ソルジェーニツイン「イワン・デニソビッチの一日」
スターリン時代を告発――だがその限界も明らか
1983年4月17日「火花」第586号


 スターリンの時代には、「収容所」はソ連社会の“普通”の“ありふれた”いわば生産様式であり、生活様式であり、要するに社会そのものであった。それは、もう一つの普通の生活である市民社会に比べるなら、ほとんど奴隷制社会――資本主義がその揺藍期に奴隷制を否定しなかったのは周知のことである――と言いうるものであったにしても、数百万、数千万の囚人が、大した罪もないのに十年も二十年も収容所にぶちこまれ、全く劣悪な諸条件の下で労働を強要され、生活しながらえてきたのである。
 『イワン・デニソピッチの一日』は、まさに囚人たちの生活と労働と毎日毎日、瞬間瞬間の生活感情を、普通の社会、どの人間もそこで生きている社会のものとして、すなわち収容所をソ連の普遍的な生活として、淡々と描いたものである。囚人たちは、普通の市民社会における労働者たちのように自分たちがなぜ囚人であるかということには即自的にどんな疑問も抱かない。毎日が平々凡々――整列が遅かったために殴られたとか、看守がいつもの人間でなかったために身体検査が長びいたとか、思いがけず煙草の一服にありつけたといったエピソードはあるにしても――と大過なく過ぎていき、十年、二十年の“年季奉公”が終れば――終るまで生きながらえることができれば!――またもう一つの生活に帰っていくのである。
 「眠りに落ちるとき、シューホフは満足しきっていた。今日は、いろんなことがうまくいった。営倉には入れられなかったし、104班は『社会主義生活本部』へやられなかったし、昼めしの雑炊を一杯ちょろまかしたし、班長は有利なノルマ査定を決めてきたし、シューホフの煉互積みは快調だったし、鋸のかけらは身体検査のとき見つからなかったし、晩方シーザーのおこぼれにあずかったし、タバコは買ったし。それと、病気はどうやら直ったようだし。/一日が過ぎさった。どこといって陰気なところのない、ほとんど倖せな一日が。/起床から消燈まで、これとそっくりの日が、この男の刑期中には、3653日あった。余分の3日は、閏年のせいである………。」
 営倉とか刑期ということばがなければ、これはほとんど、普通の労働者の生活と変わりがない。ただ家族はいないし、手紙も書けない、だが寮生活をしていると思えばそれも不自然ではない。
 イワン・デニソピッチ・シューホフは元兵士の農民で、無実の罪――独ソ戦で捕虜になったがドイツの収容所から脱走し、そのために(ドイツの収容所からは普通は脱走できるわけがないというので)スパイの嫌疑を受けた――で十年の刑(1941年から51年までの)を宣告されたのである。だが後には悲惨なところも英雄的なところも、全くみられない。
 悲惨さは収容所があたりまえのものとして受け入れられていたという点、それがソ連社会の必要不可欠な環となっており、“正常な”生活となっていたという点にある。ソルジェーニツィンはシューホフの朝目覚めてから夜床につくまでの一日の生活を克明に執拗にかつ典型的に描くことで、スターリン時代を鋭く告発――ソルジェーニツィン自身、収容所を経験している――したのである。実際、スターリンは国家資本主義を囚人労働の大量動員によって実現し、確立しえたといっても過言ではない。また、そのために、人口の三分の一といわれるほどに、続々と囚人を作り出し、収容所へ送り、エ場や農場や鉄道や運河を建設したのである。
 この小説は、ソルジェーニツィンの処女作である。だがそのテーマ、すなわち収容所こそ「共産主義」=ソ連社会の本質であるということは彼の全問題意識であるといってよく、それは後の『収容所列島』等においても反映されている。
 しかし彼は、スターリン時代を社会主義・共産主義社会そのものと完全に見誤っており、そのために、スターリン主義的非人間主義はマルクス・レーニン主義に内在していた云々のブルジョア的俗見と同じ立場に立っている。そこで、彼はメドヴェージェフやサハロフらのインテリ的、小市民的人間主義――各々で多少の色合いの違いはあれ――を一度たりとも超えることがなかったのである。
 とはいえ、こうした事情はこの小説の価値、すなわち、ほぼ同時期に出たエレンブルグの『雪どけ』などと並んで、スターリン時代の最初の告発だったということを否定するものではない。その意味でこの小説は、ソ連の“反体制派”の最初ののろしになったのである。(Y)