棺の中の楽園 [日記、あるいは日々の考え事]
−日記・過去ログ−
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2003/12/29 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#28
◆
軽く一年を振り返ってみる。
1月――24日に書いた妄想は今読み返しても幸福感に浸れる。自分で言うのもなんだけど、これはお気に入り。
2月――シスプリ方面が非常に充実していた。花穂に四葉に可憐に亞里亞(5〜15日)。夢で感じた妹の体温(22日)。
3月――シスプリにおける理想の兄(3日)。愛人-AI-REN-と出逢う。フリルのスカートの裾を摘んでお辞儀をする夢。
4月――ゲーセンで声を掛けられるというレアイベント発生(12日)。LAiさんとは現在に至るまでゲーセン方面でお付き合いが継続。
5月――早瀬ちゃん上京に合わせてぷちオフ(25日)。
6月――萌えメディアには“笑う女の子”は滅多に出てこない説(14日)。
7月――亞里亞(6日)や花穂(26日)の話はお気に入り。
8月――苺ましまろに出逢う(6日)。大往生ブラレ大会に参加&優勝(11日)。土方さんと浅間大社へ(23日)。
9月――ルパン122でRYUさんと知り合う。こちらもお付き合いは現在まで継続。この月は主にSNOWをプレイ。
10月――特になし。この時期から日曜日はINDさん&ARCさんと三人で遊ぶのが定番に。
11月――シャーリーに出逢う。陰陽師の人(注:土方さん)が群馬に遊びに来たのでぷちオフ。馬車道服と巫女服を着る機会に恵まれる。
12月――ナミキシューティング祭り。もずさん、ピロンさんと一年ぶりに会う。それから悶さん、しもしも〜んさん、MRIさんと知り合う。
リアル方面の交友関係が充実していた一年だったと思う。
特にINDさんとARCさんとLAiさんには感謝してもしきれない。
今年のベストゲームは、家族計画、SNOW、CloverHeart's、の3本。マンガだと、苺ましまろ、シャーリー、の2冊。年間ずっと継続して付き合ってきたのはシスプリと怒首領蜂大往生の2つ。
***
さて、明日からちょっとの間留守にするのでこれが今年最後の更新になります。
今年最後のご挨拶。
今年もたくさんの方がうちのサイトに来て私の文章を読んでいってくださいました。そういうことはアクセス数や解析なんかでおぼろげに知ることしかできないのですが、でもそういう微かなしるしでも、毎日文章を書く私にとっては計り知れない励みになっております。興味を持ってくださったすべての方、声を掛けてくださったすべての方へ、本当にどうもありがとうございます。うちのサイトがあるのはあなたのおかげです。
それでは皆様、良いお年を!!
(来年もなこるると花穂と茉莉たんは俺のです、誰にも渡しません)
2003/12/28 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#28
◆
ルパン122内だけでシューティングをやっているとどうもマンネリに陥ってしまうので、心に渇を入れるためちょっとと明大前ナミキに遠征。
凄腕シューターが集うああいう場所の雰囲気に触れることはそれだけでもたいへんな刺激になる。普段孤独にシューティングに打ち込むしかない私にとって、ああいう場所に集まってくるプレイヤーたちは名も知らぬ戦友みたいなものだ。ああいう雰囲気を肌で感じる度に、ひとつのゲームのパターンを磨くために努力をしてきた自分はやはり間違っていなかったのだと思うことが出来る。その意味は決して小さくない。
まあそんなことをいつも考えている訳ではもちろんないのですが。
という訳でARCさんをお誘いしてナミキシューティング祭りに参加。
一般道をひた走ること約2時間半、意外なことに「ピロートーク」というものの存在を知らなかったARCさんに車中で萌えシチュ講釈をしたりなんかつつ、お昼前ぐらいにナミキに到着。
基本的には凄腕プレイをギャラるために行ったのだが、さすがにただ立って他人のプレイを観ているだけでは退屈なので時々大往生(黒)で遊んでみたり。今日はナミキの一階カウンター奥のスペースの筐体5台が全部大往生になっていてなかなかに壮観だった。
正午すぎぐらい、ふと思いついて、ビッグサイトにいるはずのLAiさんの携帯に連絡を入れて、折角の機会なのでナミキに来てみませんかとお誘いしてみる。
すぐに了承が得られたので私は大往生をやりながらLAiさんを待つことに。
午後2時ぐらいにLAiさんが到着。
大往生のギャラリーをしていたらもずさんとピロンさんに遭遇。それを切っ掛けにして更に、悶さん、しもしも〜んさん、MRIさん等と知り合う。お昼すぎぐらいにB-Sで白緋蜂を追いつめていたプレイヤーが実はもず部屋関連で名前だけはよく知っていた悶さんだと知った時は驚いた。ちょっとだけお話をしたが、ここに至ってようやくショット強化機体でも2周ALLが現実味を帯びてきたようで。同じ大往生プレイヤーとしてはもう脱帽するしかない。
午後4時前、ピロンさんに挨拶をしてからナミキ離脱。
欲望の街、秋葉原へ。
キュアメイドカフェで夕食を取った後、ざっと同人誌ショップを回って、それからトライへ行って怒首領蜂・青版(通称:NAI
バージョン)をプレイ。C-S で1-5ボスまで到達。タコミスが多すぎたのでもうちょっと慎重にやれば6面ボスぐらいまでは行けそうな気がする。
午後8時すぎに秋葉原を離れて一路群馬へ。
午後11時すぎに帰宅。
***
サークルS・O・Fの蜂ビデオ2本(黒版/青版)はLAiさんに代理購入してもらい無事入手。
ただ、差し当たり今日は眠すぎるので内容については明日以降に。
2003/12/27 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#27
◆
何か色々なものが上手く噛み合わなくて憂鬱。
愛など要らぬ!! (これってサウザーの台詞だっけか?)とか言いたい気分。
◆
車の中で連日シスプリクリスマスCDを聴いている。
「Merry Very Christmas」はアニメではなくてドラマCDで歌われたのだったら完璧だったのに、とふと思った。リピュア13話はどんなに甘めに見ても面白いとは言い難い代物で、それゆえ今まであのクリスマスソングもいまいち真面目に聴けていなかったのだが、この歌は単体で聴けば「その奇跡は永久に」に劣らないくらい良い曲だ。ということは、つまりリピュア13話の終幕の出来が今一つだったとすれば、それは歌が悪いのではなく画面演出が問題だったということになる。ではどうすれば良かったのだろうか?
話は変わるが、「その奇跡は永久に」は私にとっては名曲であるかどうかを問題にしないような曲だ。私はこの曲を好んで聴くが、それは曲自体が美しいからであるというよりは、この曲が12人の妹たちによってただひとりの兄のために歌われた歌だからだ。……どうも上手く言えていない。今までにも幾度となく書いたことだが、シスプリの世界が女の子コミュニティーの楽園であるという意味は、単に女の子の世界への憧れということだけには留まらず、彼女たちが「お兄ちゃん大好き」というたったひとつの想いを共有する仲間だいうことでもある。オリジナルアニメについて、航=キリスト、妹たち=十二使徒、であるという指摘を最初にした人は果たしてその意見を真面目に語ったのか、それともネタだったのか。でも妹に感情移入して楽しむ限り、キリストと十二使徒というのは実はかなり的を射た喩えだと思う。シスプリの12人の妹たちが皆仲がよいというのはこの種の作品のお約束的なものだとも言えるのだが、でもそれだけだったら私はきっとこれほどシスプリにははまらなかった。シスプリが私にとって目映いばかりに魅力的であるのは、あの妹たちが兄への想いというものを共有することで堅い結束のようなものを作り出しているからだ。そこには一種宗教的なものがある、と言ってもおそらく間違いではあるまい。あのオリジナルアニメ20話は、そういうコミュニティーとしてのシスプリワールドの最も美しい結晶だったのだ。私はだから、あの合唱の場面を見る時、受け手としての航の立場に身を置くよりは、妹のひとりになってあの合唱の輪に加わりたいと願う。同じ想いを共有する仲間と一緒に一人の愛する人への想いを歌う、というのはどんなにか素敵なことだろう。
そういう風にして考えていく時、私はふと気づく。オリジナルアニメ20話でもリピュア13話でも、それぞれのクリスマスソングはいずれも妹たちから兄への贈り物という形で表現されていたのだが、でもそこにそもそもの誤解があったのではないだろうか? CDを買った人は知っている通りあの中には両曲のカラオケバージョンが入っていて、私もここ数日車の中で繰り返し繰り返しふたつの曲を歌っていたのだが、でも諳んじるぐらいまで歌い込んでみると、このふたつの曲は実はかなり性格の違うものであることが分かってくる。「その奇跡は永久に」を歌う時、私は妹のひとりになって合唱の輪に加わることを想定して歌う。あれは純然たる妹の曲であって、言い方を変えればそこに兄の入り込む余地はないのである。それに対して「Merry
Very Christmas」を歌う時は私は妹の立場に身を置かない。それはあの曲が、必ずしも妹から兄への贈り物としての性格を持っていないからだ。「Merry
Very Christmas」は妹たちのリレーによって歌が紡がれていくのだが、こういう手法の歌がどういう時にどういう風にして歌われるのが最もしっくり来るだろうかと色々想像してみる時、これはリピュア13話のように物々しく贈り物として歌われるよりは、むしろ室内で、家族団欒の中で歌われるような性格のものであることが分かってくる。この曲は贈り物として歌われるよりも、みんなで一緒に愉しむようなタイプの曲で、だから私はこの曲を歌う時は兄の立場に身を置く。もし名作映画「サウンド・オブ・ミュージック」に準えるなら、「その奇跡は永久に」は子供たちから父へと向けて歌われる「サウンド・オブ・ミュージック(The
Sound of Music)であり、「Merry Very Christmas」は歌い手自身のための楽しみの歌である「私のお気に入り(My
Favorite Things)や「ド・レ・ミの歌(Do-Re-Mi)」に相当する。リピュア13話がいまいち肌に馴染まなかった理由というのは、詰まるところここにあったのではないだろうか?
もし「Merry Very Christmas」が、例えばピュアストーリーズ(PS版)のクリスマスストーリーのような雰囲気の中で兄と妹たちによって仲良く歌われたとしたら。私はそう想像するだけで身震いしてしまう。この歌は「その奇跡は永久に」のように練習して本番でたった一度だけ歌われるような性格のものではない。そうではなくて、これは兄妹皆に馴染みのある歌をクリスマスパーティーの席上で妹たちの誰かが歌い出し、それを他の妹が即興で(※)引き継いで、遂には兄も加わってみんなでひとつの歌を紡いでゆく、という風にして歌われるべきものだ。その時にこそ、この歌はきっと最高の輝きを放ち、兄と12人の妹たちのクリスマスの夜を鮮やかに彩ることだろう。
(※)余談ながら、即興であんなに上手く役割分担が行われるはずがない、という指摘はこの場合あまりに野暮だ。計算されたものを恰も即興であるかのように自然に表現できる(例えばオリジナルアニメ6話の演劇祭前夜)のがフィクションの強みだということもあるし、またそれにも増して、シスプリ世界の優しさの基本は鞠絵や亞里亞のような子の声が掻き消されることなくちゃんと仲間に届くいうところにこそあるのだから。
2003/12/26 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#26
◆
白兎編Chapter.2読了。
とらハシリーズとSNOWとフォークソングの良いところをすべて集めたら
Clover Heart's になります。
そうとしか言いようがないくらい、ここには私の欲しいものが詰まってる。
***
今日で仕事(自体は)はお終い。
あとは明日大掃除のために出社してそれ以後はいよいよ冬休み。
***
今年の冬休みは忙しくなりそうです。にははっ。
***
まだ10時前ですが、連日寝不足でお腹の調子がよろしくないので体調を整えるために今日は早めにねることにします。
おやすみなさい。
2003/12/25 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#25
◆
SNOW -PureWhite- [あずまゆき/スタジオメビウス/角川書店]
昨日本屋に立ち寄って偶然見つけたSNOW漫画版。どうも何かの雑誌で連載していたものらしいのだが、全然知らなかった。SNOWとあずまゆき氏の組み合わせというのは私の趣味的にもう夢のコラボとしか思えないのだが、内容もまったくもって素敵なのでぜひ紹介しておきたい。というか私の趣味云々を除くとしても、SNOWを漫画で再現するのにおそらくあずまゆき氏ほどの適任者はいないのではないだろうか? あずまゆき氏の武器と言えば何よりもまず、女の子の微笑みに微妙な陰影を付けることができるという点にある訳だが、この漫画の中で、桜花のあの無邪気さと儚さとが微妙に入り交じったような微笑みは、ゲーム版と比べてもまったく遜色ない高レベルで再現されている。極端なことを言えば、桜花の表情のバリエーションを見るためだけにでも、この漫画は買って読む価値がある。再現性が高いのはもちろん桜花だけには留まらない。天然キャラとしての澄乃をここまで可愛らしく描ける人も他にはあるまい。強いて難癖を付けるなら、この漫画の中で唯一、氏が十分に描き切れなかったのは芽依子だろう。桜花や澄乃のそれぞれの場面での表情は本当に唯一無二の魅力を放っているのだが、芽依子に関しては何か物足りないものがある。私が読んだ印象を率直に言えば、芽依子というキャラを十分に把握し切れていないゆえの迷いがあるように感じられる。把握し切れていないという言い方も、でも本当は正確ではない。彼方と澄乃の関係を軸にしてそこに桜花を絡めてゲーム版トゥルーエンドまでの流れを単行本一冊でこれだけ綺麗にまとめあげたというのはそれだけでもあずまゆき氏の大変な力量を示すに十分なものだし、また何かにつけ二言目には「わかってねえ」と呟いてしまう私のような解釈マニアの目から見ても、氏の作品解釈は驚くほどに正確で、解釈という点に関して私はこの漫画に不満点を見出せない。例えば、彼方と澄乃が楽しそうに笑っている場面でそれを見守る芽依子の独白が入ったりするのはまったく心憎いとしかいいようのない演出だし、さくらと桜花を別人としてきっちり描いたのも見事だし、更に物語の締め括り方もゲーム中にはなかったような意外なやり方で、胸が苦しくなるような美しい一場面を作り上げている。この漫画は総じて原作に極めて忠実に作られているが、所々に挿入されるあずまゆき氏のオリジナル演出は、SNOWの雰囲気をほんの僅かたりとも傷つけず、それどころかファンの心をいつも的確にくすぐってくるのである。物語の締め括りがどうなっているかは敢えてここでは書かないので、SNOWを愛する人はぜひ自分の目で確かめてみて欲しい。話をちょっと前に戻せば、芽依子に関しては結局、全体として完成度が高いからこそ小さな染みが目立ってしまうというようなものなのかもしれない。ゲーム版では、橘芽依子というキャラは不敵で掴み所のない表情をしていながら同時に、何かを押し隠しているような、言葉を慎重に吟味しすぎて無口になってしまうようなある種の重さを纏っている――もちろん、世話の焼ける兄を見守る妹としての状況を楽しんでいるという別の側面もある――のだが、この漫画には残念ながらそういうものはあまり感じられなかったように思う。もちろんそういう性格としての芽依子はちゃんと描かれてはいる。ただ、表情が、他のキャラほどに物を語っていないのだ。あずまゆき氏は女の子の表情それ自体に何かを語らせることのできる漫画家なので、それだけに芽依子のこの描かれ方は私としてはどうしても気になってしまった。ただ、全体から見ればそんなことは些細な問題だと言ってしまってもおそらく差し支えはない。
最後に、この漫画の“立場”についてはあずまゆき氏自身が巻末で的確に語っているのでそちらを引用しておきたい。
私としてはこのコメントに付け加えるべきものは何もない。
このマンガは「あと一味」くらいの役割だと思っています。
単体だと物足りない、でも本編と合わせるとちょっといい感じ…みたいな。
そんな感じのマンガにできたかなと思っています。
いずれにせよ、SNOWが好きな人なら読んで損なしと断言できます。
お薦め。
2003/12/24 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#24
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白兎編Chapter.2後半ちまりとのデート直前まで。
果てしなく痛い展開になりそうな気がしたのでここで一旦中断。
Chapter.2序盤までは白兎と玲亜の間に第三者が入り込む可能性(隙)なんて想像もできなかったのだが、お話が進行していくと………。
委員会絡みで各キャラ間の距離が変わっていく辺りなんかはもう少女漫画そのものなのだが、でも駒宮ちまりという子は少女漫画にありがちなお邪魔虫キャラであるにしてはあまりに「いい奴」すぎる。例えばシスプリは純然たる少女漫画世界で、それゆえに殊にリピュアキャラクターズなんかは少女漫画の語法にある程度馴染んでいる人でないと魅力が分からないようになっているのだが、それと比べるとクロハの場合は少女漫画の語法を用いて男性向けのお話を作ったという印象だ。少女漫画に出てくるお邪魔虫系キャラは、例え最終的にトラウマ語りなんかがなされて救済されるにしてもその過程においては鬱陶しいだけなのだが、駒宮ちまりの場合は、お話が進んで彼女のことが分かっていけば行くほどいよいよ魅力を増していく。クロハという作品のフォーマットが白兎を主役とするノベル系ゲームであることを考えれば、この辺り、プレイヤー心理の誘導術は見事なものだ。プレイヤーは要所々々で白兎の行動を選択しなければならない訳だが、ということは逆に言えば、このお話がゲームとして成功するか否かの分岐は、プレイヤーにちまりの魅力をアピールできるかという点に掛かっているのである。Chapter.1であれほどのラブラブいちゃいちゃ話を既に体験しているプレイヤーにとって、最初のうちの駒宮ちまりはお邪魔虫以外の何者でもないのであって、普通に考えればちまりに好意を寄せるような選択肢など選ばれるはずはない。しかしそれではちまりは本当に単なるお邪魔虫キャラに成り下がってしまうだろう。私は今回のことでいよいよもってシナリオの宮蔵氏を尊敬せずにいられないのだが、もちろん宮蔵氏はちまりをお邪魔虫キャラで終わらせるような残酷なことはしない。もしちまりがお邪魔虫キャラに過ぎないのなら、彼女は結局白兎と玲亜の恋愛の中での障害物のひとつ、あるいはいっそ白兎と玲亜が互いの気持ちを再確認するための駒のようなものになってしまう。極論すればそもそもそういう役割を担うキャラはちまりという個性である必要すらないのだ。宮蔵氏は確かな良心でそういうことをちゃんと分かっている。白兎編Chapter.2が三角関係を描いた物語である以上、ちまりが振られるにせよあるいは恋いが成就するにせよ、このお話の正否はもう駒宮ちまりの個性にすべてが掛かっていると言っても過言ではない。こういう言い方はやや不本意なのだが、ノベルゲームではプレイヤーが読まなかった物語は存在しないも同然(※1)なのであって、つまりプレイヤーがちまりに好意を向けるような選択を自主的に選ぶのでなかったら、言い換えればプレイヤーにちまりの可愛らしさをアピールすることができなかったら、白兎とちまりの恋物語は存在できない(※2)のである。もちろんこのことは、プレイヤーが最終的に玲亜を選んでちまりが振られることになるのだとしても変わらない。いずれにしても私がここで強調したいのは、駒宮ちまりが単なる脇役に堕すことのないよう、脚本家は細心の注意を払いまた愛情を傾けたに違いないだろうということだ。要するに駒宮ちまりは単なるお邪魔虫などではない。そうであるにしては、彼女はあまりに脚本家さんに愛されている。
(※1)プレイヤーが読まなかったら物語は存在しないも同然、という言い方は私にとってごく自然なものだ。しかしプレイヤーが読んだことで物語は存在できた、という風に我々の行動と物語世界の存在との間に因果関係があるかのように語ることには私は抵抗を覚える。微妙な問題ではあるのだが…。
(※2)もちろん、ゲームのプログラム上でちまりルートが設定されているなら、ちまりが魅力的であろうがなかろうが白兎とちまりとの恋物語は存在できるということには一応なる。しかしプレイヤーの意にそぐわない選択(ゲームをコンプリートする上での必要悪としての選択肢潰しとか)の結果として彼らの恋物語を読まされたとしたら、それは本当に「存在している」と言えるのだろうか? この辺り、ややエモーショナルな次元に移ってしまうが、私はこの白兎編に、ちまりを玲亜の引き立て役になどするつもりはないという脚本家の意思を感じる。玲亜と同じくらい、ちまりのことも愛して欲しい、という脚本家の父性愛(?)を感じる。このお話が素敵なのはそのためだと言っても過言ではないと私は信じる。
2003/12/23 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#23
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分類不可能なピンポイント萌え [2ch葱板]
まあ特別に面白いという訳ではないのだけど所々になるほどと思わせるような投稿があって……まあ地味な名スレと呼んでも良いのかも。
ピロートークとかスカートたくし上げなんかは私的には基本なので今はコメントしないとして、それ以外だと
>>105 「なにかというと噛じっていいか裁可をあおぐ無表情っ子」
>>170 「安心して背中を預けられる戦友な女の子燃え。/最初は敵として拳を交え、戦った者にしか分からない信頼を芽生えさせたりするともう最高。」
>>235 「足指に表情があるとそれだけでクル」
>>247 「普段メガネしてない奴が、勉強や読書の時だけメガネをするのが萌える」
>>279 「メンテナンスの要らないコがいいなぁ。/基本的に、ほったらかし。/普段は、すれ違うときにちょっとだけ目配せするだけ。/ときどきデートしても、朝早く出かけて、昼すぎにはもう帰ってしまう。/別れ際に軽くチュウしておしまい。」
………辺りの投稿がすげえツボというか目から鱗というか。
4番目以外は、単に女の子キャラとしての可愛らしさを追求しているだけでは発想できないようなタイプの萌えだよな。
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クロハは白兎編Chapter.2を少しだけ。
玲亜=白兎=ちまりの掛け合い漫才で笑いまくって、玲亜(攻)×強制女装白兎(受)で萌えまくったので今日はもうお腹一杯です。
てかあのえっちシーンは最高でした。夢が叶った、と言いたいくらい。
2003/12/22 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#22
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白兎編Chapter.1をやり直してちゃんとしたハッピーエンドにようやく到達。
昨日私が見たのは白兎と玲亜が決別してしまうエンディングで、当初は次のChapterでハッピーエンドが見られるのだろうと考えていたのだけど、夷月編では“しおり”が次のChapterの鍵になっているらしいことに遅まきながら気づいて、白兎編でまだ“しおり”を入手していない以上は他のエンディングがあるのだろうと思って再プレイしてみたらようやくハッピーエンドに辿り着けた……という次第。我ながら間抜けだ。
私にとって男女関係の究極の理想は『愛人-AI-REN-』のイクルとあいなのだが、それは彼らが恋愛に関する俗的な知識を得る前に手探りで恋愛関係を育んでいくようなカップルだからだ。それは例えば、ちょうど瑞佳と浩平が俗的な恋人のイメージを模倣しようとしてギクシャクしてしまった(※)のと対極のところにある。まあこの辺りで書いたこととだぶるのだが、要するに私は「恋や愛という言葉を知らずに仲がよい」というような男女関係にメロメロに弱いらしいのだ。
で、白兎と玲亜の関係も、どこか愛人のイクルとあいを思い出させるところがある。好き同士だから恋人同士になる、という程度の単純なことが彼らにとってはものすごく難しい。玲亜を女の子として意識するようになり、玲亜とのえっちな夢を見て夢精してしまい、挙げ句の果てにこのままでは玲亜を傷つけるからと一人で了解して玲亜から距離を取る白兎の姿を見ていると、もうなんていうか「アホかてめえは!」と突っ込みを入れたくなるのだが、しかしそれは言うまでもなく、白兎が阿呆であるということではなくて、むしろ白兎の誠実さの証明に他ならない。ここで指摘されるべきは、白兎という少年が、自分の立場をなぞらえるべき俗的なイメージを所有していないという点だ。もちろん彼も恋人というものについて一応の知識は持っている。しかし彼の内部ではそういうものは未だリアルなものにはなっていない。だから自分をどういう立場に置けば良いのかが分からない。私はこういう人物描写に弱い。腰砕けになると言いたいほどに弱い。多くの恋愛物語においては、先ず始めに言葉があって、言葉が関係の外枠を作りそれから自分たちがその枠に馴染んでいくというあり方であるのに、愛人やクロハの白兎ルートでは言葉はいつも行動の後に来る。言いたいことが上手く伝わるかどうか分からないのだが、彼らは恋人として振る舞うのではなく、ただ彼らが望むように行動したその行為が「結果的に」恋人的なのである。このあり方はベッドシーンでももちろんそうで、少なくとも白兎の側には、玲亜とセックスをしたいという意識はまったくない。あのベッドシーンで白兎が玲亜の素肌を前にして肉欲に支配されてしまう描写は実に微笑ましいのだが、ただいずれにしてもあの時の白兎は恋人としてのセックスを望んでいた訳ではまったくないということは注意しておかれるべきことだ。白兎は玲亜を抱きたいから抱いたのではなく、ただ玲亜の肢体を前にして理性の抑制が利かなくなった(笑)というだけのことにすぎない。しかしそれでも、このエッチシーンは身悶えしたくなるほどに甘い。いや、甘いかどうかというよりも、ここに模倣がないということが重要なのだ。彼らは恋人の振りをしない。彼らの間を包み込むあの牧歌的な空気、観ているこちらの心をすら軽くするような無限の自由感、開放感は、そういうところから生まれてくるのである。
あとひとつ。
(玲亜が)小鳥を脅かさないように(白兎に)近づいていく、という表現の仕方は震えてしまうほど美しい。
(※)まったくの余談ながら、麻枝准氏の書く物語では、俗的なイメージの模倣が必要にして欠くべからざるものとして描かれる場合(椎名繭や七瀬留美、それから沢渡真琴)と俗的なイメージの模倣が許されないように描かれる場合(瑞佳と浩平や晴子と観鈴)とがある。Kanonの真琴シナリオでは「家族」だとか「結婚」だとかの陳腐な言葉が彼らの唯一無二の世界を形作る。それに対して晴子と観鈴は「家族」という言葉で同じように唯一無二の世界を形作りそこに安住の地を見出そうとするのだが、その試みは上手くはゆかない。
◆
追記。
Amazon で注文していた『シスタープリンセス
X'mas Song Collection』が届きました。
さっそく聴いてみましたが、もう至福としか言いようがありません。
今年はショートケーキでも食べつつオリジナルアニメ20話を観ながらクリスマスを過ごすのも悪くないかもしれないとか素で思えます。
2003/12/21 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#21
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私も、昔常駐していた掲示板で自治厨に散々悩まされた経験があって、だから最近のあんよさんの日記を読んでるとなんか居たたまれない気持ちになったりする。私の知っている自治厨もそうだったのだけど、ああいうタイプの方は得てして自分を理想に殉ずる人間だと思っていて、だから他人から拒否反応を示されることにショックを受けることはあっても自分を省みることは決してしないものなのです。だいじょうぶ、あなたは間違ってない。私の言葉にたいした効果などないかもしれないけど、それでも私が保証します。あなたは間違ってない。
思い出してみると、私が記憶から抹消したいと思っている某自治厨とあんよさんに噛み付いた某氏とはよく似ていると思う。どちらも自分の信じるもののために一生懸命ではあるのだけど、理想としているものと実際の言動は水と油のように食い違ってしまっている。自治厨は掲示板をより良くしたいという使命感に燃えていた(この言い方も最大限に譲歩して好意的に解釈した場合の話で、私の心の奥底ではまた別の見解があるのですけど、それは今は言わない)けれども、そのために彼がとった行動はいつも、掲示板の雰囲気を良くするどころか、掲示板利用者を不安に陥れることになっていた。彼の行動は、言ってみれば平和を望むがゆえに戦争を繰り返す、というようなものだったと思う。
◆
Clover Heart's [Alcot]は順調に進行中。
白兎Chapter.1を普通に終えて現在夷月Chapter.2莉織初えっち直前まで。
なんか同じ日の日記にこういうことを書くのは我ながらなんともタイミングが悪いと思うのだが、この物語は根っこの部分においてびっくりするほどシスプリのオリジナルアニメに似ている。夷月と莉織の関係はそのまま海神航と十二人の妹たちとの関係に被さる。夷月ルートを読みながら私はずっと、ずけずけと夷月の心に踏み込んでくる莉織に苛立ちを感じていた。この苛立ちは変化を極度に恐れる心情がもたらすものであるが、しかしそれと同時に苛立ちの理由の半分は夷月への嫉妬だったと思う。何人かの人は察してくれるだろうが、苛立ちというのはこの場合、心地よさと紙一重のものだ。というか、心の中に無遠慮に踏み込まれる心地よさを認めたくないからこそ、私は(夷月も)苛立ちという言葉を代用品として用いるのだ。そしてこういう心の動きは、私がシスプリアニメを見ている時のものにすごくよく似ている。私があのオリジナルアニメを受け容れられない理由のひとつは、あの作品が「私は絶対に海神航ではない」という現実を突き付けてくるからだ。オリジナルアニメ以外のシスプリ表現はいつも兄の存在がぼかされており、それゆえに私はごく自然に自分を兄の立場に置くことができた。しかしオリジナルアニメはそういう楽しみ方を許してくれない。妹たちの好意を受けるのはあくまでも航であって、私はただそれを観客として眺めているしかない。クロハの夷月ルートもそんなところがある。このお話は心に染み入るのだが、私の中にある糞くだらないプライドのような何かが、これを素直に受け容れることを拒んでいる。あるいは、あの世界を認めることは自分の生きざるを得ない現実を否定することに繋がるとか考えているのかもしれない。今のところ、より心に染みるのは夷月ルートの方だ。しかしより安心してお話を楽しめるのは白兎ルートの方だ。前にも書いたことだが、怒首領蜂の内容が私の生活と何の関係もないというのはなんとありがたいことだろう。
あとひとつ。
あすりんの罠に引っ掛かって主人公が莉織の元に駆けつけるあの一連のくだりは恐ろしくツボだった。笑いながら同時に泣くという希有な体験が、久しぶりにできた。
2003/12/20 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#20
◆
関東地方で年内に初雪が降るなんて久しぶりではないかしら。
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Clover Heart's をぼちぼちと。
円華シナリオが肩透かしだった上、二回目に莉織狙いで進めたら何も起きずにエンディングを迎えてやる気が著しく削がれて、次の白兎(玲亜)ルートが詰まらなかったら封印確定だなと思っていたら、どうしてどうして白兎ルートに入ってようやく面白くなってきた。なんとか続けられそうだ。
月陽炎やクロハの脚本家さんは久弥直樹氏と同じタイプなのかもしれない。個々の場面を美しく叙情的に描くことに掛けては素晴らしい才能を見せるのだけど、それ以外の部分(例えば全体の構成を堅牢に組み立てるとか)がどうにも弱いというか。円華シナリオでは、例えば円華が主人公宅に居候するようになって、自分の知らない夷月(実は紅茶が飲めるようになっていたとか)を見出して寂しさを覚えたりするイベントなんかは我々にも共感しやすい見事な描き方だと思うのだが、後半の物語の流れ自体は、円華と弟の問題があやふやなままで終幕を迎えてしまったことでかなり据わりの悪いものになってしまっている。
考えてみると、月陽炎本編に対して二次創作的な位置付けにある千秋恋歌(特に鈴香シナリオ)が宮蔵氏の最高の仕事であるというのもずいぶん興味深いことだ。いや、最高の仕事というのはあくまでも私の主観においてということですが。伝奇物としての月陽炎はお世辞にも良くできているとは言えないのだが、ファンディスクの千秋恋歌において伝奇的要素をすっぱり切り捨てて(まあ真の問題をはじめからなかったことにしてしまったについては賛否両論あろうが)普通のホームドラマを作った時、宮蔵氏はまるで水を得た魚のようにその才能を遺憾なく発揮する。月陽炎本編にしてもそうなのだが、氏の才能は基本的には少女漫画的な方向に特化したものなのだろうと思う。さて、クロハはどうだろう? 普通のホームドラマで終わるだろうか?
ところで誤解されると困るので前もって言っておきますが、円華/莉織ノーマルエンドで落胆したにも関わらず白兎ルートを敢えてやってみようと思ったのは、別に白兎が女装させられて玲亜に攻められるイベントの存在を知ってしまったからなどではありませんよ?
いやはや、先月だかに買ってそのまま放置していたテックジャイアン(1月号)を今日になって偶然開いたというのも何かの縁なのかもしれません。
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日中は部屋に籠もってクロハを進めつつ合間にPS大往生の研究をやって部屋の掃除をやって夕方からルパン122へ。
今日は大往生の隣のスペースでバカップルがだべっていて、入店してから最初の一時間は何もできず。バカップルに殺意を抱いたのは初めて。その昔、足利のカーニバルで椅子を不当占拠しているDQN二人組に声を掛けて無視された苦い経験があるので声を掛けるなんてできない。
苛つきながら待つこと一時間。ようやく空いたので50円玉を10枚ほど用意して大往生に張り付く。一時間ほどプレイして1-4ボスまで無傷で辿り着いたのが一回のみ。調子激悪らしいので早めに切り上げて帰宅することに。でも外の雪は激しくなる一方だったので結果的には早めに上がって正解だった。夜9時時点で既にチェーンなしでは危なくて40km/h以上出せないような道路状況だったので、もし閉店間際までいたとしたら帰り道は更に危険なことになっていただろう。
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そういえば今日は咲耶の誕生日なのでした。
ところで咲耶がえっちな妹だという説がいつどのようにして定着したのか分からないけど、咲耶が仮にえっちなのだとしても、そのあり方は割と綺堂さくら[とらハ]に近いところにあると思うのだがどうだろう。咲耶が実は兄の前でだけ甘えっ子、なんて妹だったらもう最高だと思うわけですがつまり。
お誕生日おめでとう咲耶。
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なんかPS_2版SNOWに芽依子シナリオが追加されるなんて話を小耳に挟んだので独自にちょっと調べてみたら、メビウスの新作『友達以上恋人未満』では芽依子様がヒロインで和姦Hしまくりゲーになるとかいう更に衝撃の情報が。
………悪夢としか思えないのですが、もしかしてこれはアレですか、メビウスの次回作の陵辱ターゲットは「我々ユーザー」なんでしょうか。いや頼むからやめてくれメビウス。芽依子様のイメージを壊さないでくれお願いだから。
2003/12/19 (金)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#19
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ATOKが不安定で連日イライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライライラしていたのでユーザー辞書の破棄を決定。
面倒だけど必要は単語(妹の名前12種類とか)は改めて登録し直すことに。
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連日せっせとルパン122に通って大往生捨てゲー祭り。1周捨てゲーばかりやっているせいでなんか前半面ばかりが上手くなっていくようで、スコアが伸びるのは嬉しいのだが素直には喜べない。とりあえず1面道中は950HITを下回ることはほぼなくなった。ボスHITの稼ぎ方も少しずつ分かってきてもはや1面クリア時4000万は安定。2面は細かいところで微妙にHIT数が伸びてきていて最高で2180HITのボス前14470万ぐらい。
あと周辺状況。
ここしばらく姿が見えなかったマカロニさんが最近またルパンに来るようになった。ルパン122に来なかったとはいえ大往生の練習は余所で密かにやっていたようで、以前に比べると腕は格段に上達していて、水曜日は13億出した上あやわクリアというところまで行っていた。おそらくクリアできる日も近いだろう。
今週はガレッガが消えて代わりに達人王が入荷。ちょっと触ってみたが私は1面ボスで全滅。弾が見づらいし1ボスからホーミング弾を撃ってくるのは詐欺だろう。。昨日今日とLAiさんのプレイで6面途中ぐらいまで見られたが、なるほど噂通り難しそう。今の弾幕系シューティングと比べれば弾は少ないのだが、その代わり自機の当たり判定が大きくて敵弾のスピードが速いのでアドリブで進むのは至難、というかたぶん不可能なんじゃないかと思う。
水曜日、帰り際に店長さんに用があってカウンターに行ってみたらマカロニさんとその友人の方がカップラーメンを食べていた。足利カーニバルにしてもそうだが、店内でカップラーメンが食べられるゲーセンというのはなんかイイ。
2003/12/15 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#15
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君が望む永遠アニメ版、6話〜10話。
10話のあの展開は少々乱暴すぎやしないかな?
よりにも選って茜があのような役割を担うとは。
9話。
ゲーム版の遙シナリオでは茜の笑顔がすごく重要な役割を果たす。あの、時に心が沈み、時に心がささくれ立つような物語の展開の中で、茜が再び孝之に笑顔をみせる時、我々プレイヤーはどんなにホッとすることか。ああこれでようやく事態は良い方向に向かうだろう、という安堵感。
9話を見ていると、きみえそがなぜ心に痛いのかがすごくよく理解されてくる。永遠の世界(例えばシスプリとか)をこそ理想郷と考える私のような人間にとって、人は変わらずにいられなくてそれでも人は生きねばならない、などという現実を突き付けるような物語が心に痛くないはずはないのだ。
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シャーリー[森薫]が素敵なのは、ミス・ベネット(女主人)とシャーリー(メイド)との関係以外のものを一切描いていないからだ。不用意な作家ならば、シャーリーがあの家で働くことになった経緯や、パーティーでのミス・ベネットと謎の青年との因縁話なんかをもっと掘り下げて描いて、漫画としての統一感を損なう結果になっていたに違いないのだが、この森薫という作者は見事な鋭敏さを持ってそういう危険を回避する。この場合、鋭敏であるとはつまり、自分が何を書きたいのかを正しく知っているという意味だ。森薫氏が描きたかったものは女主人とメイドの関係ただひとつだった。そうして氏は、慎重な配慮を持って描くべきものとそうでないものをきっちりと描き分ける。この本に収録された五つの短編の中のどのエピソードを取ってみても、ミス・ベネットとシャーリーとの関係を描いていないような場面はひとつもない。第四話などはその典型的な例というべきで、誰が見ても明らかなように、ここではパーティー会場の空気と自分の家の空気とが見事な対照をなしており、更に言えばパーティーの描写はその後の自宅でのふたりの間の空気を見事に引き立ててみせている。ミス・ベネットとあの青年との間にどのような因縁があったのかはここではまったく問題ではない。なぜならここで描かれるべきは、貴族階級に属する淑女としてのミス・ベネットと、ひとりの何も持たない私人としてのミス・ベネットとの対比にこそあるのだから。「ただいま」「おかえりなさいませ」といういつもの挨拶と共にシャーリーは主人を出迎えるのであるが、外敵から身を守るための仮面を被った女主人はシャーリーの知っているミス・ベネットとはあまりに違っていた。そのために彼女は戸惑い、主人に掛けるべき言葉を失ってしまう。しかしながらその後に訪れる関係の回復はなんと美しいことか。ベネット女史は自分が家に帰ってきたことを確認してからようやく仮面を脱ぎ捨てるのであるが、彼女が安堵感を覚えたのは、そこが自分の家だったからではなくて、そこに自分に懐いている可愛らしいメイドがいたからだった。シャーリーのいる空間と自分の家とがほぼ同義になってしまうぐらい、ミス・ベネットはシャーリーのいる生活に馴染んでいた。いうなればこの短編において、シャーリーというメイドは安らぎの空間としての「家」を象徴する存在だったのだ。「家はいいわね」とミス・ベネットが呟く時、それは単に自分の家は落ち着くという意味だけに留まらず…というよりもそれ以上に、あの呟きの中での「家」という単語には、シャーリーが傍らにいる空気、というものへの信頼が込められていた。尤も、こんな言い方もまだ大袈裟なのではないかという気も、本当はしないでもない。この本に収録されている五つの短編のどの場面にしても、ふたりの関係がどういうものであるかということに関して、具体的な描写はまったくないということは指摘しておくべきことだ。ミス・ベネットがシャーリーのことをどう思っているのか、あるいは逆に、シャーリーはミス・ベネットのことをどう思っているのか、という程度のことすらここでは語られない。ここで語られているのは、ただ一緒にいることがまったく自然であるようなひとつの関係だけである。ふたりが出会ったことでお互いの生活がどう変化するのか、一緒に暮らすことにどういう意味があるのか、そういったことは一切語られない。ここには意味というものは一切ない。ふたりの出逢いがお互いを成長させるとかお互いに癒し合うとか、そんな重さは一切ない。それどころか、お互いを大切に思っているとかお互い信頼し合っているとかそういうことすら、彼女たちは自覚しているかどうか分からない。しかし、苺ましまろなどもそうであるように、幸せというものは自覚されない時にこそ最も完全な形で幸せなのであり、だから彼女たちの生活はあれでよいのだ。シスプリなどもそうなのだが、関係に過剰な意味を一切与えないことで、お話はどんなに美しくなり得るか。シャーリーという短編は、その最も美しい成就である。
2003/12/14 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#14
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微々たる物だが、とりあえず週末の成果。
ガルーダはあまり考えずに息抜きでプレイしているだけなのでこれだけでれば個人的には十分。
大往生は昨日と今日で10時間ぐらい張り付いてなんとか5面の新パターンの方針が固まってきた。3299HITは現在のベスト。ようやく解答が見つかったのであとはやり込んで精度を上げるだけ。このパターンの素敵なところは、繋がりさえすれば3250HITを下回ることはない、というところだ。あと細かいところでは1面963HITが出たり、2面2170HITのクリア時15300万が出たりとかも。ただ少々疲れたので来週末までは大往生はお休み。しばらくクロハに専念することにしようと思う。
夕方すぎ、INDさん宅からARCさん宅までパソコンを運んでそれから三人で夕食。抱き枕の心得、なんかのネタが受けが良かった気がする。
個人的に今日一番ツボだったのは「アリスとマリア、どっちが好きですか?」というARCさんの問い。脈絡のない突然の問いだったのだが、水月プレイ者にとってはほとんど挨拶のような質問でもあるので、それがなんか可笑しかった。ARCさんはちなみにまだ某隠れキャラ(かぼちゃとかわはーとか俗称される人)の存在を知らないみたいだったのでその辺りのネタは伏せておいた。
あとで三人で秋葉原に行きましょうと口約束をしてから解散。
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さて、これからARCさんにお借りしたきみえそアニメを観ることにします。
ビデオテープのラベルを見ると今回は6話〜10話まで入っている模様。
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水月スレに神が降臨中。
2003/12/11 (木)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#11
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落ち穂。
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SNOWが芽依子の物語だというのは少々突飛かもしれない。
ただいずれにせよ、我々が見ているのは出雲彼方の物語である。
ということは、我々と橘芽依子とは、ほとんど視点を共有していると言えるほどに、立ち位置が近いのである。
このことは指摘しておくに足ることだ。
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シスプリ世界が心地よいのは、この作品が我々にしっかりとした居場所を提供してくれるからだ。
丁重にもてなし椅子を差し出してくれる、なんて言い方をしても良いかもしれない。
まさかそこまで計算されて作られた訳ではなかろうが、シスプリ世界において、兄というポジションは貴賓席として我々のために空けられている。
その椅子は我々のために用意されたもので、シスプリ世界に関心を抱いた時、我々はいつの間にかその席に座って妹たちにもてなされている。
シスプリ世界は我々の迎え方があまりに自然なのである。
我々がすべきことは何もない。
強いて言えば、妹たちの好意に応える、ということだろう。
椅子に座るための資格はただそれだけだ。
としてみると、オリジナルアニメの演劇のエピソードで語られる
『ちゃんと応えてやりなよ、彼女たちはあんちゃんのために、あんちゃんを喜ばせたくて頑張ってるんだよ』
という眞美の台詞はなかなかに意味深なものだったのだ。
兄であるためには、ただ我々がそう望みさえすればいい。
彼女たちはいつでも我々を輪の中に迎え入れてくれる。
シスプリというのは実は意外に間口が広いのだ。
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眞美と言えば、2chシスプリスレによれば、例のクリスマスソングCDではちゃんと眞美も合唱に参加するのだそうで。
安心しました、ホントに。
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四葉の魅力については声優の演技のウェイトも非常に高いと思う。
四葉の喋り方は時に下品と紙一重のところまで崩れるのだが、しかしそれでも下品に堕することは決してない。
シスプリキャラは総じて育ちの良さからくる上品さを自然に身に纏っている。
四葉が下品にならないというのもつまりそういうことなのだ。
2003/12/10 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#10
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既に本題とはかけ離れているのですが続きます。
シスプリの魅力=女の子コミュニティーの魅力であるとしても、シスプリの魅力=シスプリのヒット要因、であるのかどうかは一慨には決められないのではないでしょうか? という疑問があの文章を読んだ時以来ずっと私の頭にこびり付いていたのですが、でもあるいはヒットの原因を探るに際して、受け手が作品の魅力に自覚的であるかどうかを問うのは必ずしも妥当ではないのかもしれません。
ただ少なくとも、女の子に感情移入するような愉しみ方が一般的でないことは、MWのシスプリ公式掲示板や2chのシスプリ系各スレッド、それからシスプリ語りをすることのある日記サイト等で、そういう語り口が、例え仄めかされるような形ですら滅多に出てこないということを鑑みてもほぼ間違いないと思われます。それから、シスプリファンと言っても実際には、いわゆる原作系ファン(1兄1妹派)とアニメ系ファン(1兄12妹派)という二派が存在しているという事実も見逃せません。シスプリ世界の原点とも言うべきキャラクターコレクション(全12冊)では、兄と妹の関係は一対一で閉じられたものとして語られており、ここには女の子コミュニティーというものはそもそも存在していないのです。女の子コミュニティーを語るには、そこから更にポケットストーリーズ(全4冊)の出現を待たねばなりません。それから、PS用に発売されたゲームでは確かに12人の妹と一人の兄が同じ世界の中に暮らしていますが、その後発表される二種類のアニメと比べればゲーム版で語られているものは女の子コミュニティーと呼ぶにはあまりに物足りなく思われます。ゲーム版では、12人の妹を持つ兄という基本設定があるにしても、妹同士の横の繋がりは、例えば女の子同士の関係に甘美さを感じ取れるほどしっかりと描写されている訳では実はないのです。
ではシスプリの持つ訴求力は一体どこにあるのか? という話なんですが。
まずひとつは、土方さんが指摘している通り「女の子の世界を垣間見ることができる」という点でしょう。書籍展開されたシスプリワールドはすべて妹たちの一人称視点で描かれており、ここでは妹たちの考えていることが我々にダイレクトに伝わってきますし、またそういうものが直接伝わらないアニメでも、中心人物はあくまでも兄でありながらもウェルカムハウスの空気は実質的には妹コミュニティーの支配下にある訳で、ここで語られているのもやはり女の子(単数か複数かは差し当たり問題ではない)世界です。そもそも一般論として、他人と付き合うということは他人の背負う(当然のことながら自分のとは異なる)世界を垣間見るという側面を必ず含むので、そういう意味では妹と向き合うということは女の子世界を垣間見ることとほぼ同義だと言えるのです。ただし先に指摘した通り、このことは必ずしもすべてのファンに自覚されている訳ではありませんけれども。
でも私としては、シスプリが広くファンに受け容れられた理由はもうひとつあると思うのです。それは、シスプリの表現が徹底的にシンプルだったこと、です。シスプリ世界には、普通の恋愛ゲームに見られるような男女間の駆け引き、緊張と宥和、などといったものが一切ありません。キャラコレであれアニメであれゲームであれ、彼女たちの行動原理は極めてシンプルです。彼女たちの行動原理は「お兄ちゃん大好き」という一言に集約され、それ以外のものは何もありません。一般的には物語というものは男女が関係を形作るその過程そのものであるのですが、シスプリにはこういう“関係を形作る過程”というものがありません。シスプリワールドにおいては関係は最初からただひとつあるきりで、その関係は一切の変化を拒否して閉じられています。女の子と仲良くなる過程が存在しない、というのは考えてみると異例のことではなかったでしょうか。シスプリ世界には12通りの妹がいて、それぞれがそれぞれの仕方で兄を慕っています。しかしいかなヴァリエーションがあるとはいえ、彼女たちの言動は詰まるところすべて「お兄ちゃん大好き」という一言に翻訳することが可能なのです。シスプリ以前にも以後にも、これほど「何を考えているのかが分かりやすい」ヒロインというものは、私の知る限り存在していません。そうして言うまでもなく、あらゆるジャンルを問わず、分かりやすいということは最上の美点です。彼女たちの言動はいつも大変分かりやすいのですが、それはつまり妹たちの心が常に兄に向かって開かれているということを意味しており、我々はそこに大いなる安心感を見出すのです。MWのシスプリ掲示板では妹たちへの想いが無邪気に語られることが多いのですが、例えばここに私はひとつの徴を見ます。お兄ちゃん大好き、という言葉が最初にあるような妹たちだからこそ、他のゲームなり漫画なりのヒロインたちとは比べ物にならないほど、シスプリの妹たちとは脳内関係が構築しやすいのです。あるいは別の言い方をすれば、ああいう設定でああいう風に表現されていたからこそ、妹に好かれる自分、というものを――座りの悪さなど微塵も感じることなく――ごく自然にイメージすることができてしまうのです。これこそ、他の何物にも真似のできないシスプリのアドバンテージではないでしょうか。
***
まあ私自身は、可憐に好かれるよりもむしろ可憐本人になりたいとか思ってしまう人なのですが。巫女服とか着てみて初めて知ったのですが、女性向けの服の肌触りの心地良さはもう言語に絶するものがあるのですね。まあ実際のところは知りませんけれども、女の子服の魅力はフリルやリボンなどの外面の綺麗さよりもむしろ肌を優しく包み込むような繊細な感触の方にこそあるのではないかと最近は妄想するようになりまして。小さい頃からそういう服に身を包まれて、お兄ちゃんの優しい眼差しに守られながら育ったら……なんて想像すると、なんかすごい幸せな気分に浸れるのです。可憐を身近に感じられるような瞬間は、今の私にとって最も愛おしいものです。
2003/12/9 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#09
◆
シスプリがなぜ大ヒットしたのか?を説明するのはかなり難しいと思います。
余談ですがお誕生日おめでとうございます。>>土方さん
誕生日なぞ今更おめでたくもないわ!!と仰る向きもありましょうが、もしそうでしたら「誕生日おめ」は「おはようございます」と同じくらいのニュアンスとして受け取ってもらえれば。
私自身は、シスプリは妹の方に感情移入するお話であり、シスプリの魅力は女の子コミュニティーの楽園であると信じていますし、シスプリワールドの基本と言っても差し支えないだろう公野櫻子&天広直人コンビの仕事になる書籍の数々はそのすべてが妹たちの一人語りという形で描かれているのですから、感情移入の対象が妹の方になるのはごく自然なことではないのだろうかとつい考えたくなるのですが、ただネット上での色々な人のシスプリ関連文章を読む限りでは、私とか
shelarcy さん(こちらもお誕生日おめでとうございます)のようなスタンスでシスプリを愉しんでいる人はどうも少数派らしいのです。少なくとも私は、妹たちに感情移入するようなタイプの語り口というものを他に読んだ記憶はありません。というか今の私にとっては女の子コミュニティーへの憧れというのはあまりに自明なものになりすぎて、もはやそれ以外の理由をシスプリに求めることが難しくなってきてしまっているようなのですが。
もしかしたら続きます。
2003/12/7 (日)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#07
◆
青く澄んだ日曜日の朝おはよう何をしようか?
………と口ずさみたくなるような晴れやかな空の下、しかし私はといえば部屋に籠もって風呂掃除とか洗濯機の修理とか。洗濯機は、おそらくズボンのポケットから落ちた小銭がターンテーブル(?)の隙間に潜り込んでしまったのだろうと思うのだが、ここのところずっと洗濯槽が回るたびに金属が擦れるような嫌な音を出していて、でも面倒なのと音以外には実害はないということでそのまま放置していたのだが、ようやく重い腰を上げて調べてみたという次第。近所のホームセンターで巨大なドライバーを買ってきてターンテーブル(?)を取り外してみる。本体とテーブルの隙間に100円硬貨が8枚ほど入っていた。うるさい訳だ。
遅めの昼食を済ませた後ルパン122へ。
相変わらず捨てゲー祭り。
最後の一回だけ1周8.24億が出たが黄流で死んでマキシマム消滅。一応クリアだけはしたが15億程度しか出てないのでどうでもよい。
今日は特に弾がよく見えていなかったと思う。
ちょっと理屈を述べてみると、シューティングをやる人というのは実はプレイ中に自機を見ていないものだ。いやもちろん、まったく見ていなかったら弾を避けられるはずがないのでそういう意味では見てはいるのだが、しかし――以前、実験的に自分の視点を意識しながらプレイしてみて気づいたのだが――、プレイヤーの視界の中心はどちらかといえば画面の半分より上の方に向いていることが多く、自機についてはどちらかといえば「視界の片隅に入っている」という感じなのである。調子の良い時というのは、この視界を広く保てるから自機を直視していなくてもちゃんと弾を避けられるのだが、調子の優れない時というのは気づかぬうちに視界が狭くなってしまうので、自分では見ているつもりの自機周辺の状況が正確に見えていない。そうして、気がついたら死んでいた、という最も苛つく死亡パターンが発生する。
あと、今日は大往生の調子が悪くて心が荒み気味で周囲の人にもあまり意識を向けられなかった。
反省。
◆
Clover Heart's [Alcot]
ひとまずエンディングまで。
円華先輩の可愛らしさ(特に声の魅力たるや!!)は期待を大きく上回る。
シナリオはしかし残念ながら期待を大きく下回る。
語られるべきことが語られていないゆえにエンディングまで読んでも解放感が訪れない。
ちゃんと批判を展開するつもりなら少なくとも後半部分はもう一回読んでおく必要がある。明日以降の課題。
2003/12/6 (土)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#06
◆
久しぶりに午前中からルパン122に行って大往生に張り付く。
寝不足が祟って悪夢のような捨てゲー祭りだった。
約5時間粘って何十回か捨てた後、ようやく1周ノーミスノーボム8.24億が出るが2-1ボス開幕弾にぶち当たってマキシマム消滅。今日の開幕赤弾の配列は殺意に満ちていた気がする。合間にガルーダを3プレイ。3回ともクリア。スコアは微妙に伸びつつあって、今のところ1面終了180万、2面終了500万、3面終了900万、4面終了1300万、ラスボス前1800万、クリア時2400万ぐらい。とりあえずは石を溜め込んで解放、を適当に繰り返しているだけなのだが、「弾を吐かせてちょい撃ち」を意識するだけでスコアはだいぶ変わってくるようで。
***
夕方から忘年会。
年末最大の憂慮イベントはつつがなく終了。
二次会で数年ぶりにボーリングをやった。2ゲームやってスコアはそれぞれ「80」と「122」。まあそんなものか。
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可愛いなあ、もう(笑)。
***
もえたんのガイドライン[2chガイドライン板]
最近開拓したスレの中ではこれが一番面白かった。
あと、スレの内容とはあまり関係ない気がするけど、個人的に“しぃのうた”の歌詞の日本語訳が分かったのが美味しい。
2003/12/3 (水)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#03
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ルパン122へ。
1周8.27億達成。
点効率は2面終了時1.51億、4面終了時4.24億、5面黄流前8.22億。
5面後半のゲージ調整が上手く行かなくて蜂アイテムを2つ無駄にして3060HITぐらいしか出なかったので、理想通りに3200HIT以上で繋げられれば私程度の腕でも1周8.4億は十分可能、な筈。
さて、週末まで蜂はお休み。
円華先輩とまったりいちゃつくことにします。
2003/12/2 (火)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#02
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ルパン122へ。
1周目5面のパターンの練り直し。コンボが切れる可能性のある場所の再チェック。何ヶ所かは今日の実験プレイで解決したが、あと1箇所、旧5ボス後の大型戦車x3手前の蛾爪ラッシュの場所が安定しない。現状9割は繋がるが、しかしパターン性の極めて高い5面道中で1割失敗するなんていうのははっきり言って20億を目指すプレイヤーとしてはお話にならない。4面コンボはもはや楽勝。薬莢が3個壊せれば9割行ける。地道な努力がようやく実ったようで。
とりあえず1周8億ぐらいはさくっと出しておかないと気が散って
Clover Heart's に専念できない。
***
メモ書き。
ドライブ用オリジナルCDを近日中にもう一枚作成予定。
今回は以前作ったような萌えソング集ではなくて、何も考えずに聴けるようなショーピース系クラシックをまとめるつもり。
以下、編集予定曲目(順不同)。
CD一枚に入りきらなかったら適宜カットする方向で。
2003/12/1 (月)
http://www6.wind.ne.jp/sayurin/diary-2003-12.htm#01
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なんかもう黒往生で20億出さない限り心の平穏は訪れない気がする。
身体が疼いて仕方がない。中毒というやつか。
Clover Heart's は今のところ先輩がめちゃ好み。攻略可能キャラだと良いのだが。
ああレティシアになってアズライトにお腹を撫で撫でされてえ。
そういえば、ちょっと前から思っていてなんとなく書かずにいたこと。
以前私が日記に書いたような兄妹関係の唯一無二性というのは当人たちによって意識されるようなものではないと思う。ああいう意見というのは外部(ということはつまり干渉不可能な彼岸、つまりフィクションに対するこちら側)から仲の良い兄妹(例えば恭也と美由希や白桜と鳳仙)というものを見た場合に我々の胸中に生じる感慨なのであって、だからフィクションの兄妹同士が自分たちの関係の唯一無二性を自覚しているというのはどうも奇妙に映る。それはつまり、フィクションの世界がそれ自体として完結しないで、語り手の思想が混入してしまったことを意味する。そうなるとフィクションはとたんに胡散臭くなってしまう。目の前にあるものはリアルなのかフィクションなのか、その区別が曖昧なものはよろしくない。不確かなものを前にして我々は戸惑わざるを得ない。ましてや雛子のような女の子がどうして外部観測者の言葉で自分と兄との関係を受け容れることができようか。まあ100人中99人には意味不明でしょう。ごめんなさいと謝っておきますが、それでも敢えて明示はしません。
関係ないけど、Legend編の主役は私的には鳳仙です。
現代に生きる我々は物心付く頃には恋愛という言葉とその概念は色々なメディアの存在によってなんとなく分かっている。しかし鳳仙はそういう予備知識が欠如しているがゆえに、自分の兄への想いを明確に自覚できない。鳳仙は恋という
* 言葉を知らない * がゆえに、自分の気持ちを名付けられず、名付けられないから心は明瞭な形を遂に取ることがない。自分の気持ちを自覚できず、ただ愚直に兄を大切に思い、兄のために頑張る鳳仙は、本当に愛おしい。外野としては、こういうふたりは恋人同士になんてならずに、ずっと仲の良い兄妹でいて欲しい、とついつい思ってしまう。SNOWに芽依子シナリオがないのはおそらく正しいのだ。というよりも、極論すれば、SNOWのすべての物語はある意味では芽依子の視点から見たものなのである。SNOWの主役はもちろん彼方であるには違いない。しかし私としては、あの物語には、もうひとつの見えない視点があるような気がしてならない。それは、彼方(白桜)の生をひたすらに見守り続ける芽依子(鳳仙)の視点だ。そういう意味で、私はあれを芽依子の物語だと呼びたいのである。
この微鬱状態はいつまで続くんだろうな。
文責 しのぶ sersui@bay.wind.ne.jp