白壁の土蔵群を50メートルほど行くと、田部家の門が見えた。竹下登元首相が花見に訪れたという枝垂れ桜は正月、雪に覆われていた=島根県雲南市(旧吉田村)、南写す
大晦日(おおみそか)の出雲は吹雪だった。日航機は着陸できず、出雲上空を1時間旋回した後、羽田空港に引き返した。子連れの父親がターミナルで「とうさん、ごめん。今年は帰るのあきらめるわ。よいお年を」と電話を入れている。
全日空機で隣の鳥取県にある米子空港へ飛び直し、バスと電車を乗り継いで出雲にたどり着いた時には2010年を迎えていた。
参院自民党の重鎮である青木幹雄氏が出雲に里帰りしなかったのは、大雪のせいではない。今夏の参院選に5選を目指して立つ決意は固めたものの、表向きは「年明けまでいっさい決めません」と公言して自らの去就を封印し、東京都内のホテルに引きこもった。
ことしで76歳。自民党は野党に転落し、重鎮批判も強まる。政界の師である竹下登元首相が築きあげた派閥・経世会のかつての栄華は見る影もない。昨年は「もう選挙には出たくない」と、かつての秘書仲間にしばしばこぼした。
選挙の年が明けても出馬表明しないのはなぜか。党内で世代交代論の標的に自分がなってしまったとの自覚もあろうが、それより自らの後継問題が大きいのではないか。折に触れ東京で青木氏に話を聞いてきて、そう感じてはいた。
青木氏にはことしで49歳になる長男がいる。小渕内閣の官房長官に就いた時は秘書官として首相官邸を経験させた。その後も、ほとんど帰郷しない父親に代わって公設秘書として毎週末のように地元入りし、まめに会合に足を運んだ。評判は悪くはない。
ところが出雲では青木氏の長男が世襲すること自体に抵抗が強い。政治経験を積ませるため3年前に出た県議選に擁立する案は、竹下系県議から慎重論が出て見送られた。青木氏とともに竹下氏を支えてきた県議が「竹下家が世襲するのならともかく、竹下の秘書あがりの青木が世襲させるのは納得できない人が多い」と耳打ちしてくれた。
世襲がまかり通る自民党に君臨してきた青木氏が、足元の世襲を思うままにできないとは、意外である。そのわけを解き明かすため再び真冬の出雲に戻った。
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元旦も吹雪だった。昨秋の連載取材で出雲では「だんさん」の尊称で呼ばれる名家が圧倒的な影響力を持っていることを知った。とりわけ権威のある奥出雲の田部(たなべ)家を訪ねた。辺り一面は樹齢100年を超える杉林。「日本一の山林王」と呼ばれた田部家の山だ。
室町時代から、たたら製鉄を率いてきた。明治以降は炭焼きや林業へ転換し、フジテレビ系列の山陰中央テレビを創設。近年はファストフード経営にも手を広げる。当主は代々「長右衛門」を襲名してきた。
白壁の土蔵群を通り抜けた先に北大路魯山人や岡本太郎ら文化人が訪れた大屋敷がある。檜(ひのき)の門をくぐるとせわしない空気が漂っていた。使用人が江戸時代から伝わる正月料理の片づけや客人をもてなす準備をしているのだろう。かつては村人から政官財界の大物まで来客が絶えなかったという。
「今は田部家ゆかりの者だけなんですよ」。応対してくれた内藤芳文さんに丁重に面会を断られた。名刺には「田部家支配人」とあった。
それから2時間、外で待った。横殴りの雪がほおに突き刺さり、革靴が新雪に埋もれる。田部家当主に代わり林業などを担ってきた「手代(てだい)」と呼ばれる人々が次々門をくぐっていく。
ことしは田部家にとって特別の正月だ。先代が1999年に亡くなった当時、大学生だった「若さん」の真孝(まさたか)氏が今春、フジテレビを退社し、25代当主として出雲に戻ってくることになったからである。私と同じ30歳だ。
手代たちは枝垂れ桜がみえる3間通しの座敷に通され、奥の間に「大奥様」と呼ばれる先代の妻陽子(はるこ)さんと真孝氏が並んだ。
「4月から戻ります。昨年結婚して子どもも生まれたので、皆さん、よろしくお願いします」。真孝氏はそう切り出し、フジテレビの経理、営業、報道を経験し、米国特派員の体験談も披露したのだという。時折、笑い声が外まで聞こえ、田部家の世襲の儀式はとどこおりなく終わった。
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田部家では支配人も手代も使用人も多くは家業を継いできた。たたら製鉄の現場監督を務めた「村下(むらげ)」は3度失敗したらお払い箱になるため、秘伝の技術をいっさい漏らさずに長男に伝えた。
「父の時代の部下が半分くらいいます。いまの社長も部下だった人ですから」。真孝氏は将来の社長含みで山陰中央テレビの役員就任が内定していることについて手代たちにそう語ったという。
祖父の23代当主・長右衛門氏は知事を務め、竹下氏や青木氏らの後見人として知られた。支配人の内藤さんは「23代さんも24代さんも、優秀でも学校に行けない子を援助しました」。田部家から造り酒屋の権利を譲り受けた竹下家の長男・登氏はその典型であった。
23代は竹下氏の父親に「登のことはわしに任せっさい。銭はみんなわしが出す」と言って首相候補だった佐藤栄作氏の派閥に入る道筋をつけた。竹下氏も田部家が山を手放した時に国が買い取る手助けをするなど恩を返したという。
竹下氏の秘書から参院のドンへ駆け上った青木氏も若い頃、23代の秘書として知事公舎に住まわせてもらっていた。長男も24代に秘書として仕えた。
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「田部の若(真孝氏)が戻ってくるから、田部の家に戻さないといけないわね」。青木氏は年末、長男への世襲に否定的な県議と出雲市議にこう告げた。言葉通りにとれば、長男に政治家を継がせず、再び田部家に仕えさせるという宣言である。しかし、青木氏の真意は本当にそこにあるのか。
青木氏が早大を中退して帰郷した時には「大社町漁協組合長」のポストが用意されていた。祖父も父も務めた役職だ。中央政界に君臨する間に漁協の統廃合でこの職はなくなった。青木氏は年末、久々に組合長室を訪れたが、応接セットはほこりをかぶっていた。もはや青木家の「家業」ではない。
首相に上り詰めた竹下氏ですら自ら後継を指名することはなかった。2000年総選挙の目前、病床で引退を決め「後任は一任します」と側近の青木氏に託した。「選挙に勝つために後継を早く決めて欲しい」という支持者の声が、同じ竹下姓の弟・亘氏への世襲を強く後押ししたのである。
自民党執行部は若手の反対を押しのけ、総選挙公約に掲げた「世襲禁止」を撤回し、今夏の参院選でも世襲候補の擁立を進める。青木氏と同い年の若林正俊元農林水産相も、今夏の参院選で公設秘書を務めていた長男に地盤を引き継ぐことが決まった。
竹下氏の秘書から政界実力者にのしあがった青木氏は20年間、自民党の島根県連会長だった。それでも自ら世襲を口にできない、いや、たたきあげが口にするのをはばかられる風土が出雲にはある。
青木氏は1月8日、年明け初めて出雲入りする。11日には竹下系県議団との新年会に顔を出すが、出馬表明はせず、18日の県連選挙対策委員会で青木氏の公認申請を一方的に決め、青木氏が受け入れるという筋書きである。身内へ受け継がせる環境が整うまで、漁協組合長から一代でつかみ取った政治家という「家業」を簡単に手放すわけにはいかないのだ。(南彰)