国旗考「日の丸」
日の丸(日章旗)は江戸時代幕府船の標識として使われ、幕末日本船の印となった。明治政府に引き継がれ1878年(明治3年)1月27日、日本の商船は日の丸を国旗として掲げることとした。同年10月3日海軍の国旗が定められた。商船と軍艦の日の丸の寸法が若干異なる。
文部省は1989年新指導要領(小学校は1992年度、中学校は1993年度から実施)において、国旗(日の丸)の掲揚と国歌(君が代)斉唱を義務化した。国旗・国歌法が成立し、日の丸が国旗とされ、1999年8月13日より施行された。
先人が護国の象徴として、国旗、国歌のもとに一丸となり命を賭け傘を差し子孫を守った。国旗、国歌には先人の愛国、護国の想いがこもっている。その国旗、国歌を愛さず、思想の自由とか振り回すものがいるが、法律以前の人間の根源の問題だ。先人は国旗、国歌のもとに集い歌い傘を差し守った。国旗、国歌は、命を賭けた先人の、愛国、護国の想いがこもった、日本護国史の象徴なのだ。傘を差し守られた子孫が日本護国史の象徴をたたえるのは、子孫として当然の礼節だ。
先人を愛せぬものが、どうして他人を愛せる。まず日本を愛すことだ。自国を愛せぬものがどうして他国を愛せる、愛国、護国は人間の原点なのだ。戦争は醜く、悲惨だ、誰でも避けたい。しかし、護国のために戦うべきときは戦わなければ成らない。護国は、生命体である人間の、原点なのだから。愛国は精神、護国は行動なのだ。
サッカー元日本代表・ラモス瑠偉
『日の丸ー。最高だ。こんなに美しい国旗、他にないよ。
どんなに苦しくても、膝が痛くても、日の丸をつけていると思うと頑張れる。
本当に不思議。これまで何度もそんなことがあったね。
ユニフォームの日の丸。スタンドで揺れる日の丸。日の丸が目にはいると、
こんなところで諦めていいのかって、また闘志が湧いてくるんだ。
日の丸をつけて、君が代を聞く。最高だ。武者震いがするもの。体中にパワーが
みなぎってくる。でも、日本の選手の中にはそうじゃないヤツもいる。
不思議でしょうがないよ。
日の丸をつけるって、国を代表するってことだよ。選ばれた選手にしか与えられ
ないものじゃない。国を代表して戦うって、スゴイことなんだよ。それを忘れて
いるんじゃないかって思う。
ワールドカップを見てみろよ。みんなあんなに必死になって戦うのは、国の代表
だからだろ。国を愛し、家族を愛し、仲間を愛しているからだろ。日本はそこん
とこから外国に負けている。自分のためだって?
そんなの当たり前じゃない。じゃあなぜ、もっと大きいものを背負わないの?
オレ、日の丸背負ってなかったら、あんなに頑張れなかったよ。ドーハの時、
オレは38歳。あのクソ暑い中で、そんなオジサンが全試合、それもほとんど
フル出場。練習だって若いヤツらと同じメニューをこなしてたんだ。自分のため
だけだったら、とっくに辞めてたよ。』
国歌考「君が代」
この元歌は、10世紀初め、醍醐(だいご)天皇の命令で紀貫之(きのつらゆき)らが編集した最古の勅撰和歌集『古今和歌集』の巻七、賀歌(がのうた)のトッブにある「読人(よみびと)しらず」の「わがきみは千代(ちよ)に八千代(やちよ)に細(さざ)れ石(いし)のいはほとなりて苔(こけ)のむすまで」である。
「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを
小学館『日本古典文学全集』(第5卷)によれば、「わが君のお年は干代、八千代にまで続いていただきたい。一握りの小石が少しずつ大きくなり、大きな岩になり、それに苔が生えるまで」と現代語訳されている。その注釈によれば、「君」は天皇をさすとは限らず、小石が岩となるというのは、「酉陽雑爼」(ゆうようざっそ)という中国の伝奇小説集に水中から拾ってきた石を仏殿に長年置いたら大きな岩になったという伝説にもとづく、と解説がつけられている。
この歌は江戸時代には、一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた。この時代の薩摩琵琶歌には、現在知られるものと同じ歌詞のものが見られる。よって現在の「君が代」は、明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である。教科書に掲載されるのは1881年(明治14)文部省音楽取調掛発行のわが国初の音楽教科書「小學唱歌集初編」(大日本図書株式会社刊)で歌詞は1,2番であった。
1番 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
2番 君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで
君が代の君の意味は、こちらさまの(あなたさまの)という意味の場合もあり、「わが君」、あなた、おまえ、君、筑紫の君、先祖、君主、新郎、天皇、と変化してきている。
君が代の代の意味は、語源的には「節(よ)」と同じで限られた時間の流れを意味する。期間、時代、この世、世界など。
1977年文部省の学習指導要領の中で、国歌と既定された。国旗・国歌法が成立し、第2条で国歌は君が代とすると定められ1999年8月13日より施行された。
曲はイギリスのJ・W・フエントのものもあったが、現行のものは宮内省伶人長の林広守が、雅楽調で1880年(明治13)作曲。明治13年から天皇の治世を祝う国歌と解され歌われてきた。弱肉強食の時代小国日本は、団結し一丸(皇民化)とならなければ勝てなかった。勝つための一丸化のシンボルとして天皇を意味すると解釈され歌われたのだ。
日清、日露、第一次大戦、反共(日中)戦争、解放(大東亜)戦争、天皇の下に国民と君が代と日の丸が一丸となり、戦い不可避の弱肉強食の時代を通過した。最後には敗れたが目的は遂げ、宗主国を追放し、貿易は自由化され繁栄し平和を得た。『あらゆる災いの後に福が来る』のたとえのように。開国以後100年間の戦い不可避の受難の時代、君が代と日の丸は、晴れの日も雨の日もいつもそばにいて励まし、戦後に平和をもたらした。君が代と日の丸は、かくして歴史となった。まさに護国の象徴といえる。
明治、大正、昭和(終戦まで)の天皇は日本国の元首なので、天皇の治世を祝う国歌君が代で解釈は正解だ。しかし戦後天皇は、日本国および日本国民統治の象徴となったので、君が代の解釈も当然変化する(1000年もの長きにわたり主旨を変えながら伝承された由緒ある歌、それが君が代なのだ)。先人と天皇が一丸となり交戦の果てに、今の此の世(繁栄と平和)が築かれたのだから、君が代の戦後の解釈は「先祖(敵味方お互いの先祖)が築いたこの世(繁栄と平和)」となる。
君が代は
by 真実史観
真実史観ネチズンチェンジ工作…