電話の歴史
〜電話の発明にまつわるお話〜
2000/03 作成
2005/01 改訂
2006/04 改訂
電話の発明者は一般にグラハム・ベルと言われています。しかし事実はかならずしもそう単純ではなさそうです。 初めてこの事を知ったのは、「栄光なき天才たち」というマンガでした。 そこでは孤高の天才として もう一人の発明者エリシャ・グレイが紹介されていたのです。ですが、最近になって調べてみると、かなり脚色や誤謬があり、実際にはどろどろした人間の争いが顔を出していたのです。 日本のサイトでは十分な情報が得られなかったので、いくつかの書籍や米サイトで調べた結果をここに書いておきます。誰が真の発明者か?という結論は皆さんにお任せしましょう。 |
電話発明にかかわった三大技術者
電話の発明は人類のコミュニケーションに関する大きな進歩と言われますが、実は声を遠くに届けるという目的を追い求めた末に発明されたものではありませんでした。どちらかといえば、その当時、大きなビジネスチャンスであった新型電信機の開発競争の最中に産み落とされた副産物でした。 |
グラハム・ベル (Alexander Graham Bell:1847-1922) |
エリシャ・グレイ (Elisha Gray:1835-1901) |
トーマス・エジソン (Thomas Alva Edison:1847-1931) |
電話の発明で知られる音声生理学者。 スコットランド、エディンバラ出身。 1870年カナダに渡り、72年にボストン大学教授。 その後、AT&Tの前身、ベル電話会社を設立する。 彼の父は、読唇術の発明者で、本人も聾唖教育に力を尽くした人物でもある。 |
発明家。米国オハイオ州出身。電気通信技術を中心に、多重電信機、電話機、ファクシミリを発明。 後年、オーバリン大学教授。彼が中心となって設立したグレイ・アンド・バートン社はウェスタン・エレクトリック社(現ルーセント社)やベル研究所の母体となった。 |
発明王。米国オハイオ州出身。 新聞売りから始まり、電信士の職に就き、フリーの電気通信技術の発明家として名を馳せた。その後、電球、映画、蓄音機を発明したことで有名であるが、実際、蓄音機を除いて彼自身の手による発明は少ない。 ただ、実用化に関しては他を寄せ付けなかった。 |
3人は、電信技術の究極の改良として、または、聴覚という医学的な観点からのアプローチで電話の発明に迫っている ベルは父親が視話法の発明者であり、元々、聴覚障碍者の教育に力を注いでいたが、音声学方面からのアプローチから「多重電信」開発へ傾倒していきその中で電話を思いつく。電気はブリッジ回路や電信機で有名なホイートストン博士に学んでいるものの、3人の中では一番の素人でありった。 エジソンはほぼ独学で電信士となり、電気技術を身に付けていった。電話発明の頃には、既に通信方面での多彩な活躍を見せていた時期である。彼の発明人生は電信技術の改良から始まっている。電話発明の2年前には1本の通信線で4通信が可能な多重電信装置を発明していた。彼自身も聴覚障碍者であり、ベルとの因縁が深い。事実、生涯にわたってベルと張り合うことになる。 グレイは技術者であり、電信技術の開発競争の先駆者である。周波数分割多重方式の多重通信機の発明をはじめ、FAXの原型となる装置(Teleautograph)を発明するなど、多彩な活躍を見せている。 彼は電話発明の2年前、シンセサイザーに似た装置で音を2400マイルにわたって伝送することに成功している。 |
電話の始まり
時は19世紀後半、モールス符号による電信網が急速な発展時期にあった時代。 電話の発明は上の3人が中心となって競われたと言っても過言ではない。 既に1860年、ドイツの物理学者ライス(Johan Philipp Reis 1834-1874) は実用的ではないものの「電話」に類似した装置を作っていた。
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ライスと電話機 |
電話特許の同日出願!
事態が急展開を見せるのは、1876年2月14日、アメリカのベルとグレイが、同日に特許申請した日からである。ベルは午前11時頃、グレイは午後1時頃の出願と言われ僅か2、3時間の差であったのは有名な話である。 だが、双方とも出願の時点では、まだ電話という装置はこの世に存在していなかった。 しかも、ベル側の出願に至っては、本人が意図して出願したものですらなかった。 そしてその「同日出願」にも偶然とは言い切れない要素があったのである。 グレイにとって不利だったのは、出願が遅れたことではなく、「予告記載」(Caveat)だったことも一因だったようだ。 ベルの実験ノートのスケッチ(1876年3月9日) この次の日に音声を伝送することに成功する。 グレイのスケッチ(1876年2月11日) 電話の予告記載の3日前のスケッチ。 彼はこのアイディアを当時流行っていた糸電話(恋人たちの電信-Lovers' Telegraphと呼ばれた)より着想したという。 その1年後-1877年4月27日、エジソンはベルの電話機を改良し炭素型マイクを特許申請(研究所員に発明させた)。 一方、ベルのマイクは磁石と鉄板を組み合せたもので、実用的ではなかった。 この型のマイク(ダイナミック・マイク)が使われるようになったのは電子回路による増幅技術が発達した後からである。 三者ともハード的には全く異なる発明品を利用した「電話」だったのである。 |
さて、ベルは1876年6月フィラデルフィアで開かれた建国100周年を記念する万国博覧会で電話機を出展する。本人はあまり乗り気ではなかったようだが、後の妻となるメーベル(ハバードの娘)が騙して無理に連れてきたというから人生よく分からない。
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トーマス・ワトソン (Thomas A. Watson 1854-1934) ベルの助手として有名。 |
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事業化において問題となったのはマイクの感度不足で、炭素式マイクは既にエジソンが特許を取得しているため
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そこで1878年9月12日、ベル側(ハバード)は特許訴訟を起こし、炭素式マイクに関するエジソンの特許は無効であると主張した。 そこにグレイも加わって、泥沼の裁判が始まるのである。 この裁判は歴史上、ダウド事件(裁判)と呼ばれている。 裁判は熾烈を極めたが、最後はあっけなく終止符を打つことになる。 発端はWU社が裁判に嫌気が差したことだった。 1879年5月、政治的な妥協の結果、WU社は自社が所有するグレイとエジソンの特許をベル社に譲渡すること。 これによってベルは法的に電話の発明者としての地位を確立したのである。 さらにその優秀な電話設備(エジソンが一生懸命作ったらしい・・・)はベル電話会社の電話網の構築に大きく貢献し、 |
ハバード弁護士 (Gardiner G Hubbard ) |
オートン社長 (William Orton 1826-1878) |
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ベル最大の支援者にして義父。ベルの多重電信機開発を援助し、電話事業の推進役だった。 |
当時、電信業界最大の企業、ウェスタン・ユニオン社長。 グレイとエジソンの最大の支援者。 |
勝手に特許を譲渡されたことに激怒したエジソンは、新たにチョーク型マイクというのを作ってエジソン電話会社を興し、電話事業に参入している。 1877年にできた世界初の電話会社、任意組合ベル電話会社は79年ナショナル・ベル電話会社、 80年アメリカン・ベル会社、そしてついには1900年にAT&Tと名前を変える。 天才的経営者T.N.ヴェイルの事業展開により、この独占はますます強固となり、1984年に分割されるまで独占は続いていた。 最古そして世界最大の通信事業者として、なおも電話界に君臨しているのである。
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●ベルの親父は聾唖教育の功労者で、あのヘレン・ケラーに教育を施したサリバン女史も父メルビルの教え子である。
ヘレン・ケラーをサリバンに紹介するきっかけを作ったのもベル本人であった。その後二人は親交を結んでいる。 また、ベルはその外にも電解コンデンサーや光通信機も発明しており、意外にもその興味の対象がひろいのに驚かされる。 音響や通信、電気の単位でdB(デシベル)が用いられるが、これはデシ(10分の1を表わす)とベルの名前を冠したもの。 ●ベルの電話機が初めて海外に持ち出された例は日本らしい、ベルが電話の実験に成功した直後に ●エリシャ・グレイの設立したウェスタン・エレクトリック・カンパニー(WEC)はその後、AT&Tの子会社となり通信機器の製造などで成功する。現在のルーセントやNECのルーツでもある。 当のグレイはどう思ったかは知らないが、なんだか皮肉な話である。 正式には、エリシャ・グレイとイーノス・バートン(Enos Barton)によってグレイ・アンド・バートン社として1869年にクリーブランドにおいて設立されたのが最初。
これらの業績と技術力から米国最大の電話機メーカーとなるが、1881年ベル社に買収されて子会社に。 NEC(日本電気)はWECと共同で1899年に設立されているし、ご存知のようにベル研はトランジスタの発明を始めとするノーベル賞級の研究をして、今でも通信専門研究所としては世界最大の研究所である。 ルーセント・テクノロジー社もベル研から分離された企業だったりする。 このように、グレイが会社を設立したお陰で、現在の情報通信の源流が創られているのは非常に興味深い。 ●エジソンは勉強が出来なかったが、グレイの場合は早くに父親を亡くしたため、船大工などをしながら学校に通い卒業している。 ●エジソンの有名な言葉、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」云々は実際には違うらしい。 そしてその「99%」は研究所員や科学者の貢献が大きいことも事実である。 発明家というよりは、発明ディレクター(又は発明企業家)と呼んだ方が良いかもしれない。 つまりは、本人が一人で「発明」したというより、「エジソン研究所」が「開発」したものが多いということでしょう。 エジソン製品は極めて質がよく、原理を追求する理学の精神より、とにかくモノを作るという工学の真髄を極めているように感じます。そのための設備の「システム化」は目を見張るものがあり、先進的な思想に立脚したものと考えざるを得ません。また、既に他人が発明したものを改良し、実用に仕立て上げる能力には凄まじいものがあります。 その割には、蓄音機は全く役立たずと思ったり、「映画は普及しない、映画でドラマを作るのに何の意味があるのか」 などと言ったように映画に先見性がなかったり、交流より直流の方が送電に優れていると言い張って、ニコラ・テスラの意見を無視して敗れたり・・・と破天荒な部分が目立つおっさんでもあります。
●日本のサイトでもエジソンは、平和を愛した人間だと言われているが、軍事上の発明は多い。 |
-全体を通して-
■ 電話の発明については、諸説紛糾する部分もあり、よく分からない部分が多いことを付け加えておきます。
まだ、再調査の段階ですが、マイクの発明についても、デービッド・ヒューズ(David E.. Hughes)が発明者になっていたり、エジソンになっていたり、ベルリーナになっていたりと、謎が多い部分です。ほぼ同時に発明されているようなのですが・・・
まだこのページの改訂が続きそうです。
■ 技術史は昔から興味をもっていたのですが、日本国内ではあまり注目されていない分野のようで、全体的に書籍が少ないようです。
海外では産業発展史としても捉えられていて、かなり盛んな様子。
主要参考文献
その他、まだ全部読みきってないですが、D.A.ハウンシェル氏がエリシャ・グレイ研究について詳しい論文を出しています。
・D.A.Hounshell , "Bell and Gray:Contrasts in Style ,Politics,and Etiqutte" Proceedings of the IEEE, Vol64,No.9 pp.1305-pp1314,Sep 1976.
・D.A.Hounshell , "Elisha Gray and the Telephone:On the Disadvantages of Being an Expert" Technology and Culture, Vol16,No.2 pp.133-161,Apr 1975.
・D.A.Hounshell 唐津一訳, "もう一人の電話発明者" サイエンス(日経新聞社) 1978年3月号 pp.108-116
(原題:"Two paths to the telephone" Scientific American, Vol.244 pp.156-163)
AT&Tの企業史については
・アメリカ電気通信産業発展史 -ベルシステムの形成と解体過程- 山口一臣著 同文館1994 (絶版)
が研究書としておすすめです。(そん代わり難しい)
参考になりそうなURL(英語ばかり・・・)
●ライスの業績については、「ドイツ技術史の散歩道」 種田明 同文舘出版 1993に詳しく記載されています。
●日本では若井登 (元東海大教授、郵政省電波研究所長)の研究が「マルコーニの電波は本当に大西洋を越えたのか?」など
通信史的におもしろい物が多いです。
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