【コラム】卒業式の全裸騒動、一人の親として考える(下)

 記者も子育て中の親の一人として、自分の娘が「卒業パン」に関与し、「今日は解放の日だ」と言って、全裸になっているのを知ったら、どう対処するか想像してみた。自分の娘がケチャップや小麦粉にまみれた顔で、友人たちとともに、市街地の真ん中をパンティー1枚で走り回り、警察が追い回す場面も思い描いてみた。また、済州道の中学校の卒業生がやったように、寒い日に上着を脱ぎ、ブラジャーまで投げ捨てて海に飛び込んだならば、自分ならどうしただろうか、と考えてみた。

 教育を受ける者として不適切な行動に対しては、しかり付けたに違いない。だが、人生でたった一度しかない中学校の卒業式の日に、解放感を味わおうとした子どもに対し、「処罰」のようなことはしないだろう。強制、強要によるものではなく、自分の意思でやったことであれば…。

 世の中の親たちは、自分の子どもだけは品行方正で、勉強がよくできる模範生であってほしいと願うものだ。実際、大部分の生徒たちは、服を破ったり、全裸になって小麦粉をかぶったりするのではなく、両親とともに外食をするなどして卒業を祝った。だが、違う選択をしたケースもある。まだ未熟かつ衝動的で、場の空気に流されやすいからだ。これが問題になるのであれば、これを見過ごせない社会の余裕のなさ、大人たちの不寛容さもまた問題になるだろう。

 生徒たちの「卒業パン」を見て当惑するのは、また別の理由もある。全裸になって騒ぐため、性的な意味で社会の混乱を引き起こすことを懸念するためだ。しかし、そうした視点は果たしてまともなものといえるだろうか。米ハーバード大の学生たちが、期末試験の前日に、裸になって運動場を走る伝統もあるが、これも性的な視点で見るべきものだろうか。

 それでも、公序良俗を守るため、「卒業パン」のようなことは取り締まるべきだ、とこだわる人もいる。だが、そうだとすれば、子どもたちが簡単に体を露出させる行動は、果たしてどこで覚えたのだろうか。未成年の芸能人たちが平気で下半身を露出させ、テレビを付ければ、性的な描写は日常茶飯事だ。獣のような男たちに歓声を上げ、インターネットでポルノ画像を見られるようにしたのは、大人たちではないか。

 かつては、今回のような事件が起これば、大人たちは「これは子どもたちの問題ではなく、われわれ(大人)の問題だ」という反応を示した。だが最近は、「子どもたちの問題」と決めつけてしまう。そして、それを解決するために、公権力を利用している。

チェ・ボシク記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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