■ハウステンボス “千年都市”理念は揺るがず

1.はじめに
 ハウステンボスは一人の少年の夢から


 事業であれ、冒険であれ、金儲けのアイデアであれ、それが"途方もなく大きなスケール"になると、夢物語だよとばかり第三者は理解しようとしない。でも面白そうだなと、興味は持つ。ゆえにこれを伝えようとすると、畏怖の念が混じる。
 ところが、実際に夢物語が現実となって、その姿を見せ始めると、驚愕と共に少々嫉妬の念が入るようになる。そうなるといけない。中身のスケールが大きいほど、完成に時間がかかる。その間、弱い部分や想定外のアクシデント等が生じる。特に新しい価値を創造するビッグプロジェクトは、こうしたリスクと共存しなければならない。
 そんな部分をあたかも全体ととらえて、否定や批判が繰り返される。いつの間にか、その部分認識が全体像を代弁するような誤解が定着し、バッシングや遠慮、そして逃避が起こるようになる。
プロジェクトが成功すれば雑音は止む。勝てば官軍である。しかし、結果が不調に終わってしまうと、本来の意図は伝わらないまま、「夢物語」で片づけられてしまう。これが、日本のマスコミ体質であり、また我々日本人がグローバルな価値観をなかなか創造できない性でもある。

(1)長崎オランダ村からハウステンボスへ

 ハウステンボスは、敗戦後の混乱期に地元・長崎県大村湾を前に、この土地を何とか豊かにしたいと願望した少年・神近義邦の夢の実現であった。
 1979年夏、彼がミネアグループの不動産部長で、初めてヨーロッパを旅行したときのことであった。現地での「地中海の海に決して負けない大村湾なら、地中海同様にたくさんの人々が訪れて楽しむだろう」との会話がヒントとなって、時とともにアイデアが彼の頭脳に広がり、これがハウステンボスのひな形となった「長崎オランダ村」計画の発端となる。
 そして、「長崎オランダ村」は、神近少年の夢の舞台であった、豊かな自然に恵まれた大村湾を望む長崎県西彼杵郡西彼村に誕生した。発想は見事に的中、その成功を契機に、以後強気の事業展開を進める。そして、周囲の支援と協力を引き出し、オランダ政府、日本有数の企業数十社、長崎県、佐世保市などの地方自治体を巻き込んだ、総額5,400億円の巨大事業「ハウステンボスプロジェクト」の壮大な夢が動き出したのである。
 ・・・「京都は昔、長安の都を模した計画都市であった。千年の時を経て、京都はもはや長安の模倣ではなく、追随を許さない日本の古都となった。都市はそこに生活する人々が新しい文化を生み出し、熟成させていく。オランダを模した計画都市ハウステンボスも千年後には、誰もオランダの模倣とは言わない日本の古都となっているであろう」。完成したハウステンボスを前に、神近は、自分の夢の帰結をそう話していたという。
(『ハウステンボス物語』上之郷利昭、プレジデント社より)








図1 工場誘致が富を生む時代が終わり、誘致の用地はあれるに任せるばかりの状況だった(環境会計報告書より)


(2)予想外の不動産事業の悪化

 しかし、千年都市が誕生してからわずか10年もたたない平成12年(2000)、神近の夢は、バブル崩壊後の政治・経済の無責任体制によって体質を一変させた金融機関に「買収」されてしまう結果となった。
 オープン前後は、かなりの話題を集めたのにも関わらず、90年代後半は入場者が減少し、事業費の借入が負担となって、累積赤字は890億円に膨らんでいた。立て直しの切り札であった土地の評価替えによる「含み益」を使っての累積赤字の一括償却は、戸建分譲別荘が半数近く売れ残り、広大な未売却地も抱えている状況では、逆に「含み損」が200億円に拡大するありさまで、暗礁に乗り上げてしまう。
 夢の出発となった長崎オランダ村も、ハウステンボスとの相乗効果で魅力をアップし、集客力を高める当初の神近の戦略は、ハウステンボスの集客力が落ちるのにつれて無実化、年間7億円のオランダ村維持への支援は、不採算部門の早期処分を金融機関に迫られていた状況ではすでに限界に達していた。
 こうして、「地中海の海に決して負けない大村湾にたくさんの人々が集まって、地元が豊かになる」少年の夢は、収益というビジネスの論理によって、あえなく途絶えてしまった。神近はメインバンクの日本興業銀行(当時)への債権放棄と、地銀四行を含む融資各行の金利減免や返済条件の緩和を置き土産に、夢の舞台から去っていく。

(3)"神近後"は、銀行主導で緊縮経営に転換

 これ以降、ハウステンボスは銀行主導の財務畑による経営に移行する。第三者割当増資の実施、資本金の引き上げとともに年間100億円に上る人件費圧縮を柱とする、経費の2割削減が打ち出された。
 銀行のエリートと呼ばれる財務の専門家や、超有名難関ビジネススクールのMBAを取得した経営コンサルタント等が、経営を担当すれば事態は改善されるなど、いまどき誰が信じようか? 神近の後任・和才昌二新社長は就任の抱負として、"増資を機会に前向きの経営に転じたい"とコメント。しかし、就任後まだ間もない1年後の平成13年(2001)3月、和才は突如、同年3月期決算の大幅な赤字と、人心一新を理由に退任を発表。後を継いだ同じく日本興業銀行出身の森山道壯現社長は、興銀による再度の債権放棄合意、"発祥の地"・長崎オランダ村の閉鎖、従業員400人の削減などを柱として、経営再建計画に修正を加えた。
 さらに、不動産の売却を急ぎ、売上高や入場者が減少しても動じない経営基盤強化を図ることで、経営計画の最終年度、平成16年(2004)の黒字定着を目指すと、その決意を発表したのである。(なお、西彼町は閉鎖後の長崎オランダ村用地の購入に合意している。)

(4)不動産のディスカウント、JRAへの賃貸

 森山の行動は早かった。リゾートシティ・ハウステンボスの象徴だが、現実には半数以上が売れ残っていた、高級分譲別荘「ワッセナー」を約半値程度にディスカウント、平成13年(2001)11月には初めて外部と販売提携を行い、反響を回復した。そして翌平成14年(2002)の開業10周年へ向けて、広告宣伝、イベントや施設増強を実施。
 さらに北側の一角に、日本中央競馬会(JRA)の場外馬券売り場(約1万2700平方メートルの敷地に鉄筋コンクリート4階建)に土地を賃貸する計画である。建築はハウステンボスの街並みに合った外観で、中はレースを中継する大スクリーン、バルコニー席など計約1800席などを設けるという。これも収益強化の一環のようである。

(5)不変の「エコロジーとエコノミーの共存」

 神近がハウステンボスを去った平成12年(2000)、負債総額は2,400億円と伝えられた。一部では夢のまちづくりに必要として当初の事業費は4,000億円とも言われている。平成4年(1992)年のオープンから、バブルの崩壊そして長期経済停滞などの逆風は、本誌の特集にあるようシーガイアをはじめポルトヨーロッパ、チボリ公園そして首都圏に近く立地に恵まれているはずの集客施設までそのありようを変えてしまった。そうした状況で、法的再生を回避できるまでの神近の経営努力は評価すべきであろう。そして、彼は夢の舞台を私小説に収斂させることなく、土地の民話としてすべての生活者に開放したのである。
 この数年、"例によって"「過大な投資」「楽観的すぎた需要予測」「過大な設備投資」が経営の不調を呼んだとする批判が続いてきた。しかしである。ハウステンボスは今日も街としてちゃんと生きている。神近の本来の意図はうまく伝わらなかったが、決して「夢物語」に終わっていない。なかでも、環境保全というグローバルな価値はいち早く導入され、今後の都市づくりの模範となるまでにその成果が表れているのだ。
 一個人の夢の解釈から、伝承そして創造へ。創業者が去り、新たな体制となっても、「千年都市」を目指した都市コンセプトの「エコロジーとエコノミーの共存」には変わりがない(既にそうした街として胎動している)。しかし都市の生活ではエコノミーが欠けると暮らしができない。そこで、この部分の強化=観光リゾートサービスのリニューアルが今回の新しい施策の主眼なのである。
 
*たいへん失礼とは存じますが、敬称を略させて頂きました。


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