千川上水(中流編の3 練馬駅付近から江古田駅付近へ)
更新日:2010年2月1日
千川上水(中流編の3 練馬駅付近から江古田駅付近へ)
練馬駅南口から東に向かうと、練馬消防署前交差点の東側、千川通りの南側(豊玉上2丁目27番付近)が、練馬区内の千川沿いにあった4基の水車のうち最下流部に位置した矢島水車跡の推定地です。筋違橋のたもとから回し堀を設けて引水し水車を回していたほか、余水を南方の豊玉中3丁目方面に引いて現げん・練馬郵便局南方にあった池から流れ出ていた小川につなぎ、灌漑用水としても利用していたようです。千川は西武池袋線につかず離れず東進とうしんします。

いったん中断し練馬消防署前交差点の東から復活したグリーンベルト上(桜台4丁目21番付近)に、清戸道きよとみちと千川上水の説明板があります。この付近が武蔵高等学校編『千川上水』に記されている練馬宿ねりましゅくの東端だと思われます。練馬宿ねりましゅくは、現げん・練馬駅付近から桜台駅の近くまで、東に長く延びて広がっていました。

現げん・桜台駅前交差点の丸山道まるやまみち(桜台通り)が千川を渡るところには、3枚の石を渡した三枚橋がかかっていました。そのわずか下流の千川南側、果物店(豊玉上2丁目20番)と喫茶店(同2丁目15番)の間に、中新井村分水(下新街分)跡があり、豊玉第二小学校の北側まで、現在も水路敷すいろじきが残っています。桜台駅南口信号付近のグリーンベルト上には、千川通りに桜を植える会によって昭和62年(1987年)に建てられた桜の碑(桜台1丁目4番)があります。暗渠化後に再び植樹され復活した桜並木の記念碑です。千川通りからわずか100メートルほど北側のマンション(桜台1丁目12番)の北東角には、年代不明の馬頭観世音像が東向きに安置されています。



環七通かんななどおり桜台陸橋下の西側の側道そくどうが、下練馬村分水跡です。羽沢分水とも呼ばれ、北上して羽沢3丁目付近で石神井川に注いでいました。付近の住民の方に聞いたところ、西武池袋線を渡って1本目の道路までは、環七通りの西側の側道そくどうが流路りゅうろ、その先は旧・下練馬村方面へ向かう古い道の東側に沿って、1960年代中頃までドブ川状態ながらも水路が残っていたそうです。従来、分水口は栄町15番付近とする資料がみられましたが、その方かたの話をもとに古地図を精査したところ、現げん・環七通西側の側道そくどう交差点、桜台1丁目1番付近とした方が正確だとみられます。

環七通りから約40メートル東の地点で分水し、武蔵大学構内(豊玉上1丁目26番)を流れていたのが中新井村分水(北新井分)跡です。旧制武蔵高校時代に「濯川すすぎがわ」と命名されましたが、昭和35年頃(1960年)、千川の通水停止によって放置されました。その後、雨水などを利用して循環式の清流を復活させ、かつての分水の姿をよくとどめています。また、同大学内の武蔵学園記念室には、千川上水に関する貴重な資料や「千」の字が刻まれた境界石などの遺物が保存されています。
武蔵大学前のバス停と正門を過ぎると、千川通りの北方約50メートルに、明治以来、商人・馬主ばぬし・役者などの信仰を集めていた武蔵野稲荷神社(栄町10番)があります。拝殿西奥の本殿(年代不詳)が建っているところは、種々別説がありますが円墳跡ともいわれ、その周囲に一部現存する周濠をめぐらせ、千川上水から水を引いていたそうです。境内の弥栄天神は、受験生に人気があります。

再びグリーンベルトに戻ると、清戸道道標きよとみちどうひょうと説明板(栄町7番)があります。まもなく江古田二又です。清戸道きよとみち(千川通)と埼玉道さいたまみち(高田道たかだみち)の分岐点で、現在はバス停に名を残すのみで五差路になっています。交差点角の酒店(旭丘1丁目75番)前に、千川堤植桜楓碑(大正4年・1915年)が建てられていましたが、暗渠工事と道路拡幅のため、浅間神社(小竹町1丁目59番)境内に移されました。同碑には、下練馬村ほか3カ村の有志が、大正天皇の即位を記念して千川沿い約7キロメートルに千六百本ほどのソメイヨシノとカエデを植えたことが記されています。浅間神社は、江古田駅の北側にあり、境内の富士塚は江古田富士とも呼ばれ、国の重要有形民俗文化財の指定を受けています。参道は江古田駅設置の際に分断されましたが、元々は千川通りから北へ約200メートルにわたって続いていました。
千川上水は、江古田二又の西側から交差点南東側に向かって千川通り(清戸道きよとみち)を斜めにくぐり、道路南側に移っていました。現在も都建設局が設置した通称「亀の子」印のマンホールの位置で確認することができます。

