関西再度STORY

<その4>阪神大震災から15年

2010年2月24日
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ビルにライトアップされた「1・17」=神戸市中央区で2010年1月17日、城島徹撮影


 関西で真冬の2月を過ごすのは阪神大震災のあった1995年以来のことだ。阪神間の兵庫県西宮市に暮らしながら震災取材に当たった私にとって、「1・17」から数週間は怒涛(どとう)の日々だった。見知らぬ者同士が「大丈夫ですか?」と声を掛け合い、食料を分け合う姿に「人間は捨てたもんじゃない」と思ったが、その「ユートピア」の期間も長くは続かず、支援活動に立ち遅れる行政や被災者間格差という現実が浮かび上がってきた。その記憶をたどるなかで、「15年の歳月」に絡む不思議な「縁」に遭遇した。

   ◇   ◇   ◇

 「ドーン」と突き上げる衝撃で目覚めた。シェイクするような激しい横揺れ。次々倒れ込む家財道具に埋もれ、体の自由を完全に奪われた。「別室の家族は無事なのか」。もがけばもがくほど、ラックや本棚が体に食い込み、「ハアハア」という自分の声が闇に響いた。家族ともども無事ではあったが、マンション隣人がドアを破って私を救出してくれたのは発生から2時間後だった。

 あれから15年が過ぎた。「あの震災を経験して私たちはどう変わったのだろう」

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弘本由香里さん


 震災前から文化関係のシンポジウムで顔なじみだった大阪ガスのエネルギー・文化研究所の客員研究員、弘本由香里さんと再会し、そんな話題となった。

 住まいや街づくりを研究していた彼女は兵庫県宝塚市内で被災し、危く脱出してからもしばらくは動揺が収まらなかった。

 「隣近所で亡くなった人々の死を悼もうとしても、名前はもちろん、顔すら思い浮かべることができない。悲しすぎる......」

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犠牲者を悼むろうそく。「愛」の文字が見える=神戸市中央区の東遊園地で2010年1月17日、城島徹撮影

 ほどなく大阪市内に生活拠点を移し、大阪市立住まい情報センター(大阪市北区)の開設に携わりつつ、商店街の長屋再生の取り組みなどを通して住まいや暮らしの歴史を掘り起こしてきた。

 そんな彼女に「私の"弟"の店に行きませんか」と誘われた。

 「実の弟ではありませんが、本当の弟みたいで、能楽囃子大倉流太鼓の大倉正之助さんとも仲良しなんですよ」

 店の名前が心斎橋の「若松」と聞いて「おやっ」と思った。15年前の新聞を調べると、あった、あった。「がんばってますボランティア 被災者救援に汗」(2月7日付大阪版)という記事が。実は(弘本さんの"弟")大二郎さんの母由美子さんを取材した時の記事だ。これは何かの「縁」に違いない。

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1995年2月7日の大阪版記事

   ◇   ◇   ◇

あの取材は阪神大震災から3週間ほど過ぎたころだった。記事はこんな内容だ――。

 《大阪・ミナミにある若者の街アメリカ村界隈の長屋の一室。息を弾ませ悲惨な被災地から戻ってきたジーンズ姿のボランティアたちが言った。「(被害のほとんど感じられない)大阪の街は夢のようや」。先住民族や在日外国人などマイノリティーの問題に取り組むNGO(非政府組織)の事務所は熱気を帯びていた。

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大阪・ミナミのアメリカ村=1998年、大橋公一撮影

 心斎橋の老舗の天ぷら屋「若松」の2代目女将として切り盛りする堀越由美子さん(当時45歳)はそのNGOの代表でもあった。由美子さんの長男、大二郎さん(当時18歳)は震災直後、バイク仲間に「被災地に救援に行こう」と呼びかけた。それがきっかけで、人海戦術で一斉に動きだした関西のNGOの連絡拠点となった......》

 この年は震災に続き、東京の都心でオウム真理教の地下鉄サリン事件が発生し、大阪では横山ノック知事が誕生。春を迎え、私はあわただしく東京へ転勤したのだった。

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阪神大震災の被災地でボランティア活動に参加する子供たち=神戸市・東灘区本山第二小学校で1995年1月25日

   ◇   ◇   ◇

 15年後の立春。弘本さんらと「若松」に晩ご飯を食べに行った。

 年季を感じさせる店は7席ほどのカウンターにテーブル席が8席ほど、値段も手ごろで近所の会社員が気軽に立ち寄れる雰囲気で、由美子さん、大二郎さんの親子が手際よい動きを見せていた。

 「大ちゃん、熱かんお願いね」。せっせと天ぷらを揚げる「弟」に弘本さんが注文すると、「はいっ!」という大きな返事。割ぽう着姿の由美子さんが運んでくる旬の野菜の天ぷらや大皿のおばんざいを楽しんだ。

 持参した15年前の記事コピーを見た由美子さんは静かに言った。「思い出しました。あの時はふつうの状態ではなかったですね。みんな夢中でしたね」

   ◇   ◇   ◇

 さて、大阪の街で「姉」と「弟」の出会いのきっかけとは――。弘本さんが話してくれた。

 それは震災から2年後の97年春だった。弘本さんは知人から唐突に言われた。「弘本さんにそっくりな子がいるよ。ピアスをいっぱいつけてアフリカンドラムもたたく心斎橋のお店の若大将で、絶対に会いに行った方がいい」。聞けば自分より15歳下だという。「私とは縁遠い若者では?」と思いつつ、この店を知っていた友人と「若松」へ。

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堀越大二郎さん

 そこで大二郎さんらと能の謡の話で盛り上がり、まるで姉と弟のように仲よく謡を習い始めたという。大阪に根を下ろしたからこそ生まれた「縁」だった。

 大二郎さんは13歳から学校に通わず、ネーティブアメリカンの平和運動に加わって阪神大震災の前年まで世界中の24カ国を走ってきたユニークな経歴の持ち主だ。帰国後は「若松」の3代目として店に立ち、アフリカの太鼓ジェンベの演奏者としても活躍。また地域社会では若大将のように町おこしにも力を入れている。

   ◇   ◇   ◇

 弘本さんが編集を手がける季刊誌「CEL」(大阪ガスエネルギー・文化研究所発行)2010年1月号の特集は「生活者にとっての減災」だ。彼女は自身の連載「大阪・上町台地発 都心居住文化の創造へ」で縄文時代から古墳時代にかけての大阪平野の変遷図や災害リスクを表したハザードマップを掲載し、その意図についてこうつづっている。

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1954(昭和29)年頃の大阪御堂筋の風景


 《過去と現在、風土と暮らしが地続きであることを伝えようとの思いからである》

 後日、改めて「若松」を訪ね、大二郎さんに聞いてみた。「"お姉さん"はふだんおとなしそうに見えるけど、感性が豊かで、好奇心が強く、しかも情熱的な人だと思わない?」。すると、"弟"はうなずきながら答えた。「それに気付いたのは最近ですけど、僕もそう思います」(編集局次長)

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