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特集ワイド:’10シリーズ危機 医療/上 作家・精神科医、帚木蓬生さん

 <この国はどこへ行こうとしているのか>

 ◇国の意思が必要

 北海道夕張市など市立病院の閉鎖や救急病院での患者の受け入れ拒否は、現代医療のゆがみをむき出しにした。医師不足は都会と地方の医療格差を広げ、国民の不安は高まっている。政権交代後、国は限界に近づきつつある医療の処方せんをどう書くのか。【鈴木梢】

 かつては、線路沿いに産炭地の風景が広がっていたのだろうか。福岡県北部を走る「筑豊電鉄」に乗り込み、人影まばらの通谷(とおりたに)駅に降り立った。小雨交じりの駅正面に、緑色の看板を見つけた。

 <心身の健康よろず相談、治療引き受けます>。看板には「ココ」という矢印があり、目線を移すとアーチ形の屋根の小さな診療所があった。玄関で、茶色の硬い毛をした犬がしっぽを揺らしている。

 午前中の診察を終えた帚木蓬生(ははきぎほうせい)さん(63)は、アイロンの利いた水色のギンガムチェックのシャツをさらりと着ていた。「駅は目の前、近くに大型駐車場もある。いい場所だと思い、開業しました。月に30人ほど新患がいますが、身の上相談が多いですかね。いわゆるお薬の効かない、話を聞くことしかできない患者さんが来ます」

 ギャンブルなどの依存症をはじめ、介護の苦労や息子の不登校に対する悩みにも耳を傾ける。「今の人たちには、相談の行き場がないような気がする。その機能が医療の現場に欠けていたと思う」

 60歳を前に、勤務医から開業医となった。臨床と研修医教育で多忙を極め、限度を超えているとの思いもあった。「気の毒なのは、私が去って残された人たち。勤務医は本当に疲れている。むやみに受診を重ねる患者側の大病院志向もあるでしょうし、あまりお金がかからないという保険制度の副産物でもある。でも、50歳を過ぎたら、精神科医は町に出たらいい。外来医である開業医こそ医師の醍醐味(だいごみ)。開業しなければ、精神科医の面白みの6割ほどしか分からないまま、死んでいたんじゃないでしょうか」

 町に拠点を置き、人と深く付き合うからこそ、社会の病巣も見える。「患者さんの大部分が低所得者層ですよ。非正規の派遣の人たちは安月給で昇給もない。不安でうつとかパニックになる。正社員の方は、サービス残業しても我慢しろと言われ、えらい過労です。社会の経済的なゆがみを受けている人が、メンタルでもゆがみを受けるのです」

 …●…

 日本の医療界では異色の経歴を持つ。東大仏文科を卒業。TBSに入社し、歌番組などの制作に携わり、2年後に退社した。九州大医学部に入学したのは、25歳だった。「日本の医学部は高卒で入るけれど、早い。アメリカみたいに4年制大学を卒業して入るぐらいがいい。幅広い知識を得てからの方が制度上もいい。1割ぐらいは既卒者を面接で入れれば面白い。門戸が開かれてないから、医療の矛盾もあまり感じなくなる」

 「純粋培養」でないからこそ、医療が内包する「危うさ」が見えてくるという。「道徳より好奇心や功名心が先走る分野ですから。ちょっとしたモラルははねのけて、何事も患者さんのためという錦の御旗(みはた)で突っ走れる」

 帚木さんが書く医療小説には、生命倫理を扱った作品が多い。「終末期医療でも、高齢者に医療費をかけすぎています。点滴を少なくして、眠るように最期を迎えた方がいい場合もある。現場はもうかるから、明日までの命であっても薬を費やして医療費を取る。その分を小児医療にかけた方がいい」

 小説「アフリカの瞳」は、製薬会社の横暴を描いた。「製薬会社は病気を作る。売りたい薬があれば、情報を与えてあおり立てる。大学教授も宣伝にのり、海外でも医療雑誌に論文を投稿する人の多くは製薬会社の顧問になっている。臨床医は、何が大切か見失いがちになってしまう」

 診察室に、遮断機が下りる甲高い音が響く。列車が診療所とのわずかなすき間を保ち、疾走していく。セラピー犬の心(しん)君はピクリともせず、床に伏して目を閉じていた。

 …●…

 「よろずの悩み」を受け止める診療所を、半年間離れたことがある。一昨年の7月、<急性骨髄性白血病の治療のため、入院します>との紙を院内に張り出した。昨年1月に復帰するまで、仲間の医師や大学医局からの派遣で18人が代診、持ちこたえた。

 「半年で1200万円ほどかかりましたが、高額療養費制度があるので実際は約60万円で済みました。こんなに保険が行き渡って恵まれた国、先進国では他にない。友人から東京の病院に行くよう提案されましたが、近くでもそん色のない治療法でした。各都市の治療水準にデコボコはなく、ほぼ行き渡っています」

 日本は経済大国へと成長を続け、高い水準の医療体制を築き上げてきた。しかし、世界に誇れる盤石だった日本の医療に、亀裂が生じ始めている。原因は、80年代から国が推し進めた医療費抑制政策とされる。高齢化に伴い医療費の増大するなか、国は「財政構造改革」の名の下、医学部の定員を削減した。痛みを伴う改革の末路は、深刻な医師不足だった。

 「地域ごとの医師の偏在により、へき地等における医師不足が大きな問題となっている」。医療制度改革の方針を決める05年の「医療制度改革大綱」に盛り込まれた文言は、国民へのざんげだったのか。日本における人口1000人あたりの医師数は2・1人。経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均は3・1人で、加盟30カ国のなかで下から4番目と最低レベル。医師不足の深刻化は、地域医療を消耗させ、現場の気力を衰えさせた。

 「医療というのは、国の意思がものすごく反映されます。医療と教育は、国がどうでもいいと思い始めたら、ガタガタになる。医者だって訴訟がない分野に行きたいし、忙しいところでだれが働くか、ということになる」

 患者が救急病院から受け入れ拒否される「たらい回し」や、医療事故につながりかねない医師の過労。医療現場における相互不信は深まっている。「今、国は医療を立て直すといって経済的な方にばかり気を取られているようですが、医療を大切にしているんだというメッセージが必要です。生活者に降りかかってきますから、医療というものは。崩壊してしまえば、再建は難しい」

 崩壊も危ぶまれる日本の医療、傷はどこまで深いのか。帚木さんは、冷静な視点で語った。「国家の意思が崩壊しているわけではない限り、それほど深刻な危機とは言えません。表面上での医者の偏在や不在というほころびと呼ぶべきでしょう。押しなべて高い医療水準を保ってこられたのは、政府の方針があったし、医者の努力もあった。さらに、国民が医療を支えようという雰囲気があったんじゃないでしょうか」

 「コンクリートから人へ」。このキャッチフレーズに真実味を与えるのは、政権の熱意と実行にほかならない。

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ファクス03・3212・0279

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 ■人物略歴

 ◇ははきぎ・ほうせい

 作家、福岡県中間市の「通谷メンタルクリニック」院長。1947年、福岡県生まれ。79年に「白い夏の墓標」を発表し、直木賞候補に。93年「三たびの海峡」で吉川英治文学新人賞、95年「閉鎖病棟」で山本周五郎賞、97年「逃亡」で柴田錬三郎賞を受賞。「臓器農場」「安楽病棟」など医療小説多数。

毎日新聞 2010年2月22日 東京夕刊

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