1958年、東京の下町で一人の少女が殺された。犯人は同じ高校に通う李珍宇という少年だった。李は、彼女を殺した後、報道各社に自分の犯行を告白する挑発的な電話をかけている。事件の猟奇性といい、自らがメディアに登場する「劇場犯罪」的性格といい、酒鬼薔薇事件の先駆的事件ともいえるだろう。
李はとても頭のいい少年だった。くりかえし盗みを働いていたが、盗品のなかには世界文学全集もあり、それらをすべて彼は読破していた。もちろんドストエフスキーの『罪と罰』も読んでいた。彼はラスコリニコフ的殺人者だった。在日のコミュニティからも差別されていた悲惨なまでの貧しさに耐えながら、自分の凶行を正当化する理屈を、そのよい頭と読書から得られた膨大な知識を駆使してこねあげていたのである。
永山は逮捕されてから知に目覚める。差し入れてもらった辞書を頭から暗記して、その後モーレツな読書にふける。彼に決定的な影響を与えたのはヘーゲルとマルクスであった。獄中で彼は『無知の涙』という本を書く。貧しさと無知の故に自分は凶行を重ねた。それがこの本の内容であり、永山の法廷闘争を貫ぬく論理ともなった。彼はいわば「後づけ」のラスコリニコフだったのである。
団塊の世代に属する永山の主張は、戦後日本の歩みを正当化しているように思う。貧しさが永山のような人間を生んだのだとすれば、貧困を根絶した高度経済成長は礼賛されなければならないだろう。「無知の故に」罪を重ねた永山は猛烈な勉学を獄中で重ね、有力な文学賞を受ける「作家先生」になった。永山のこの「出世」の過程は、身につけた知識の量によって社会的ポジションが決定されるという、学歴社会のグロテスクな戯画のように思える。
無知の故に自分は罪を重ねたと永山はいう。しかし、かの博識なるラスコリニコフは老婆殺しという大罪を犯した。その彼を改悛させたのは、無知なるソーニャだったのではなかったか。この点で永山則夫は大きな間違いを犯している。表面的に永山は自分の犯した罪を悔悟しているかのような発言を重ねていた。しかし、彼はマルクス主義で理論武装することで自分の殺人を「階級闘争」にすりかえてしまった。
永山は死刑執行に対して「徹底的に闘う」と宣言していた。ことばのとおり死刑執行に抗った彼の遺体は、傷だらけであったという。暴行の痕跡を隠滅するためであろう。永山の遺体はすぐに荼毘に付された。永山という男は、自分の犯した罪を深く悔いながらではなく、階級闘争の最前線で英雄的な死をとげる選ばれし者としての陶酔感を味わいながら、天に昇っていったのだとぼくは思う。
李はとても頭のいい少年だった。くりかえし盗みを働いていたが、盗品のなかには世界文学全集もあり、それらをすべて彼は読破していた。もちろんドストエフスキーの『罪と罰』も読んでいた。彼はラスコリニコフ的殺人者だった。在日のコミュニティからも差別されていた悲惨なまでの貧しさに耐えながら、自分の凶行を正当化する理屈を、そのよい頭と読書から得られた膨大な知識を駆使してこねあげていたのである。
永山は逮捕されてから知に目覚める。差し入れてもらった辞書を頭から暗記して、その後モーレツな読書にふける。彼に決定的な影響を与えたのはヘーゲルとマルクスであった。獄中で彼は『無知の涙』という本を書く。貧しさと無知の故に自分は凶行を重ねた。それがこの本の内容であり、永山の法廷闘争を貫ぬく論理ともなった。彼はいわば「後づけ」のラスコリニコフだったのである。
団塊の世代に属する永山の主張は、戦後日本の歩みを正当化しているように思う。貧しさが永山のような人間を生んだのだとすれば、貧困を根絶した高度経済成長は礼賛されなければならないだろう。「無知の故に」罪を重ねた永山は猛烈な勉学を獄中で重ね、有力な文学賞を受ける「作家先生」になった。永山のこの「出世」の過程は、身につけた知識の量によって社会的ポジションが決定されるという、学歴社会のグロテスクな戯画のように思える。
無知の故に自分は罪を重ねたと永山はいう。しかし、かの博識なるラスコリニコフは老婆殺しという大罪を犯した。その彼を改悛させたのは、無知なるソーニャだったのではなかったか。この点で永山則夫は大きな間違いを犯している。表面的に永山は自分の犯した罪を悔悟しているかのような発言を重ねていた。しかし、彼はマルクス主義で理論武装することで自分の殺人を「階級闘争」にすりかえてしまった。
永山は死刑執行に対して「徹底的に闘う」と宣言していた。ことばのとおり死刑執行に抗った彼の遺体は、傷だらけであったという。暴行の痕跡を隠滅するためであろう。永山の遺体はすぐに荼毘に付された。永山という男は、自分の犯した罪を深く悔いながらではなく、階級闘争の最前線で英雄的な死をとげる選ばれし者としての陶酔感を味わいながら、天に昇っていったのだとぼくは思う。
こういった種類の哲学書が影響を与えるというのは不思議ですね。(ニーチェとかならば、まだ理解できるのだが)。とくにマルクスというのは不可解です。常識的に言えば文学書か宗教書に感銘するはずです。
なるほど、そういうことでしたか。ヘーゲルやマルクスを本当に読んで感銘をうけるはずなどはありえない、誰かの解説書を読んだだけにちがいないとは思っていましたが。しかし、哲学や思想の受容なんてのは、大半がこういうものではないでしょうか。ちなみにもっとも劣悪な事例は、私見では大塚久雄(もしかすると、大塚=福沢諭吉という組み合わせが面白いかも)の「ロビンソン的人間類型」です。ロビンソンは、あれやこれやと悩む優柔不断というか思索好きというか複雑な人間であり、同時に冒険好きな奴隷商人なのです。ところが、ペテン師大塚はデタラメな説を流布し、多くの馬鹿な人文社会専攻さらには英文学専攻の人間が騙されてしまったのです。
大塚の「社会科学における人間」は読んでいないんですが、彼の説はマルクスが「資本論」の中でロビンソンについて言っていることの受け売りではないでしょうか。つまり孤島のロビンソンは自助努力で明るい未来を築く近代の小生産者の象徴であるという。とにかく昔のこの国ではマルクスは近代の全てが分かるアンチョコとして神棚に上がっていたのです。しかしデフォー自身は内面的な要素の濃い一種のノンフィクションを書いたつもりだったみたいですね。一度原書をネットで「ダウンロードして読んでみようと思います。
あの事件の当時、『すべての犯罪は革命的である』という本がベストセラーになっていました。そういう風潮と永山の勘違いには大きな関係があると思います。
それからどう考えたって、あの頭の悪そうな教育なんたら会議のチェンチェイがヘーゲルなんて読んでいませんって。成り上がったてめえの高い社会的ポジションを正当化するために、ヘーゲルなんかをもちだしたのではないのかにゃあ。
ヤンキーチェンチェイとヘーゲルの関係を知ったのはNHKの平日朝11時台に関東ローカルでやっている不思議な番組でした。年末にたまたまそこにチャンネルをあわせたら、三波春夫の特集をやっていた。三波春夫を森村某という推理小説家が全身全霊で絶賛していて不思議なオーラを感じました。あまり人のみていない時間帯のNHKの番組には端倪すべからざるものがあると思いました。
三波春夫はシベリア抑留の時に、共産主義に洗脳されて終生マルキストであったという話は本当でしょうか。でも彼の学識とパワーなら資本論ぐらいはよんでいたのではないかとも思いますが。
さて永山ですが、要するにある種のセクトというかカルトに洗脳されてしまったと言うことですよね。しかし、日本の大学生・大学院生・大学教授を見ていると、実はそれがごく普通の入信プロセスであると・・・。(サイードの件で再び実感しました。英文学と英文学批評を読まないでサイードを受容するなんて最悪ですが、「入信」するのに必要はないようです)。
実はちょっと興味があって、子供時代に見た記憶のある「妖怪百物語」をDVDで借りました。その中で噺家の約をやっていたのは本当の噺家である林家正蔵ということになっていました。Wikiで調べてみると、どうやら共産党の熱烈な支持者だったそうです。しかし、イデオロギーというよりは反官贔屓だったそうな。(ちなみに当時の若い女優は坪内ミキ子でした。この人の若い姿初めて見たように思った!もっとも子供時代には見ていたのですが。ちなみに、この早大英文科出身の女優さんですが、おじいさんはかの有名な坪内逍遙じゃあありませんか)。
なるほど。古きよき時代というべきでしょう。今日日義狭心で動く人などほとんどいませんから。
林家正蔵(彦六)さんは、部落問題などへの関心も強く、民間研究団体の支援もしてました。
正蔵さんがあるときNHKテレビの女性アナウンサーの質問に答えているのを見て、噴き出したことがあります。
正蔵:芸人ってーのは貧乏を我慢しなきゃならないことがあります。
女子アナ:やはり、貧乏をすることで芸に磨きがかかるのでしょうか?
正蔵:そりゃーあなた、金にならないからですよ。
女子アナ:やはり、貧乏をすることで芸に磨きがかかるのでしょうか?
正蔵:そりゃーあなた、金にならないからですよ。
なんかシュールなやりとりですね。落語家というのは面白いなあ。