2010年2月2日
1982年5月11日、女優と話をするJ・D・サリンジャーさん=AP
書店に設けられたサリンジャーさんの追悼コーナー=29日、東京・八重洲、高橋雄大撮影
若者といえば反抗するもの、と相場が決まっていた時代、27日に亡くなったJ・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(1951)は、そうした若者たちの必読書という観があった。たとえば1960年代のアメリカでは、管理社会の息苦しさを精神病院に託して描いたケン・キージーの『カッコーの巣の上で』(1962)と、軍隊を舞台にやはり現代社会のいわば論理的な悪夢性を描いたジョゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』(1961)とともに、『キャッチャー』は多感な少年の饒舌(じょうぜつ)な語り口を通し、大人の社会の画一性・閉塞(へいそく)性を糾弾する書として膨大な数の読者を得た。
日本でも1964年、この小説が「書かれたもの」というより「語られたもの」であることを正しく感じとった野崎孝による画期的な翻訳が刊行されて、『キャッチャー』はまさにそのようなものとして読まれはじめた。加えて、これはより個人的な印象だが、サン=テグジュペリの『星の王子さま』や太宰治の『人間失格』などと並んで、若いころに人がしばしば陥る(そして、若いうちならまあ許容されるべきである)〈自分だけは純粋なんだ〉という思いに訴える書、という要素もあったと思う。
翻って、2010年の今、『キャッチャー』をはじめとするサリンジャー作品のそうした読み方はどこまで有効だろうか。何しろ、反抗しようにも、親も学校も妙に物わかりがよかったり、あるいはひどく頼りなかったりで、明確な「敵」が見あたらないという事態は以前よりずっと増えている。また「自分だけは純粋」云々(うんぬん)に関しては、少々茶化(ちゃか)して言えば、自らの「立ち位置」をつねに意識し、演ずべき「キャラ」に気を配り、「空気を読む」ことをほとんど倫理的義務と心得る今日の若者にとって、純粋な自分などといった物語に酔うのは相当困難ではないか。
にもかかわらず、『キャッチャー』は依然読まれている。他の多くの国々同様日本でいまだ売れ行きが衰えないのは、2003年の村上春樹による新訳刊行だけが原因ではあるまい。結局のところ、若者=反抗というあらかじめ設定されていた図式が消滅したあとで明らかになったのは、サリンジャーの作品がそうした図式を超えた力を持っているという事実ではないか。
ありていにいえば、自分がいまここにこうして在ることへの違和感・苛立(いらだ)ちといった、むろん若者にありがちではあれ、決して若者占有ではない相当に一般的な思いが、『キャッチャー』や『ナイン・ストーリーズ』のせわしない、自意識過剰気味の語りを通して伝わってくるのではないか。アイデンティティの確立などと世にいうが、アイデンティティとは要するにそういった違和感を覆い隠すための物語にすぎないとも言える。サリンジャーの登場人物たちは、そうした物語が今一つ定かでない人間として、無防備な姿をさらしている。いかに生きるべきか、という問いに対し彼らは何の答えも持っていない。そうした脆(もろ)さによって、ある種の普遍性を獲得している。
だが、キャリア後半でのサリンジャーは、天才的な兄シーモアが自殺したグラース兄弟の物語に焦点を据え、何らかの答えを模索しはじめたように思える。いってみれば、神がさっさと退席してしまったあとで、人間たちが懸命に神の意図を探るような困難さがそこにはつきまとって見えた。隠遁(いんとん)生活のなか、作品は何十年も発表されないままだった。地下から出て新しい関係を人々と結ぶ意志を表明して終わる『見えない人間』(1952)を書いたラルフ・エリスンは、その1作で代表的なアメリカ黒人作家の地位を得たが、やはりその後数十年、その新しい関係がいかなるものになるのか、答えを出せぬまま生涯を終えた。サリンジャーの抱え込んだ問題もそれと似ていたように思える。書けなかった悲惨、ということに2人ともなるのだろうが、引き受けた困難の途方もなさを思えば、書かなかった栄光、と言ってもいいように思える。
著者:J.D.サリンジャー
出版社:白水社 価格:¥ 1,680
著者:ケン キージー
出版社:冨山房 価格:¥ 2,415
著者:ジョーゼフ・ヘラー
出版社:早川書房 価格:¥ 861
著者:ジョーゼフ・ヘラー
出版社:早川書房 価格:¥ 861
著者:サン=テグジュペリ
出版社:岩波書店 価格:¥ 1,050
著者:太宰 治
出版社:集英社 価格:¥ 270
著者:サリンジャー
出版社:新潮社 価格:¥ 460
著者:ラルフ・エリスン・松本 昇・Ralph Ellison
出版社:南雲堂フェニックス 価格:¥ 3,990
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