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【介護社会】<百万遍の南無阿弥陀仏>(5) 救いの手、自ら拒む2010年1月30日
「これ以上、世話を続けても、おふくろは元気にならない。そう思い始めていた」 息子(57)は事件を起こす少し前の胸中を語った。富山県氷見市の自宅で、母親=死亡時(80)=の介護が3年目に入ったころだ。 事件3カ月前の2004年5月。穏やかな春の青空を見せようと、寝てばかりいた母親を起こした。しかし、「玄関を出てすぐ、あれっと思った」。よろよろと数歩、手押し車の荷台に腰掛け、また数歩…。体力は目に見えて衰えていた。母親に食欲はなく、週に1度の配食サービスを断った時期だった。 散歩に誘うのを気兼ねするようになった息子も2階で独り過ごす時間が長くなった。 「息子はもともと人付き合いが苦手。(母親を介護する以前から)自宅にこもりがちだった」(叔父=供述調書より) 母親の介護と向き合う日々。「おふくろの汚れた下着を洗っている時とか、無性に寂しくなった。しゃべる相手がほしかった」。回復の兆しがみえない母親の姿に気力もなえていった。 夕食の食材を買った帰り道。赤信号の交差点で、無意識に自転車のペダルを踏み込んだ。「どうしたら楽になれるか、ばかり考えていた」。何事もなく交差点を渡りきったとき「何をばかなことしてるんだ」と涙した。 このころ、老いた母親も行きつけのスーパー店員に「死ぬ時は冷たい水を一杯、飲みたい。あんちゃんに飲ませてもらう」と弱々しく話している。 事件1カ月前の7月には、母親の部屋に入るのも苦痛になっていた。熱気がこもる寝床には、排せつ物にまみれた紙おむつや下着が入ったポリ袋。息を止め、袋の口を縛った。袋を抱え、ごみ捨て場への夜道で嘔吐(おうと)した。 「もうやり切れなかった。おふくろに『2人で死のうか』とも言った。死なせることが解決にも思えてきて、余計に苦しくなった」 外に助けを求めるチャンスはあった。担当のケアマネジャーは、事件の半年前から母親の容体の悪化に気づき、「息子と相談した方がいい」と考えていた。毎月数回の訪問日を増やし、4日連続で訪ねたときもある。しかし、話し合いがもたれることはなかった。 「息子に『お母さんのことで困っていることがないですか』と尋ねたが、『母親本人と話をしてくれ』と言ったきり、2階に上がってしまった。話し合いができないように思った」(ケアマネジャー=供述調書より) 作れども日々残飯になる食事、どんどん進む衰弱、かみ合わない母とのやりとり…絶望感で自暴自棄になった息子は、救いの手にも自ら扉を閉ざした。 母親の認知症を確信していたケアマネジャーは、担当検事に残念がった。 「介護が負担だったなら、一人で抱え込まず、悩みを相談してほしかった」
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