検証/「参政権要求運動」(8)
真の「共生」、「国際化」とは
今日、在日同胞の価値観が多様化する中で、「在日論」を提唱する人たちが、「共生」や「国際化」といった言葉を多用し、「参政権」についても理論をすり替え、肯定的にとらえているという。彼らの論理の特徴は、総じて在日同胞の政治的、社会的、歴史的境遇に基づかず、「自由意思」によって渡日した一般の在日外国人の人権と同一視しているところにある。
そして、民族性の保持を口にはするが、「参政権」論議でははからずも同化を「自然の流れ」と肯定し、論理の自己矛盾を露呈してしまったと言える。
短絡的な規定
朝日新聞94年9月23日付の論壇に「地方参政権は『在日』の基本的人権」(朴昌憲)という題の一文が掲載されたが、その内容は、「在日韓国・朝鮮人」はかつて「日本国籍」を保持、「参政権」を有し、「基本的人権も保障」されていた、その「参政権」と「日本国籍」を「剥奪」したのは不当で、冷戦崩壊の現状の下でその「復権」を要求するというものだった。まさに「在日論」に基づく「参政権」論議の不可思議さをかいま見せるものと言える。
「在日論」は例外なく、従来の在日朝鮮人運動を「祖国志向型」だと、一面的あるいは短絡的に規定している。あたかも祖国の統一運動にすべてが収斂され、そのことによって在日同胞の足元の人権、生活の問題が軽視され、その結果、祖国と在日同胞社会が対置もしくは対立する関係になったかのように事実をねじ曲げている。
「参政権」についても、「祖国志向」によって「在日」が日本社会で「市民」として当然持つべき「1票」の重要性を見ることができなかったとし、さらには、解放後半世紀もの間、在日同胞が差別を被ってきた原因も、日本の政治に「自己の意思を反映」させる 「一票」がまかったからだという。
このような論理は、在日朝鮮人問題の発生原因や現在の状況を正しくとらえていないところから出発する。
同化は不可避か
また、「在日論」は「日本永住」を最大命題にしながら、同胞の「同化現象」をこれ見よがしに強調し、それをあたかも「不可遜」とか「自然の流れ」のように言っている。ついには在日同胞を「朝鮮系日本人」、日本国の「少数民族」とまで言い切る。
まさに、論外と言える。なぜなら、「自然の流れ」という同化現象は、日本政府の政策的圧力によるもので、同化は「不可遜」というが、自己のアイデンティティーが叫ばれる今日において、外国人として堂々と生きていくことは、当然の権利として公認されているからだ。
「在日論」はまた、「国際化」時代を強調しながら、日本の地域社会の「市民」としての「共生」を説き、日本で育ち、日本で「永住」し、納税義務も日本人と同じく負っており、このような在日同胞には「参政権」を付与するなど「平等」に処遇すべきだとする。
在日朝鮮人が求めている権利とは、本質において朝鮮人として生きる権利であり、この権利は半世紀もの間、否定され続けてきた。これこそが、在日朝鮮人の人権侵害の核心なのである。 日本人と変わらないから日本人と同じ権利を要求するのは「朝鮮人としての権利の放棄」を意味し、日本人としての権利なのか、朝鮮人としての権利なのかが、極めて曖昧な、すでに矛盾した人権論である。
過去、植民地支配を肯定する日本の閣僚たちの妄言とその脈絡を一にしていることに驚きを隠せない。
「在日論」は朝鮮人という実態から「民族」「祖国」というのを外し、実体不明の「在日」に始まり「在日」に終わる。
「国際化」とは、国籍や民族文化など、互いの違いを前提に、その違いを尊重し、認めることだ。「金」が「金村」に、「朴」が 「木村」になることが「国際化」ではない。
違いを失った「国際化」とは、「国際化」「共生」という表現を借りた「同化」のすすめ、圧力にほかならない。同胞が朝鮮人という「外国人」であっていいし、「外国人」であることを理由に差別する意識と構造と政策自体を是正しなければならない。
「参政権」論議ははからずも「在日論」の本質にメスを入れることになった。(創、おわり)[朝鮮新報96/7/2]