「おたがいにがんばりましょう!!」--。フィギュアスケート女子シングルに出場する安藤美姫選手(22)=トヨタ自動車=は、難病と闘い08年亡くなった各務宗太郎(かくむそうたろう)君(当時9歳)と約束していた。「自分を信じれば頑張れることを教えてくれた」と安藤選手は話していたという。宗太郎君への思いを胸にリンクに舞う。【稲垣衆史】
母優子さん(38)=名古屋市東区=によると、生後間もなく胃や腸が正常に機能しない難病と診断された。08年3月、米国で5臓器の移植手術を受け、食べられるまでに回復したが、合併症で同年9月亡くなった。
2人の交流が始まったのは08年1月ごろ。手術と渡米費用の寄付金を呼びかける報道を見た安藤選手から、宗太郎君に手紙が届いた。「そうたろうくんの夢がかなうように力になりたい」「びょうきにまけないでがんばれ!」「つらい事があったら空を見てね。元気が出るよ」
08年2月、安藤選手は4大陸選手権から帰国後、入院している東京都内の病院を訪れ、獲得した銅メダルを宗太郎君に贈った。宗太郎君は手作りのおにぎりを安藤選手にプレゼント。自分は食べられないため、優子さんが持ち込んだご飯を優子さんに食べさせるのが習慣になっていた。
渡米後も交流は続いた。入院しているニューヨークの病院と安藤選手の練習拠点が車で約1時間だった。安藤選手は何度か病室を訪れた。「宗太郎は美姫ちゃんに、友達のように自然に接しました。美姫ちゃんも宗太郎を特別扱いしなかった。内気な似た者同士で、心地よかったのかしら」と優子さん。宗太郎君が亡くなった時、安藤選手は病室にいた。「これ宗ちゃんの」と枕元にハンバーガーを置いた。
安藤選手は「ハンバーガーを食べたい」と願う宗太郎君の強い目にひかれたと話していたという。「宗ちゃんから元気をもらえる」「自分を信じたら頑張れることを教えてくれた」。そう話した安藤選手が当時、ケガや体調不良にあえいでいたことを優子さんは後で知った。
「元気になったら応援に行こう」との約束を果たせなかったため、優子さんは試合に行くことをためらっていた。しかし、安藤選手が宗太郎君からの手紙や写真をいつも持ち歩いていることを知り、「今もそこまで思ってくれるなんて」と、昨年末から足を運ぶ。バンクーバーへも向かう。宗太郎君の形見、恐竜のお守りとともにリンクを見守る。「ミキちゃん、最高の笑顔を見せて」
毎日新聞 2010年2月21日 東京朝刊