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2009-12-27

生命系科学者が見た足利「冤罪」事件 後編

07:53

生命系科学者が見た足利「冤罪」事件 前編 - インサイドアウト脳生活。

PCRという実験

ここまでの事実を調べて、実験科学者として強い違和感を抱いた。それはPCRという実験手法に立脚した鑑定の危うさである。

実はPCRというのは、数ある分子生物学の実験の中でも最も再現性の悪い部類に入る実験なのだ。特に、反復配列を含む場合、増幅効率は悪くなる傾向がある。さらに、この方法の場合、父親と母親の2種類の配列を増やすことになるのだが、異なる配列を同時に増やすというPCRはどちらかというとイレギュラーである。それに加えて、遺留品に残された微量サンプルを元にして反応をさせるわけだから、これは実験としてはかなり難しいものといえる。事実、先ほどあげた弁護側鑑定では遺留品の型を特定できていたが、検察側の鑑定人として実験に当たった鈴木廣一大阪医科大学教授は、型までははっきりわからなかったと述べている。

(鈴木廣一氏が)自らMCT118型について再鑑定したか否かについては,自分はこれまでやったことがないが今回ははじめてやってみたこと,しかし,結果として型ははっきりとわからなかったと述べました。なお,このMCT118型の再鑑定に関する検査データは残っており,必要であれば提出できると述べました。

 また,弁護側申請の本田克也教授の鑑定で,鈴木証人の鑑定とは違って,MCT118型の鑑定結果が出たこと(18−24型)についてどう考えるかという問いに対しては,それはMCT118型鑑定に対する「習熟の違い」であり,本田証人の長年の経験に基づく技術から出た結果であると示唆しました。

http://www.enzaiboushi.com/500asikaga/-1121.html

このように、分析技術が発達したと思われている2009年現在においても、実験者によって異なる結果が出ているのである。かように、この手法は再現性が悪いのである。ちなみに、再審ではMCT118型DNA鑑定以外にも分析が行われ、そちらは弁護側、検察側ともに同じような結論が導き出されている。

最大の疑問

前回の冒頭にあげた疑問に戻ろう。今回の再審では、遺留品菅谷さんの型は異なるということがはっきり示された。これは、真犯人が他にいたとすることに他ならない。つまり、菅谷さんは100%無実だったのである。疑わしきは、という消極的な理由でなく、これ以上ないはっきりとした証拠が出たのである。ところが、そうすると分からないことが出てくるのだ。弁護人は、果たして遺留品の型をいつ18-24型だと認識したのだろうか。検察の主張通り、18-30型だと思って再審を請求したということはないのだろうか。ふたを開けてみてびっくり、そもそも検察の主張からして間違っていたというのだ。これに関しては、遺留品の再鑑定の際の様子がヒントになる。

今年の1月23日に半袖下着が超低温保存してある自治医科大学に赴き、検察官推薦の鑑定人と弁護人推薦の鑑定人が裁判官3名の前で宣誓したのち、本件の鑑定についていくつかの質問を受け、半袖下着を二つに分けて、それぞれ持ち帰られました。

 2人の鑑定人が鑑定資料を実際に見られた最初の機会ですが、お二人とも資料を見て難色を示されることはありませんでした。弁護側推薦の鑑定人にはその前にお目に掛かりお話しを聞いていましたが、精子は人間の細胞の中でももっとも強い細胞膜で守られた細胞で、保存状態の点からは問題はないと聞いていましたが、実際に資料を見てもらって、その不安が解消したように思いました。

http://allatanys.jp/B001/UGC020006020090508COK00288_9.html

弁護側が、事件の証拠である下着を勝手に持ち出して再審前に鑑定することができるのだろうか。その辺の法律的なことは知らないが、佐藤博史弁護士のこの発言を聞くと、どうも再審時に初めて鑑定したように思われるのだろうがどうだろうか。そこで、である。次のようなことを考えたらどうであろうか。今回の鑑定で、遺留品の型を調べたところ菅谷さんと同じ18-29型であったと仮定する。そもそもこの鑑定法は精度が悪いので、型が同じ人は実は日本人の中でもたくさんいるのである。そういうたまたまが重なって、遺留品菅谷さんの型が同一であったとしてもおかしくないのだ。だとしても、科学的には菅谷さんは無罪である。疑わしきは罰せずだからだ。この鑑定法で有罪を立証するのは不可能である。だがしかし、裁判所がそのように判断を下すであろうか。僕にはとてもそうは思えないのだ。そういう意味では、今回の100%無実、つまり同一であるとはいえないではなく、同一でない、という結果は、逆転無罪のための必須の条件であるように思われるのである。日本の裁判において、同一であるとはいえないから無罪である、は不可能であろう、それが僕が今の司法に感ずる印象なのだ。(もちろん、もっと精度の高い鑑定法を使えば菅谷さんの無実は容易に証明できるのではあるが。)

科警研の出した鑑定結果

今回の再審では複数の証人が、1991年の科警研の鑑定結果は怪しすぎる、というようなニュアンスの発言をしている。そこで、その鑑定結果の生データ(raw data)を是非とも見たいと思っていたところ、ネット上に写真があった。

事件関係ブログ» ブログアーカイブ » その他: 足利事件で再審請求中の菅家さんが釈放

http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/ashikagadna.png


写真1が当時の鑑定結果と思われるが、この写真と前編であげた電気泳動の写真を見比べれば、その違いは一目瞭然である。特に、科警研の写真の菅谷さんのレーン(写真1ー3、4)は、全体的にぼんやりと白い陰が写っていることにすぐ気がつく。これは「スメア」とかいったりする現象で、PCRで増幅させすぎたりするとでてくることがある。こうなってしまうと、コンタミとか反応の副産物とか、わけのわからないものがどんどん増えていっている可能性が高いので、判断は保留すべきということになる。そもそも、繰り返し配列の16bpを識別する電気泳動というのはかなり精度の高い技術が要求されるしろもので、これほどレーンが曲がっていたりしたら32種類のDNA型なんて分からないに決まっているのだ。恐ろしいのはこの写真の結果をもってして、遺留品菅谷さんの型が同じであると結論づけ、それがなんの疑問も挟まれないまま最高裁まで送られていってしまったという司法の現実である。

「当時の判断は誤っていなかった」のか

科警研の所長は、当時の技術では精度に問題があったことは認めつつも、判断自体は誤っていなかったと言っているそうである。この発言は科学的にどう解釈すればいいのだろうか。確かに、当時はMCT118型に代わる精度の高い鑑定法は存在しなかった。そのため、1兆人に1人という精度での鑑定ができなかったのもしょうがないのである。MCT118型法の精度はたかだか千人に一人程度だそうだ。しかしである。前述のゲル写真を見る限りでは、MCT118型すら満足に行われていない状況であり、これをもってして遺留品菅谷さんのDNA型が一致しているというのはやはり無理筋だ。ここは何としても、各DNA型に相当する配列をもったDNAをコントロールとして横のレーンに流すべきだったのだ。あるいは、16bpの精度では解析できないとするなら、29-31の間にあるDNA型だ、というように誤差付きで表示すべきだ。その上で、同一である可能性は1000人に1人です、というような統計的なコメントを結論とするべきだったのである。

冤罪の確率

このように、当時の判断は科学的に見ても誤りである、と結論づけたいところだが、実はだからといって当時の分析官を攻める気にはなれないのである。その昔、最先端の手法で、考えられる限りのあらゆる可能性を考えた上で出された結論が、実は誤りであることが分かった、というのはサイエンスでは最もよく起こる悲劇の一つだからだ。科学というのはそうやって一歩一歩歩んできたのである。今の技術を使って当時を批判するのは簡単だが、それは何も生み出さないのである。問題なのは、それほどに壊れやすいサイエンスの果実を、人々はいとも簡単に天から降ってきた絶対のものとして認識してしまうということである。これは実は地球温暖化問題に関する昨今のケンソウにも似たような匂いを感じている。

翻って、司法の現場である。裁判では必ず結論を出さなくてはいけない。そして結論を出すのは人間だ。人間とは必ず間違いを犯す者であるからして、冤罪というのは原理的になくすことはできないのである。過去、あるいは戦後でもよいが、日本の裁判所が下した判決のうち、どれくらいのものが冤罪だったのだろうか。ここでの問いは、冤罪があったのか、ということではない。どれくらいの確率で冤罪が発生するのか、というのが科学的な態度である。それが無期懲役刑であるならば確率は下がり、死刑ともなるとかなり0に近づくのだろう。でも、その値は繰り返しになるが、絶対に0ではないのだ。冤罪とは犯罪をなくすためのコストなのである。良いとか悪いとかでなく、そういうコストを支払い続けながら生きていく、そういうことを私たちは選択して生きていくことに合意したのだ。今回の事件はその事実をまざまざと見せつけられた。

まとめ

足利事件におけるDNA鑑定問題を正しく知るには基礎的な技術レベルで理解するのが最も良いだろうと思い、少し細かいところまで書いてみた。科警研の鑑定は当時だからしょうがないというレベルではなく、科学的に見直せばもう少し違った結論にするべきであった。しかしながら、裁判所はその結果をもってして疑うことなく判決を下したのである。科学者が社会に対してメッセージを発信する場合、常に過大、あるいは過小評価されるリスクを負うことになるのだが、そのことについて改めて考えさせられた事件であった。