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【介護社会】

<百万遍の南無阿弥陀仏>(2) 食べてくれず焦り

2010年1月27日

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 日本海の冷たい風が吹く富山湾岸の住宅街。事件から5年余りが過ぎた今も、近所の女性は昔見かけたほほえましい光景を印象深く覚えている。手押し車に寄り掛かり、そろそろと歩く母親=死亡時(80)=の後ろから、いたわるように付き添う息子(57)。「よう面倒みる息子さんでいいねえ」。思わず母親に声を掛けたという。

 「母親は『かたいあんちゃんなんぜ』が口癖で、おとなしくてまじめだと息子を褒めていた。自宅には毎朝、洗濯物が干してあり、足腰が弱くなった母親に代わり、身の回りの世話をしているんだと思っていた」(民生委員=供述調書より)

 4年間の服役を終えて戻った自宅。息子は今、当時を思い返すのをためらう。母親との折り合いに複雑な表情をする。天井をみつめた後、口を開いた。「周りの激励や褒め言葉は重荷だった。無理やりの笑顔とか、愛想の良いあいさつをするのが苦痛だった」

 愛想笑いの裏で、思い詰めていた悩みがあった。

 「おふくろが何であんな態度をとり続けたのか、どれだけ考えてもいまだに分からん」

 歯が弱い母親のために毎日おかゆを用意し、ヤマイモやリンゴはすり下ろした。好物のぶり大根を作ったことも。しかし、母親が食事を口に運ぶ日は少なかった。

 法廷で、弁護人が「いつも同じようなものしか作っていなかったのではないか」と問い掛けると「そんなことは絶対にない。必ず何か1品は作って出した」と反論した。

 母親が使っていた料理本をめくりめくり、頭を悩ませた日々の献立。「『きのう食べた』とか言い訳をして結局は残した。好き嫌いも多かった。残飯を捨てるのが日課やったな」。自嘲(じちょう)気味に語った。

 母親は、息子が作る食事に手を付けたり、付けなかったりを繰り返した。事件の4カ月前、親子は週に1度の有料の配食サービスを受けることを決める。しかし、母親はその弁当も1カ月後には「口に合わない」と拒むようになった。

 「母親から『弁当がおいしくない』『息子が作る食事の方がいい』との連絡があった。息子が食事をきちんと作っているのだろうと思い、母親本人の希望に沿い、配食サービスを打ち切った」(ケアマネジャー=同)

 介護を始めて2年半。司法解剖などによると、母親は身長142センチ。元気なころ46キロあった体重は30キロほどに落ちていた。

 「何とか栄養をつけさせようと焦るばかりだった。何が嫌なんか、と毎日考えた。認知症なんて想像もしなかったし、今でもあの世にいるおふくろに聞いてみたいと思う」

 

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