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精神分裂病は、精神病の代表的なもののひとつで、まだ原因もわからず、決定的な治療法もなく、発病するとほぼ一生病気とつきあわなければならない悲惨な病気とされています。 しかし私たちが、この病気を恐ろしいと思うのは、原因や治療法がわからないということよりも、この病気が私たちの意識―すなわちアイデンティティを冒してしまうのではないかと思うからです。「我思う、ゆえに我あり」のごとく、意識している「わたし」こそが、私が私であるゆえんのものであり、この意識が病むようになったら、それこを私自身は一体どこへ行ってしまうのか?ということになります。だから、精神を病むことへの恐れは、アイデンティティの消滅かもしれない「死」を恐れるのと、似た感覚があります。神がいるとすれば、どうしてこのような悲惨な病が存在するのを許されるのか?人間に永遠の命があるとすれば、精神的な死は肉体的な死よりも恐ろしいではないか?という疑問もわきます。 しかし、精神病者が身近にいる人や、精神医療関係者だったりする人なら、その恐れがあくまで精神病者を外から見た「偏見」に基づいていることがわかるでしょう。 「頭がおかしい」「異常だ」ということの裏には自分たちとは全く異質な、理解不能な人という意味合いが込められています。しかし実際の精神病者は、その人がその人であるゆえんの心や人格を失ったわけではなく、私たちと全く同じ心をもち、苦悩している人々だということがわかってきているのです。 彼らは自分が存在することに対する根本的な不安や、他者と共に生きることができないという絶望的な孤独と孤立など、想像を絶する苦しみを抱え込んでいる受難者でもあります。そしてこれらの苦しみは内省的な人間なら誰もが程度の差こそあれ一度や二度は直面したことのあるものであり、しばしば偉大な哲学者や思想家が悩んできたことでもあって、人間のみが感じることのできる実存的な苦悩とも言えます。そういう意味で、この病は最も人間臭い病、人間の内面世界の一面をクローズアップしている病と言えましょう。 正常と異常とは何か、私たちと他者との関係は何か、現実とは何か、また妄想とは何か。・・・分裂病を考えることは、人間が生きていく上でのさまざまな根本的な問いかけを考えることも、含んでいるように思えます。 精神分裂病という心の世界を、のぞいてみましょう。 ・精神分裂病とは〜医学的には 精神分裂病は、現在の精神医学では脳をはじめとする神経系に生じる慢性の病気という見方が一般的です。 分裂病の人たちは、なんらかの原因で、脳の中の緊張―リラックスをつかさどる部分、意欲やその持続などをつかさどる部分、また情報処理選択をつかさどる部分の系列にトラブルをきたし、言ってみれば頭の中がフル回転しすぎてオーバーヒートしたような状態になります。「天才と精神病者は紙一重」というようなことを言われますが、実際、高い創造性のある人の近親者は分裂病になりやすく、また分裂病者の近親者には偶然の一致とは言い難い高い創造性が認められるという研究結果もあります。そういわれてみると、偉大な詩人や芸術家の行動パターンや思考過程などは、分裂病者と似ていることがあります。ただし、分裂病者の場合は、病気によって集中力や作業能力が低下して、創造性を発揮することができないという点が根本的に違います。分裂病であったとされているゴッホはこんな手紙を書き送っていました。「ああ、もし私がこの呪わしい病に患わされることなく仕事ができていたら、どんなにすばらしい作品を完成させることができただろうか」 通常人間は外から入ってくる刺激を脳がフィルターにかけて処理し、情報として選別したり解釈したりして、それに基づいて行動します。しかし分裂病者の場合は、なんらかの原因によって脳の機能障害がおき、外から入ってくる情報をうまく処理できず、情報の選別や解釈がうまくいかなくなってしまいます。通常なら無視するささいな情報やどうでもいい情報も、本人の意思とは無関係に同程度の重大さをもってわっと入ってきます。神経は過敏になり、張りつめているので、リラックスできず、頭の中が騒がしくなってくたくたになります。 そのため、 外からの刺激に対する本人の反応や行動が、その人にとってはしごくまっとうな、理屈にあったものであっても、情報の処理自体に誤りがあるため、周囲の人から見ればまったく的外れになったり、理屈が通らないものになってしまうのです。それが、外から見たら「おかしい」「異常だ」と思われるような言動が見られる理由です。またその脳の処理能力の障害が、ときに妄想や幻聴という形で現れることもあるのです。この、常に神経を張りつめた状態、リラックスできない状態というのは恐ろしいものです。強烈な、大量の情報に圧倒されると、人間は大きな不安をかき立てられたり取り乱したりすることになります。このような情報の氾濫から身を守るため、しばしば引きこもりという状態になります。ラジオもテレビもつけずに布団の中でじっとしている、というようなことは、一種の防衛手段なのです。 さらに、自分の言動が周囲と違うことから、他人とうまく関係が持てず、恐ろしい孤独感と疎外感に襲われます。今では多くの分裂病者に病識(自分が普通と違う、あるいは分裂病であるとわかっていること)があることがわかっています。自分の頭がおかしくなったと気が付くこと、それはなんと恐ろしいことでしょうか。 以下にその他の特徴を挙げます。 ・通常思春期後半(17歳〜25歳)に発病し、13歳未満や31歳以上で発病することはまれである ・一度発病すると回復には長い時間がかかる ・発病率は世界各国や時代に関わらず、あまり差はない(100人にひとりの割合) ・ただしアメリカでは発病が早いとか、現代文明から疎隔された未開の社会(台湾の原住民や西欧文明を知る前のパプア・ニューギニアなど)には分裂病ははるかに少ないということもわかってきている ・男性の方が早く発病する傾向があり、17〜18歳では男女比が男:女=4〜5人:1人の割合。また男性の方が薬の効きが悪く、再発率も高いが、それはホルモンによる差ではないかと見られている ・分裂病の症状は陽性症状(妄想、幻聴、思考障害など)と、陰性症状(無関心、引きこもり、意欲の低下、感情鈍麻、運動の緩徐化など)があるとされ、前者は症状が派手な割には予後がよく、後者は回復に長い時間がかかる。 ・分裂病の診断 分裂病の定義は今なお議論の決着がつかず、明確なものがありません。症状もさまざまなため、いくつかの原因が異なる全然別の病気が分裂病としてひとまとめにされているのではないかという見方もあるくらいです。診断そのものも難しくて、かなりの熟練が必要とされるようで、実際の臨床現場では、分裂病でないものが分裂病と誤診されることもけっこうあるようですし、躁鬱病と分裂病の区別さえとても難しいということです。(両方の症状を持った患者もけっこういる) 以下に、アメリカ精神医学界の診断基準(DSM-IV)をあげます。分裂病の診断は以下の基準を満たしたときだけ下されます。 1)病気の症状が少なくとも6ヶ月間にわたって存在する。 2)仕事の能力や社会的な役割、身の回りの世話などの面で、以前より機能が低下していること。 3)器質性精神障害(脳腫瘍や脳炎などはっきりした脳の傷害による精神障害)や知的障害による症状とは考えられないこと。 4)躁うつ病を示唆する症状は認められないこと。 5)以下のa,b,cのいずれか一つがなくてはならない。 a)以下のうち二つが少なくとも一ヶ月間ほとんどずっと認められる 妄想・幻覚・まとまりのない会話・ひどくまとまりのない行動、あるいは緊張病性の行動・陰性症状(感情の平板化、極度の無関心など) b)当人が属する文化集団にとって、思いもよらない奇抜な妄想。 c)行動を絶えずあれこれ批評される幻聴、あるいは複数の人の声が会話している幻聴が顕著に見られる ・分裂病の原因と治療〜器質障害か心の問題か これは一言で言うと、まだわかっていません。それでも「分裂病は脳の病気である」という見方が広く受け入れられるようになってからは、いわゆる母親が悪いとか環境が悪いとかいう説の影が薄れてきて、もっぱら内因性によるもの(患者本人の器質障害によるもの)という見方が強くなってきています。 そのおかげで本人や家族から罪や恥の意識が取り除かれたのはよいのですが、今度はその正反対の極端に走って、精神病が薬と生物学の独占物になりつつあり、ほとんどのところで薬物療法のみが行われていることも憂えるべき状態と思われます。薬物療法は治療に不可欠なものですが、病気の中心にあるのはあくまで人間であって、その病気の主体である患者自身の内面的な悩みについて、薬物は何もしてくれないからです。一般に治りにくく、生涯の病気となるとされている分裂病から見事に社会復帰した人々は、薬の恩恵もさることながら、内面的に劇的な転換を経験し、意識を変えているのです(自分自身への洞察、病気を受け入れることなど)。薬は分裂病から回復する手助けをしただけであって、各々の回復の物語をたどると、その人の回復を導いたのはその人自身だということが浮かび上がってきます。従って、病気の向こうにある人間の内面を見極めるようにする従来の療法を切り捨てるべきではないとする医者もいるのです。 ちなみに、脳構造の変化はすべての患者に認められるわけではなく、病気の原因というより症状であるという見方も可能です。幼少期の精神的なストレスや生育環境によっても脳の器質上の変化(障害)が起こることも知られているからです。ホリスティックな医療の観点からしても、人間には完全に内因性の病気(患者自身の身体のみが原因)といえるような単純な病気はなく、分裂病にしても本人自身の持つ脆さ(遺伝や体質、脳の特性など内因性のもの)に環境その他の複雑な要素がからみあって発病すると考えるのが妥当かと思われます。 以下にいくつかの主な学説を紹介します。 1)遺伝説 これは分裂病が遺伝子によって遺伝するという説。分裂病患者の家族の発病率は10%で、そうでない場合の1.5%より多くなっていることが理由です。兄弟が別々の親に育てられた場合も同じく10%となっているので、これは環境よりは遺伝によるものと見られています。でも遺伝していない例の方が多い(2/3ほど)ので、なんらかの関わりはあっても、純粋な遺伝病とは言えないとされています。 2)ウィルス説 ウィルスは脳の特定部位だけを冒し、また潜伏期間が長いことから、このような仮説がたてられています。ただしあくまで仮説で、分裂病を起こすウィルスが見つかったわけではありません。 3)ドーパミン説 分裂病者は脳内化学物質のドーパミンを過剰に分泌していることからこの説がたてられました。ただし、これらの研究は死後脳の標本を用いていることから、死後変化したのかもしれないし、服用していた抗精神病薬の影響もあることが欠点です。また、なぜ過剰に分泌するかを説明できない限り、これは分裂病の症状であっても、原因の説明にはなりません。 4)発達上の障害 分裂病者が、母親の胎内にいた頃か生後間もない間に脳が傷害を受けたという説。 5)悪い母親や環境が生んだという説 これはフロイトの学説で、冒頭で挙げた通りです。 6)社会が作り出すという説 上の項で述べたように、未開の社会では分裂病は非常に少ないことから、分裂病は異質な者を排除する階層的な社会環境が作りだした病気とする説。これは本来砂漠に育つべき植物が湿地帯に植えられて枯れていくというようなものですが、この病気の再発には実際に、ストレスの有無や環境のよしあしが大きく関わっているようです。 7)レインの説 これは分裂病という病気を実存的にとらえたもので、いわば病気の意味というものを洞察している考えです。どんな病気も、個々人の内面史に重要な役割を果たしています。この病気があったから今の自分がある、と言える人もいるほどです。詳しくは述べませんが、社会復帰した分裂病者の多くがこの病気について、苦しかったけれど自分が今の自分に成長するための必要な過程だったと振り返っていうことから、偽りの自己から本当の自己にたどり着くための病気であるという考え。パンプキンはこの説がけっこう気に入っています。(笑) ・分裂病の治療法 現在では、薬物療法が主となっています。(ただし重症の患者の1/3には薬は効かないということです)薬物には副作用が伴い、それによって精神活動を低下させられ、生気を失ってぼーっとすることもあります。また薬物は治癒するのではなく症状を抑えるだけで、副作用と薬の最低量とのかねあいの綱渡りで、生涯にわたって服用し続けなければならない場合がほとんどというのが現状です。 精神分析療法は、効果が薄いということで現在は下火になっていますが、それは精神分析療法にはかなりの熟練が必要ということで、成功例をおさめている場合もあります。成功例にしても、患者の自己破壊力を抑えて患者の洞察力を引き出して治療に導くためには、急性期の薬物の助けは必要なようです。 それから睡眠をよくとることは、分裂病の場合非常に大切です。というのも、患者の頭は過剰な情報を処理するのに疲れきっているからです。睡眠パターンの変化によって発病や再発の兆候を見極められると言われるほどです。さらには、本人を疲れさせないための静かな環境。そして何かできることから始め、社会に出ていくためのリハビリなどの段階があります。 |
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分裂病者は、まぎれもなく私たちと同じ人間ですが、彼らを外から見ただけでは、ただちぐはぐな言動などの「異常」な側面ばかりが目立ちます。しかし心ある精神科医たちの努力や患者自身の手による自伝等によって、彼らの内面世界は決して私たちの内面世界とかけ離れたものではないことがわかってきています。分裂病になった少女の闘病記『ロリの静かな部屋』を例にあげつつ、その内面世界を見てみます。 ・ロリのプロフィール 裕福で愛情深い両親のもとに育ち、幼い頃から何をやらせても優秀で模範的で「非のうちどころのない」子どもと言われていた。長じてハーバード大に補欠合格するほど学業にも優れ、芸術的才能も豊かで、容姿も可愛らしく、なにもかも不足することのないような少女だった。が、高校生の頃分裂病を発病してから人生が一変する。(具体的には幻聴が聞こえる) 両親も本人も、それまでの彼女があまりに完璧だったのが災いして病気を受け入れるのにかなりの期間を要した。ロリはかなり重症で病院でも「保護室」に何度も入れられるほどであった。退院と入院、自殺未遂を繰り返し、麻薬にも手を出す。やがて落ちるところまで落ちた彼女はついに病気という現実を受け入れ、不屈の魂をもって病気と闘い、社会復帰を果たす。 ・分裂病者は危険人物ではない 分裂病者は、病気によって性格が変わることはないとされているのは興味深い研究結果です。つまり、発病によって凶暴になったり、犯罪を犯したりするような人はいないのです。一般の人の中におとなしい人も凶暴な人もいるように、精神病者もさまざまな性格の人がいるという、それだけのことです。実際、精神病者の犯罪がよくニュースで取りざたされますが、「健常者」が犯罪を犯す率の方がはるかに高いのであって、重症の精神病者の病棟を歩くことはさほど危険ではないけれど、ニューヨークの道を歩く方がよっぽど危険だということです。 ロリの場合は、自分の主治医に「死ね」などと口走ったり、病院で手に負えない患者として暴れ回ったりしていましたが、その時彼女の内面で起こっていたことは、幻聴の声があまりに強くて自分の声として外に出してしまったり、「声」から逃れようとパニックに陥って窓の金網に両手をたたきつけたりしてもがいていたということでした。 ・分裂病者は彼ら独自の内的世界をもっており、その世界では論理性、合理性が保たれている ロリは、自分の内的世界の中では「声」が聞こえるという点を除けば完全に正常であり、自分を異常だとは考えていませんでした。「声」が聞こえていることが他人にわかると異常扱いされるから、声が聞こえないふりをして、他人とまともな会話をしようと努力するほどに、正常だったのです。しかし彼女の脳はそれを許しませんでした。「声」はときにはあまりに強くて、会話の他の人の言葉が聞き取れないほどで、そんなときの彼女は外からは、自分の世界に閉じこもっていてまったく他人の言葉が届いていないかのように見えました。また、彼女の思考はあまりに猛スピードで疾走するので、言葉が追いつかず、彼女の言うことは誰にも理解できないほどに支離滅裂になってしまうのでした。さらに「声」から逃れようと車を猛スピードで走らせたりと、彼女の一見突飛に見える言動は「声」という要素を考慮に入れるとちぐはぐなものではなく、その世界の中ではすべて合理的な理由を伴っていたのです。 ・分裂病者は独自の内的世界と外的世界とのズレに苦しみ、深い絶望を感じている はじめロリは「声」が周囲の人々にも聞こえるものだと思っていました。聞こえないふりをしているのは、自分を騙しているのだとさえ思うほどに、その声はリアルだったのです。しかし「声」が周囲に聞こえるのではないらしいとわかったとき、「声」は彼女と他人とを決定的に隔てるものとなります。 彼女は「声」の主を捜そうときょろきょろ見回したりして周囲に変な人だと思われないように気をつけなければならなかったし、同時にその「声」があばきたてる彼女の秘密が周囲に聞こえてしまうことを恐れていました。「声」は執拗に彼女をののしり続けるので、彼女は友達はみんな自分をあざけり、からかい、憎んでいるのだと思うようになるのです。それゆえ、突然友人たちに気まずいものを感じて突飛な行動に出てしまったりしました。彼女はとても孤独でした。「…とてもさびしかった。人生は生きるに値しないもののように思えた。何億人もの人間がいる世界に、自分だけがひとりぼっちだった。…わたしは自分以外のすべての人との間に巨大なへだたりがあることを痛感し、ますます孤立感を強めていった。…彼女たちにはわたしの苦しみがまるでわかっていなかった。…わたしは友達もなく、話し相手もなく、気晴らしに協力してくれる人もなく、ひたすら孤独だった」 ・表面的には感情が平板化しているように見えても、その内面では激しい感情を体験していることがある ロリの手記に表現されているロリの苦悩は、まったく普通の人間のそれと変わりなく、まるで閉じこめられた部屋の中から外に向かって叫ぶけれど、外の人にはそれが聞こえないといった感じを受けます。 周囲からは感情が平板化したように見られていたときも、それは、あまりにも「声」がうるさいので周囲の人の声がまるで聞こえなくなっていたり、自己防衛のために外からの刺激をシャットアウトしていたというのが実状のようです。 |
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冒頭にも書いたように、分裂病の内面世界は、人間が本来もっているある種の心のもろさ、存在の危うさをクローズアップしている感があります。分裂病が示唆している、人間の心の世界の現実はどのようなものでしょうか。 1)私たちはひとりひとり内的リアリティが異なっている 分裂病者は、自分にしか通用しない、独自の内的世界をもっているとされています。それは、「現実」に関わる情報がすべて、自我や故障した脳というフィルターを通して独自のものに変形されて取り込まれているためです。しかしこのプロセスは分裂病者に限ったことではなく、すべての人に言えることです。そこで 人間の数だけその人にとって変形、色づけされた現実世界が存在することになります。それはあたかも、ひとりひとりが壁で外界から仕切られた家の中に住んでおり、その窓から外を眺めているようなものです。いにしえの哲学者F.ベーコンはこれを洞窟に例え、「イドラ」と名付けました。人間はよくも悪くも脳や自我という殻に閉じこめられた存在で、個人の偏見や思いこみから逃れられず、そこから個人の内的世界の限界(「器(うつわ)」ともいう)が生まれてるし、人間ひとりひとりが孤立した存在で、互いを理解することが難しいことが生まれていると言えます。 2)主観の世界には「正常」と「異常」は存在しない 分裂病者は、他者から異常だと言われますが、自分では自分を正常だとしか思えません。というのもその人の内的世界の中ではその人自身が思考の中心であり、実存の中心であるからです。「正常」「異常」という概念は、あくまでその人間を家の外から見て、外部のものさしではかって貼り付けたレッテルに過ぎず、当人の内的世界では、自分は異常ではありえないのです。「苦しいか、否か」という区別があるだけです。 ある印象深いエピソードがあります。 ある精神科医は、「自分はやがて食肉としてスープに入れられる」という妄想にとりつかれて、何も食べず、やせ衰えていく患者を治療するのに、精肉職人の格好をして大きなナイフをもって患者の部屋にゆき、「おまえをスープにしにきた。しかし、やせているな。これじゃスープにしてもうまくない」といって帰ってゆきました。患者はそれから食事をとるようになり、もとの健康な体にもどって、やがて妄想も去ったといいます。 この医者がどれほど患者に共感していたかは不明ですが、「そんなことはない。馬鹿な考えは捨てろ」と頭ごなしに言わず、同じ世界に入って共通の視点から語りかけたことで、彼の心に届くことができたのだと言えます。この医者は、患者の世界にとっては、患者が存在の中心であることを、忘れていなかったのです。 これは極端な例ですが、私たちは日頃他人と関わるとき、何か客観的な共通世界が存在して、誰もがその世界に適応しなければならないように思いこみがちです。しかし人の数だけ内的世界があり、すべての人間がその世界の中心(「わたし」)であり、その「わたし」の重みは誰もが同等なのです。 人間同士が互いに理解しあうには、誰もが自分の内的世界の限界をもって、その中で生きていることを念頭に置かなければなりません。「異常だ」という決め付けは、自分だけが普遍的な視野をもっているかのような錯覚を抱いている傲慢な姿勢であり、かつ相手の世界では相手が中心であることを忘れていて、他人を理解しようとする努力を放棄していることの現れだと言えます。相手の家の中に入り込んで一緒に同じ窓から外を眺めようとするような他者への「思い入れ」ができるかどうかが、他者を理解する第一歩なのではないかと思われます。 3)私たちは妄想と現実のバランスの中で生きている 分裂病者のあるタイプはフィルターのゆがみによって、現実世界の認識が実際とズレやすい傾向にあり、誇大妄想という症状が出てきます。その代表的なものが被害妄想です。 しかし上にあげたように、人間の誰もがフィルターを通して現実認識しているのですから、妄想という現実認識のズレも多かれ少なかれ誰もが陥りやすい状態でもあると言えます。ただ分裂病者は、妄想を抱いた根拠が他者にわかりにくいという、それだけの違いです。 妄想が起こる根本的な原因は、一般に欲望・執着心の強さや、自分の現実を直視できない、などがあるでしょう。人間は、そうそう生々しい現実ばかりを直視しては生きていかれません。だからこころの安定のために、できるだけ自分の悪い部分を見ないようにし、いいところだけを見ようとし、他人に評価された言葉だけを信じようとします。つまり、多少の妄想は心の安定剤となっているのです。被害妄想というものも、結局はその裏返し、強い自己防衛意識から来ていると言えます。 思いこみがどれほど現実からズレてしまうかの度合いは、おそらく現実認識のフィルターである自我がどれだけ成長しているかにもよるのでしょう。自我が未熟なほど、つまり自己を直視できず、他人の評価を土台として生きようとすればするほど、自己を安定させるために妄想が深くなってゆくと思われます。 4)不信は他人との人間関係に始まり、存在の基盤までをも危うくする 分裂病者は、基本的に他者といてリラックスすることができません。その根底には人間不信のようなものがあります。これは 人間は本心を隠せるという二面性をもっていること、また人間は「異常」とみなした者を排除するということを前提としていますが、その前提自体は間違っておらず、実際人間がもっているものです。人間は大人になるにつれ、他人から一定の評価を受けるため、また悪人と思われないために、心の中で本当に思っていることと人に見せている自分とのギャップが大きくなってゆきます。「陰口」も、その芸当なしには成り立たないことです。基本的にはたとえいつも自分に対してにこやかに接している人でも、心の中では何を考えているかわからず、信用できないのです。 だから被害妄想や人間不信は分裂病者だけの特徴ではなく、人間誰もにあてはまり、また実際にその不信が現実を言いあてていることもあります。 さらに不信感は、他者のみならず、あらゆること及んでいきます。分裂病者は、未来に対しては何か悪いことが起こるのではないかという漠然とした不安を抱き、生きていること、自分という存在そのものに対しても、非常な心許なさを感じています。いわゆる「健常人」が目先の楽しみや気晴らしで考えまいとしていること、気づかずにいることに、彼らは思いを至らさずにはいられないのです。哲学者や思想家たちも、そうした不安が原動力にならなければ、自分の存在の確固たる足がかりとなるものを求めて、思索をしなかったでしょう。つまり彼らの不安は、結局のところ人類共通の不安とも言えなくないのです。 |
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さて、精神分裂病を宗教的観点から見たらどのようになるのでしょうか。また、上に挙げたような人間の内面世界に対して、宗教はどのような解決を提示しているでしょうか。 1)精神分裂病は何を病んでいるのかか 宗教では、人間には肉体が滅んでも永遠に生きる魂があると考えているので、脳イコール心ではありません。肉体というのはどちらかというと、非物資である魂が物資世界である地上で活動するための媒体(道具)のような役割であって、脳も例外ではありません。 たとえば臨死体験者の報告では、肉体をもっている間は時間と空間の概念に縛られた思考しかできなかったのに、魂が肉体を離れた瞬間、意識は以前よりクリアになり、思考がより明晰になり、時間と空間を超えた思考が可能となり、また周囲の親族や医者や看護婦の考えていることが言葉を通じなくても読みとれたというような、「意識の拡大体験」が出てきます。 片足を失った人が霊の身体では完璧な両足がそろっていたり、目の不自由な人が視覚を取り戻したりというように、地上の肉体というものは霊の身体に比べてしばしば不完全なもの、制限されたものであったと臨死体験では報告されていますが、脳も同様に、地上で肉体を着た人間が思考する上での大切な媒体、器官ではありますが、同時にそれは思考を肉体的な次元に制限するものだということになります。 このように宗教的観点では、心の実体は別のところにあり、脳と同じものではないとされます。精神病者や脳神経科の患者たちは脳を病んでいますが、それによって彼らの根本的な人格が病むことはないということです。(分裂病者も、この病気によって人格が変わることはないとされています) それは脳性マヒの人やいわゆる知恵遅れと呼ばれる人々が、しばしば脳が健全な人の多くよりも成熟した人格を持っていることからも裏付けられます。人格というものは脳そのものというよりも、それを操るもので、道具である脳が病んでいても、健全な人格を持った人は病の底に、病に冒されることのない健全さを持っているのです。 寝たきりの人や身体が不自由な人は、身体という檻に閉じこめられ、不自由を強いられている存在と言えます。同様に、精神的な病にかかっている人は、 脳という檻に閉じこめられ、魂が不自由を強いられている存在と言えるのではないでしょうか。彼らひとりひとりの心を見れば、その檻の中には、人間らしく幸福を求め、普通に生活を営もうとしている正常な「魂」がいるのです。2)神と人間の内的世界 分裂病が示唆する人間の孤独な内面世界の現実に、宗教は(あるいは神は)どのように関わってくるでしょうか。 ・孤独からの解放 上に挙げた分裂病の少女ロリは最期に病気を受け入れたとき、初めて真剣な祈りを神にささげます。彼女は「声(幻聴)」は「自分を苦しめ、命令し、指示する悪魔」でしたが、神とは「外からわたしを導き助け出してくれる、信頼できる何か」であり、「わたしが考えるものであり、心で感じるもの」であったと語っています。 外から自分を助け導き出してくれる存在でありながら、自分が考え、心で感じるもの。…ロリの言葉は、神という存在の特徴をよく表しているように思います。すなわち、神とは、 自分とは異なる、絶対者でありながら、同時に自分の内面に感じられる存在です。それは、人間を家に喩えたときに、他の人間が決して入ってくることのできない家に自分と一緒に入り、共に家の中から窓の外を見てくれる…すなわち内面世界を共有できる唯一の存在なのです。自分の内面世界の中心に感じられる神は他の誰よりも自分自身に近い存在であり、他者のように自分を家の外から判断・批判することなく、完全に自分を理解し、常にその人自身の現在の「現実」から出発して、共に歩いてくれる存在です。 このような存在を感じる内的体験をするとき、人間はもはや孤島ではなくなり、孤独から解放されるでしょう。信仰者の多くは、神という存在を感じたときから、周囲の事物はよりリアリティを伴った、意味あるものとして目に映るようになり、自分という存在の確固たる基盤・足がかりを得るのです。 ・リアリティとの関わり 神が人間の空想で創り出したものなら、それは脳内の産物であって、その人間を洞窟という個人的限界から一歩も外へ連れ出したりはしません。しかし神が洞窟の外の存在…すなわち人間とは異なる絶対的存在であるならば、人間は神とつながることで、その人間固有の制約からできた狭い内的世界の外、すなわち絶対的なリアリティの世界へ連れ出されることができます。 キリスト教では、再生(神によって人格が成長し、新しくなること)が起きるとき、人は祈りの中で徹底的に自分の悪いところばかりを見せられて悔い改めるという過程を通ります。実はそれが本当の自分だったにもかかわらず、これまで妄想の中に生きていてその現実を見てこなかっただけなのです。人は日常生活のほとんどを自分を喜ばせる(気を紛らわせる)さまざまな妄想の中で過ごし、祈りの中で神の前に自己点検する作業をしているときのみ、現実に返るのだと言われるほどです。 自己点検作業(自己認識という作業)は、自分ひとりで行ってはひとりよがりになり、結局思いこみから逃れられません。しかし神という存在は、自分の内で感じられるものであるがゆえに、第三者に批判されるときのように傷つくことなく、自己防衛に出る必要もなく、自然にありのままの姿を認めさせてくれるのです。 神と交わり、自我が成長させられ、悪意や欲望などから解放されて透明になればなるほど、現実認識のゆがみは修正され、妄想から解放され、よりリアリティに生きることになるでしょう。 ・他者との関わり 聖書では、「人間を頼るな、神に頼れ」と繰り返し語られています。この人間はもちろん自分自身をも含みます。また聖書では「隣人を愛しなさい」の前に「神を愛しなさい」を教えています。 他者にばかり心を向け、他者の思惑ばかり気にして生きていると、見られる自分ばかりが主になってしまい、本当の自分がもろくなってしまいます。それは他者を「気にかけて」いるだけであって、「他者を愛して」いるとは言えません。その根底にあるのは自己愛であって、自分が他人からよく思われたいという依存心のゆえに人に親切にしていたりします。これは、隣人に与える形をとりながら、奪っていることになります。 聖書の言葉では、 神のみに頼り、自己愛を基本とした他者への依存を断ち切ることで、本当に見返りを求めることなく他人を愛せるようになると教えているのです。人間は基本的に弱い存在だから、他人を頼れば相手にも耐えきれない重荷を負わせることになるのです。他人への強い猜疑心や被害妄想は、他人の目を気にし、評価されようと自分の存在を依存しすぎているところから出てくるものです。人間によりかかれば、その人間が裏切ったときに倒れますが、神によりかかれば、決して倒れることはありません。そして他人の裏切りや弱さに対して惑わされず、恨みを抱かず、平静でいられ、思いやることさえできるでしょう。 さらに自分という存在への根本的な不安に対しても、神という存在は、しっかりした足がかりを与えるのです。 ・心の二重性 人間は心に二重性をもてる存在ですが、自分はそうならないようにと決意して生きることは可能です。宗教では心の二重性を「偽善」として戒めていて、心で思ったことは実際口にし、行ったも同然とされています。また霊の世界では、この地上のように見せかけの自分とひとりでものを考えているときの自分が分離することはできず、心の中の自分がそのまま表面に現れるとも言われています。神は自分の内面に直接関わってくる存在ですから、人を騙せても神は騙せません。従って、人の目に映った自分ではなく、心の中で考え、欲している自分を本当の自分と捉えることが大事なのです。 「みなの人にほめられるとき、あなたがたはあわれな者です」 他人からの評価や言葉に惑わされず、価値判断の基準を自分の内面にもって(あるいは神に置いて)主体的に生きること…それを可能にするのが神という存在ではないかと思います。 |
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昔から、分裂病と宗教とはなにがしかの関わりをもって論じられてきました。それはどちらも独自の内的世界をもっていることと無関係ではないでしょう。分裂病者の中には、宗教的妄想を持つ人も少なくありませんし(「自分は神だ」「キリストの生まれ変わりだ」と主張するなど)、また現在ある宗教団体の創始者的存在の人々は、そうした宗教を全く信じない人から見れば宗教的妄想にかられた分裂病者だとみなされることもあります。パンプキンが以前見かけた百科辞典には、イエス・キリストが分裂病者だという学説も載っていたほどです。(笑) こうなるともう、みんなには聞こえない「声」を聞いたりヴィジョンを見たりする人々が、分裂病者なのかそれとも現実に主観性の異なる別の世界が開けた人たちなのか、もはや第三者には判断不能となってしまうのです。ある種の人々が宗教に惹かれながらもその世界に深く踏み込むことを恐れるのも、自分が周囲の人とは違う内的世界を持ってしまうことで、一般の間主観的な共通世界の通念、すなわちこれまで持っていた「正常な」感覚を失ってしまうのではないかとの漠然とした恐怖を抱いているからではないでしょうか。 そこで、宗教と妄想・リアリティについて思いつくままに考えてみたいと思います。 1)宗教的幻覚と分裂病的幻覚の違い 宗教的土壌があるアメリカその他の国では、幻覚や幻聴をすべて病的と判断しているわけではありません。すなわち、 幻覚も幻聴も妄想も、常に文化的背景を考慮して評価しなければならないとしています。例えば、諜報機関に務める人が、自分は四六時中監視されていると確信したとしても、それが妄想とはいちがいに言えません。同様にサウスカロライナ低地地方で育った人が「自分は魔力をもった人に左右されている」と言っても、それはまったく正常かもしれないのです。というのも、そこでは「魔力を持つ」ことは広く受け入れられた文化的信仰だからです。シルヴァノ・アリエティ博士は、深遠な宗教幻覚と分裂病の幻覚との区別について次のような基準を提案しています。 ・宗教の幻覚はふつう視覚的であるが、分裂病では主に聴覚に基づいている。 ・宗教の幻覚は通常、慈愛に満ちた導きや人に指示を与える慈悲深い指導者がかかわってくる。 ・宗教の幻覚は普通、心地よいものである。 パンプキンも自分なりの基準を考えてみました。(笑) ・天からの幻覚は、神を愛し、隣人を愛して生きるようにとの肯定的なメッセージを送ってくる。 ・天からの幻覚を受けた人は、自分から望んだのではなしに、一方的に与えられる。 ・天からの幻覚は、自分の心の悪を直視し、悔い改めるようにしむけ、自分以外の誰かが悪であるとか、敵が外部にいるというような思いは植え付けない。その結果、本人を傲慢にせず、ますます謙虚にし、そのメッセージに従った人に、人格的な成長、豊かさをもたらす。 ・天からの幻覚を受ける人は試練の中で鍛えられ、自我と徹底的に闘わされ、天からでないニセの幻覚との区別がつくような識別力を養われる。 ・だからもちろん、天からの幻覚を受けた人は、自分からそれを公にすることを望まず、自分以外の者の一存に任せる。したがって、この特別な能力で金儲けをしようとか人々に注目されようなどとは、つゆほども考えない。(笑) ・天からの幻覚は、とても心地よく幸福感をもたらす。 「天からの」とわざわざつけたのは、「天からのものではない」病気由来でない幻覚もあるのではないかと、パンプキンは思うからです。それはスウェーデンボルグの人間観(精神世界2めぐり参照)からそう思うのですが、ある幻覚がよいものであるかどうかは、聖書にあるように、実によって見分けられると思います。 「あなたがたはその実によって見分けなさい。悪い木がよい実を結ぶことはないし、よい木が悪い実を結ぶこともありません。」 もしかしたら、分裂病者の幻聴や幻覚というのも、脳内だけの産物ではなく、実際霊界というソースから来ているものもあるのではないかと思っていたりもします。 2)宗教とリアリティ 宗教は、目に見えないことや確かめようのないこと(神)を「信じる」ことをも含んでいます。それは人によっては理性を放棄したこと、妄想の中に入ってゆくことに見えるかもしれません。 しかしすでに見たように、宗教では自己の内面のリアリティに関して、妄想を厳しく排除するよう教えています。一方で、外面的、あるいは物理的なリアリティ(神がいるかどうか、死後の世界は存在するのか、なども含め)については、「幼子のように受け入れるように」と教えています。 ここに宗教の特徴(本質)が現れているのではないでしょうか。つまり 信仰とは、ある主体的な生き方の決意をすることだということです。そこで問われるのは、本当に絶対的に客観的な現実かどうか、つまり騙されていないかどうかということではありません。それは、第一義的なものではないのです。盲目的な神への信頼、「幼な子」のような疑うことのない信仰は、宗教の世界では望ましい要素とされているのです。信仰に入るとは、「自分がどう生きたいか」を重視して、物理的現実に関する疑問を後回しにすることです。騙されないことが大事なのではなく、どう生きたいかが大事。だから例え神がいなかったとしても、自分は信じていく方を選ぶ。それで最期に神がいないとわかっても後悔はしない。少なくとも自分は騙されなかったという、ただそれだけの人生と、神がおられることを信じてその教えに従って生きようと歩んだ人生と、どちらが意味あるだろうか…こうした選択を通して宗教に入る人は少なくないでしょう。 そしてはじめ信仰者はさまざまな疑いとも闘わなければなりません。「確信」は決まってはじめから与えられるものではなく、後から日々の生活を通して徐々に与えられるものだからです。そして『精神世界2めぐり』で紹介したマリア福音姉妹会のように、本当に神という存在に賭けて真剣に歩んだ人には、現実の人間関係が、日常のあらゆることのすべてが、「自分の選択はリアリティ(物理的リアリティも含め)とはズレていなかった」ことを証明するものとなってゆくのでしょう。 絶対者ではない私たち人間にできることは、自分が現実だと思う主観の内的世界の中で、ベストと思われる行動を主体的に選択することだけなのです。 |
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精神分裂病を扱った本は山ほどあります。パンプキンもたくさん読みましたがほとんど忘れてしまったので、思い出せるだけ書きたいと思います。(その内面世界を考える上で興味深い本だけ) 『ロリの静かな部屋〜分裂病に囚われた少女の記録』ロリ・シラー&アマンダ・ベネット著/早川書房/1800円) 上に挙げたロリの手記とロリの周囲の人々の手記から構成されている、分裂病者の内面世界を知る上で貴重な驚くべき記録。特にロリは最も手に負えない重症の患者に分類されていたこともあるほど重かったのだが、薬物の助けと彼女自身のたゆみない闘いのゆえに、ついに社会復帰をとげる様は非常に感動的。 『分裂した世界〜精神鑑定書は語る』(医学博士・岡本輝夫著/毎日新聞社/1700円) 日頃ニュースなどで事件における「責任能力」の鑑定が問題になるケースを見聞きするが、これはそうした精神鑑定のプロが記した、事件と関わる分裂病患者の内面世界。 『分裂病とつきあう〜治療・リハビリ・対処の仕方』(伊藤順一郎著/保健同人社/1350円) これは派手な幻覚や幻聴などの症状のない、もっとも外面的には健常人と近いタイプの分裂病者(しかしその数は多い)のことを扱った本ということで貴重。 『引き裂かれた自己』(R・D・レイン著/阪本健二他訳/みすず書房/1500円) 上に挙げた、分裂病者の内面を実存的な側面からとらえた本。 『分裂病がわかる本〜私たちは何ができるか』(原題:Surving Schizophrenia/E. Fuller Torrey著/南光進一郎他訳/日本評論社/2600円) 分裂病を完全に生物学的側面から捉えた立場の本。その診断、予後、原因、治療、リハビリなどについて最新の理論をわかりやすく説明。特に家族や患者たちに向けての細かいケアが書かれている。 |
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分裂病という病気は、パンプキンの育ってきた環境にとって身近な存在です。だからということだけでなく、分裂病の内的世界を見ていくと、私自身が悩んだりしてきた人間の根本的な悩みを含んでいるように思ったので、とても興味があって、いろんな本を読みました。(クレッチマーの分類など、精神病名で気質を分ける性格分類法がありますが、私はたぶん分裂病気質タイプになるでしょう、笑) 思春期は、誰もが孤独や疎外感を感じるものです。そして人間存在の根本的な不安も。他人とうまく関われないという思いも。まるで分裂病は、発病期に合わせて「思春期の病」(実はほとんどの人にとっては一生続くのだけれど…)と言えそうなくらいです。それをみんなはどう解決してゆくのか。それはわからないけれど、私自身は、宗教によってこれらの問題を解決してきたと言えます。 自分が異常ではないかと悩んだことは、思春期には誰にでもあり得ることですし、気が狂うのではないかという不安を抱いたことがある人も少なくないと思います。でも本気でそういう悩みを持ったことがある人は、他人を自分のものさしで決めつけないだけの柔軟さを持つことができると思います。「異常」とか「正常」なんて、あくまで他人が外から自分のものさしを押しつけるときに生じることであって、本当はそんなものないんだということ。みんながみんな、自分の内的世界の中で懸命に生きているのだということ。大事なのは、懸命に生きているその存在(実存)そのものなんだということ。…神の目には、人間の尊さというものは、常識的に振る舞えるか、人の目にどう映るかということではなく、苦悩を抱きつつ懸命に生きる、その魂そのものであるはずです。だからこそ、神は「裁いてはいけません」「私は誰をも裁きません」と言われたのでしょう。 「隣人を自分のように愛する」とは、自分が自分の内的世界の主人公であって、そこを通して世界を見ているように、誰もがその人の内的世界の中心であることを認めて、相手と同じ視点から考える努力をすべきことではないかなという気がします。孤独な人間ほど、人に優しくできるように、ちょっとズレた人間ほど、多くの人を包み込める。(可能性がある、笑) にも関わらず、マスコミにも現れているように、人は陰口が好きだし、他人を異常だと決めつけることが好きです。それはもしかしたら、誰かを異常だ、悪者だとすることで、異常を異常、悪者を悪者だと判断できる自分が正常だと思って安心できるからではないかという気がします。社会は、つるしあげて叩くスケープゴートをいつも必要としている。そうすることで自分から目をそらすことができるのです。 他人を理解することはいつだって難しいことですが、分裂病者の内的世界を理解しようとすることは、他人を理解しようとする時の基本を教えてくれるような気がしています。 |
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