性・愛・恋
  番外編  女に性欲があることが信じられるか
 女に性欲があることが信じられるか
 実は、この歳になっても、未だもって女に性欲があることが信じられない。そう言う確信の持てる体験がないのである。早い話が元の配偶者にはどうもない様な気がする。それ以外でも、セックスはやりたがるが、果たして性欲が本当にあるのかどうか、どうも信じられない。テレビや映画などでも、女が男を求めると、男が逃げる場面が良くある。あれは本当なのだろうか。逆に、新聞の相談などに良くあるところの、主人が求めすぎて困るという話し、あっちの方が本当に思えるのだが。

 ところで、なぜ信じられないか
 それは簡単である。自分に対して性欲を感じる女性がいないからである。私が性欲を持って提案しても、性欲を持って応える女性がいないからである。少なくとも、未だかつて純粋に私に性欲を感じて相手をしてくれた女性はいない。だから信じられないのだ。
 秘部を濡らし、乳首を立て、顔を上気させ、体を火照らせながら、抱きついてくる女性が次々と現れれば信用するだろう。自分が性欲を持って女性を口説くのと同じ頻度で女性が性欲を持って私を口説いてくれば、信用するだろう。だが、そんな女性は未だかつてたった一人だけなのだ。それも40年も前に一人だけなのだ。だから、私は女性に性欲は一般的に言って存在しない。例外的にしか存在しない、と言いたいのである。
 世間で見聞する限りでも、
 ある人は夫がひどい人だからと言う理由(お口直し、癒し、気分転換であろうか)
 ある人は世の中で流行しているから試してみたいという理由(初体験や主婦の不倫など、これは単なる好奇心か群集心理)
 ある人はまだ性体験が少なくてセックスというモノが分からないからと言う理由(まだ性欲を感じていないのは、経験不足のせいだと思っている)
 それともファザコンで父親的な男にかわいがられたいから(性欲ではなく父親の愛情に飢えている)
 何でもいいから愛情をくれればいい(愛情を得るのに短絡的な性行為に頼っている)
 金のため(商売でなくても、扶養家族でいるために旦那の性行為に応じている)
 ・・・・・
 と言ったところばかりの様な気がする。

 セカンドバージン
 こういう言葉が少し前から流行っているそうだ。この言葉が流行ると言うこと自体、俺の疑問が正しいと言うことにはならないだろうか。つまり「世に流行るセクスと言うもの女の自分はしてみんとてするなり」でやってみたのだが、別に面白い物でもなかったので(体の中に性欲があることが確認出来なかったので)、もう辞めてしまった。ということなのであろう。

  自慰行為をするかどうか
 本当に女に性欲があるのかどうか、納得がいく様に確かめるとしたらどうするか。まず何と言っても、自慰行為をするかどうかであろう。男の存在が無くとも、男に膣なりクリトリスなり乳首なりを刺激されることを空想して、どんどん濡れていって、体温が上がって、最後にはエクスタシーにまで到達することができるのか。それができて、かつある程度日常的に(パートナーがいない場合)やっているかどうか。それがまず第1であろう。
 催淫剤というモノがあるそうだ。もし手に入るのならば、実験してみることができるだろう。自慰行為を確認するならば一人にしておくのだが、ここでは面白いので、少しヒネリを入れてみようではないか。「好みではないが吐き気を催すほどではない男」と被験者の女を一緒にして、女に催淫剤を試すのである。これで女が性欲を持って男と何をいたせば、その女には性欲があることになるだろう。これを100人でも試してみて、一体何人が性欲を持つだろうか。男女を逆にした場合は、90%以上だと思うのだが。

 女に都合の良い理論
 女に性欲があることが信じられないという自説に対して、「女は好きな男にだけ性欲を感じるものなのだ」と言う話しがある。非常に女性の自尊心をくすぐる主張ではある。だがこれについては、幾つかの疑問が発生する。この主張を好意的に分析すると、女は本来的に性欲を持っている、その発現の条件は、愛や恋である、ということになる。愛やら恋やら感じる特定の男にだけ性欲を感じるのだ、ということになる。果たしてこれが正しいかどうか、私は答えを出せるだけの知識経験を持ち合わせていないが、分析はしてみよう。

 愛と性の違い
 まず第1に、この主張では、どうも愛やら恋やら好意やらと性欲の区別を付けることが難しくなるのでは無かろうか。愛やら恋やら好意やらがあると、見つめたくなるとか、抱きしめたくなるとか、何かの時は守ってあげたくなるとか、するものである。そういう行為欲と性欲が同じだということになるのではないか。つまり、性欲とは、愛やら恋やら好意やらの表現形態といことになる。
 屁理屈っぽく論じれば、食欲とは、腹が減るから感じるのではなく、美味しい物を見るから感じるのだ、と言う論法では無かろうか。睡眠欲とは、起きている時間が長いから感じるのではなく、気持ちの良さそうな布団に触ったから感じるのだ、ということになるのであろうか。さらには、一人でやる性行為の場合は、愛する恋する対象が欲しいからやるのであって、性器を刺激するとか射精するという行為そのもの単独でしたくなる訳ではない、と言うことになるのであろうか

 次の疑問
 それでは、性欲刺激というケースはどうなるのであろうか。これは先ほどの自慰行為と同じで、男の自分は男のことは分かるが、女の場合はどうなのであろうか。愛や恋が無くても、物理的刺激を体に加えられると、性欲が発生するのであろうか。そうであれば愛も恋も関係なく、肉体の機能として性欲があることになる。
 もっと露骨な話しをすれば、嫌いな男であってもテクニックがうまいと、女は性欲を感じるようになるのであろうか。残念ながら、女の場合に関しては、私は試してみることができない。なぜならばもてない男なので。嫌われている女はたくさんいるが、そういう自分に対して嫌悪感を持っている女に対して、テクニックを試す機会はなかったからである。映画やらコミックやら小説では、嫌いな男でも体を刺激されていると、その内女の体が乗って来るという、そういう話しはよくあるのだが、本当なのだろうか。私にはどうも眉唾に思えるのだが。

 恐ろしい帰結
 それよりも、その主張から導かれる結果が、自分にとっては恐ろしい物になるではないか。愛や恋と性欲が別物であれば、自分は愛されなくとも恋されなくとも、女性から性欲をもたれる場合がありうる。だから付き合う可能性が少しは増えるのである。だが愛や恋と性欲が一体だということになれば、自分は性欲を女性からもたれることは無くなるではないか。露骨に言えば、恋愛ができないないばかりではなく、セフレすらもこの人生で手に入らないということになるではないか。
 そうか、そうだったのか。それで風俗に通っても楽しくなかったのか。そうだから元の配偶者は俺とセックスを楽しめなかったのか。だから俺がセックスをしたいと提案しても、誰も応じる女性がいなかったのか。何ともすさまじく寂しい人生ではないか。
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