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今週の本棚:村上陽一郎・評 『科学技術倫理学の展開』=石原孝二、河野哲也・編

 (玉川大学出版部・2520円)

 ◇科学の技術化がもたらす課題

 医療の倫理は、西欧でもギリシャの昔から、「ヒポクラテスの誓い」などに導かれて、色々な形で議論されてきた。現代的な場面では、ELSIという頭文字を繋(つな)いだ言葉がキーワードとして使われるようになっている。Eは「エシカル」つまり「倫理的」、Lは「リーガル」つまり「法的」、Sは「ソシアル」つまり「社会的」であり、Iは「イシュー」つまりは「課題」とか「問題点」の意味である。例えば、安楽死や妊娠中絶は、倫理的にも、法的にも、あるいは社会的にも、様々な議論を誘う問題点の典型ということができるだろう。医療技術が進歩して、人間の生に様々な形で立ち入る可能性が増えたことが、この問題を先鋭化させてもいる。

 しかし、こうした事態は、何も医療に留(とど)まらない。科学や技術の成果が、社会のなかに浸透すればするほど、それが、一般の人々の「生」に直接・間接に関(かかわ)るようになり、ちょうど医療がもともとそうであるように、そこに倫理的・法的・社会的な問題点が生じる場面が多くなることは自然の理(ことわり)であろう。昨今科学・技術に関するELSIが大きな問題として浮上してきたのは当然ともいえる。

 本書は、このような状況に対応して、科学・技術に関るELSIが、どのような意味で問題になるか、ということを総合的に論じた書物だ。複数の著者が、それぞれ得意とするところを手がけた、いわゆるアンソロジー(論集)形式をとっている。

 最初に編者の一人による全体の歴史的な展望がおかれ、以降、科学研究者の倫理を皮切りに、臨床医学、生命技術、脳科学、ナノテクノロジー、農業、情報、そして環境問題という八つの論考が続いている。

 最初の問題は他の七つとは少し異質なところがある。技術(医術も含めて)は、人類発祥の最初から、社会的な利得と結びついていた。したがって、ヒポクラテスの誓いのように、早くから、同業者組合の間で、職能者としての行動規範に類するものが定められてきた。それは近代的な技術者の場合でも同じだった。

 しかし科学は本来、社会への還元を目標とした営みではない(あるいはなかった)。研究者個人の好奇心の満足こそが研究の目標だった。だから、科学の同業者組合に相当する学会は、最近まで、行動規範などを定める例に乏しかった。研究者の行動様式は、先輩の無言の教えで十分だったのだ。まして社会における責任というような考え方は希薄だった(今でもある程度はそうだ)。

 しかし、最近は二つの要素が事態を変えた。一つは、科学研究者の激増、つまり研究者の職業化であり、そのため、研究者どうしが暗黙に共有していた行動規範を明文化する必要が生まれた。それでも研究者倫理に悖(もと)るような行為が世間を賑(にぎ)わすようになった。だからある程度までは研究の倫理の問題は、一般社会的というよりは、研究者の社会の「内部」の倫理問題でもある。

 そしてもう一つの変化は、科学の成果が、直接社会に応用され、大きな影響力を発揮するようになったことだ。つまりは科学の技術化である。そこに科学者の社会的責任の問題も生じる。その実例が、あとに続く七つの話題と言ってよい。論じられているテーマはいずれも喫緊のものばかり、論者には優れた若手も起用され、小気味良い。全体に、科学・技術の進展に対してやや厳しい姿勢で貫かれているが、こうした課題の全貌(ぜんぼう)を知るには格好の手引書となっている。

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毎日新聞 2010年2月14日 東京朝刊

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