書庫閲覧室(統一協会問題関連)
あなたを深く愛している神様からあなたへ
2/1/2001
今日、あなたに私(神)が心の中にあることを語ろうとすれば、溢れて余りある心情で、とても長くな
ってしまうので、その中でも特に重要ないくつかの点に触れることにします。この話は、今まであなた
が心から信じ奉仕してきた教会が、何らかの理由でもはや、自分の所属する教会とは思えず、そしてこ
れ以上ついていけないと思っているあなたに対してのものです。
まず第一に知って欲しいことは、たとえあなたが、教会や組織の活動に参加しないで心の中で距離を感
じているとしても、それは神から離れたということでもありません。私は、あなたの活動の内容によっ
て、近くなったり、遠くなったりする存在ではありません。例えば、バーの片隅で酔いつぶれている一
人の男性がいるとしましょう。私の思いはその男性に対しても、又、あなたとあなたの教会のリーダー
に対しても、全く変わりなく近く感じているのです。ですから、あなたが私に対して、何か距離を感じ
るとすれば、それは私のせいというより、あなたの意識がどこにあって、どこに心が向いていて、どこ
に人生の焦点をおいているかなどによって、あなたがそう思い込んでいるからなのです。
そのバーにいる男性は、仕事の失敗か上司に対しての不満か、家庭内のいさかいかその理由はいずれに
せよ、自分の苦しみを酒によって和らげ忘れようとしているのです。彼も、私の目から見れば、かけが
いのない一人の息子です。あなたが、子供を持った親であれば、愛をもって育てた子供が苦しみもがく
のを見て心を痛めるでしょう。そんな哀しい人生を歩むのを見て、じっとしてはいられないはずです。
それとも、“何とみっともない落ちぶれた子供だろうか”と目をそむけて、関わり合うこともしないの
でしょうか。もし、神である私がその様にあなたを見ているとしたならば、あなた方は、到底私の声を
聞き愛を受けることなど出来ないでしょう。
人間の歴史を見れば、ほとんどの人々が、私の愛と光から離れ、戦争と憎しみと偏見で審判しあいなが
ら、“悪の世界”を展開してきました。しかし、わたしはあなた方から決して歩み去ることも、背を向
けることもしませんでした。その“悪のはびこった世界”を見ながら、私はいつもあなた方一人一人と
ともにいたのです。人間の魂にいつか、あるひらめきの瞬間が訪れて、心も精神も覚醒されて、神を自
覚し私と共に生き始めてくれることを願いながら、長い間、忍耐強く忍耐強く待ってきたのです。それ
が、再会ということであり、再び一つになる(神人合一)ということの意味です。
今日が、まさにその絶好の時です。直接主管圏の中で、神と共に愛と喜びの中で、自由に生きる世界だ
ということを、あなたも知るでしょう。そして、そこに至るのに必要な条件についても学んでいます。
これらの言葉も解釈も、間違ってはいませんが、私はあなたが現時点からどこへ向かっていけば良いの
か、もっとはっきりその方向性を知ることが出来るように、ここで新しい観点を紹介致しましょう。
まず最初にも言いましたが、私は今まで、あなたといつも一緒におりました。そしてこれからも共にい
ることを強調します。あなたは、神があなたを訪ねる為には、たくさんの条件を見たさなければならな
いと、教えられているけれども、そうでしょうか?実際のところ、私は今まであなたから離れてどこか
遠くに行った事もないし、これからもその様なことはありません。(この話を受けている方には何年も
前にも言いました。私はいつも彼と共にいると、しかし彼が、気がつかなかっただけなのです。)だか
ら、あなたが立てた多くの条件や、捧げた供え物は、遠くにいる私を呼び寄せてくれる為のものではな
く、むしろ、それらによって、自分の意識をあるレベルまで高めたり、深めたりする為にあったと解釈
したら良いでしょう。つまり、その開かれた意識と目によって“ああ、神は私と共にずっといらしてく
ださったのだ。私が、あちこちさまよっていただけだ”と悟る為にです。
ここで、これから、話すことに良く注目してください。あなたの毎日の生活は、沢山の条件を満たす事
で追われていましたが、その生活をくり返していくと、どうなるかということです。たとえば、ある要
求事項を、期限までに全て果たせなかったとしましょう。つまり、献金の額が半分しかできなかったと
したら、あなたは、どう思いますか?「神様が真に私に求めていらっしゃるのに半分しか、捧げられな
かった」といって、自分を激しく責めるでしょう。そして「神様も私を裁くだろう」と思うかもしれま
せん。又「私の失敗故に、神様は私と私の家庭を祝福できず、訪ねても下さらないだろう」と失望して、
「最後の一円を達成するまでは、神様は私を愛して下さらないだろう」と思い込んでしまうかもしれま
せん。
ここで、私は声を大にしていいます。この様なあなたの考えはまちがっておりますし、真理とは何の関
係もありません。あなたが条件を果たそうと果たすまいと、惨めに失敗しようとしまいと、私はあなた
と共にいてどこにも行かず、あなたを愛し続けます。今も共にいて愛しているのです。どこへも行かな
いし、行こうとも思いません。はっきり言っておきますが、私は恐れや不安をもって、人を動かしたり
要求したりする神ではありません。私の創造の理想の中には、子供が恐れをもって親に対しなければな
らないという真理はどこにもありません。
長い歴史の中で、人間は愛の中に神がいつもいて下さることを忘れえてしまいました。その現実からく
る不安と恐れの中から、自分を中心にして見たときに、神は怒りの神であり、審判の神であると決めつ
けたのです。そして神の怒りにふれない為に、審判をのがれて地獄へ行かない為に、人間は「善をする」
のだと、こういう虚偽の上に、信仰形態を作って何世代もくり返してきたのです。
正直に自分に聞いてごらんなさい。神様が怖いと思うのに、その神と本当に喜んで一体化したいのです
か?何回もくり返し言います。私が、創造の初めから今まで、一番最初に願ってきたことは、あなたが、
赤ちゃんとしてお母さんのおなかに宿ったその瞬間から、そしてこの世に生まれたその時から、私の愛
を、まず体験してほしいということでした。
考えてみてください。神が私を本当に愛してくれていると実感できた時、その理解と感動が動機となっ
て、天国を築く勇気と力があふれでてきます。かたや一方では、条件を満たさないと、神の愛は私を訪
ねて下さらないという恐れで、来る日も来る日も、働き続けるとしたらどうでしょうか?どちらが建設
的で、真に力強いでしょうか?もしあなたが“充分にお金を捧げ、全ての条件を満たしたならば、いつ
か将来、神から愛をもらえるだろう”と、思いながら生きているとしたら、“真の生命”には遭遇しな
いでしょう。神の愛は、そのような偽りの真理からは体験できないからです。
真理は簡単です。“神は今のあなたを完全に受け入れ、ありのままのあなたを愛している”ですから、「あ
なたは充分に働かなかった、充分に献金しなかった、充分に仕えなかった、神はあなたが、これこれを
果たした後にのみ受け入れて下さるだろう」などと、まことしやかに教える宗教の指導者やその教えは、
まるで、馬の鼻の先に人参をぶらさげた棒をくくりつけて、その人参目当てに馬が働くようにさせる例
えと、同じではないでしょうか?その人参のように、愛をちらつかせる神が私でしょうか?私の愛とは、
そんな安っぽいものでしょうか?では、あなたに質問しましょう。「その様に頑張って、いったい何時
になったら神様が、受け入れてくれる時がくるのですか?40才の時?50才、70才になった時です
か?」
考えてみてください。
こう見てくると、宗教は重大な過ちを犯していることに気づくはずです。「恐れ」というものが、如何
に悪用されてきたかがわかるでしょう。言葉を代えて言えば、「真の善というものは、恐れからは決し
て生まれない」のです。神の怒りを恐れて積むいずれの条件も本物にはなりません。
私は、あなたに、真の知識(頭だけで知る知識ではなく、心情で知る知識)を求めてくださる様に願い
ます。それは、決して難しい事ではなくて気づきさえすれば、すぐに自分のものにすることができる知
識です。
この様に話しますと、あなたは「もし、私が神の愛に満たされて、あまりある幸福感に浸ったならば、
人の為に仕事をしたいと思わず、ただ座って自分の事だけ考えて喜んでいるかもしれない。」と思うか
もしれません。
しかし、その様に懸念する人がいるとすれば、彼らは、私の愛を全く知らず、無知という悲劇の現実の
中に住んでいるのです。私の愛を誤解している証拠です。神の愛によってあなたの心が満たされると、
あなたは自分、家族、隣人、全世界、自然に対しても、今までとは全く違った目で見るようになります。
そして、全く違った心で感じるようになるのです。人に言われなくても、心の底から、ふつふつと湧き
上がる思いで他の人に何か良いものを与えたいと思うのです。それは私(神)の目で見るようになり、
私の心で感じるようになるからです。
その愛で、隣の飢えている人に、お米一袋を持っていってあげたとしましょう。神の愛を実感して、深
い愛ゆえに起こした行動と、そうしなければ審かれるという恐れの動機で、全市民に対して何か善行を
したのとを比べて見て下さい。どちらが、真に意義ある生き方といえるでしょうか?「愛」と「恐れ」
というものは、共存できないのです。真の愛のあるところに恐れは存在しません。だから、過去の聖人
たちは愛をもって死をも恐れず尽くしていったのです。
愛を沢山の仕事をした後の報酬として、振りかざす人もたくさんいますが、私はそれよりも、あなたと
の心のつながりをまず見るのです。だから、これからは、あなたも「私は、神の愛を素直に受ける心を
持っているだろうか」と、自分自身に問いかける習慣をつけて下さい。
ある条件を満たした時のみ、神が愛してくれると思っているとしたらまるで、共産主義ではないですか。
神の愛が、あなたの持ってくる捧げ物によって左右されるというのなら、それはとても唯物的ではあり
ませんか。その考え方に従うと、神は「あなた」を愛しているのではなく、あなたが持ってきた「捧げ
もの」をとうしてのみ、あなたを愛していることになりませんか?
だから「贈り物」を続けて捧げなければ、引き続き愛を受けられないということになり、捧げものは限
りなく続いていくでしょう。
私は、断じてそういう神ではありません。わたしは、あなたが何の捧げものをもてくるかなど全く気に
しません。私は、私を一生呪い続けた人間をも変わらずに愛していくのです。何故なら、その人が悟っ
ていようといまいと、その人は、私にとって聖なる神の宮だからです。皮肉にも、多くの宗教の指導者
達は、私の愛を知らずに心情的には眠っているので、本来は無条件に、とても簡単に得られるべき神の
愛を全く複雑で困難なものにしてしまっているのです。
あなたが「こらから私はどうしたら良いのでしょうか?」と尋ねたら、私はこう応えましょう。「あな
たの心の声に聞くように心がけなさい。そして、それに従っていきなさい。」私のいう“心の声”とい
うのは、普通の感情のことではなく、もっと内にある情のことです。多くの人にとっては、訪ねたこと
も、気づいてもいないところのものです。そして、それを探してそこからの声を聞くのは、他の誰にも
出来ずあなただけが出来る事なのです。どうして、それが重要なのかというと、そこでこそ私との直接
の会話ができるからです。
こう話すと、あなたは「理想としてはわかるけれど、私の現実は、まだまだ罪がいっぱいで、それが妨
げとなり、神の愛が、私の本心には届きません。」というかもしれません。しかし、私は、こう応えま
しょう。「その場こそ、真にあなたが存在する所で、そこは、少しも汚れたり、取り去られたりしては
いません。(誰が、何と否定的なことを言おうとも)神である私が保証します。」だから、今まで信じて
きたもろもろの考えをまず横において、新しい自分、真の汚れていない自分を知るチャンスを自分自身
に与えるように努力してごらんなさい。神の愛を知りたいのなら、頭でいくら知識を積んでも知ること
はできないものであると、はっきり悟りなさい。神の愛はイエス様、マザーテレサ、そして色々な宗教
指導者のような偉大な人達の言葉を読むだけでは体得できないのです。
こう話すと、又、あなたは言うでしょう。「しかし、彼らの言葉を読んで、感動したのです。」と。それ
は正しく言えば、彼らの言葉があなたの心情を呼び起こす助けになったという事です。人々は往々にし
て、立派な宗教者や聖人たちの言葉を尊敬するあまり、すっかりそれらに依存してしまっています。そ
れゆえ、外から来るインスピレーションだけを頼るようになり、これが宗教生活での大きな問題点とな
っています。神と会話し、神の愛を受け、神からのインスピレーションを受けるところか、一人一人の
心の中にあるのだという真理を忘れ、その神性を尊ばず、耕して育てることをしないで、もっぱら外か
ら来るもの(宗教指導者の言葉や、聖書、教理など)に頼って生活していて、それが正しい宗教生活だ
と思い込んでいるということです。
神なる私は又、ここで声を大にして訴えます。私は、あなた方を、そのようには創造しませんでした。
“自分の内からの声を無視して生きなさい”などとは教えてはいません。その内なる声を聞く事によっ
て、あなたには愛と力と動機があふれ出るように造られていることをはっきり理解認識してください。
自分自身をはっきり理解認識出来るように努力して、自分の内なる心の声を探し当てて下さい。神を信
ずると信じないとにかかわらず、人間であれば誰でもその場所を探しているのです。よく“心のふるさ
と”と人は呼ぶでしょう。
人々が愛を求めてどんなに飢え渇いているか見てごらんなさい。求めるものがどこへ行って得られるか
わからないで、常に外をさ迷い歩く姿をみてごらんなさい。自分の内なる心に向かえばそこに捜し求め
ているものがあるのに・・・・。私は非常にシンプルな神です。複雑で、膨大な宇宙も、その核となる
ものはしごくシンプルです。しかし、そのシンプルな中に無限の深みがあるのです。中心となる素晴ら
しい内容がわかると、いっせいに他の多くの真理もわかるようになり、恐れなどはあとかたもなく消え
ていきます。
今、私は世界のあちこちで、私の声を素直に聞こうとする心の持ち主達をとうして、覚醒運動をしてい
おります。真の天国は、お金や、奇跡又はマジックによって作られるものではなく、一人一人の心が神
との出会いによって変わる事によってのみなされるのです。
それと、もうひとつのポイントは、今は“条件の時代”、“象徴の時代”ではありません。“無条件の愛
の時代”です。神と人間が無条件に愛し合う時代です。ここで、無条件というのは「心から直接に」と
いう意味です。そしてこれが、あなた方が教えられた「直接主管圏」の意味です。私があなたを所有し
て、主管するだけでなく、あなたも私を所有して、主管するのです。愛故に、お互いにそれができるの
です。何回も繰り返して言いますが、私はあなたから離れてどこかへ行ってしまうことなどできません。
私の名を悪用して、権力を振り回すような指導者達を苦痛の目で見ながら、彼らが自らの心を開いて私
と正直に向き合い、真の自分を発見してくれるその時まで、じっと待っているのです。彼らを去ること
も決してありません。又、あなたが私と真正面からむきあうことができるようになるまで、私は私の努
力を怠ることはないでしょう。
あなたの心にいろいろの質問が出てくるでしょうが、それらをけっして無視したり、押さえつけたりせ
ず、自分の心の中にいる私(神)に聞いてごらんなさい。それができる自由を自分自身に与えてあげな
さい。
祈りについてひとつお話しましょう。あなたは、自分と神との関係を近くする為に祈るとか、自分の個
人的な願い事の為に祈るのは自己中心だから、他の人の為にだけ祈りなさいと教えられてきましたね。
でも、ここで正しておきたいことは、「自分を愛する事から始めなければ、他人を本当に愛することは
出来ない」という事です。自分が神の子であると信じ、心を開いて神の愛を受けて、そこから流れる愛
によって自然と人と世界に広がっていくのです。神に愛されている自分自身、そして、その為に祈るこ
とは利己主義どころか、大切な出発点なのです。ですから、これからはあなたも自分の心の中にたまっ
ているものを、私に何でも持ってきて打ち明けてください、自分のことは何も語ろうとしない子供を持
った親のことを考えたら、それが、全く不自然で、真理ではないことがわかるはずです。
良い家庭関係の中で、何でも心を開いて話し合えるような環境で育った子供達は、社会に出ても健康で、
偉大なことを成し遂げるケースが多いのです。その反対に家庭で愛されることがなく、怒りや不満の中
で育った子供は、社会へ出ても問題を起こしやすいことが知られています。神の愛を自分に欲しいと願
うのを、自己中心で、何か悪い事をしているかのように解釈する人達は、他の人達との間に、愛の関係
を築くことが出来ません。そのような群れ全体が作る雰囲気は、冷たい愛の無いものになってしまうの
は、当然の結果なのです。「神は世界を愛する」といいますが、その愛はどこから始まるのでしょうか?
よく自分に聞いてみてください。自分を無視、そして否定して、他人を愛することができるのでしょう
か?
人はまず愛を受けてから他人を愛することができるのです。その恐れをも溶かす深い暖かい愛が、今の
世界にとても必要です。清い、誠実な、シンプルな愛の運動が、今、願われています。
過去における、今までの様々な不満や怒りは、私に持ってきて、全て打ち明けなさい。あなたが私と語
り合う中で、それは自然と癒されて解決されていく事でしょう。あなたには、愛と喜びが共存する、素
晴らしい意義ある人生が待っているのです。命令を待って、恐れが動機となる生活には、もうさよなら
しましょう。そして、神様と共に愛し合う中で、自分の人生のすべてに輝きを与える生活を求めましょ
う。最後に、この言葉は、誰かをとうしてあなたに届けられていますが、もっと大切な神との会話は、
あなたの心の中で起こるのだということを、今一度、しっかり心に刻んでください。
あなたを愛する神より
神様からTさんの質問について
3/11/01
Tさん、昨日はFAXをありがとう。質問の内容もわかりました。それに対してあなたが、私から、
はっきりとした具体的な答えを得たいと願っていることは、よくわかっています。しかし、わたしはも
っと基本的なことを説明して、あなたがそれを深く読んでいくうちに、自分で解答を出すことができる
ようにしてあげたいと思います。このように言ったからといって、私があなたに答えを与えたくないの
ではありません。あなたは、こらからも次々と湧いてくる疑問について、自分で考え、求め、選択し、
決定し、行動に移さなければならない現実に色々とぶつかるでしょう。それは、あなただけが出来るこ
とであって、私があなたの身代わりになることは出来ないのです。私があなたにしてあげられることは、
あなたが私と共にいることに自信を持って、私の愛を知り、目の前の現実を恐れや不安からではなく、
正直に見つめ、自分でしっかりと答えを出せるように、勇気づけてやることです。前置きはこの位にし
て、さあ、始めましょう。
まず、「天国」について、考えてみましょう。
あなた方が、1日24時間走り続け、ある人にとってはもう30年も働き続けてきたその目的であり、
理想でもある「天国」とは一体何で、どのように、いつ、やってくるのでしょうか?
人類歴史、特にキリスト教の歴史を見る時、死後の世界、天国と地獄というものに関して、大変な誤
解があることを指摘せざるをえません。キリスト教徒たちは、天国とは“報酬として与えられる場所”
と教えられ、そう解釈し、そう信じてきています。つまり、地上で、よいキリスト教徒として、善行を
積めば、死後の世界では、その褒美として天国に行くことができ、その反対に、キリストを離れて、悪
の方向に落ちて生活すれば、死後、地獄にいくというわけです。
このような観点は、一見。いかにも理屈にかなっているように思えますが、私の目から見ると非常に
間違っています。ですから、ここで天国についての正しい定義(真理)を明らかにしましょう。それに
よって、今までの信仰の仕方、生活様式を正しく変えることができるようになるでしょう。天国は、あ
なたが地上で為した全てに対して報いとして与えられる所ではなく、「真の天国とは、ひと言で言えば
神とあなたの心からの交流の場であり、その愛によって無条件に交わる状態」を言うのです。それはと
ても親しく、へだたりなく、こだわりもなく、正直で、愛に溢れ、開放的で、ごく自然な関係なのです。
これが天国の定義だとすれば、「地獄」とは神の愛に向かって心が開いていない状態、つまり、恐れ
や、ストレスや、嫌悪や、痛みに満ちた所と言えます。そして、そこでは、人々は自ら作り出した幻想
の世界(神から見れば、真の現実ではない、永遠性のない世界)に囲まれているので、私を探すことが
できないのです。天国と地獄はあなた方が霊界へいくずーと以前に、既にこの地上に存在しているわけ
です。
ここで、Kさんのことに触れますが、彼女はこれまでの人生で、最も貴重な期間を通過しています。
普通の人々が見たならば「Kさんは病気で苦しんでかわいそうだ」と思うのですが、Kさんにしてみれ
ば、「あなた方は、私が心の中でどんなに幸福感でみたされているのか、わからないでしょう。」と言い
たいのです。「私の体は、日に日に萎えていくけれども、私の魂は、神に近づいていき、神様と交わり、
喜びに満ちて、輝かしい光に包まれています。」と言うでしょう。体は秋の木の葉のように地に落ちて
いく寸前でも、彼女の魂は、神様をしっかりと抱きしめて、又、神様も彼女を無条件の愛で抱いて下さ
っているのです。この姿が、天国でないというなら、一体、他のどこから天国という表現を探してこれ
ますか?
勿論、天国にはいろいろの段階があります。それは、地上で言うような上下階級という意味ではなく、
神とあなたの関係が、永遠に、限りなく成長し続けるところからくる段階というものです。神と人間の
愛と真の交流は、すぐに天井についてしまって、もうこれ以上成長できないなんてことはありえません、
あなた方は、成長し続け、進歩しつづける中で、喜びも、充実感もより深くなり、あなたの人生に対す
る知識、人に対する愛も、無限に深まっていくのです。多くの人々はそれがわからず、健康である程度
成功して、外的に多くの事を成し遂げて、「これで人生は満足」と思ってしまっています。
あなたの教会にも、いつのまにか、「天国は働いた後に、報いとして行く所」というクリスチャン的
な考えに、もどっていってしまいましたね。つまり、多く献金して、多くの人を連れてきて、指導者か
らも認められたら、その褒美として天国へ行くことができると思うようになってきています。ですから。
そういう自分が、まさか、地獄のような所で、今も苦しみ、死後もそういう状態で生きるかもしれない
なんて思ってもいないでしょう。
ここで、あなたに、よく考えて欲しいのです。
天国は心が自由に開放されて、神の愛が無条件に流れ満ちる所で、地獄とは、神を近くに感じられない
心の閉じた場所であるという定義がはっきりわかった上で、もう一度あなたの教会と、自分の心の現実
を見た時どのように思いますか。天国を求めているはずの人々が、本当に一生懸命働きながら、現実に
は、神様を近くに感ずることができません。ストレスはたまり、失敗感、挫折感、恐れに包まれて、い
ろいろな情的痛みを抱えているのです。心が私に向かって開いておらず、魂や精神が成長していく喜び
も味わえず、ただ多額の献金を集める為にのみ、奔走し、神に捧げようとする姿を見て、私がどう感じ
ていると思いますか>
ここにひとつの例をあげましょう。
ある田舎に、何百万円というお金を残して夫は霊界に行き、かわいい孫達に囲まれて幸せに生きている
一人の老婦人がいるとしましょう。ある日、あなたの教会のメンバーが来て、正当でないやり方で、夫
も含めた先祖達の霊を高めてやると言って、そのおばあさんに全てのお金を捧げるように説得します。
老婦人は、それを心から素直に信じて、お金を捧げます。そのメンバーは経済復帰修練会で、如何に人
を説得して献金をもらうかを学びました。しかし、お金で先祖が開放されるということが、本当に神の
願いなのか、それとも、ただの戦略にすぎないのか、区別できないでいるのです。そして、老婦人の捧
げたお金は教会のあちこちでまたたく間に使われていきますが、彼女は、貧しく、放っておかれて、訪
ねてくる教会員もいません。こういう姿を見て、私の心がどちらに動くと思いますか。多く献金して、
自分の天国行きが近くなったと喜んでいるメンバーの方でしょうか?それとも、すなおに信じて全てを
捧げた老婦人の方にでしょうか?あなたが答えを出して見てください。
統一教会の歴史の講義によると、カソリック教会は、16世紀に天国へいく為にお金を払って罪を免
除してもらえるという“ありがたい”免罪符を売った事実によって、それは全く誤りであるとして、カ
イン側におとされて扱われていますね。では、今のあなたの教会はどうでしょうか。
よりお金を集めて捧げた人は、天国にいけますが、それができずに苦しんでいる人たちは、天国から
は遠いというような雰囲気を作っていませんか?イエス様は「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の
目を通過するより難しい」と。いっています。お金そのものが問題ではないのですが、自分は金持ちで、
恵まれて力を持っていると思うプライド(高慢さ)が問題なのです。以前にも話しましたが、お金で天
国を買おうと思うこと自体が大変な間違いです。天国は、神とあなたが心と心で交わるところなので、
お金など関係ないのです。正直に心を打ち明けあった自然の交わりの関係なのです。それは、あなた方
一人一人が率先して築いていくもので、外から強要されたり、外的条件を積んでえられるものではない
ことは、何回も繰り返しいってきました。
これをKさんは、長い人生を歩んできた後、自分が霊界に近づいている床の上で初めて経験しつつあ
るのです。この喜びを発見したのが今だということは、なんと皮肉なことでしょうか。
正直言って、私には悲しい現実です。
若くて、健康で、エネルギーに溢れている時に、神と自分の真の関係を体験できたとしたならば、私が
あなた方に与えてある愛、誠意、創造性を駆使して、この世界にすばらしい影響を及ぼすことができた
でしょう。ただ単に、多額のお金を如何に早く集めるか、そのやり方にたけるという次元をはるかにの
りこえて、もっとダイナミックな多様性のある貢献ができたはずなのです。
はっきり言いますが、日本の教会は、人々を大切にする以上にお金に価値を熾き過ぎています。彼ら
がエバ国と呼ばれ、その責任を果たすという理由で、もう何十年も多くの献金を要求されてきた事を、
私は全て見てきました。そして、私と一人一人のメンバーとの真の心情交流を価値視することがだんだ
ん無視されていく現実を、心痛く感じてきました。
ですから、それをはっきりと直視して、何かが変わらなければならないことをわかって、勇気をもっ
て語り、行動に移す人を辛抱強く待ってきました。あなた方に与えた神の子としての尊厳と、自由意志
を尊重するので、私が直接干渉することはできないのです
私はあなたに「教会を去れ」とも「教会に留まって、あれとこれをしなさい。」とも言いません。あ
なたが自分で答えを出すことだからです。
自分の心の目を開いて現実をまっすぐに見、自分の将来を深く考えて、ある選択をし、決定をしたら、
それがどういうものであっても、私はあなたの人生を良いものにするために、完全に支援するでしょう。
鍵は、あなたの心の中にあるのです。さあ、恐れずに、勇気をもって自分の内なる声を聞いてくださ
い。それに従って行動していくと、人々から批判されるかもしれません。「私たちは世界的摂理のため
に働いているのに、Tさんは自分と神様との関係のことばかり話していて、自己中心ではないか」など
と。しかし、心配することはありません。私の両手が、あなたの両肩をしっかりと支えているのを心の
目で見て生活しなさい。
どんな大きな摂理も、一人一人が私とつながる心情から始まらない限り、所詮は、空虚で無意味なも
のになってしまうのです。そして、空虚な心情のまま活動を続けると、いずれ、その団体が大きくなり、
指導者達が富を抱え、権力を持つようになると、誤って人を導くようになり、退廃していくのは必然の
結果なのです。
だから、私は初めから終わりまで「個人」が大切だといい、個人が鍵を握っているといつも主張する
のです。私と共に、しっかりと主体性をもった個人が集まった団体こそ、真に、信頼しうる力になるか
らです。いくら数を誇ったとしても、その一人一人が、私と近い心情交流もできずにいる団体は、とて
も貧弱なのです。だから、イエス様も「世界を得たとしても、自分の魂を失ったら、何の得があるか。」
と、言っているのです。
私は、あなた方一人一人をかけがえのない息子、娘として見ているのでどのようなあやまちを犯して
も、あなた方の成長を信じて忍耐強く容認しているのです。
けれども、子供が誤った道を我知らず歩むようになるのを見たら、何とかして正しい判断をしてくれ
るように、私だけが知っているやり方で導こうとします。人間は自分の成長のためには、いつも自分を
新しい観点で見つめ直したり、少し時間をとって瞑想したり、着ているものを変えてみたり(内的な着
物の意)することが必要です。そのようにして、自分のこころの中で、神に会い、神に近づいて、ひと
つになった個人には、恐れも、ストレスもありません。天国を作る為のあらゆる摂理だといって、奔走
するように要求される誘惑にも惑わされず、しっかりと自分で考え、決定し、責任をもって生きるよう
になるのです。
日本の人達は、自分の団体や集団から一人だけ離れて考えたり、行動したりすることを、とても恐れ
ます。批判されて「村八分」にされるのを怖がります。でも、疑問をうやむやにして、流されて行くよ
うな人生を繰り返して、死ぬ間際に後悔して、やっと悟るようなあなたであって欲しくないのです。私
は、あなたに勇気と自信を与えてあげることができます。批判されることを恐れず、私からの愛ではっ
きりと見て、表現し、行動できるように、私も、いつも手助けしましょう。いつも、私に語りかけてご
らんなさい。私が思いがけなく近くにいることがわかるはずです。
最後に、昇華式のことにふれます。
今まで話してきたことを元にして、昇華式のことを考えたら、私が何を言いたいか、既にあなたにはわ
かるでしょうが、私にとっては、たくさんのお金を費やして(お金がないのにもかかわらず)盛大に式
をする必要は全くないし、その式の大小で価値を決めることも決してないことを、まず言っておきまし
ょう。
昇華式というのは、その人が肉体を離れて、私とひとつになろうとする機会を、外的に祝う式という
ことです。つまり、私があなたを喜んで迎え、あなたは私のもとに来ることを信じ、喜んでこちらの世
界に来ようとする内容なのです。昇華の時が近づくと、魂はもう神のもとに行く準備を始めます。です
から、肉体が朽ちる前に、内的には真の昇華が起こっているのです。ここで大切なことは、その昇華す
る人を愛し慕ってくれる人々、又その人がそれまでの人生で感動を与えた人々が、心から、寄り集まっ
て送ってやるということです。
そのような式であれば、外的にはどんなに慎ましくても私の心を動かします。それに比べて、法外な
お金を無理して用意して、それ故に、高い位置の指導者達が多数来て、外的に盛大で全て「正しい」式
をしたとしても、それはとても見苦しく、私の心を動かさず、本人も喜ばないでしょう。だから、あま
り心配することはありません。
私は、一人一人を心から愛してやまない息子であり、娘であると見ています。あなた方がどこの教会
に所属して、何をして、どの祝福家庭であるのかなどということによって、見方を変えたりする神では
ありません。そういう要素は、人間が作り出したものです。私にとっては、“あなたはただ私の子供で
ある”それだけで充分なのです。こういうと驚きますか?
今日は、あなたの質問から、いろいろ参考になるだろうと思われることを話しました。これらをもと
に良く考えてみて、又、疑問が湧けば、私にどんどん持ってきて話してみてください。私にとっては、
価値のないつまらない質問というものは存在せず、何でも喜んで聞くのです。
あなたを深く愛し、いつも共にいることを信じてください。
あなたを愛する神より
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