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2009-12-26

生命系科学者が見た足利「冤罪」事件 前編

03:13

冤罪であることが明らかになっている足利事件であるが、今日行われた再審公判において警察庁科学警察研究所科警研)の所長が「当時の判断は誤っていなかった」と主張したそうだ。

【足利事件】DNA型鑑定めぐり対立 予定を2時間超える 栃木 - カンタケ日記.NET

足利事件については、

足利事件当時の新聞報道 - どうにもならない日々


足利事件でのDNA鑑定については前々から興味もあったので、今回少しばかり色々と調べてみることにしてみた。生命系ポスドクからみた足利事件というわけだ。参考にしたのはネットの情報だけではあるが、かなり興味深いというか、予想以上に衝撃的な事実が分かった。今回はその辺のことについて自分なりにまとめてみた。

疑わしきは罰せず、なのか

足利事件冤罪のニュースを初めて聞いたとき、菅谷さんが真犯人とするDNA鑑定は疑わしい、というような報道のされかただっと記憶する。そのとき真っ先に思ったのは、これはDNA鑑定に証拠能力がなくなったとする意見が採用されたのかな、ということであった。すなわち、ある人が無罪になる場合、現場に残されていたDNAが 1. 容疑者のものと同一であると証明できなくなったか、2. 容疑者のものとは別物であるということが明らかになった、のどちらかであるが、報道のニュアンスからして1であると思ったのだ。そもそも、科学的に証明され、裁判でも採用された鑑定自体が覆るわけはなく、それよりは当時の鑑定の精度では犯人を絞り込めることができないことが明らかになったと考える方が自然だと思ったのだ。現場の犯人の血液がA型で、容疑者の血液型がA型だからといって、すなわち彼が犯人だとはいえないのと同じ理屈である。要するに疑わしきは罰せず、だ。で、実際はどうだったのだろうか。このことを話す前に、今回おこなわれたDNA鑑定について簡単に説明してみたい。

MCT118型DNA鑑定とは?

DNA鑑定、特に今回捜査に用いられたMCT118型DNA鑑定における技術的な話しを理解する場合、3つのキーワードが必要になってくる。DNA, PCR, そして電気泳動だ。まずはDNAであるが、DNAといわれても普通に生活しているとピンと来ないかもしれない。DNAというのは簡単に言うと、人間、というか生命が必ずもっている分子で、A,T,G,Cという4種類の分子が文字通り数珠つなぎにつらなってできているものだ。人間の場合はこのA,T,G,Cが30億個くらいつながっていることが分かっている。この分子の並び方は実はおおよそ決まっているのだけれども、ひとりひとりよく調べると、微妙に違っていることが知られている。このちょっとした違いを調べることによって、人を識別することができる、というのがDNA鑑定の肝だ。MCT118というのは、30億文字の中のある一部分の場所の名前で*1この場所には16個の固まりでできた配列(具体的には、GAGGA CCACT GGCAA G、みたいな感じ。実は配列は多少変化するらしいのだが、詳しくは*2)が、何度も繰り返し現れることが知られている。この繰り返し数が人によって違っており、その長さを測定するのだ、ということがまず理解しておきたい第一点目だ。

次にこの長さを測ることになるのだが、普通現場の遺留品から得られるDNA量は極めて少ないため、直接測ることはできない。そこで用いられるのが第二のキーワードPCRだ。PCRの反応のメカニズムは他に譲るとして、ポイントととしては、PCR反応は元サンプルを滅茶苦茶増幅することができる、ということだ。しかもMCT118部分だけねらい打ちして増やすことができる。捜査でおこなったPCR反応の具体的なやり方は分からないので正確なことは言えないが、ごく標準的なやり方でやったとすると単純計算で10億倍の増幅をかけることができることになる。超微量サンプルからでも結果を得ることができると言われる所以だ。ただしこのことは欠点にもなり、元サンプルにちょっとしたゴミ、例えば実験者の皮膚のかけらなどが少しでも入ってしまうと(僕たちはこれをコンタミ [contamination] と呼ぶ)、予想外の反応が起こってしまうのである。こういう副産物が出やすい、というのがPCR反応の特徴でもあるのだ。

最後にPCRで増幅したMCT118部分の長さを実際に測定するのだが、これは電気泳動と呼ばれる手法を用いる。実はDNAはお父さんとお母さんからそれぞれ受け継ぐため、MCT118型は一人あたり2種類あることになる。例えば22回と24回の反復をもっている人だったら、22-24のように書く。これがMCT118型の記載の仕方だ。なんだか良くわからなくなってきたかもしれないので、実際の電気泳動の写真を載せよう。

f:id:gold-way:20091226032006p:image:w500

JASTI : Vol. 6 (2001) , No. 1 pp.43-48より引用


図の中で、何本も線が入っているのは物差しみたいなもので、はしご上に見えることからラダー(ladder)と呼んでいる。このラダーに照らし合わせることで、PCR反応物の反復回数を測ることができるのだ。図中、b-2だったら29-44となる。反復数は人によって13〜44回であり、PCRの結果増幅されるDNAの長さはは計算によるとだいたい350〜850bpになる(bpというのはDNAの長さの単位という理解でだいたいOK)。

ちょっと長くなったが、これが今回おこなわれたDNA鑑定の概要である。実は科警研は今回の事件のDNA鑑定を行うに当たり、3回ミスを犯している。次にこれらのミスについて見ていこう。

科警研の犯した3つのミス

第一のミス ラダーの間違いによるMCT118型の判定ミス

科警研は1991年に、現場に残された被害者のTシャツに付着した精子をもとにDNA鑑定を実施しているが、実はこのとき実験に使ったラダーは不適切だったことが後に判明した。今回調べた限りではどのように不適切なのかまでは分からなかったが、僕なりに推測すると次のようになる。電気泳動というのはDNAの長さが同じなら、A,T,G,Cがどのように並んでいてもだいたい同じようなところにバンド(バーコードの筋のような、あいつのことをバンドと呼ぶ)が出ることになっている。ところが、反復配列のような特殊なDNAはバンドの出方が通常のDNAに比べて特殊になることがある。そういう場合は普通のラダーを使ってはだめだ。ではどうすればいいかというと、ラダー自体に反復配列を持たせてやればいいのである。こういうのを「アレリックラダーマーカー」と呼ぶのだそうだ。科警研の鑑定では普通のラダー(123マーカー)を使っていたため、MCT118型を正しく判定できなかったのである。センチのものさしを使わなければいけないのに、インチのものさしを当ててしまったようなものだ。その結果出てきた結果は、遺留品菅谷さんとも16-26型である、というものであった。

第二のミス 遺留品菅谷さんの型を同一であるとしたミス

その後、科警研このミス自体は認めた。ただし、ものさし自体が間違っていたとしても、遺留品菅谷さんの型が一致しているという見解は変わらないとした。これは考えてみれば合理的な判断ではある。今まで1インチといっていたのを、2.54センチと言い直せばいいだけからだ。この場合、鑑定結果は換算式を使うことで、18-30型であるということになった。この換算がおこなわれたのが1995年だということである。しかしながら、実は弁護団菅谷さんのDNA型を再鑑定(押出鑑定)しており、その結果は18-29型である、というのだ。すなわち、遺留品の型の18-30とは一致しないのである。この鑑定結果は、しかしながら最高裁で採用されることはなかった。

第三のミス そもそも遺留品の型すら間違って鑑定していたというミス

その後、紆余曲折があってどうもDNA鑑定はあやしそうだ、ということになって再審が開かれることになるのだが、その結果遺留品の再鑑定もおこなわれることになった。で、鑑定の結果、遺留品の型はなんと18-30型ですらなく、18-24型であることがわかったというのだ。このときの衝撃を、鑑定にあたった本田克也・筑波大教授は次のように述べている。

 本田教授は当初、女児の肌着に残る体液のDNA型と菅家さんのDNA型は一致するだろうと思っていた。 「これまでの裁判で、そう認められているのですから」

 菅家さんの型は「18−29」というタイプ。しかし何度実験しても、肌着の体液からは、そのDNA型が検出されない。むしろ「18−24」という別の型がはっきりと出た。

 自分が間違えているのではないか。鑑定書を裁判所に提出する前日まで実験を繰り返した。 「国が一度出した結論を、簡単に『間違っている』と否定できるわけがありません。でも何百回試しても、一致しませんでした」

http://blog.goo.ne.jp/bongore789/e/f101b816cd49f2b24d9dfc9b2980b131

結局、検察側が主張していた18-30型すら、再鑑定の結果、正しくないことが分かったのだ。

ここまでをまとめると下の図のようになる。

f:id:gold-way:20091226032641p:image:w600


簡単のために血液型で例えてみよう。最初、科警研遺留品被疑者ともに、例えばA型であったという鑑定をした。ところが、弁護人が鑑定をし直してみると、実は容疑者はB型であることがわかったのだ。そこで再審を開いて遺留品も調べてみたことろ、なんと遺留品の型はO型だということがわかったのである。これをお粗末といわずしてなんというのだろうか。これが、20世紀の生み出した最強科学捜査手法と呼ばれてたDNA鑑定の実態だったのである。

後半では、PCRという実験手法そのものが持つ危険性などについて触れていきたいと思う。

生命系科学者が見た足利「冤罪」事件 後編 - インサイドアウト脳生活。

*1:正確に言うと、この場所を認識するプローブの名前。場所としてはD1S58というのが正しいっぽい。

*2http://domon.air-nifty.com/dog_years_blues_/2009/06/mct118-2f88.html