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気仙坂

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日本サッカーの悲しい現実
☆★☆★2010年02月19日付

 W杯イヤーのスタートとなるホームでの公式戦。初戦の中国戦から不甲斐ない試合が続いた岡田ジャパンに、サポーターから容赦ないブーイングが浴びせられた。東アジアサッカー選手権の最終戦で韓国に完敗し、屈辱の3位に終わった日本代表。スタンドには指揮官の解任を求める横断幕が広がった。
 筆者はこれまで、日本代表の熱狂的サポーターを自認してきた。日韓戦といえば、自分の中では「絶対に負けられない戦い」であったはずなのだが、今回の敗戦には悔しさを感じなかった。
 予想していた結果だったからではない。正直に言うと、自分は心のどこかで韓国の勝利を願っていたのだ。それが岡田監督に引導を渡すことになるならと。
 前任のオシム氏が突然病に倒れ、W杯フランス大会アジア最終予選時に続いて2度目のスクランブル登板となった岡田監督。2007年12月に代表チームを引き継いで2年余が経過し、今、日本代表を危機的状況に陥れた監督の解任論が噴出している。
 サンケイスポーツが韓国戦後にスタジアムで行った緊急アンケートでは、86%のサポーターが指揮官の続投を否定。スポニチ・アネックスによる一時間限定の緊急アンケートでも88%のサポーターが監督交代を求めた。鳩山政権を遥かに上回る支持率の急低下であり、サポーターに対する求心力を完全に失っている。
 今年初戦のベネズエラ戦から韓国戦まで、毎回同じ課題をあげながら、毎回同じようなスタメンを組み、毎回ファンを失望させるような試合を展開した。韓国戦ではボール支配率で58・7%と韓国を圧倒しながら、シュート数は下回り、1―3で敗れた。
 局面、局面でパスをつなぐことにこだわり、ゴールへのチャレンジを忘れてしまった日本。点を取る手段であるパスが目的化し、サッカーの本質を見失ったようなプレーに終始した。その悪い流れ、リズムを修正する術を持たず、何も手を打てなかった岡田監督は、危機感を口にする選手とは対照的に「悪くない」「だいぶチームとして良くなった」などと楽観的なコメントを並べた。
 サポーターは、勝てないから怒っているのではない。結果の出ない戦術と選手を使い続け、効果的な改善策も打ち出せず、その采配や試合後のコメントから勝利のための方向性が何も見いだせないから怒り、苛立ち、ブーイングするのだ。
 岡田監督は「W杯での目標はベスト4」「世界を驚かせる」と大風呂敷を広げたが、はっきりと分かったのは、岡田監督のサッカーでは、東アジアの壁すら突破できないという現実だ。
 監督交代論に対しては、「短期間でチームをつくり直すのは困難」「だれが監督になっても同じ」といった否定的な声がある。代表選手にも大きな問題があることも確かだが、何かを変えなければ何も変わらない。この現状を放置するという選択肢は問題を先送りするだけで、何の前進も展望もない。
 岡田監督の去就に関し、日本サッカー協会の犬飼基昭会長は「代えない方がいいと思っている。4カ月前に新しい人になるのはリスクが大きすぎる」と解任を否定したが、何のリスクも負わずに本大会のグループリーグを突破できると本気で思っているのだろうか。そうだとしたら、余りにも見通しが甘い。
 犬飼会長は東アジア選手権で起きたサポーターのブーイングに対して、「選手にとっていいこと。どんどんブーイングをしてほしい」ともコメントした。当事者意識のない、他人事のような発言である。ブーイングが日本サッカー界のトップである自分自身に向けられていることも、サッカー協会に代表監督の任命責任があることもまるで理解していない。
 サッカー協会は、監督交代によるリスクを回避し、岡田監督と心中する道を選んだ。悲しいことに、犬飼会長ら協会幹部は、代表チームを支持し、鼓舞するサポーターを失うことが日本サッカー界にとって最大のリスクだということに気づいていない。(一)

「生き残り」をかけて
☆★☆★2010年02月18日付

 「島根県隠岐諸島のひとつ・海士町の山内道雄町長が、財政破綻寸前の町をいかに建て直したか」その講話を拝聴する機会があった。話を聞いていて、気仙3市町の合併問題と重ねずにはいられなかった。ここまでが前回の話だ。
 「平成の大合併」の波が押し寄せながら、海士町が選んだのは単独町制の道。船に頼る交通の不便さから行政サービス広域化を図るのが難しく、隣接する2島との合併にメリットがない、というのが第1の理由。第2に「島民の意識統一の難しさ」が挙げられた。
 合併の際に現れる問題の一つは、市名だろう。一旦は合併が決まっていながら、名前でもめてご破算になった例は数知れない。根底にあるのはもちろん生まれ育った土地への愛着。住民同士がこの壁を乗り越え、隣人と自分らを同じ市民として考えることは難しい。
 どこであっても同じで、これはそのままケセンにもあてはまる。
 私は大船渡出身のうえ、普段の取材エリアも同市内であるため、普段なかなか他市町の人とじっくり話す機会が少ない。しかし昨夏、住田町で行われた大規模イベントを取り上げたことで、大船渡以外の方々とも接する機会が格段に増えた。肌で感じたのは、住田町民の同町に対する思い入れと、合併への強い抵抗感。「合併がいやというより、大船渡の一部として扱われそうなのがいやなんだ」という言葉を何度か聞いた。
 さまざまな意見に触れたことで「合併?するなら仕方ないんじゃないのー」などとボーッとしていた私が、前より気仙は一つ≠ニは何なのか考えるようになった。そして今のところの結論は、こうだ「合併は不可能ではない。しかし、すべきではない」。
 一概に言えることではないので、「あくまで私の印象である」と断っておきたいのだが…「俺たちは住田人だ。大船渡とは違うし高田とも違う」という気概のある人が住田には多い。陸前高田の人もそうだ。話していて「私は高田人であり、大船渡と高田は別物だ」という意識をむき出しに感じる。
 敵意とは無論違う。「無理に一つにしようとするのは間違っている」と言いたいのだと思う。そもそも、住民レベルで一つになることは十分可能なのだ。昨年行われたケセンロックフェスティバルでは、開催地となった住田町の人たちは地の利を生かした活躍を見せ、大船渡の人々は自分たちのネットワークやノウハウをもって注力した。そこで育まれた一体感は気仙は一つ≠ニ呼べるに相応しいものだった。
 しかし、個々の能力や魅力というものは、それぞれ立場が異なってこそ見えてくる場合が多い。誰の目にも3市町には異なる特色があり、それらを一括りにしようとすれば、全てが中途半端になりかねない。「山もあって海もある、農産物も海産物も豊富なまち・ケセン」とでも言えば良いように聞こえるが、チェーンのスーパーマーケットのように、何も突出していないのと結局は同じことだ。
 合併では「新市名や新しい行政のあり方を受け入れられるか」以上に、「それを自分たちのまちだと思えるか」が重大な問題である。
 たとえば私は、気仙町のけんか七夕を「伝統ある、誇れる祭りだ」とは思っても「おらほの祭りだ」と考えることはできない。千昌夫氏を誇りに思うことも、たぶんないだろう。三陸町ですらまだ隣町≠フ感覚があるのだ。同様に、高田・住田の住民が、リアスホールの「日本建築大賞受賞」を自慢することもないと思う。
 「合併特例債を使わないのは損」という考え方もあったが、特例債は言うなれば目先の利益だ。半永久的な事業に使えば長期的利益になるとも言えたが、住民みんなが享受できる利を生むとは限らない。特例債ありきで合併を考えていたのでは、真のメリット・デメリットは見えなかったろう。
 ただし、単独市(町)政を選択することが単純にエライとも思わない。生き残りに文字通り心血を注げないのなら、淘汰されるのは当然のこと。「合併はいやだいやだ」とばかり言っていても仕方ないことだ。
 話は海士町に戻る。単独で生き残るため山内町長らが掲げたのは産業の創出。「人にものを頼むとき、自分だけ安全地帯にいる人間の言うことなど誰も聞くはずがない」。こう話す山内氏が着手した同町の改革は、文字通り身を削るところから始まった。(里)

磯焼け対策あれこれ
☆★☆★2010年02月17日付

 底に並ぶ石は白く硬いサンゴモで覆われ、海藻は見当たらない。生き物の姿を探せば、ウニだけが所々に点在している。いわゆる、磯焼けの海の底の様子だ。
 二十年ほど前、北海道の日本海側を中心に顕在化した磯焼け。コンブなど海藻が群落を形成する藻場が消失し、アワビやサザエなど、磯資源が枯渇する。全国各地の浜で対策が講じられてきたが、未だ抜本的な改善策は見つからず、むしろレッドゾーンは広がる一方。そしてその脅威は、比較的被害の少なかった三陸でも現実のものとなりつつある。
 磯焼け発生のメカニズムは海域によって異なり、まだはっきりとは明らかになっていない。一般的には、海況の変化による高水温、陸からの栄養塩の欠乏など、海の変貌が根底にあるといわれる。これにより、海藻が育ちにくくなるだけでなく、ウニなどの食草生物が高水温で活性化し、海藻を食い尽くすことで藻場が消えていくという。
 先月から今月にかけそれぞれの立場から磯焼けに向き合う人々を取材する機会が続いた。その一人が、「森は海の恋人」を唱え、二十年以上植林活動を行う、おなじみの畠山重篤さん。昨年末と年明けに、大船渡市内で二回講演が開かれたので、貴重なお話を耳にした人も多いはず。
 畠山さんや海の栄養分研究における国内の第一人者、四日市大学の松永勝彦教授らによれば、海の中で海藻や植物プランクトンが成長するには、森林の腐葉土で生み出された鉄分が不可欠だが、森林伐採や河川の護岸工事が進められた結果、海水への鉄供給量が減少し、海藻が育たない海が増えているという。
 興味深いことに、気仙の海の男たちに海と鉄の関係について尋ねてみると、経験則でその効果を実感している人が多い。いわく、「船が陸揚げされ、鉄のレールがこすれる場所には、毎年コンブが絶えない」「スチール製の空き缶を投げると、そこから海藻が生える」などなど。ただし、磯焼けに効果があるとされる鉄はイオン状態のもので、むやみに空き缶を投げても効果が低く、むしろ環境汚染に繋がる可能性が高いので注意を。
 一方、海洋環境の変化を磯焼けの背景としながらも、現実的に浜で取り組める対策として、本県で進められているのが、ウニ駆除による食害予防。水産庁が平成十九年に打ち出した磯焼け対策ガイドラインも、食草生物駆除が中心の内容になっている。
 アワビのエサとなる天然コンブは、本県沿岸では例年冬に芽出しする。本来この時期は低水温で活性が失われるウニが、近年の水温上昇で活発化、芽吹いたばかりのコンブを食べ尽くし、その群落を消失させるという。本県沿岸のウニ成育量は約三十年前から増えたと推測されるが、漁業者の高齢化、担い手不足で、水揚げ量が伸びていないことも、被害拡大の一因ともいう。
 食害予防の要諦は、コンブの芽出し時期前にウニを捕獲することなのだが、この時期の身やせしたウニを畜養し、出荷時期をずらすことで高値販売に成功した地域もあるという。しかしながらウニの畜養技術についてはまだ未確立な部分が多く、これからの課題となりそうだ。
 こうした「海藻を守り増やす」取り組みに対し、陸前高田市の広田湾漁協は、大規模とは言えないが、着実な手法を続けている。それは、海の中に「海藻を植えて増やす」という、一番直接的な方法。
 今から二十年以上も前から毎年続く「海中造林」と呼ばれるこの事業、もともとはアワビが好むコンブを植えて、人工的に給餌することが主眼だったという。
 しかし一年生のコンブは、植えた翌年には枯れて流出してしまい、磯焼け対策としての効果は決して大きくない。近年、多年草でアワビの非常食になるアラメ造林に力を入れた結果、これまでアラメが生えていなかった海域にも、自然に海中林が形成され始めた。
 かつては多くの漁協が自前で藻場造成に取り組んでいたが、経営体力の減退などで事業を縮小せざるを得なくなった。県内でも希有な取り組みを継続してきた同漁協の、海を守る高い意識が光る。
 磯焼けで失われる藻場は、海藻や植物プランクトンによる光合成で空気中の二酸化炭素を固定化するという。漁業だけでなく、地球温暖化防止に向けた二酸化炭素削減への取り組みの中でも、藻場は注目される存在だ。さまざまな角度から磯焼けにメスが入ったのは吉報、まずはその効果が確認されるよう、地道でも事業の継続を願いたい。(織)

魯山人の世界に参る
☆★☆★2010年02月16日付

 一冊の文庫本を贈られた。古書店で見つけたとかで、興味がなければもらっても要らない雑書の類だが、贈り主はこちらの趣味を知っての上で買い求めてくれたのだろう。これは願ってもない一冊だ。読む片っ端から引き込まれて、久しぶりに読書の快感を楽しんだ。
 題名が「魯山人味道」とあれば、内容についてはもう説明を要すまい。画家にして書家、陶芸家、漆芸家、篆刻家、料理家など多彩な才能を有しながら、奔放不羈な性格が災いして不遇な晩年を送った天才が、その得意とする料理に蘊蓄を傾けた本だ。陶芸では織部焼の人間国宝に推戴されながら辞退したという、本人の自信のほどを物語る掛け値なしの才能は、料理の世界においてもいかんなく本領を発揮し、その破天荒な器量を推し量るのが困難な特異な人物の、こだわりが随所にちりばめられていて興趣が尽きない。
 魯山人といえば、料理探求という一種の求道の中において料理自体を引き立てるに不可欠な食器を探し求め、それだけでは飽き足りずついに自らが陶芸の道に足を踏み入れたことで有名だが、実際島根の美術館でその作品を拝観して、理由がうなずけた。まさに型にはまらぬ自由闊達な作風を眺めると、自ら気に入った食器を作らずにおられなくなった過程がうかがわれるのだ。
 料理についてもそうで、単なる食道楽に終わらず、料理人、料理研究家として食の真髄を究めねば満足しなかった。事実、食通、食道楽の名士たちを顧客とした「星岡茶寮」という高級料亭をみずから経営し、料理の理想を追い求めたばかりでなくさらに、そこで使う食器を生産するための陶芸の研究所まで併設しているのだから、これは並はずれたこだわりだ。最後にはその独善、独断と狷介な性格が疎まれてその茶寮からも追放されたが、魯山人の名が今なお不朽なのは、やはり余人の遠く及ばぬ卓越した才能が光を失わないからだろう。
 この本は、魯山人があらゆる機会を通じて発表した料理論の中から選び抜かれて一冊にまとめられたもので、昭和四十九年に千部で限定出版されたものを同五十五年に文庫本とした。エッセイ風ではあるが、料理と食材の関係をまさに俎上に乗せ、丁寧におろしさばいた好著だけに現在も絶版されず再版を重ねているようだ。ただし内容は同じでも値段は初版時の倍近くになっている。ご用とお急ぎのない方は、一冊求めてムダにはなるまい。
 内容的には当時と現代の時代背景を考慮しなければならないが、東西の味、好みについて両方に住んだことのある公平な立場から比較していることがまずは興味をそそられる。そして食材の産地がその食材の宣伝のために適切な部分を「借用」してもいいのではないかというヒントを与えられた。
 たとえば「鮪を食う話」。この中でまぐろの一番として魯山人が絶賛するのが「三陸、すなわち岩手の宮古にある岸網もの」。文中これほめすぎといっていいほどほめたたえている。岸網とはブリを採るための定置網のようだが、宮古が一番と言うのだから宮古あたりでは大いに宣伝文句にしてよかろう。
 また鮎については四章も続けて書いているが、その中で鮎の美味いのは川から離れて十時間以内、できれば三、四時間以内に食べるのを最高として、その焼き方から食い方まで色々と講釈している。そしてできれば産地に赴きその場で焼いて食べたいと勧めているが、実際、気仙川の上流で釣れたてをドラム缶内で串刺しして炭焼きで食べさせられた味を忘れられない。こうした部分を気仙川にしろ盛川にしろ謳い文句に借用して「鮎食い紀行」でも企画したら受けるだろう。
 紹介したい部分は山ほどあるが、これは同書を読んでいただくに如くはない。読んでいるうちにヨダレがわいてくることだけは請け合いだ。(英)

謀略渦巻く平安の夜明け
☆★☆★2010年02月14日付

 華やかな貴族文化を繰り広げた千年の古都&ス安京。それを実現させた桓武天皇(在位七八一〜八〇六)だが、その即位は必ずしも祝福されたものではなかった。
 気仙郡の正史登場に、直接的な引き金を引くことになる同天皇の父は光仁天皇。しかし、母の高野新笠(たかののにいがさ)は正妃ではなかった。その血筋は、土器や墳墓の造営などを行う渡来系の土師氏だった。
 本来であれば、光仁天皇の正妃である井上皇后の子で、皇太子の他戸親王こそが、次期天皇の本命。井上皇后は聖武天皇の娘という血統の良さもあり、順当なら桓武天皇の出番はなかったはずだが、いつの世も権力をめぐる争いは複雑かつ熾烈だ。
 奈良朝末期、政界の中心には藤原氏一族が君臨していたが、四家に分かれて互いの綱引きがあった。当然、藤原氏に反目する勢力も多く、朝廷内には謀略が渦巻いていた。そして、こともあろうに井上皇后に、夫である光仁天皇を呪詛したとの疑いがかけられ、他戸親王ともども廃后、廃太子とされてしまう。
 「はめられた」と、皇后母子が思った時にはすでに遅く、次なるワナも待っていた。呪詛事件の翌年、天皇の姉・難波内親王が急死すると、「母子による呪殺」とされ、一年半もの幽閉のあげく、二人同時に死去という哀しい結末を迎えてしまう。
 呪詛とか呪殺とか、およそ現代では信じられないような濡れ衣が、堂々とまかり通る時代背景がそこにはあった。同時に、そうした状況を巧みに利用して権力を左右する策謀家がゴロゴロしていた。
 古代中国にも、呪詛の横行を逆手に取り、「俺は絶対につかまらない」とウソ吹く悪人がいた。仕掛けは、至って簡単。とにかく、あらゆる役人の屋敷近くに呪いのワラ人形を埋めて置くことだった。そのネライは「俺を逮捕する役人がいたら、その役人に頼まれて、ある人を呪詛していましたと言うだけだ。その言葉どおりに呪いの人形が証拠として出てくるから、巻き込まれるのを恐がって誰も俺に手出しできない」というものだった。
 悪事はしかし、いつかは露見する。悪知恵の働くこの悪人も最後にはお縄となってしまうが、ともあれ呪詛が信じられた時代には、崇りもまた信じられていた。
 光仁天皇と、次期天皇に位置づけられた山部親王(後の桓武天皇)が二人揃って病に倒れると、「元皇后母子の崇り」との占いが出てしまう。このため天皇は、亡き皇后の墓を改葬するなど慰霊に努めた後、宝亀十二年(七八一)に天応と改元、同時に、皇位を山部親王に譲り、新天皇の弟・早良親王を皇太子に任命すると、ほどなく崩御となった。
 桓武天皇の誕生後、このいきさつに加え母方の身分を問う動きも表面化。井上元皇后の妹を母に持つ永上川継がクーデターを計画する。事件は未然に防いだものの、桓武天皇は人心一新を図るため、延暦三年(七八四)に長岡京へ遷都する。
 新都や、奈良の平城京と比べて水運に恵まれ、母方に通じる渡来系一族も多く住む地域柄とあって援助も期待されたが、またしても事件が起こる。今度は、新都造営の責任者だった藤原種継が暗殺され、その事件に弟の早良親王も連座との訴えが出されてしまった。
 衝撃を受けた桓武天皇だったが、自分の子を皇太子にしたい思惑も芽生え、直ちに早良親王の淡路遠島を決める。この事件も真相は闇の中だが、無実を主張する早良親王は、抗議の絶食で遠島送りの途中で憤死する。
 一方で、紀古佐美を大将軍とした征夷軍は、岩手の胆沢でアテルイに大敗。新都では洪水も発生したことから、たまりかねた桓武天皇は再び遷都を決行、平安京に新たな都を求め諸霊対策の鬼門封じに万全を期すと同時に、征夷事業にも本腰を入れる。(谷)

最近の取材ノートから
☆★☆★2010年02月13日付

 仕事柄、さまざまな講話に耳を傾ける機会が多い。しかし、新聞のスペースにf限りがあって、記事にできるのは聞いた内容のほんの一部に過ぎない。例え「なるほど」と納得し、「読者に知らせるべき内容」と思っても、すべてを伝えることはできない。
 最近の取材ノートをめくり、まさに「同感」とうなずくことばかりの講話で、記事に書ききれなかった内容を少々詳しく紹介したい。
 その講話は、気仙地域産業活性化協議会主催による人材養成事業「食品の安全・安心製造技術講座」で、八日に陸前高田市のキャピタルホテル1000で開かれた。講師は農産物流通コンサルタントで食生活ジャーナリストの山本謙治さん(38)=東京。「日本の食は安すぎる」がテーマで、興味深かったこともあって二時間があっという間に過ぎてしまった。
 このテーマの背景にあるのが、近年多発している「食品偽装」。国内では平成十二年に近畿地方を中心に発生した雪印乳業(当時)の乳製品による食中毒事件あたりから食の安全性に対する信頼性が失われ始め、十九年は食肉加工販売会社「ミートホープ」(北海道苫小牧市)が牛肉100%の挽肉の中に豚肉や鶏肉、パンの切れ端などの異物を混入させて水増しするなどの食品偽装が発生した。
 さらに、全国的に知られているもち菓子の老舗「赤福」(三重県伊勢市)の製造年月日不正表示、比内地鶏の名を使って別の鶏肉や卵を薫製にした商品を出荷していた食肉加工製造会社「比内鶏」(秋田県大館市)。
 日本料理の料亭「吉兆」(本店・大阪市)の消費期限や賞味期限の表示偽装、産地偽装といった悪質な事件が相次いだほか、消費期限切れ原料を使用していた洋菓子大手の「不二家」、北海道の代表的な土産「白い恋人」の賞味期限改ざんなどもあり、各地から「消費者は何を信じて食品を購入すればいいのか」との声が挙がった。
 中でも、印象的だったのはミートホープ社の社長が「安いものを追いかけ過ぎる消費者も悪い」といった内容の言葉だったが、今回の講話の中で、山本さんはこの社長の言い分を擁護したわけでもないだろうが、「誰だって好きで偽装はしない」と断言した。
 その上で、食品製造会社は卸し先のスーパーなどから半ば強制的に価格を抑えられているケースがあることを説明。「価格を抑えるため、製造会社は最初に人件費を切りつめ、次に原料を安いものに切り替える。それでもスーパーなどが提示する価格に引き下げられないような場合に偽装することがあるようだ」とし、「日本の食を正常化するためには、小売り価格を現在の二倍にすることが必要。(卸価格など)適正価格が守られれば、加工業者が偽装する動機が減る。消費者は『安全で』『おいしくて』まではいいが、その上『安くて』は欲張りすぎだ」などと語気を強めた。
 また、最近の若者世代は「インターネットや料理本を見ないと料理ができなくなっている」と山本さん。その理由について、現在の祖父母世代は大家族の中で暮らし、母親から家庭料理の味を学んだものだが、「核家族化が進んだことで最近の母親や女性は親から教えてもらう機会がなくなっている」とも語り、家族構成の変化が料理にも大きく影響している現状を説明した。
 近年は共働き世帯が増加し、母親も仕事を持っている家庭が多くなっている。そのため台所で手間暇かけて料理する機会が減り、スーパーの冷凍食品ですませることも多くなっているが、今回の講話を聞き、「安い商品にはそれなりの理由があり、中には危険≠ェ潜んでいる商品もある」と実感した。この機会に家庭料理の在り方を見直し、父親であっても時には台所で腕を振るってみたいと思っている。(鵜)

ああ、カレー焼きそば
☆★☆★2010年02月12日付

 「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」
 知ったかぶりはいけないという先人の教えである。それなのに私といえば「無知の知」ならぬ「無知の恥」で、ダイエット中の身が細る思いを体験した。
 昨年十月、この欄で『B級ご当地グルメ』と題して、カレー焼きそばを当地のB級グルメとするように強くお勧めした。
「日本人にはカレーと焼きそばの好きな人が多いはず。ならば、その二つを組み合わせた『カレー焼きそば』があってもいい」
「こんなうまいものがどうしてメニューにないのか、今でも不思議でならない」
 大学生時代の自炊生活で仕方なく始めたカレー焼きそばを、さも自分の専売特許であるがごとく書きに書きまくった。
 掲載後、同僚がインターネットで検索してこう教えてくれた。
「カレー焼きそばって結構ありますね」
 その一言にガクンときた。
 あたかもこの世に存在しないかのような書き方をしてしまった。書く前に検索していれば、もう少しましな書きようがあったものを……。なぜかその時は検索する気も起きなかった。
 改めて、インターネットの検索欄に「カレー焼きそば」と入力してみた。瞬時に「約四千三百七十万件」とヒット件数を表示してきた。「カレー焼きそば レシピ」は「約千三百六十万件」もある。
 世の中はカレー焼きそばであふれかえっているではないか。海鮮カレー焼きそば、中華あんかけカレー焼きそば、和風キーマカレー焼きそばなどレシピも多彩で、私の想像をはるかに超えていた。
 読んでいくと、仕上げ段階でカレー粉やカレーのルウを麺に絡めたり、調味料に加えて作るものが多い。いわば、カレー風味をつけたカレー焼きそばだ。
 カレーライス用のカレーを焼きそばにかける私のカレー焼きそば≠ニは製法が異なる。そんな思いでさらに検索していくと、
 「会津には『カツカレー焼きそば』なるものがある」という一文で始まるサイトに出会った。
 『カツカレー焼きそば紀行』と題された紀行文によると、その店は福島県河沼郡会津坂下町の田園の中にあった。店の名前はなぜか「印度カレー食堂」。
 麺類のメニューにはカレーラーメン、カツカレーラーメン、カツラーメンに続き、焼きそば、カレー焼きそば、カツカレー焼きそばの文字が並んでいた。
 画面を下げていくと、そこにはカツカレー焼きそばの写真があった。憧れ続けた私のカレー焼きそば≠サのものである。生唾が口の中に広がった。
 カレー焼きそば、と口にするだけで周囲の人に眉をひそめられてきた。この世に同志がいることを知って感動し、一人悦にいった。
 同じ町内のドライブインや会津若松市内の喜多方ラーメンのお店にもカレー焼きそばやカツカレー焼きそばはあった。さらに調べていくと、秋田県横手市や愛知県名古屋市にもカレー焼きそばの名店≠ェある。うれしさ百倍だ。
 こんなサイトにも出くわした。『焼きそばカレー丼を作ってみよう!』。熱湯を注いで作ったカップ焼きそばをご飯の上にのせ、ついてきたソースをかける。その上にレンジで温めたレトルトカレーをかけ、最後に全体をよくかきまぜて食べるのだとか。さすがの私もこれには二の足を踏んだ。
 ああ、会津に行ってみたい。行って、あの印度カレー食堂のカツカレー焼きそばを食べてみたい。もう一つ生きる目標ができた。いつの日かきっと!と思う。
 ただ、この気仙でも食べられるならなおいい。カレー焼きそばをメニューにのせてくれる勇気ある食堂が気仙にはないだろうか。いやいや、知らぬは私だけかもしれない。「無知の恥」の上塗りだけご免被ろう。(下)

続・平氏の末裔「渋谷嘉助」K
☆★☆★2010年02月11日付

 渋谷鉱業の創業者の渋谷嘉助が、明治四十三年(一九一〇)に大船渡湾に面した弁天山で石灰石の採掘事業を始めた時から数えて、ちょうど百年になる。
 それが今日まで続く地元の石灰石関連産業の礎を築くものとなった。
 渋谷嘉助は、常に百年後のことを考えていた。国家的貢献を何よりも優先し、そのため永続性のある事業のみを行った。
 その言葉の通りに、自ら開発に乗り出した石灰石の採掘事業は百年産業として地域や国家に貢献し、その後のセメント産業へと発展し大船渡の基幹産業となっている。
 渋谷嘉助が石灰石の採掘を始めたころも、その事業のおかげで大船渡湾沿いの千戸余の漁村は潤い、納税成績も県下一といわれるほどであったという。
 その人物像は、生涯において敵を作らず、一見してたちまち百年の知古の間柄となり、大海にも似た広い心を持ち、事業地の住民に対しても「一視同仁」であった。
 昭和四年十一月二十五日、郷里の下総中村(現在の千葉県多古町)で渋谷嘉助の徳行を顕彰する大記念碑が建設された。事業地の大船渡湾沿いの赤崎、大船渡の両村からも住民代表が式典に駆け付けた。
 その時の建碑式はとてつもなく盛大なものであった。東京から参列する名士を満載して貸切列車が走り、本邸のある下総中村の地は開村以来のにぎわいとなった。
 建碑式が行われた日本寺は、中村檀林と称された名刹で、境内に建立された自然石の大記念碑の重さは約三千貫とされる。
 羽織袴姿で人力車に乗り供を従えた渋谷嘉助は、本邸のレンガ造りの門を出、式場までの道を地元の子どもたちが並んで小旗を振った。碑前の広場は天幕が張り巡らされ、大勢の来賓で埋め尽くされた。
 後藤新平をはじめ各界から贈られた祝賀の花輪が正面に飾られ、その中を子の今助に導かれて席に着き、孫たちの手で除幕された。千葉県知事や中村村長、碑の撰文者の三上文学博士など各界の著名人が祝意を述べ、人傑をたたえた。
 参列者の中には、大船渡湾の珊琥島に建立された渋谷嘉助の顕彰碑の碑文を書いた朝比奈知泉の姿もあった。
 日本寺の境内には臨時食堂や演芸余興の屋台、活動写真が催され、二千人にも及ぶ人で埋まり、本邸の庭園でも盛大な園遊会が開かれた。この時の建碑式の様子を撮影した写真があり、それを見ても実業家としての渋谷嘉助の功績の大きさが伝わってくる。
 壇上であいさつした渋谷嘉助は、「私は自分の不肖をよく存じており、何事にも誠実の限りをつくしました。假令万分の一でも国家の御恩に報じたい、皆々様のお世話に御礼を申し上げたいと、ただこの一念ばかりで押し通しました。これからも老の一念を傾倒して天下国家のためできる限りのご奉公をしたい」と語ると、それまでの波瀾の人生が脳裏に蘇り、涙の玉がほろほろとその目からこぼれ落ちた。参列者の間から「渋谷嘉助君 万歳」の合唱がその後に続いた。
 この年、八十歳を迎えた渋谷嘉助は、鶴のように清痩で若いころと変わらぬかくしゃくとした豪気がみなぎっていた。
 そのころは郷里にある本邸や相模灘を一望する熱海の桃山の別荘で過ごし、暇さえあれば東京丸の内の事務所に現れてキビキビと指図した。
 建碑式が行われた日本寺には渋谷家の墓があり、この地に落ち延びてきた平氏の先祖がそこに眠っている。
 渋谷嘉助の慈悲の心を語る時に、「一視同仁」という言葉があり、その意味はすべての人を差別なく平等に愛することとある。
 その言葉には、敵も味方も弔う仏教精神の「怨親平等」に通ずるものがあり、その怨親平等を実践した平家の平重盛は、気仙を知行地としていた。
 平氏の末裔である渋谷嘉助のなかに、怨親平等の精神が流れているのをみるのである。(ゆ)

9平方bのブースから
☆★☆★2010年02月10日付

 六、七の両日に大船渡市民文化会館・リアスホールで開かれた「おおふなとクラフトワーク展2010」。多彩な手工芸が一堂に会す催しに、出展した。
 きっかけは、本紙日曜日で連載中の「トーカイ女子の勝手にトークアイ」を読んだ主催者の方から、声をかけていただいたこと。昨年秋の話だった。
 「勝手にトークアイ」は、エリ、ミカ、ヨシエの三人が毎回テーマに沿った流行ものや生活のアイデアなどを紹介するコーナー。ジャンルは幅広い(はずだ)が、筆者の担当回を振り返ると、手づくり企画≠ェ大半を占める。
 かぎ針編みのシュシュに始まり、消しゴムハンコ、ハートケース、ノートカバー、ワンピース、クリスマスツリーのオーナメント、ミニブランケット、鬼の面と八作品。実用的なものを選んではいるが、中には鬼の面のように勢いで作ってしまった品もある。
 クラフトワーク展は一手づくり愛好者としてはとても興味のある催しだったが、出展に際しては「こんなど素人が出てもなぁ」と迷った。前年の開催時を取材した同僚に様子を聞くと、出展者の多くはプロという。
 でも、せっかくのチャンス。三人娘で話し合った結果、「トークアイ」などのPRにはなるだろうと応募を決めた。
 その後、社内で進める新聞紙の再利用プロジェクトとも連携し、準備を開始。手探りながらも互いの得意分野で力を発揮し、前日には広さ九平方b(三b四方)のブースが出来上がった。
 初日は前日からの積雪により、入場者数は少ないと見込んでいたものの、恐るべし、手づくり。開始早々から幅広い年代の人々が次々やって来た。
 我が「トーカイ女子部」のブースには、コーナーで紹介した作品や新聞紙の再利用品、おととし制作した人形・ががにん、筆者手づくりの原点となった陸前高田市立博物館のキャラクター・せき坊のグッズなどを展示。来場者向けとして、さらし布に手づくりの消しゴムハンコで模様をつける「オリジナル手ぬぐい体験コーナー」を設置した。
 予想外だったのは、この体験に大きな反響があったこと。子どもから一般までの参加があり、中には家族もあきれるほど「もっと押したい」と楽しむ子、初日は見るだけだったが「やっぱりやってみたい」と二日目にも足を運んだ方もあった。当日までの数日間、数やデザインの幅などに頭を抱えてハンコを彫っていた身にとっては、うれしい反応だった。
 また、「私もハンコを彫っているんです」と声をかけられたり、各種作品に対しての貴重な意見も続々。「いつも読んでるわよ」といったありがたい励ましの言葉もたくさんいただいた。
 さらに、出展者の方々からは今後の取材活動に役立つ情報も入手。センスのいい作品販売もあり、どれを買おうか悩まされた。手づくり品に囲まれて、その奥深さや魅力を再発見するとともに、新たな意欲が生まれてくるのを感じていた。
 九平方bのブースから得た経験の数々は非常に有意義で、手づくりに高じる一人として参考になることも多かった。主催者によると、期間中の来場者数は千人を超えたという。多くの人とのかかわりから、本社の新規事業に発展する可能性や、記者としてのネタ、アイデアも見いだせた。収穫できたものは大きかったと思う。
 最後に、ブースに足を運んでくださった方々をはじめ、わがままを聞いてくださった主催者側の皆さんに感謝を申し上げたい。本当にありがとうございました。詳細レポートは、後日紹介予定です。(佳)

四面楚歌をどう聞くか
☆★☆★2010年02月09日付

 資金管理団体の土地購入をめぐる問題で特捜部の調べを受け、不起訴となった小沢一郎民主党幹事長の続投が決まった直後から各紙の世論調査が始まった。まだ出そろったわけではないが、結果は予想通り厳しいものとなった。
 調査を実施した読売、毎日、共同通信各社の平均で、小沢幹事長辞任を求める声は七割に達している。世論とは移ろいやすいもの。だからじっと台風一過を待つというのも現実的な対応ではあろう。政府与党にとって当面最大の目標である参院選勝利のためには、小沢氏の采配に頼る以外にないという状況下、それもやむを得ない選択としても、民草の思いというものは決して軽視できないものであることだけは念頭に入れて置く必要があろう。
 小沢一郎という青年政治家の登場によって本県民の政治的関心はいやでも高まり、いずれ総理にというその可能性に賭ける期待は途切れることなく続いてきた。たとえ一時は政権から遠ざかるようなことがあっても必ず不死鳥のように蘇るだろうという確信を本県民に抱かせるのだから、これは年功と実力の他に秘めたる何かがあるためだろう。いや一言でカリスマ性と説明できるだろうか。
 実際に今回の衆院選で民主党は圧倒的勝利を収め、自民党の存在基盤を完膚なきまでに叩きのめした。その勝利は小沢氏の存在を抜きにして語れず、同氏の指導力、影響力をさらに不動のものとした。やはり端倪すべからざる実力の持ち主であることを国民に再認識させたのである。
 しかしにもかかわらず、「小沢総理待望論」が澎湃とわきあがってくることはない。小生はそれが残念なのである。なぜなら氏に総理となって東北のために一肌も二肌も脱いでもらいたいとかねてから考えていたからである。氏の師匠である田中角栄氏のひそみにならい、多少「我田引水」になってでも東北のために踏ん張ってもらいたいものだと。国土の均衡ある発展のためには少なくとも大義名分は立つ。
 だが、氏はそのような期待をことごとく裏切ってきた。少なくとも自民党時代、そのチャンスがあった。誰憚ることなく総理の座に納まることができたのである。だが、彼は若さを理由に断った。誤解を恐れずに言えば本人はいつでもなれるという自信があったからこそであろう。
 しかし運命とは皮肉なものである。この時を最後に総理になる宿命と運とは相手側から去っていった。「もしもあの時」と惜しんでも歴史の仮定は仮定に終わる。だから小生は「小沢一郎は自分の力を過信し過ぎた」と思い続けてきた。小沢支持者の一人にそう話し同感されたこともあるから、これは決して少数意見ではあるまい。オレがオレがという人物が多い政界にあって、そうした人間模様を見ていた青年政治家が、韜晦(自分の才能を包み隠す)に走ることはごく自然だが、政治家である以上、彼はその夢を果たすべく宰相の地位を手にすることが必要だったのだ。
 さて、問題はこれからである。民主党は小沢氏の続投を議員の八割が支持し、一蓮托生の道を選んだ。国民のための政治が具現すれば結果オーライ≠ナ、世論調査の結果など一過性の波として忘れ去られるだろう。願わくはそうなってほしいが、七割という続投不要の声があるという厳然たる事実に目をそむけてはなるまい。(英)


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