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ハート ネット ピープル

セクシュアル ペイン

[写真] 雲におおわれた太陽「隠されているのは、傷? それとも、ほんとうの笑顔…?」
[写真] 雲におおわれた太陽 「隠されているのは、傷? それとも、ほんとうの笑顔…?」

「だって、私まで拒んだら、彼はどうなっちゃうの…?」

4年ほど前、べろんべろんに酔っ払った末の場所もおぼえていない飲み屋で、友人が、こぼした言葉だ。
「彼」 とは、彼女の実の父親のこと。

彼女との出会いは、もう7年近く前になる。
いま思えば、わたしが生まれてはじめて、自分の心に抱え続けていた傷みを、隠すことなく話せた相手 「だった」 のじゃないだろうか。

過去形なのは―
彼女が、もうこの世にはいないから。

1年前の2月。
彼女は自宅の狭い和室で、自らその人生に終止符をうった。

インターネットがきっかけで知り合ったわたしたちは、実際に顔を見るまでに2年近くかかった。
はじめて難波の駅前でお互いを見つけたとき、「ああ、やっぱり…!」 なんてドラマティックな感動はまったくなく、緊張のせいか、まるでアニメ声のようにテンションの高すぎるキンキンした声が、耳に残った。
わたしも彼女もお酒が好きで―というより、お酒を飲まなければ、精神薬を飲まなければ、生きていけないと信じていて―その日も、駆けつけいっぱいから日本酒を注文し、「おいしいねえ」 と頬をほころばせながら、すでにその日の規定量はゆうに超しているであろう量の薬も、一緒にさらさら流し込んだ。

どれくらいのグラスを空にした頃だろう―
「私ねえ、セックスが嫌いなの」
唐突に彼女が言った。
「なんで? わたしは好きだよ。あんなに一体感を感じられるものってないじゃなぁい」
ろれつのあやしい口調で、冷酒から熱燗に切り替えた。カウンターの中で背を向ける飲み屋のご主人の後頭部に好奇心が浮かんでいる。
「一体感なんて感じたことないもん。だってあれは、男のためにあるもんでしょ? なにがいいのか、ぜんっぜんわかんない」
口を曲げる彼女の容貌は、たしかに 『今風』 とは言いがたく、当時20代後半であったはずの彼女に、わたしはお酒の勢いでなげかけた。
「…もしかして、処女?」
しかし彼女は、窓ガラスが割れそうなほど甲高い声で笑った。
「会った人とは、たいてい寝る。だって、会ったのに、セックスしないなんて悪いでしょう?」
会った人― 「彼氏」 ということではない。
彼女はインターネットのサイトなどを通じて時々男性と会うことがあり、食事をし、しかしそのまままっすぐ家に帰ることはしなかった。

当時…の少し前、わたしは、『性依存』 だったと思う。
だけど、その対象は 「好きな」 パートナーにのみに向かっていたし、それ以前の不特定多数だった時にも、セックスが 「好き」 だったから、していたのだ。
「嫌い」 なのに、なぜ、そんなにもセックスをしなければならないのか、わからない。
話しているうちに、冒頭の会話になった。
彼女は言う。
「うち、両親が学生の時に離婚してるんだけどね、私だけ、父さんについていったの。…夜中、1時くらいだったかなあ。私が寝てたら、酔っ払った父さんが布団の中に入ってきてねえ、お母さんの名前を呼びながら…触ってきたの」
「拒まなかったの…?」
「だって、私まで拒んだら、彼はどうなっちゃうの…?」


わたしは、今から1年前、2009年の1月に放送された 「ハートをつなごう」 で、自分がかつて 「恋愛依存」、「性依存」 であったことを告白した。
当時は、自分の性依存は 「必要とされたくて、そのために、性の対象である自分にしか自信が持てなかった」 と話したが、収録中のパーソナリティーの方のお話の中に、ひとつ、ひっかかるフレーズがあった。
「性被害者ほど、逆に、性に依存するケースも少なくない」
とっさに思い出したのは、友人である彼女のことだ。
だけど時間が経つにつれ、そのフレーズは、わたしが封印していた過去までも、倒してしまったシュガーポットからこぼれてはじける角砂糖のように、脳内に散乱した。

最初に 「いたずら」 を受けたのは小学校中学年の時。
自転車の二人乗りをしていたのを注意され、「学校に言われたくなかったら言うとおりにしろ」 と、見知らぬ男性に車の中で性器と猥褻な写真を見せつけられた。
中学生の時には、信頼し、恋心すら抱いていた教師が、影で他の女生徒にわたしのことを 「妊娠でもさせてやろうか」 と笑っていたと聞いた。
電車に乗れば、痴漢に遭う。
助けてくれた人とともに駅員室に行くと、「そんな露出度の高い服を着ている方が悪い」 と吐き捨てられた。

やがて、わたしの頭の中で、変換作業が行われる。
『わたしが性的なことを好きだから、こういうことが起こるんだ』

合意とはいえないセックスも、数多くあった。だけど拒むほうがこわかった。
脅されるより、殴られるより、受け入れる方が100倍らくだ。
「わたしは、セックスが好き」
そう思えば、どんなセックスをされても、「かわいそうなわたし」 にならずにすんだ。

彼女が、なぜ、命を絶つに至ったのか―本当の理由はわからない。

だけど、その半年ほど前、偶然会った男連れの彼女は、微笑みながらわたしに言った。
「ね、彼、結構いい男でしょ。自殺サイトで知り合ったの」

人間が、ひとりきりで生きていくのは、とてもしんどい。
生涯伴侶となれる存在を求めることが本能であるなら、その中に、身体を重ねるという機会も多く訪れることだろう。

だけど、まちがえてはいけない、と思う。
「身体」 をつなぐことは、イコール、「心」 をつなぐことにはならない。
裸にするべきは、身体ではなく、まずは、お互いの心なのだ。

「減るもんじゃないし」 と、若い頃、わたしはよく笑っていた。
今なら、わかる。
愛のないセックスは、重ねた体から体温を奪う。
激しい摩擦にこすり合わせた身体は、心にも、消えない傷をいっぱいつける。

コメント

セクシュアル、という言葉からは少し逸脱しますが、幼年期に親から受けた虐待、というのを、
虐待を受けた子供が正面から受け止められない、という傾向があるようですね。

ここ数年、親の虐待によって亡くなるお子さんの
ニュースが増えてきて、本当に悲しくなるのです
が、そのニュースの一文でよく「子供が、虐待は
されていないと主張して、親をかばう一面があった」というのを見つけます。
実際は、命を奪われるまで暴力を振るわれ続けたのに・・・。

それが虐待が判明されにくい、第三者が防ぎ
にくい理由のひとつにもなっているのだとか。

セリさんの、お友達のお話を読んでいて、性的
虐待であろうが、瀕死の暴力であろうが、その
暴力をうけた子供達の「自分を守る」という、
人が生きていくうえで一番大切なものを、それら
の暴力は等しく子供たちから奪っていくのだな、
と思いました。
自分を大切にする、って気持ちは、実は親から
のプレゼントでもあるのかもしれません。

親への感謝を再度思い起こしつつ、亡くなった
セリさんのお友達へ、お悔やみを、申し上げます。

こんにちは(*^-^*)
コメントを書いてくださって、ありがとうございます。


> ぱんでぃ  様

本当に…幼い子ども(もしかしたら、大人になっても…かもしれません)にとっては、親は、生まれた瞬間から「ぜったい」で「すべて」なので、虐待を受けても、それでも愛し受け入れてもらえる日を信じてしまうのかもしれません。
きっと…信じなければ、心が生きていくことすら、むずかしいからかもしれませんね…。

『自分を大切にする、って気持ちは、実は親からのプレゼントでもあるのかもしれません。』

ぱんでぃさんのそのお言葉、胸に染みました。
昔、私が自分の体を大切だと思えなかったとき、母に「もっと自分を大切にしてください」と手紙をもらったことがあります。
だけど私にとっては、「自分を大切にする」という意味すら、まったくわからなかったんです。
「私の体でしょ?ほっといてよ。体なんて、命なんて、いらないんだよ」…と。
今、母を含め、沢山の人に愛されていることを感じることができ、はじめて「自分を大切にしたい」と思えるようになりました。
最初に出会った存在…親からの愛は、子どもが成長し、自分を、そして周りの人を愛していく上で、一番大切なプレゼントなのかもしれませんね。

私は、両親や、他の男性から、何かしらの性的暴力をされたことはありませんが、両親からの愛情がもらえず、感情を、すべて閉鎖したので、そのマイナスを埋めるがごとく、好きでもないのに、すぐ、恋愛をして、セックスをしてきました。

ぽっかり空いた穴を埋めてくれるのは、自分しかありません。

好きでもない人とセックスをしても、ますます、
その穴は大きくなり、自分との信頼関係もなくなり(本音で生きていないので本気で好きではないので)そんな事ばかりしている自分が許せなくなり、相手の男性は悪くないのに、責めたり、いいことなんて、ないのに、何度も何度もそんなことばかりを繰り返していました。

20代後半から、自分と向き合うことを勇気をもってしてきました。

ぽっかり空いた穴を自分で埋めてゆく、自分を認め、愛してゆく作業を根気よくしてゆくことは時として、辛いこともありますが、今後も続けてゆきます。

そんなとき、周りの環境、周りの人の心も変ってゆきます。

どうぞ、若いうちから、辛いでしょうが、勇気をもって、ご自分と向き合ってください。
そんなとき、同じような思いをもった、友人など、必ず、出会えるものです。

あきらめないで、これからの人生に、過去を持っていかないで。

宝石が見つかると信じて、ご自分を見つめて下さいね。私もがんばります!
一緒にがんばりましょう!
辛い辛い過去を生きてくれた自分の為に。

こんにちは(*^-^*)
コメントを書いてくださって、ありがとうございます。


> クロ吉  様

お気持ち…いたいほどわかります。
セックスって、体が触れ合って、ぬくもりを感じて、そのときだけは「ひとりぼっちじゃない」と思えたりするのですよね。
幼い頃、両親から「大好きだよ」「そばにいるよ」と、いっぱいぬくもりをもらえていたら、きっと一人でも立っていられるのでしょうけど…わたしも、無理でした。
繰り返してしまうお気持ちも、すごく共感します。
本当にほしいのは絶対の愛で…でも、それを望むべき相手は、男性ではなく、自分自身だったのでしょうね…。
「自分と向き合うこと」…わたしも、猫と出会って、どんな過酷な状況でも文句ひとつ言わず生きる姿に、気がつけば自分をみつめる機会をもらいました。
そして、クロ吉さんのおっしゃるとおり、自分がかわると、まわりも変わっていく…。愛情の循環が生まれますよね。
たったひとつの心残りは、彼女にとっての、その立場にわたしがなりきれなかったことです。いつかどこかで会える日がきたら、ちからいっ
ぱい抱きしめて「あいしてる」をつたえたいです。

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