2010年の正月はシンガポールで迎えた。もう何度目かの滞在になるが、いつものように蒸し暑く、また穏やかな新年だった。
もっとも大みそかだけは、この街もそれなりに盛り上がる。花火を打ち上げて盛大にニューイヤーカウントダウンが開催され、人々が新年の願いを託した2万個もの球体(Wishing Sphere)が点灯されて、マリーナ・ベイの水面を埋め尽くす。
高層ビルとレインツリーの巨木が交錯する異様な風景は、この都市ならではのもの。夜のオーチャード通りは新年を祝う華やかなイルミネーションでいっぱいだ。市中は常に活気にあふれ、1人あたりのGDP(国内総生産)がすでに日本を上回っていることもうなずける。
街は清潔で治安も良く、人々は親切で、食事は安くておいしい。ネット環境は快適だし、書店に行けば最新の日本の雑誌が手に入る。元日の朝に紅白歌合戦が再放送されるのもこの国ならではの楽しみだ。
近年シンガポールの発展はいよいよめざましい。食料はおろか水までも輸入に頼らざるを得ないこの国の資源は「人」だけだ。それでも地理的な利便性や優遇税制をフル活用し、多くの外国企業を誘致することで経済的な発展を遂げてきた。ここ数年の経済成長率は8%前後と高く、世界経済フォーラムの国際競争力ランキングでは3位に評価されている(日本は8位)。近年は観光立国を目指してF1初のナイトレースを一般道で開催したり、大規模なカジノの建設も進められている。
この発展を支えたのが、この国独特の、きわめて効率的な政治システムである。
シンガポールの政治体制は、事実上「人民行動党」の一党独裁である。形ばかりの野党は存在するが、選挙制度は野党にきわめて不利にできている。昨年までは84議席中、野党議員は2議席だけだった(昨年改正されたが)。言論の自由も大きく制約されており、時には投獄や国外追放などの処罰すらあるという。
経済成長を目的に、政治的自由を制限すること。いわゆる「開発独裁」である。かつての台湾や韓国、あるいはフィリピンのマルコス政権、インドネシアのスハルト政権などが典型だ。ただし台湾や韓国は民主化運動で独裁政権が倒され、マルコスやスハルトは腐敗によって崩壊した。唯一シンガポールだけが、そういって良ければ「理想的な開発独裁」を実現し続けている。
こうした“優れた”体制のグランドデザインを作り上げたのは建国の父であるリー・クアンユー上級相だ。リー氏は自国の経済的発展を最優先すべく、意図的に独裁的な統治システムを作り上げた。同時に汚職を厳罰によって徹底排除し、「絶対権力」の腐敗を防いだ。資源のない小国シンガポールを東南アジア有数の経済大国に発展させた功績は、リー氏抜きには語れない。国際的には独裁ぶりを批判されつつも、民衆の支持が厚いのはそのためだ。
個人の自由よりも経済発展を優先するという考え方は、ある種の功利主義と言ってよいのかもしれない。「最大多数の最大幸福」のためには、少数派の犠牲はやむを得ない、とする思想。こうした発想は、現代にあってはもう時代遅れなのだろうか。
確かに、これから「開発独裁」体制を取る国家が急増するとは思えない。しかしそれは「幸福」の判定基準が変わったためかもしれない。経済的発展よりも、病や貧困のような絶対的な不幸を減らすこと。ベーシック・インカムのような形で富の再配分を最大化すること。そうした目的で、たとえば「福祉独裁」のような思想が出現したら?
空想をさらに広げるなら、人々の幸福のために常に最適解を計算してくれるコンピューターが発明されたら、われわれは機械に統治をゆだねるべきか、という思考実験にもつながっていく(なぜかここで、ふと「事業仕分け」のシーンが脳裏をよぎった)。
もし幸福が「パンとサーカス」で満たされるなら、そうした思想は肯定されるべきかもしれない。しかし私の考えでは、幸福には少なくとも2種類ある。「パンとサーカス」で満たされる「生理的欲求」レベルの幸福と、「尊厳と関係」によってしか満たされない「心理的欲望」レベルの幸福だ。
前者は計算可能であるがゆえに、功利主義が有効だ。しかし後者は質的なものなので、計算することができず、功利主義には抵触する。もちろん政治が扱いうるのは計算可能な幸福のみ、という判断はあってもいい。しかしそのために「欲望としての幸福」が制約されることは、私には耐えがたい。
「自由とはつねに、思想を異にする者のための自由である」とローザ・ルクセンブルクは言った。どれほど欲求が満たされても、われわれの欲望は「すべてよし」とは言わないだろう。欲求の満足と欲望の自由とを、いかにして調和させるか。これもまた「政治の問題」ではないか。
そんな機上の夢想も、成田空港の寒気にふれるや、どこかへ飛んでいってしまった。なんとも誇大な「初夢」をみたものだ。=毎週日曜日に掲載
毎日新聞 2010年1月31日 東京朝刊
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