2009年12月12日(土)
オヤジとヤマト [映画]
何をもって「オヤジ」「オッサン」と呼ぶかは諸説ある。年齢や身体的劣化をファクターとするならば,私は立派な「オヤジ」だ。だが,そうは認めたくないから,いろいろと屁理屈をつける。
「昔は良かった」と懐かしむ「ノスタル爺」。これは,ある程度は仕方がない(と開き直る)。幼少期や青春時代に接触した小説・音楽・映画などは心に深く刻み込まれ,審美眼の土台を形成しているからだ。
しかし「ノスタル爺」を絶対視し,「今の○○はくだらない」とか「今の若者はうんぬんかんぬん」とか言い始めると,立派な「オヤジ」である。今の○○が食わず嫌いであることも多いし,食べても理解できない場合がある。だったら,黙っていればよいのだが,一家言あるところを見せようとして,今の○○をくさしてしまう。それが「オヤジ」という生き物なのだ。
さても『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』である。十代の頃にヤマトにはまり,こんな授業までしている人間としては,公開初日に映画館に馳せ参じるのが礼儀。岡田斗司夫は「ヤマトは税金」と言ったが,私は「祭りの冥加金」だと思っている。「私の今日があるのは,ヤマトさまのおかげでごぜぇますだ。復活なさるというなら,喜んで寄附させていただきますだ」みたいな。TOHOシネマズ浜北へ。
うーむ。「今の若者にはヤマトの良さがわからない!」と強弁するのは簡単だが,私自身がよくわからない。ヤマトが地球を捨てるのかよ〜から始まり,何もかもがみな納得いかない。発進シーンとかオヤジが泣けるツボは抑えていると思うけど,必然性の積み重ねではない脚本には悲しさと寂しさが募ってくる。
思えば「ヤマトは誰のものか」を巡り,西崎義展と松本零士が法廷闘争を繰り広げ,和解した結果が『復活篇』に結びついた。でも「ヤマトは誰のものでもない,みんなのものだ」と裁判所が粋な和解調停をしていれば,状況は変わったのだろうか? 「誰もがヤマトを再創作してもいいけど,原著作者は再創作物に対して報酬を請求する権利は認める」みたいな判決または調停。
原著作者がオヤジになれば,作品もオヤジ化し,老化・劣化が際立つのが世の道理というもので。若い世代がヤマトをオマージュして再創作する「真の復活篇」をみてみたい!!
Posted at 23時59分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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