最近まで使われていた黒電話に使用されていたものの原形で、ベルのマイクの3倍以上の感度があったそうだ。これ以降、この型のマイク(カーボン・マイク)が100年以上にわたって使われていることを考慮すると、その性能がいかに良いものであったかが想像できる。

 一方、ベルのマイクは磁石と鉄板を組み合せたもので、実用的ではなかった。 この型のマイク(ダイナミック・マイク)が使われるようになったのは電子回路による増幅技術が発達した後からである。

グレイはそれら二つと決定的に異なる物で、化学的な現象を利用したものであった。グレイのマイクは硫酸に針を立てたもので、針は振動板につながっており、音声の振動が針に伝わることで、針が希硫酸を出入りし、結果として電気抵抗が変化するという現象を利用したものある。

三者ともハード的には全く異なる発明品を利用した「電話」だったのである。



ベルの幸運

 さて、ベルは1876年6月フィラデルフィアで開かれた建国100周年を記念する万国博覧会で電話機を出展する。本人はあまり乗り気ではなかったようだが、後の妻となるメーベル(ハバードの娘)が騙して無理に連れてきたというから人生よく分からない。

 当初は玩具会場に展示されるという今からでは信じられない扱いを受けていたが、ここで幸運が起こる
ブラジル国王ドン・ペドロ2世が訪れていることを知ったベルが、国王を呼ぶことに成功したのである。


 先にペドロ2世はベルの父が行っていた聾唖教育に理解を示し、学校を訪問、 その説明をベルが担当したことがあったことが幸いした。
 そして、国王はいたくこの電話機を気に入った。 また、大物理学者ケルヴィン卿(Sir W.Thomson)の目にも止まり、賞賛されることとなった。
結果、博覧会の金賞は内定していたエジソンの多重電信機でなく、ベルの電話機に与えられることになったのである。

(*)エジソンはこれ以降、ベルを相当にライバル視することになり、電話開発に本腰を入れ始めるきっかけとなった。


 それによって名声を手にし、また実用に耐える電話機の開発が進んだことで、ベルは知名度を大きく広げ、講演会を各地で開催することとなった。
 だが、この頃の電話機は技術的な興味の対象という部分よりも、遠く離れた人の声が聞こえるという神秘性が人を惹きつけていたようである。どちらかというと見世物に近いものであったという。

 同じ頃、グレイも電話に関する講演会を多数開催していた記録があり、ベルに電話機のレンタルを申し込んでいる。

 だが、電話はあまりお金にならない・・・。実際、G.ハバードやT.サンダースらベルの支援者は経済的に困窮していた。事業化の目処もたたなかった。こうした状況からなのか、ハバードは当時最大の電信会社、ウェスタン・ユニオン社(WU)に電話特許を10万ドルで売り込んでいる。

 しかしエジソンの炭素マイクの特許と電信に絶対の自信を持ち、またハバード弁護士と反目していたオートン社長らにとって、それはあまり意味のあるものではなかったらしく、申し出を拒否されている。
(以前に開発した多重電信機も、ハバードとの係争があったおかげで同じ目にあっている。)

 だが、ベル達はあきらめずに自らの手でベル電話会社を設立。
ベル電話会社・・・現在のAT&T・・・の始まりである。
その技術責任者にはかつての助手、T.A.ワトソンが就くことになった。
ワトソンは地味な助手(脇役)というイメージがあるのだが、結構派手に活躍しており給与も相当な額に上っている。


トーマス・ワトソン
(Thomas A. Watson 1854-1934)

ベルの助手として有名。
会社創立時には10%の株式を持っており、ベル社の技術責任者を務める。


 事業化が成功するにつれて、WU社も慌てたらしく、グレイやエジソンの特許を買い取っている。
さらにエジソンを顧問としてつけ、炭素式マイクを武器に1877年12月から電話事業に乗り出した。(アメリカン・スピーキング電話会社)。これら事業化によって1879年には各地に電話会社が乱立し、148社に上っているのは驚くべき数字であろう

事業化において問題となったのはマイクの感度不足で、炭素式マイクは既にエジソンが特許を取得しているため
に使えなかった。ところがまたまたベルは幸運に恵まれる
ドイツから来たばかりのエミール・ベルリーナ(Emile Berliner)という技術者が入社を希望してきたのだが、 彼が特許を取っていたマイクがエジソンの炭素式と似通っており、エジソンの特許より2週間ほど早かったのである。



特許紛争へ突入


 そこで1878年9月12日、ベル側(ハバード)は特許訴訟を起こし、炭素式マイクに関するエジソンの特許は無効であると主張した。 そこにグレイも加わって、泥沼の裁判が始まるのである。

この裁判は歴史上、ダウド事件(裁判)と呼ばれている。

 WU社の子会社であるゴールド&ストック社は、エジソンとグレイの特許によるものとされる電話機を製造していた。この会社の責任者ピータ・ダウド(Peter A. Dowd)に対して、販売差し止めを提訴したのである。
 実質的な被告はWU社自身であった。

ベルはこの頃、事業から手を引き新婚旅行中であったのに、裁判のためにワトソンに説得されて呼び戻されている。

 この手の裁判で厄介なのが、アメリカの先発明主義である。先に特許出願したからと言って、必ずしもその人間が特許を取得できるわけは無いということだった。これに対して世界的には先願主義が普通である。

 裁判は熾烈を極めたが、最後はあっけなく終止符を打つことになる。 発端はWU社が裁判に嫌気が差したことだった。
原因には、強硬派のオートン社長が急逝したことや、会社乗っ取りを図られていたことが影響したと言われている。

 1879年5月、政治的な妥協の結果、WU社は自社が所有するグレイとエジソンの特許をベル社に譲渡すること。
WU社が電話事業から手を引く代わりに、ベル社は電信事業に進出しないこと。
そして、ベル社の電話事業利益の20%をWU社に17年間支払うこと で決着がついた。(和解成立は11月)

 これによってベルは法的に電話の発明者としての地位を確立したのである。

 さらにその優秀な電話設備(エジソンが一生懸命作ったらしい・・・)はベル電話会社の電話網の構築に大きく貢献し、
それを背景として、次々と電話会社を吸収して行くのである。

その間、ベルの電話特許は600件の訴訟にさらされていたという。何とも壮絶な争いである。。。



ハバード弁護士
(Gardiner G Hubbard )


オートン社長
(William Orton 1826-1878)

 ベル最大の支援者にして義父。ベルの多重電信機開発を援助し、電話事業の推進役だった。
 娘のメイビルは耳に障害があり、ベルの教育を受けることがきっかけで知り合った。ベルは発明の翌年にメイビルと結婚している

 彼はナショナル ジオグラフィックの創刊者でも知られる。

 当時、電信業界最大の企業、ウェスタン・ユニオン社長。 グレイとエジソンの最大の支援者。
 電信料金の値下げ運動を推進するハバード弁護士とは対立関係にあった。

(参考:http://www.famousamericans.net/williamorton/)


その後・・・


 勝手に特許を譲渡されたことに激怒したエジソンは、新たにチョーク型マイクというのを作ってエジソン電話会社を興し、電話事業に参入している。
 だがこの会社も性能の悪さが著しく不評の上に、詐欺まがいのことをしてまで性能を隠していた。
挙げ句の果てにはベル電話会社に吸収されてしまった。

 電信の王者であったWU社も赤字が続き、似たような運命を辿っている。

 1877年にできた世界初の電話会社、任意組合ベル電話会社は79年ナショナル・ベル電話会社、 80年アメリカン・ベル会社、そしてついには1900年にAT&Tと名前を変える。 天才的経営者T.N.ヴェイルの事業展開により、この独占はますます強固となり、1984年に分割されるまで独占は続いていた。 最古そして世界最大の通信事業者として、なおも電話界に君臨しているのである。

 だが、その華々しい発展の中心にベルの居場所はなかった。その上、本人もそれは望んでいなかった。
元来、学者気質のベルには企業を運営する能力は持ち合わせていなかった。それは本人も認めるほどである。

 また、事業が成功して会社組織が大きくなるのとは反対に、創業者たちの存在意義は少なくなり、ベル自身も早々と事業から身を引いている。

 一方のグレイは発明を継続。1890年頃にFAXの原型となるテレオートグラフを発明したことで一財をなしたという。
生涯で70件ほどの特許を取得し、ベル夫妻よりも多くの利益をあげたが、ほとんどを開発費につぎこんでしまったらしい。
しかしながら、1893年の国際電気技術者会議の議長もつとめるなど、ベルほどではないが活躍は多岐にわたっている。
彼は、1901年に水中通信実験のさなか、ボストンで急死している。



1874年、グレイの実験デモ風景(バイオリン受信機)


バイオリンと指がスピーカーの役割を果たしている(らしい)。
彼は、甥が亜鉛張りの風呂桶で誘導コイルを使って遊んでいるところから、
振動電流が楽音を発生させることを偶然発見し、WE社の研究開発部長(superintendancy)の
職を辞して、フリーの発明家として多重電信開発をすることを決意した




以下余談
●ベルの親父は聾唖教育の功労者で、あのヘレン・ケラーに教育を施したサリバン女史も父メルビルの教え子である
ヘレン・ケラーをサリバンに紹介するきっかけを作ったのもベル本人であった。その後二人は親交を結んでいる。
また、ベルはその外にも電解コンデンサーや光通信機も発明しており、意外にもその興味の対象がひろいのに驚かされる。
音響や通信、電気の単位でdB(デシベル)が用いられるが、これはデシ(10分の1を表わす)とベルの名前を冠したもの。

●ベルの電話機が初めて海外に持ち出された例は日本らしい、ベルが電話の実験に成功した直後に
日本人が訪れ、電話の性能を確かめたのだという。(その日本人は確か有名な人物である)

 ※調べたところ、日露戦争当時、講和に尽力した金子堅太郎と初代音楽学校長(現:東京芸術大学)の伊沢修二でした。当時恵まれなかったベルに資金援助を行うなどして、日露戦当時の日本の印象をよくしたようです。(参考1)(参考2

ベルはベルで、日本語でも通じるのだから世界で通用すると思っていたようだ。
世界で2番目に通じたのは日本語・・・嬉しいような嬉しくないような話ではある。

ちなみに、日本には翌77年に輸出されて、工部省と宮内省との間で使われているのには驚かされる。
当時はとにかく技術の輸入スピードは速く、無線電信や真空管も同様であり、その甲斐あって戦争に勝利するのである。

●エリシャ・グレイの設立したウェスタン・エレクトリック・カンパニー(WEC)はその後、AT&Tの子会社となり通信機器の製造などで成功する。現在のルーセントやNECのルーツでもある。 当のグレイはどう思ったかは知らないが、なんだか皮肉な話である。

正式には、エリシャ・グレイとイーノス・バートン(Enos Barton)によってグレイ・アンド・バートン社として1869年にクリーブランドにおいて設立されたのが最初。


グレイ&バートンの設立者たち


その後、1872年にWU社の出資でウェスタン・エレクトリックと名前を変え、WU社傘下で電信装置の製造に携わるようになった。以降1879年には世界最初の実用的な電話交換機を作るまでに至っている。

これらの業績と技術力から米国最大の電話機メーカーとなるが、1881年ベル社に買収されて子会社に。
その後、1907年にWEとAT&Tの技術部門は統合され、1925年にベル研究所と名を変える。

NEC(日本電気)はWECと共同で1899年に設立されているし、ご存知のようにベル研はトランジスタの発明を始めとするノーベル賞級の研究をして、今でも通信専門研究所としては世界最大の研究所である。 ルーセント・テクノロジー社ベル研から分離された企業だったりする。

このように、グレイが会社を設立したお陰で、現在の情報通信の源流が創られているのは非常に興味深い。

●エジソンは勉強が出来なかったが、グレイの場合は早くに父親を亡くしたため、船大工などをしながら学校に通い卒業している。
対照的に、ベルは二人に比べて教育環境に恵まれていたと思われる。

●エジソンの有名な言葉、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」云々は実際には違うらしい。
本当は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」と言ったのを新聞記者が書き換えたのだという。
どちらにせよ、エジソンは極度の自己宣伝家であり、訴訟の天才であったことにかわりはない・・・。
(訴訟相手を脅すために、暴力団みたいなものまで作っている)

そしてその「99%」は研究所員や科学者の貢献が大きいことも事実である。 発明家というよりは、発明ディレクター(又は発明企業家)と呼んだ方が良いかもしれない。 つまりは、本人が一人で「発明」したというより、「エジソン研究所」が「開発」したものが多いということでしょう。

エジソン製品は極めて質がよく、原理を追求する理学の精神より、とにかくモノを作るという工学の真髄を極めているように感じます。そのための設備の「システム化」は目を見張るものがあり、先進的な思想に立脚したものと考えざるを得ません。
また、既に他人が発明したものを改良し、実用に仕立て上げる能力には凄まじいものがあります。

 その割には、蓄音機は全く役立たずと思ったり、「映画は普及しない、映画でドラマを作るのに何の意味があるのか」 などと言ったように映画に先見性がなかったり、交流より直流の方が送電に優れていると言い張って、ニコラ・テスラの意見を無視して敗れたり・・・と破天荒な部分が目立つおっさんでもあります。

とにかく自己中心的で、ライバルは何としてでも引きずり降ろさなければ気が済まない性格だったらしいのです。
加えて言えば、ライバルが居る事が彼のエネルギーの源だったのです。
木村哲人氏は、このことを指して「闘う人」「反抗の系譜を継いだ人間」と称しています。

晩年は数式や基本的な物理を知らず、図面も自分で書けないのが災いし、完全に科学の中心から取り残されてしまった。
その頃には勘に頼った技術は衰退し、高度な理論や科学的概念に基づく技術が中心となってしまったからである。
しかしながら、ライバルが皆、先に亡くなったためか穏やかであったといいます。

●日本のサイトでもエジソンは、平和を愛した人間だと言われているが、軍事上の発明は多い。
逆に「発明戦争」(後掲)には、エジソン自身が発明した品として面白いヒット商品(今も使われているもの)も
載っている。

●「京都の竹」を使った炭素電球の話は伝記に必ず登場する逸話だが、どうもウサン臭いようである。
わざわざ探検隊を世界各地に派遣するというデモンストレーションをしてマスコミに宣伝している。
日本は明治時代。探検隊を出すような場所だったんかい・・・

●ベルの危機を救ったエミール・ベルリーナ(Emile Berliner:1851-1929)は、円盤式レコードを発明したことでよく知られている。
 彼は、1895年ベルリーナ・グラモフォン社(Berliner Gramophone)を設立して円盤式レコードの販売を始めたが、ベルと同様エジソンと争うはめになった。
 エジソンの円筒式レコードと激しく対立したのである。ベルリーナ・グラモフォン社は悲惨な訴訟などの紆余曲折を経て、1901年エルドリッジ・ジョンソン(Eldridge R. Johnson)によって、ビクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Co.)となった。現在のビクター社、HMV、EMIなどの源流の会社である。
なお、ビクターの犬のトレードマーク(His Master's Voice)は、ベルリーナが気に入って商標登録したもので、タイトルはベルリーナが付けた。HMV社はこのトレードマークの3文字から名づけられている会社であったりする。



-全体を通して-

■ 電話の発明については、諸説紛糾する部分もあり、よく分からない部分が多いことを付け加えておきます。
まだ、再調査の段階ですが、マイクの発明についても、デービッド・ヒューズ(David E.. Hughes)が発明者になっていたり、エジソンになっていたり、ベルリーナになっていたりと、謎が多い部分です。ほぼ同時に発明されているようなのですが・・・
まだこのページの改訂が続きそうです。

■ 技術史は昔から興味をもっていたのですが、日本国内ではあまり注目されていない分野のようで、全体的に書籍が少ないようです。
海外では産業発展史としても捉えられていて、かなり盛んな様子。
 


主要参考文献

その他、まだ全部読みきってないですが、D.A.ハウンシェル氏がエリシャ・グレイ研究について詳しい論文を出しています。
・D.A.Hounshell , "Bell and Gray:Contrasts in Style ,Politics,and Etiqutte" Proceedings of the IEEE, Vol64,No.9 pp.1305-pp1314,Sep 1976.
・D.A.Hounshell , "Elisha Gray and the Telephone:On the Disadvantages of Being an Expert" Technology and Culture, Vol16,No.2 pp.133-161,Apr 1975.
・D.A.Hounshell 唐津一訳, "もう一人の電話発明者" サイエンス(日経新聞社) 1978年3月号 pp.108-116
(原題:"Two paths to the telephone" Scientific American, Vol.244 pp.156-163)

AT&Tの企業史については

・アメリカ電気通信産業発展史 -ベルシステムの形成と解体過程- 山口一臣著 同文館1994 (絶版)
が研究書としておすすめです。(そん代わり難しい)

参考になりそうなURL(英語ばかり・・・)

●ライスの業績については、「ドイツ技術史の散歩道」 種田明 同文舘出版 1993に詳しく記載されています。

●日本では若井登 (元東海大教授、郵政省電波研究所長)の研究が「マルコーニの電波は本当に大西洋を越えたのか?」など
通信史的におもしろい物が多いです。


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