2010-02-15 議論の作法、あるいは「論点ずらし」ということについて

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世界の中の事象というものは、いずれも複雑に構成されており、様々な側面を持っている。だから、ある問題についての論を批判するさいに、そこで抜け落ちている重要な視点や論点を指摘し、そこから相手を批判することは、それ自体として議論の作法に反することではない。そもそも、論点の客観的な軽重ということに限らず、同じ問題でも、人によって、どこに関心をもつか、どこを重視するかが異なるのはよくあることだ。個人の問題意識というものは、みな同じではない。
したがって、ある論を批判するさいに、その対象である論者と同じ土俵に、本意ではない場合もあるがことさらに乗ってみせて、その矛盾や誤りをつくか、それとも相手の土俵に乗らず、土俵そのものを引っくり返すかは、そのときどきの事情によるのであり、必ずしも相手の問題設定そのものに捉われる必要はない。そこで相手が論じていないことを勝手に持ち出したからといって、それがそのまま悪質な「論点ずらし」や「印象操作」を意味するわけではない。
しかし、場合によっては、相手の議論がそもそも一定の流れや枠組みの中にあり、その関係において、問題の特定の側面しか扱われていないということもある。特定の議論において、論じる対象のすべての側面を論じるなんてことは、どんな場合にも無理なのであり、本来ならば、その問題に関するきわめて重要な論点であっても、そういった行論の関係上、採り上げられていなかったにすぎないということもある。
そのような場合に、あたかも、お前は一番大事なこの点を無視している、これを無視しているのは、そのことに関心がないからに違いないかのように弁ずるならば、それはただの「言いがかり」であり、「論点ずらし」による「印象操作」でしかない。むろん、そのような「論点ずらし」が生ずる原因は、誤読や誤解、思い込み、なんらかの強迫的意識など様々であり、そのすべてが意図的で悪質な「印象操作」だとは限らないが。
特定の一例に関して言えば、かの人物が何を目的に、錯乱したケンカを私に売ってきたのか、いまなおわからないわけですが
(ま、なんかむしゃくしゃすることがあり、特定人物を罵倒したい気持ちが暴発しちゃった、という程度のくだらない理由でしょうが)
「やらかしちゃったこと」は(『大変な人たち!』に共感されたり、賞賛されたりしたことも含めて)自分自身で引き受けることになるのは、当然のことです。
件の人の、「国保」取り上げに少しでも責任がある者は候補者として認められないという主張は、個人的な信条としては十分に理解できます。しかし、そもそも個人の信条などというレベルの話は私はしていません。それに、そういう個人の良心や信条といったレベルだけで政治が語れるのなら、誰も苦労はしません。
そもそも、それなら最初からそれだけを言えばよかったことで、あの流れの中で前言を撤回もせずに、最後になって、後出しじゃんけんのようにあのようなことを言い出すのは、まったく筋の違う話にしかすぎません。
自分の支持する党を擁護するのも、その宣伝をするのもとりあえずは人の自由ですが、まるで「貧困」問題に関心があるのは、自党とその支持者たちだけだと言わんばかりの態度については、笑止としか言いようがありません。