西宮にある白鷹禄水苑では、酒蔵見学以外にもさまざまな催しを企画している(
http://www.hakutaka-shop.jp/frame.html)。参加したのは「能の四季を訪ねる 第1回『西行桜』の舞台 」
花の歌を数多く詠み、望んだとおり桜の季節に亡くなった西行。終焉の地は河内だが、漂泊の詩人と呼ばれるとおり、各地を放浪した。大原野にある勝持寺(しょうじじ)には、出家まもなくの頃に庵を結んでいたと伝えられる。
京都の西部、長岡京の北にあたる大原野は、交通の便がよくなくて観光客もまばらなところ。しかしさすがに桜の名所だけあって、この季節はハイキングスタイルの人でいっぱい。
ツアーメンバーはタクシーに分乗して勝持寺にむかう。
通称「花の寺」と呼ばれるここは、戦国バサラ大名・佐々木道誉が非常識に豪華な花見をしたことで有名だが、今は、のどかで落ち着く場所だ。山の中腹にあり、境内でもかなりの高低差がある。目の下に桜を一望できるところに立つ。全体としては三分から五分咲きといったところ。やはり今年は花が遅いようだ。
能『西行桜』
――美しく咲いたと聞いて都から花見の一行がやってくる(いつの時代にももの好きはいるのだ)。わざわざ遠くから来た人々を追い返しこそしないものの、ひとり静かに過ごしたかったと西行は歌を詠む。
「花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら花のとがにはありける」
人が押し寄せるのは花の罪だ、と言った西行のところに、何が花の罪なのですか、と桜の精が現れる――
花の精といえば美女、と思いがちだが、『西行桜』では白髭の翁。
だから西行桜といえば、どっしりとした、白い花を咲かせる古木を想像していた。しかし、実際の「西行桜」(西行手植えの桜)はほっそりと背が高く、可憐なうすくれないの花をつけている。
「これは何代めかの木でしょう。西行もまだ若くて、皆で花を楽しむという心境に至っていなかったのでしょう」と桜の解説板の前で、今日の講師・久田舜一郎さんの説明を聞く。
西行の出家は23歳のとき。財産もあり、若くて何の悩みもない人がなぜ妻子を捨てて出家するのか、と当時の人は不思議がったそうだ。
参道を大原野神社へむかう。わりと急な下り坂。左右には竹林がつづく。
大原野神社は、奈良から長岡京に都が移ったとき、春日大社の分霊を祀ったのがはじまり。池も猿沢池をまねて造ったという。よほど奈良が恋しかったのだろう。
お社の前には、こまいぬならぬ「こましか」がいた。
また、在原業平は、若い頃の恋人、今では皇太子の母・藤原高子がこの神社に参詣したとき歌を贈っている。
「大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひいづらめ」
神社を護っている小塩山も華麗な行列を見て神代の昔を思いだしているだろう、ということだが、「神代の昔」には、遠い昔に思える若い頃という意味も当然あるだろう。
業平といえば六歌仙のなかでも美男で有名だ。南の峰にある善峰寺の近くには、業平が塩を焼いた竈跡など、業平ゆかりのものがある、とタクシーの運転手さんが教えてくれた。
お昼に懐石料理をいただいたあと、解説付きで鼓の演奏を聞く。
気さくで面白い語り口の久田舜一郎さんは大倉流小鼓方で重要無形文化財総合指定保持者。
参加者の中に謡をされる方があり、『鞍馬天狗』の「花咲かば告げんと言いし山里の〜」の一節を謡う。それに合わせての演奏。
『西行桜』の、京の桜の名所をあげていくところを謡うのに合わせて、やはり大倉流小鼓の久田春陽子さん(舜一郎さんの長女)が鼓を打った。
昼食後、大原野の特産であるタケノコを買ってかえる人もいた。
途中わずかにばらりときたが、ときどき陽も射し、のんびりと贅沢な春の一日だった。
◇ OLU project 松岡永子 ◇