「天皇の存在理由は?」=「天壌無窮の神勅」というのは本当に、このことを何の文句も言わずに信じて初めて保守派であるといえるだろう。
大嘗祭において、天皇は真床追衾を引きかぶる儀式を行うが、これは何を意味しているのか。要するに、天壌無窮の神勅で天照から地上を統治するようにと命じられた天孫ニニギ命の後継者であるということを示しているからである。なぜなら、赤ん坊だったニニギは床追衾で覆われて高天原から地上に降臨したから。
天皇は大嘗祭でそれを再現することによって、ニニギの後継者として天照によって天孫が世の終わりまで統治すべしと命じられた日本国の王であることを示すわけである。また、真床追衾を引きかぶったときに、天皇の霊を受けるからである。
従って、天皇の地位についてああでもないこうでもないなどという議論は一切必要ない。「天壌無窮の神勅」で神様が決められたからなのであり、大嘗祭で天皇霊を受けたからだ、で充分なのだ。というかそれ以外に天皇の地位を保障するものなど存在しないのである。
だから、皇統が絶えないように女系天皇を認めなければならないとかいう議論は全くナンセンスなことだ。神様が約束されたのだったら、人間の目にどんなに困難にみえることであろうとも、神様が面倒を見られるだろう。もし、皇統が絶えたならば、それは日本国と皇室が神様から見放されたか、あるいは天孫に約束をした神など初めから存在しなかったということなのである。
つまり、その時はそんな皇室など存在する値打もない。
この問題は例えるなら、イスラエル民族の存続の根拠が、彼らの民族神が太祖アブラハムに対して行った「汝の子孫は海辺の砂のように増える」という約束に基づいたものであり、なおかつパレスチナ統治の正当性を同じく彼らの民族神が太祖アブラハムに対して行った「パレスチナの土地を約束の地として与える」という約束に基づいたものであると考えることと同じである。
また、カトリック教がローマ法王をイエスキリストの地上代理者として信仰する理由が、イエスが後にローマ司教となった聖ペテロに与えた「あなたの上に私の教会を建てる」という約束に基づいていることと同じだ。
例えば、ローマ法王の正統性に対するイエスの約束だが、ローマ法王を認めないプロテスタントは、「あなたの上に」という部分を「あなたの信仰の上に」と書き換えている。そしてペテロの上に教会を建てるといったのはカトリックの勝手な解釈にすぎないというわけだが、コトが「信仰」に基づく以上、どちらが正しいという客観的な基準は存在しないのである。
要点はそこのところで、ペテロの後継者の上に神によって教会が建てられたことを信じるものが私はカトリックの信者ですと言えるのであって、信仰の上に神によって教会が建てられたと信じるものはルターの後継者です(プロテスタント)と言えるのである。
同様に、天皇は天壌無窮の神勅によって日本国の統治者なのであると信じる者が日本の保守派を名乗る資格があるのであって、そう考えないもの、例えば憲法一条を持ち出してくる時点ではじめから非国民であり、シナ人とかわらない。逆説的な言い方をすれば、天壌無窮の神勅によって天皇は日本国の統治権を与えられていると信じるならば、石平氏のような元シナ人であろうが、在日であろうが、白人であろうが黒人であろうが日本人である。
同時に、天皇は宝鏡奉斎の神勅によって、ローマ法王と同じ大祭司としての権能を神から与えられている。これに百姓の王としての斎庭の稲穂の神勅と併せて、天皇の地位は成り立っているのである。
要するに、皇室とは「宗教」なのである。天皇を通して神を見る宗教なのである。
(陳さんのWorld view:本日のリーベンオチ より引用)
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