2010-02-16 18:28:07

腰履き禁止条例は、カナダになくて良かったね

テーマ:なんだかなぁ。。。

服装問題からまさにヤブヘビ、バンバン叩かれている国母選手。


ドレッドヘア、鼻ピアス、サングラスにシャツ出し腰パン。

この姿に驚いた視聴者から、苦情や抗議が殺到したとのことで。


その数や、日本オリンピック委員会(JOC)に電話50件、メール500通。
東海大に電話が100件以上。 
都内のSAJ事務局にも、電話は40件以上。(2月13日時点)


熱心な人って、いるんだなあ。。。


服装については、「そんなに目くじら立てなくとも」と、擁護派も多く。


あれは約20年前に日本でスノボが初めて流行した時に誰もがやっていたファッション。
つまり「定番」であり、彼にとっては『正装』なんだそうで。
また、スノーボードの世界では、同じ服装になることを嫌う個性的なファッションの選手が多いということで、今回の服装は、「国母選手らしい」と、想定内のようだ。


「個性」のつもりが、「定番」か。。。案外皮肉だね。苦笑


北海道大学大学院法学研究科教授の町村泰貴氏は「橋本団長は高校修学旅行の引率の先生か」と題し、
「よく見かける若者のはやりのスタイル、大して見苦しくもなく、まあ普通」
「服装の乱れで始業式の出席を認めずに追い返す中学高校の先生の姿を彷彿とさせ、選手団は高校の修学旅行であるかのように思ってしまう人々がいるらしい、JOCは何様か」とご意見を述べていらっしゃる。


ずいぶん、ご理解のある方のようだ。
まあ、今時、服装の乱れくらいで怒ったら生徒が来ない、なんて、指導する方も及び腰のようですが(苦笑)


ロイター通信のスノーボード担当者は「(米プロバスケットボールの)NBAでも選手の服装規定がある。世代によって感じ方が違うかもしれないが、国を代表する選手なら模範になる態度を取るべきだと思う。」
とコメントしているんだけど、教授からご覧になればさぞかし、外国人なのに頭が固くて保守的に映ることでしょう。


そしてこれを「腰履き禁止条例」のあるルイジアナ州の方が見たら・・・。
きっと驚くでしょうねえ。


カナダにはこんな条例がなくて幸いだ(笑)


他には。

「インターナショナルライダーとして活躍している選手。技術が優れている。」
「服装はどうでもいい。実力で判断しろ。」
「7samuraiでDVDも出してるし、ゴーグルでは初の日本人シグネチャーモデルが出てるんだぞ。」(→だから?)


他にもノーネクタイなどの服装の選手がいたことは確かだ。
ただいかんせん、他の選手よりも彼は明らかに悪目立ちし過ぎてしまった。


日本オリンピック委員会(JOC)には、国際大会での「代表選手団公式服装規程」があり、「自覚と誇りを持って選手団公式服装を着用しなければならない」と定められている。


何を持ってしての、「自覚と誇り」なのか、あまりにも抽象的な表現だ。


私個人としても、出発・到着時のことだし、ドレッド、鼻ピアス、緩めたネクタイ・・・これくらいまでなら格段どうってことも感じなかった。


都合良く解釈すれば、「自覚と誇り」さえ持って着れば、どんな着方であってもOK、つまり、彼の着方もアレで「あり」と言っちゃあ、「あり」、ということになる。


にも関わらず、あの着こなし(彼には独自の美意識とプライドがあるようだから、敢えてこう表現する)について、国民の何十人(何百人?)かには、思わず抗議行動を起こさせるほど強く不快な感情を感じさせてしまった。


それでは。不快に感じるのはいったいどの辺なのだろうか?

それはズバリ!主に腰パンにあると言えよう。


・・・。


ま、本気半分、冗談半分(苦笑)


まずは、冗談半分部分から書いてみる。

ズボン、パンツを低い位置で履く、いわゆる「腰パン」は、90年代後半から男子中高生の間で流行。茶髪、ピアス、ルーズソックスなどと並び、校則違反として社会問題化した。


学校の制服については、軍隊のようだだの、画一化された教育だの、個性を奪うだの、個人の尊重がないだの云々言われてたけど、こうなると、ね、そんなこと棚に上げて社会問題化(笑)。


それは良いとして。


公式ブレザーも、いわば制服。

その国の象徴でありながら、諸外国に向けての礼節的な意味合いも含んでいる。
だから、誰も公式な服装に「個」は求めていない。

なのに、そんな制服を 社会問題化した「腰パン」した。

もうそれだけで、嫌悪感なのだ。


それだけではない。

「腰パン」は着こなしが難しい。
「カッコいい」と思えるのは、せいぜい足の長いモデルくらい。


ゆえにたいがいは、

「短足に見えてみっともない」「だらしない」「中でオムツがモタモタしてるみたい」(→これは私個人の感想)

「腰パン」には不潔感も生じてしまうのだ。


国母選手の出身地・北海道のスキー連盟関係者によると、「人から何か強いられることを好まない性格。頑固な面もある。」そうで、過去にも表彰式など公の場での服装をめぐって注意をされたことがあったらしい。


人から強いられるのを好まないのは、なにも彼に限ったことじゃない。

強要されたくないと、反抗したくなるのが「15の夜」(苦笑)

そう、15歳。許容範囲でも、18歳くらいまでだろうか。


でも彼は21歳。

21にもなって、「誰にも縛られたくない」と盗んだバイクで走り出して逃げ込んだ夜に、自由になれた気がしたって、ねえ。どう思います?(→ヘンな例えに使ってしまい、尾崎さん、すみません!)


そして本気半分の部分は。

もちろん、公式の場に臨む『意識』の欠如と「他(国内外)」からの視点に全く考慮が至らなかった事。

公式の服装を身につけることの意味を、全く理解していない。


教授さまがご自身の感想を述べていらっしゃるような、
「自分的にはフツーに見えるけど?それくらいいいんじゃない、別に。」
といった、個人の主観的な基準をそのまんま公的な場にも適用してしまい、自分が置かれた立場や「他(国内外)」からはどう映り、どういう印象を与えるのか、という自分が及ぼす影響について考えが及ばないことが問題なのだ。


税金からなる国庫補助金を受けているJOC、SAJから派遣される代表選手は「公人」扱い(=社会的な影響力という意味で)


否応もなく、日本代表、日本の顔。


国民は、自分に何を求めるのか。

と同時に、同じ分だけ、自分たちの競技を支えてくれる人がいる、応援してくれる人がいる。


そこに気づけば、立ち居振る舞いもおのずと整ってくるはず。


礼節を重んじる日本人。
感謝の気持ちを持って慎ましく振る舞う日本人。
実力に驕ることなく、相手に敬意を表する日本人。

そんな誇らしい日本人。


いや、そうなっていてほしい、なってくれ、という気持ちが、私たちが思い描く「日本代表」像に現れる。


先述した2つをまとめるに。

ただでさえ賛否分かれる「腰パン」を、「公人」扱いである彼が公の場で公式のスーツでやってしまった、ということ。

彼の「腰パン」は、日本代表としての「自覚と誇り」のある着こなしとして受け入れがたい、ということ。


つまり、彼個人のファッションへのこだわりを無理やり公式ブレザーで発揮することは、残念ながら、まさに、公(=日本代表)私(=「腰パン」)混同であり、日本代表だっていうのになんなの、あれ?と感じる違和感が原因と言えるだろう。


ちなみに。
彼を弁護するならば、TPOという言葉はよく理解している。


というのも、現地へ出発する前に出席した東海大の壮行会では、しっかりズボンを履いていた。

シャツはズボンに収まっていた。ブレザーのボタンもちゃんと止めていた。


「(五輪は)今までそんなに意識していなかったが、みなさんに応援してもらって、自分ができることを頑張りたい。自分のすべてを出せるように頑張る」なんて、抱負も語れる。

地元で行われた激励会では、昨年11月18日に結婚した奥さんも電撃的にお披露目するなど、場の盛り上げ方も心得ている。

難病に苦しむ自分のために世界を転戦する中お見舞いに度々訪れ、治療のための募金活動まで始めてくれた、と、10年来のその友人は話していた。ただ、口下手だから誤解されやすいのだ、とも。


友人や周囲に対して優しく礼儀正しいのは当たり前だと差し引いても。
プライベートでは、良い子なんだ。


だから。

なんでよりにもよって注目の集まる出発時にやっちゃったかなあ。。。しっかり教育して注意・管理してくれよ。。。

くらいで、この騒ぎは本当は治まったんだと思う。


「現在、行動を自粛させている。対応を検討したい。本人には厳重に注意し、十分反省している。今、気持ちが動揺しているため、落ち着かせるために本人の出席は控えさせてもらった。ご理解いただきたい。」とか何とか言って、記者会見を済ませていれば。


そう、あんな付け焼刃な態度の記者会見じゃ、火に油。さすがにあれはまずかった。


テーブルにひじをついてマイクを引き寄せ、語尾を伸ばした言い方で「反省してま~す」。
で、背もたれにドカ!


挙句、いたたまれなくなった萩原監督が「特に男子は若い子が多くていろんな面で言葉足らず。迷惑をお掛けするかもしれないですが、よろしくお願いします」と、フォローする展開。


しかもそれだけじゃ事は済まなかった。
高性能マイクの良い仕事が最悪の事態を引き起こす。

 

なんと、「反省してま~す」の前の、「チッ、うっせーな」と舌打ちを拾ってしまったのだ。
言葉足らずどころか、完全に蛇足。


俺、ボーダーよ?プロよ?
スポンサーもいるし、イメージってもんがあるじゃん?

でも、しゃーねーなって思ったから顔立てて着てやったワケじゃん?

でもあんなダッセェ服、あのまま着たんじゃ、かっこ悪いじゃん?
俺っぽく着て何が悪いっつーの?腰履きなんて、ファッションだよ。

今更、俺にどうしろって?謝れ?謝ったらかっこ悪いじゃん。

つーか、ここにいること自体、かっこわりい~。
あぁ~もう早く終わんねぇかなぁ~。

ったく記者はうぜーし、また何か言ってケチつけられたら、マズイし。


って、感じでしょうかね?


そして、「はいはい、謝りましたよ。満足デスか?早く解放してくれよ。」的な表情。


響の「みつこ」か。

みつこはもっと早口でキレるが、相方の小林なみに「謝る気ねえだろ!」とツッコんだ方も多いはず。

監督も監督で。

国母自身への質問にも関わらず、横からコソコソ。

船場吉兆のささやき女将か。


ともかく、この記者会見で、単なる服装の不快感が、国母選手自身のみならず、彼のご両親、奥さん、果てはスノーボードという競技にまで悪いイメージが及んでしまったことは間違いない。


それに加え、過剰にも思える報道となったのは、オリンピックの特異性も一因としてある。


オリンピックは、国や地域間の問題、商業主義など、さまざまな分野の思惑が絡み合う、あらゆる方面に大きな影響を与える巨大なイベントになった。

もちろん、スポーツを通じて体と心を鍛えよう、国を超えて互いを尊重し交流しよう、平和な社会を築いていこう、という理念が根底にはまだある。


オリンピックの光と影。


その影がどんなに大きく陰ろうとも、それでも大多数の人々がこの4年に1回の世界的な競技会に感動を覚え、感動を求めるのは、「勝つことではなく、参加することに意義がある」から。

こうしたオリンピズムという理念の存在、オリンピックの特異性はそこにある。

(参照)オリンピック
http://www.joc.or.jp/olympic/


その理念を尊く感じ取るからこそ、オリンピックに出場する日本代表を誇りに思い、世界各国の選手に敬意を払い、その健闘をたたえるのだ。

自分らにはない才能を持ち、それをさらに磨き上げる4年間のたゆまぬ努力、精神力、その競技への情熱、深い愛情に感銘し、心からたたえるのだ。


だからこそ、だらしない恰好でふてぶてしい態度(に見えた)の国母選手が、その尊いオリンピックを、それに寄せる私たちの気持ちを小馬鹿にされたようで、せっかく楽しみにしていたオリンピックが台無しにされてしまったようで、より強い不快感を抱かせてしまったのではないだろうか。


トリノで、態度が悪いと悪評だったスノボチームの成田童夢さんですら、服装の乱れや謝罪の態度に対して、
「同じスノーボーダーとして許せない」とブログで苦言を呈している。


「国母和宏選手…。おれも人の事を言えないかも知れないけど、あの記者会見の態度だけは同じスノーボーダーとして許せないよ。しかも、前回のトリノで一緒に日本代表として戦った仲間なんだから、しっかりと頑張って
ほしいのに…。ただ、スノーボーダーのみんながみんな、あの様な不躾な態度をとるわけじゃないからね。
おれだけじゃなく、他のスノーボーダーにも影響する事をわかってほしい…」
(成田童夢オフィシャルブログより)


まあ、そもそも、彼としては迷惑なんだろう。


そんなに重い日の丸を勝手に背負わせて、「W杯勝ってるから、メダルは確実だよね~♪」なんてよくも気軽に言えるよな、ボード競技なんて知らないくせに。


そう言いたかったかも知れない。


マイナー競技は、少ない強化金をやり繰りし、足りなければバイトや派遣で費用を賄う現実。

なのに、オリンピック出場ともなれば、そんな苦労も知らず「国のためにがんばれ」「メダルとってこい」
と過剰な期待。


だって、「日の丸飛行隊」って、ねえ。
零戦か。


冬五輪と言えば、フィギィア・モーグル・ジャンプ・スケートくらいしか興味がない報道。

ヒロインを見つけたマスコミがようやくカーリングを取り上げるようになって、事業仕分けで「日本で普及していない競技にも補助が必要なのか」と思わぬ脚光を浴びた形で、リュージュとボブスレーがニュースで紹介される程度。


そういう手のひら返すような態度もどうかと思うのだが。


五輪に対する重みやこだわりといった特別感を、あえて彼は出さないよう振る舞ってるように見える。


「メダルを取って人生変えようとは思ってないです」。
「自分にとって五輪はスノーボードの一部で、特別なものでない」。


そうは言ってるが、壮行会では
「前回はメダルを取ることしか考えず、かっこ悪い滑りになった。今回は自分の滑りをすることだけを考えたい。納得できる、かっこいい滑りをしたい」
と話していた。


それに、こうも言っている。

「五輪には、普段この競技と縁がない人にもパフォーマンスを見てもらえる影響力があることを実感した。スノーボードを見てもらえない人に知ってもらう価値がある。スノーボードのかっこいい面を 五輪の舞台で見せられたらいいかな」。


理想のボーダー像は「ライフスタイルを含めてかっこいいやつ。」。


それをよく表しているエピソードがW杯開幕戦があった去年8月。
06年トリノ五輪金メダリストのショーン・ホワイト(米)が縦2回転横3回転の新技「ダブルコーク」を披露して圧勝(国母は日本勢最高の3位)。

このホワイトの新技を見た第一印象は
「自分の好きな滑りをしても高い点数が出ないなら悔しい。」。
「あれをやらなきゃ勝てないのか。あんまりかっこよくはないけど……」。


とにもかくにも「かっこよく」。
価値基準が、かっこいいか、かっこ悪いか、なのだ。


五輪についても、それは言えるだろう。

彼は、自分で言うほど、オリンピックに特別な感情がないわけではないと思う。

4歳でスノーボードを始め、11歳でプロボーダーとして登録、ソルトレイクをテレビで見て13歳で五輪を意識した。

その4年後、スキー競技では日本人史上最年少17歳6か月(里谷多英は17歳8カ月)でトリノに出場。
「出るからには金を取りたい。結果を出さないと後悔する」と“金メダル宣言”するものの、結果は23位の予選落ち。

しかしながら、「五輪の雰囲気にのまれたとか守りに入ったわけではない。メダルが取れなかったので、次を狙う理由ができた」とバンクーバーを目指す発言をしていたのだから。


あれこれ言われて悔しかっただろうが、それよりも成績自体が悔しかっただろう。


それからまた4年。プロリーグで活躍し、世界を転戦する彼にとっては、あの頃よりは五輪への特別感は薄れたかも知れない。


でも。
この競技と縁がない人にもパフォーマンスを見てもらえる影響力があることを実感し、もっと多くに人に知ってもらえるのなら、オリンピックには出る価値がある。


この想いは変わらないはずだ。


幼い頃の彼はきっと、何よりもかっこいいと思ってスノーボードを始めたんだろう。
かっこよく滑りたい、と、頑張ったんだろう。
あんな風にかっこよくなりたい、と目指した憧れの選手もいたんだろう。


彼のスノーボードは、「かっこいい」から始まった。

だから、自分のスタイルを守ることにこだわったんじゃないだろうか。

何よりもかっこいいと思うスノーボード、何よりもかっこいい競技だと思ってほしいスノーボードのために。


それらは出発時、「結果よりも内容。(滑りを見て)格好いいと思ってもらえればいい。最近のスノーボードはすげぇダセえから」と持論を展開していたことから推察される。


だから、「そいつら(他の選手)と一緒の恰好でなんかいられっかよ。かっこ悪い。」。

で、貫いた結果が、あの「腰パン」騒動。


しかし、想像以上の叩かれように、内心驚いたに違いない。


でももう引っ込みつかない。
だからと言って、言われた通りに頭を下げるのはかっこ悪い。


プライドを保つには、せいぜい悪ぶるしかない。


「(チッ、うっせーな)反省してま~す」。


恥ずかしさを不貞腐れた態度で隠し、ごまかし。


かっこ悪かったけどとりあえず謝ったし、何にしろ競技が控えてるんだから、これ以上はないっしょ、あとはかっこよく滑って見せて、メダルが取れりゃ態度もコロッと変わるだろ、と考えてたはず。


しかし、出場を辞退させると言われてしまった。


「かっこいい」「かっこ悪い」でしか物事を判断してこなかった彼。

それ以外の判断基準、価値基準が世の中にはあり、公人となればその基準が重きを置かれ、自分のポリシーを貫くことよりも優先されることが求められるのだという事に、ようやく気付いた。

そして、貫いたこだわりが、自分の大切にしているものにまで非難を向けられる結果を招いてしまったことも。


そうでなくては、選手団の団長に注意されたぐらいで、あんな神妙な面持ちで今更、「応援してくれる方々のために」なんて言える訳がない。


口下手だったら口下手なりに、言葉遣いと態度に気を配らなくては。
友人や知っている間柄だったら「全くもう」で済むことも、公的な場では済まされない。


そのことにもっと早く気付いていればなぁ。。。。


15日のテレビのインタビューでは、嬉しそうに雪の感触を確かめていた。
記者会見と変わらず、ぼそぼそとしたしゃべり方で愛想のない感じだが、滑れることを心から喜んでいるのが隠しきれない感じでにじんできた。
やっと滑れる!スノーボードが大好きって顔だった。


4年前のトリノで問題になっていたスノーボードチームの言動。
そして、口下手で誤解を招きやすい彼だと言うことを知ってて放置していた、指導する側の危機管理のなってなさが本当に残念でならない。


長文になったので、この危機管理については、別の記事で。


<ひとくちメモ>

「ズボンの腰履き禁止条例」

条例の制定理由は「若者によるズボンの腰ばき、下着やでん部の露出に対して、市民からの苦情が多数寄せられたため」。
違反者は罰金500ドル(約5万8000円)か禁固6ヶ月以下の刑。

この条例は男性でも女性でも対象。
「誰も他人の下着や尻の割れ目を見たくない」と賛成する声もあるが、政府がファッションを法律で規制すべきでないと表現の自由やプライバシー尊重の立場からこの条例に反対する声もある。
その他、ギャングやヒップホップカルチャーを狙い撃ちした黒人差別につながりかねないと危惧する声もある。


どの辺りが黒人差別なのか。


腰履きは、もともと「囚人スタイル」で、安全上の問題から囚人のベルトを取り上げた米刑務所の規則に由来している。(2006年の囚人数の41%は黒人)


ヒップホップはいわゆるスラム街で生まれた文化。
アフリカ・バンバータによる造語で、「アフロ・アメリカンが、文化(音楽、ファッション、アート)を取り入れ、新しいスタイルを生み出すこと」をヒップホップと呼称したのが始まり。ヒップホップの主な要素は、ラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティの4つ。
これらはアメリカのストリートギャング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりとしてブレイクダンスやラップの優劣が争われたり、ギャングたちの縄張りの主張や情報交換の目的に、一部のグラフィティが用いられていたと言われている。


つまり、ヒップホップはストリートギャングの多い地区で生活を送る黒人を中心として広まっていったものであり、入所した者が刑務所でこのスタイルを知り、出所してこのスタイルが広まったものと言える。


ヒップホップカルチャーは何も黒人に限ったものではないが、囚人数の割合から、この「囚人スタイル」をしている者は、黒人の方が多いと、危惧している人はそう考えているんだろう。


ただし、この反対意見が指摘するのは、条例化が若者らの社会的疎外に強めてしまうのではないかという点。
決して表現の自由からではないところに注目したい。
むしろ、きちんとした衣服の着用は自尊心向上につながると説明している。


「ズボンの腰ばき」禁止条例に異議、米専門家らが指摘
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2300443/2263832
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%97


人種問題が複雑に絡んでいるとは言え、教授さまはこういったご指摘をどう思われるんでしょうかね(笑)

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