はじめに
本章で扱う中世という時代に関しては、以下で述べるような個々の具体的な事象をめぐる問題とは別に、その時代区分をはじめとして、あらかじめ立場を明確にしておかなけれぼたらない点がある。 そこで本論に入るに先
立ち、必要と思われる一、二の点について若干述べておこう。
まずは、前章で述べたことでもあるが、関係史料についてである。 この時代になると、『吾妻鏡(あづまかがみ)』のような記録や日記類などのほかに、古文書として現代に伝わっているものが少なくない。 量的には近世文書にはるかに及
ぼないにしても、それによって多くの歴史的な事実が明らかにされていることは周知のとおりである。 しかし、
当町関係の史料となると、単に絶対量が少ないというにとどまらず、内容的にも断片的であり、しかも歴史的に
信頼できるものはきわめて限られている。 そのため、以下の叙述も一般的にならざるをえない部分が少たくないだろう。 このほか、民間伝承もあるが、それについての考え方は前章で述べたとおりである。
次に、時代区分にかかわる問題がある。 一般には、12世紀末に始まる鎌倉時代から、室町・安土桃山両時代
を経て、17世紀初頭の江戸時代の開幕直前までの約400年間を中世とみなしている。 これは基本的にはいまだ有効性を失っていないが、近年の日本史研究の進展ともあいまって、異なった考え方も示されている。
まず、通常は鎌倉幕府の成立を中世の始まりとみなしているが、それを平安時代の末期にあたる12世紀前半代にまでさかのぽらせる考え方もある。 年表的な指標こそ提示できないが、その理由は前章でも述べたような武士の登場を杜会構造の変化としてとらえる点から説明される。 次に、これまで一四世紀以降の室町幕府が存続し
た約二四〇年間をそのまま室町時代とみなす考え方に対し、その初期を南北朝時代とし、15・6世紀を室町時代とする考え方とが併存していた。 しかし現在では後者がほぽ定着し、さらに室町時代後半の争乱期を戦国時代
として独立的に扱うようにもなっている。 そして第三には、安土桃山時代には織豊政権のもとて戦国時代に終止符が打たれ、天下が統一されたことから、これを近世の最初期とする見解もある。
このように、時代区分にはいろいろな問題があり、その当否をにわかに判断することはできない。 以下では、
これらの点を考慮しながら、中世の当町について見ていくことにしよう。
平氏政権の成立 中世の時代的なイメージとしては戦いに明け暮れる荒々しい武士の姿が連想されるが、まさにそ
の成立の通りであり、彼らはいろいろな場面で主役を勤めた。 武家政権といえぼ、鎌倉幕府をもって嚆矢とみなすのが一般的な理解であるが、武士が政権の座についたという点では平氏政権がこれに先行する。 鎌倉幕府の成立前夜という意味で、ここではそれについて見ておくことから始めよう。
さて前章でも述べたように、平治の乱の結果、源氏の勢カは急激に衰退し、一方の平清盛は武家の棟梁として
の地位を不動のものとした。 その後も後白河上皇の信任を得て順調に勢力を伸ばし、仁安二年(267)には太政大臣に任命され、平氏政権を樹立した。 ついで女(むすめ)の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、一門もこぞって公卿や殿上人となり、全盛時代を迎えた。 この過程は摂関政治と同じであり、形態的にもほとんど差異がなかったように、それ白体の古代的な性格は否定できないし、その点では新しい政治形態としての武家政権とはみなしがたい。 しかしそれまでの摂関家とは異なり、武力をその存立基盤とし、一門で30余国の知行国主を占め、積極
的な対外貿易によって経済的な基盤を固めていた。 また地方の武士を統制・組織化するため、家人を荘園などの地頭として補任・配置しようとしたように、それは来るべき武家政権への道を開くものであった。
さきに清盛はみずから望んで大宰大弐となり、仁安元年(1166)には弟の頼盛が大弐に任命され、現地に赴任した。 当時は大弐の赴任がほとんどなかったので、世間を驚かせたという。 こうして大宰府機構を掌握し、東国の源氏に対して西国の平氏といわれるように、平氏は主として西国にその軍事的・経済的な基盤を築き上げた。 そのほか、九州の半分以上を一門の知行国となしていたことなど、その要因としてはいろいろな点を指摘で
きるが、いわゆる日宋貿易を重視し、その利益独占を図ろうとしていた点も看過すべきでたい。
それとともに、九州ではその与党化政策が積極的に進められた。 九州における二大荘園領主であった宇佐八幡宮や安楽寺(太宰府天満宮)をはじめ、原田氏や山鹿氏に代表される府官系の有力な武士の多くが臣従し、家人と
なった。 後述のように、原田氏は大蔵氏の嫡流で、秋月氏もその一族であるが、原田種直は管内に3700町に
も及ぶ所領を有し、2000余騎の軍士を動員できる実力を備えていたという。 養和元年(1181)に彼は大宰に権少弐(ごんのしよう)に任命されたが、これは仁安元年の宇佐大宮司公通の権少弐任命とともに、稀有のことであった。 後に都落ちした平氏は九州をめざすが、その背景にはこのような事情があったのであろう。
このような歴史の大きな流れの中で、夜須地方がどのようた状況であったのかも問題になるが、それを直接にうかがわせるような史料は見られない。 周辺地域が圧倒的な平氏の与党勢力で固められていたことからすれば、個々の意志にはかかわらず、そのような雰囲気に支配されていただろうことは推察にかたくない。 その間にあっ
てしかるべき人物が見られないことは、与党にしても、また反対勢力にしても、それほど有力な武士が存在しなかったことを示すものであろう。 とはいっても、そのような治乱興亡とはかかわりなく、歴史にこそその名を残
さなかったものの、当時の庶民が懸命に生きていたことを忘れるべきでない。
源平の争乱
『平家物語』によれば、平氏は「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」とさえ豪語し、栄華を誇っていた。 しかし、このような平氏の専横に対して、治承元年(1177)6月の後白河法皇の近臣による鹿ケ谷事件に見られるように、京都においては反平氏の機運が芽生えていた。 また地方においても個々の規模はさほど大きくはなかったが、在地豪族の古代国家に対する反乱事件が頻発するようになった。 同四年には平氏追討を命じた以仁王(もちひ)の令旨(りょうじ)が発せられ、源頼朝の挙兵を機に反平氏的な動きは急速に盛り上がっ
た。 やがて治承の内乱とも呼ぼれる全国的な争乱に発展し、平氏の討伐軍が敗退を余儀なくされている状況の中で、養和元年(1181)に清盛は熱病のため64歳の生涯に幕を閉じた。 このような状況は九州でも例外ではなく、平治元年(1159)には肥前の日向通良の乱、応保二年(1161)
ごろには薩摩・大隅における阿多忠景の乱などが発生し、その情勢にも大きな変化が生じていた。 特に古代国家の九州統治機関である大宰府は平氏の九州支配の拠点であるだけに、在地勢力の反抗の対象となった。 肥後を本拠とする菊池隆直の反乱あるいは宇佐公通に対する豊後の緒方惟義の反抗など、治承四年以降のいわゆる養和の内乱は足かけ三年にも及んだ。 後世の史書はこれらを頼朝の下知に応じたものとしているが、そのような形跡は認められず、九州では圧倒的な優位にたつ平氏勢力に対する彼ら独自の反対行動であり、実際の発端は頼朝よりも早いともいわれている。 史書では誇張されている部分が少なくないが、これらの九州における小さな行動が全国的な内乱状況の中に吸収されるのは自然の成り行きであった。
隆直の大宰府攻撃は間もなく京都にも伝えられ、そのころ右大臣であった九条兼実の日記『玉葉(ぎよくよう)』によれぼ、鎮西の謀反人は日ごとに勢力を増してその勢数万にも及び、大宰府を焼き払ったとか、張本人は16名である、などと噂されたという。 これに対して、平氏は追討使を派遣しようとしたが、関東では頼朝が態勢を固めつつあり、それへの対応に追われていたこともあって、結局は実現しなかった。 この間に緒方惟義の大宰府攻撃という情報も伝えられたが、これ自体は誤報であったようである。 ともあれ、平氏にとって、関東情勢はきわめて深刻であったが、一方の九州では与党勢力が優位を占めているという判断もあり、前述のような原田種直を大宰権少弐に任命し、ことにあたらせることによって対応できると考えていたのであろう。
このような曲折を経て隆直追討の宣旨が出され、現地では種直らがそれにあたったが、追討使に任命された平貞能が筑紫に到着したのはそれから半年以上も遅れた年末近くであったようである。 この間についての史料は錯綜しているので、彼らの具体的な行動や情勢の推移には明らかでない部分もあるが、寿永二年(1183)六月に
貞能が種直や隆直らをともなって帰洛しているので、この年の前半には鎮西の混乱も一応は収拾されたのであろう。 なお、菊池氏の本拠は肥後国の菊池地方であるから、大宰府への進攻に際しては筑後を縦貫し、当地方をかすめながら北上するルートが考えられ、当地方が直接の戦場になったかどうかはともかく、少なからぬ影響をうけただろうことは推察にかたくない。 また豊後の緒方惟義の大宰府攻撃は結局のところ風聞にすぎなかったようであるが、前章でも述べたように、当地方は豊後から大宰府に至るコース上に位置し、戦場になる可能性は少なかったにしても、軍勢の通過などは予想され、それなりに緊張しただろう。
九州における反平氏的な動きも一時的には活発な展開を示したが、全国的な反平氏運動と連動するまでには至らず、結局は鎮圧された。 しかし、全国的に見れぼ、頼朝と義仲の不和をはじめ、それぞれの思惑の相違も次第に明らかになりつつあった。 このように、源氏の内部が必ずしも一致団結しているわけではたかったが、このこ
ろまでに源平両氏の対決という基本的な構図はほぼでき上がっていた。
この直後の寿永二年七月には木曽義仲の軍勢が京都に迫ったため、平氏は都落ちを余儀なくされ、安徳天皇や神器などを奉じて西海に向かった。 後白河法皇は義仲に平氏追討の院宣を下し、平氏一門の官位を奪うなどの処分を行った。 約一か月後に平氏は大宰府に着き、これには原田種直や菊池隆直など九州の武士も多く従っていたが、隆直は間もなく肥後に帰り、本域に引き籠ってしまったともいわれ、その行動は必ずしも明らかでない。 ともあれ、平氏は一時のやすらぎを得て、安楽寺に詣でて連歌を楽しむなどのこともあったが、九州の武士の多くは召しを受けても参向せず、ここでも平氏の孤立が明らかになった。 十月になると、豊後の緒方惟義が大宰府を攻めたため、平氏は大宰府を逃れて豊前の宇佐大官司の館に移り、さらに讃岐の屋島に移った。
この間には後白河法皇と源氏との政治的た駆け引きもあり、また源氏の内証の中で翌元暦元年正月には義仲が敗死した。 その直後、頼朝に対して平氏追討の宣旨(せんじ)が下された。 平氏は一の谷の合戦で敗れ、つづく文治元年(1185)二月の屋島の合戦を経て、九州を再起の拠り所にしようとしたが、有力な家人である原田種直は豊後で範頼軍に敗れ、三月の壇ノ浦の合戦には完敗し、族減した。 この合戦で山鹿秀遠や松浦党など九州の武士は平氏方の先陣として勇戦したが、劣勢をくつがえすことはできず、平氏と命運をともにした。 戦後、安楽寺別当安能が平氏のために祈藤したという風聞によって糾明されたように、平氏与党は頼朝のきびしい追及を受け、原田氏などの広大な所領は平家没官(もつかん)領として没収された。 その跡には武藤氏や大友氏など東国の武士が送り込まれ、九州の支配体制は彼ら西遷御家人のもとで再編されることになる。
鎌倉幕府の成立と北九州 いわゆる鎌倉幕府の成立時期については諸説があり、必ずしも一定しているわけではない。 頼朝は挙兵後間もなく鎌倉を根拠地とし、政務機関の整備や権限の拡大を図るなど、政権の確立にっとめていたが、建久三年(1192)七月には征夷大将軍に任命され、ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。 次に、その過程における北九州の状況について簡単に見ておこう。
これよりさきの寿永三年三月、頼朝は鎮西九国住人に対して早く御家人となり、本領安堵を受けて平氏を討つように呼びかけた。 またその年末から翌年正月にかけても、総指揮官である弟の範頼には九州の武士への慎重な対応を指示するとともに、武士には御家人となり、範頼の下知に従って平氏を追討せよと命じた。これらが平氏との対決を有利に運ぽうとする意図から行われたものであることはいうまでもたいが、九州が平氏の勢力基盤であることをふまえ、武士の懐柔を図るとともに、戦後の九州支配についても考慮していたことを示している。
文治元年四月、頼朝は義経に上洛を命じ、範頼には九州のことを沙汰せしめた。 これは行政全般を委ねたものではなく、戦後処理ともいうべきものであった。 平氏与党の追捕や平家没官領の処分などとともに、在地武士の本領安堵を通してその御家人化を目的とし、一部では進んだようであるが、容易ではなかった。
平氏追討の過程で兵糧米を徴収したこととも無関係ではたいだろうが、そのころこれにかこつけた荘園や公領に対する武士の押領が各地で頻発していた。 同年七月には武士の狼藉停止などのため中原久経と近藤国平の二人が「源卿使」として九州に下され、範頼には平家没官領や原田種直らの所領に沙汰人を差し置き、帰洛すること
が命ぜられた。 これを受げて、後白河院庁は大宰府や管内諾国の在庁官人に下文を発し、二人の下知に従って武士の濫妨(らんぼう)を停止すべきことを命じた。 両使の任務はそれに限られ、在地武士の本領安堵などそれ以上の権隈は認められていなかったが、武士がからんだ問題とはいえ、その解決を頼朝に依存しなけれぼならなかった点は注目されるし、これとともに戦後処理は新しい段階に入ったといえるだろう。
従来、同年十一月のいわゆる守護・地頭の設置については、公然と反抗した義経などの追捕を理由として国ごとに守護を、また荘園や公領ごとに地頭を置いた、と解されていた。 しかし、近年の研究成果によると、このときは西国一帯に、段別五升の兵糧米徴収権、田地の知行権さらには荘郷地頭に対する支配権など、広範な権限をもつ国地頭を国ごとに設置したものとみなされている。 つまり「諾国守護地頭」は「諾国を守護する地頭」とい
う意味で、この守護はいまだ職名ではなかった、というのである。
この文治の勅許によって、九州には伊豆国の有力御家人である天野遠景が派遺され、大宰府機構を統轄して強力な支配を進めた。 翌年六月にこの国地頭は廃止され、その後は次第に守護・地頭制が展開していった。 遠景は引きつづき鎮西奉行にとどまったが、九州は帥中納言藤原経房の管轄とされていたので、その権限は軍事面に限られたのであろう。 しかし彼は建久六年(1195)ごろまでに召還され、後任には武藤資頼と中原親能があてられた。 同八年に九州各国にも御家人を統率し、大番催促・謀反人や殺害人の追捕(ついぶ)など、いわゆる大犯三箇条の権限をもっ守護が置かれ、資頼が筑前などの三前諸国と壱岐・対馬両島の守護、また大友(中原)氏が筑後など三後諸国、島津氏が薩摩など奥三州の守護に補任された。 これら三氏は九州三人衆と呼ぱれ、その子孫は戦国時代にかけておおいに活躍する。 なかでも武藤氏は鎮西奉行や大宰少弐を兼ねて枢要た地位を占め、子孫は少弐の地位を世襲して少弐氏を名乗るが、同氏の活動については後に触れよう。
秋月氏の登場
さて、前に為れたように、中世の当地方に密接なかかわりもつのが秋月氏である。 もちろん秋月氏だけが歴史を担ったわけではないが、重要な役割を果たしたことは事実であるので、中世の当地方を代表するという意味で、次にその登場について簡単に見てみよう。
秋月氏の本姓は大蔵氏であるが、その祖である春実が10世紀中葉の藤原純友の乱の際にその追討使の主典として追捕にあたって以来、大蔵氏は大宰府と関係をもつようになった。 その世紀末ごろから大宰府の府官の武士化が顕著になるが、大蔵氏も同じような道をたどり、11世紀初頭には春実の孫という種材が入冠した刀伊の撃退に活躍したように、やがて大蔵氏は代表的た武士に成長した。 ところが、その嫡流である原田種直は前述のような勢力を誇ったが、平氏の家人となっていたため、源平争乱の過程で没落した。 秋月氏の初代とされる種雄はこの種直の弟とも子ともいわれ、その秋月入部にっいては次のように伝えられている。
建久十年正月に頼朝が没し、その年末にはかねてからその言動によって御家人の反感をかっていた梶原景時が失脚し、翌正治二年(1200)正月に討たれた。 二代将軍頼家に将軍の廃立計画のあることを告げたが、それは彼の讒言であることが判明したためという。 武田有義も景時と結んで上洛し、鎮西の武士を味方にして将軍にと
ってかわろうとしたという理由で、弟の伊沢信光に討たれた。 現北九州市八幡西区香月を本拠とした勝木則宗がこれに連座して所領を没収されたように、九州にも景時に呼応しようとした勢力があったのであろう。
原田種雄はそのような九州の急を鎌倉に告げ、その功によって建仁三年(1203)に秋月荘が与えられ、やがてその荘名をもってみずからの氏名にしたという。 これについては裏付けとなる確実な史料が見られるわけではなく、また『秋月家譜』の主張であるだげに、多分に祖先顕彰的な側面も見られるが、当時の状況などからして、おおよそ信じてよいのではたいかと考えられる。 特に彼が原田一族であることからすれば、本領安堵や所領充行(あてが)いは一族の者に優先的になされるのが一般的な傾向であったから、彼の場合も御家人とない、それを機会に没官領として没収されていた本領に還補されたのではないだろうか。
秋月氏のように、新たに御家人となった在地武士層は国御家人あるいは鎮西御家人と称され、武藤氏などのように、関東から送り込まれた武士は下り衆ないし西遷御家人と呼ぼれた。 彼らの配置を見れぼ、幕府が東国系御家人による在地系御家人の監督・統制という体制を意図していたことは明らかで、ここにも九州が平氏の勢力基盤であったことの影響がうかがわれ、東国系御家人は幕府の権威を背景に優位を占めていた。
執権政治の確立
さきに秋月種雄が秋月荘を与えられたと述べたが、その領有権が認められたわけではない。 前述のように、平安時代の同荘は筥崎宮塔院領であったが、治安四年(1024)に同院は宇佐弥勒寺喜多院の元命に委ねられ、法華三昧(ほつげざんまい)もその門徒が師資相承して勤仕することにされたので、これにともなって同荘も弥勒寺領となったのであろう。 その後、弥勒寺は石清水八幡宮の支配下に入り、承久二年(1220)にその検校祐清が所領荘園を縁者に譲与した際、秋月依井荘は田中女房に譲られたが、同荘はこのときも、また仁治三年(1142)にも弥勒寺領として見える。 依井荘の位置は三輪町依井付近に比定されるが、両荘は比較的近くに位置し、同じ弥勒寺領でもあり、一体視されることが多かったのであろう。 このほか、夜須郡内には前代以来の鰭野荘も存在したと考えられ、その所領が集中していたようである。 しかし、同年を最後に弥勒寺領依井荘の名は見えず、間もなく秋月・依井両荘は秋月氏に押領されたのであろう。
彼はこのような秋月荘の現地管理の責任者である荘官となり、たとえぼ、それにともなう権益である下司職などが与えられたことを意味している。 ともあれ、彼が御家人となり、秋月荘に入部した経緯は以上のように考えられるが、その後の具体的な事跡は明らかでない。 当時の国御家人のあり方からして、彼の勢力圏は秋月荘を中心とし、せい普い弥勒寺領に限られ、当町などの夜須西郷には及んでいなかっただろう。 甘木・朝倉地方では秋月氏以外の御家人は知られていないが、たまたま歴史にその名を残さたかっただけで、同氏以外にも御家人が存在したかもしれない。 これも十分に想定できる可能性ではあるが、史料的な根拠がない以上、これを強調することは妥当でない。 武士のすべてが御家人になったわけではなく、非御家人と呼ぼれる武士も多く存在し、さらには大多数の名もない庶民が存在していたことも看過すべきではないだろう。
頼朝の死後、頼家がその跡を継いだが、間もなくその親裁を止められ、宿老による「談合」政治を経て、その実権は尼将軍ともいわれた頼朝未亡人の政子や外戚である北条時政・義時父子の手に帰した。 元久元年(1204)に頼家が謀殺され、つづいて承久元年には実朝も暗殺され、源氏将軍は三代で減び、以後の将軍は京都から迎えられることになった。 同じころ、前述の梶原景時さらには畠山重忠や和田義盛などの有力御家人があいついで粛清され、義時が政所と侍所の両別当職を兼任し、権力を確立した。
こうして北条氏による執権政治が始まったが、京都では反幕運動が盛り上がりつつあった。 かねてから討幕の機会をうかがっていた後鳥羽上皇はこのような幕府内部の混乱を好機と判断したのであろうが、承久三年に西国の武士などに義時追討の院宣を発し、いわゆる承久の乱が勃発した。 ところが、東国武士は頼朝の恩義を説く政子や義時のもとに結集し、義時の子泰時が率いる10万の大軍は間もなく朝廷方を制圧した。 その結果、後鳥羽・順徳両上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に配流され、ついで土御門(つちみかど)上皇も土佐に移された。 泰時らは京都六波羅(ろくはら)に
とどまり、朝廷の監視など京都の警衛にあたるとともに、尾張(後には三河)以西関係の裁判を担当した。 やがてこれは六波羅探題と呼ばれ、鎌倉末期に鎮西探題が設置されるまで、九州関係の訴訟の裁判はここで行われた。
そのころ幕府草創期の実力者があいついで没し、御家人層にも世代交替が進んだ。 執権を補佐する連署や重要な政務を合議する評定衆の制度が設けられ、さらに貞永元年(1232)には守護・地頭の権限や御家人所領の保全など51か条からなる御成敗式目が制定され、執権政治は全盛期を迎えた。
文永の役
そのころ、アジア大陸では蒙古が東ヨーロッパまでを含む大帝国を築き、朝鮮半島の高麗もその支配下にあった。 1260年に即位した世祖フビライは日本征服を目指し、ここに日本では蒙古襲来あるいは元冠と呼ぼれる事件が二度にわたって発生する。
文永五年(1268)早々、フビラィの命を受けた高麗の使者が大宰府につき、軍事的な威嚇を背景に修交を求める蒙古の国書を届げた。 一八歳の青年執権時宗を中心とする幕府はこれを黙殺したが、讃岐などの御家人に蒙古襲来に対する防備を命じた。 翌六年には使者が対馬に来て国書を届げ、朝廷では通交を拒否する返牒を送ろうとしたが、幕府はそれを抑えた。 同八年には、八月に高麗の使者が高麗独自の牒状をもたらし、日本が招諭を拒否すれば、蒙古の襲来は避けがたいと警告し、つづいて九月には蒙古の使者が100余名の従者を率いて筑前今津(福岡市西区)に到着し、強硬に入貢を迫ったが、幕府はまたしてもそれを無視した。
こうして蒙古の襲来は必至の情勢となり、朝廷・幕府をあげて杜寺に熱烈た「敵国降伏」を祢願した。 幕府は鎮西に所領をもつ御家人に対し、本人あるいは代官が現地に下向して北九州の沿岸一帯の警固をはじめとする異国防禦にあたり、あわせて領内の反体制勢力である悪党を鎮圧するように命じた。 豊後国守護大友頼泰は任国の御家人を率いて筑前・肥前両国の要害を警固するように命ぜられているので、両国の守護である少弐資能にも同じ命令が出されたと考えられる。 これ以後、この二人は鎮西東奉行、同西奉行と呼ばれ、鎮西の御家人を指揮しく
て警備にあたるが、これがいわゆる異国警固番役(いこくけごぱんや)の開始であった。
文永十一年十月、高麗軍を含む三万数千の元軍(蒙古は1271年に国号を元に改めていた)は対馬・壱岐両島さらには平戸や鷹島を襲い、殺薮を重ねた後、博多湾に襲来した。 既にその情報は届いていたので、そこには九州の武士が集結していた。 翌朝未明から元軍は箱崎から百地原にかけての海岸に上陸し、各地で少弐資能の子景資をその日の大将とする日本軍と激しい戦闘を展開した。
有名な『蒙古襲来絵詞』で知られる肥後国御家人竹崎季長の従者がわずか五騎であったように、日本軍はいわゆる一族郎等からなるわずかな手勢を率いた個人を戦闘単位とし、いまだ組織的な編制になっていなかった。 元軍が銅鍵(どら)や太鼓の合図によって歩兵が前進や後退をする統制のとれた集団戦法に加え、鉄球に火薬を詰めて破裂させる「てっはう(鉄砲)」や毒矢などの新兵器を用いているのに対し、日本軍は名乗りをあげて突入する伝統的な個人戦法に頼っていた。 そのため次第に圧倒され、夕刻には大宰府に退却し、水城に拠って戦うことにした。 この間の戦闘によって博多や箱崎は火炎に包まれ、筥崎宮も焼亡した。
戦況は優勢であったが、元軍は日没とともに軍船に引き上げた。 終月の戦闘に疲れ、さらには副将が負傷したことも無関係ではないかもしれない。 ところが、翌朝になると、博多湾内に軍船の姿は見えなかったという。 おそらくは夜半に発生した暴風雨によって多くの軍船が遭難し、ついには撤退せざるをえなかったのであろう。 因みに、『高麗史』によれば、未帰還者は1万3000人以上にものぼったという。 かってこの風は「神風」と強調され、つい近年まで国難の際には必ずこれが吹くなどと喧伝されたことは記憶に新しいところであろう。 また、
この風は台風ともいわれていたが、季節的に見てそうではなく、冬口の玄界灘に多い季節風の強いものであったと考えられる。 また、元軍が大被害を受げたのは、直接には暴風雨によるにしても、その軍船は高麗が元の圧力のもとで強制的な突貫工事で建造したもので、粗雑な構造であったからだともいわれている。
異国警固と防塁築造
日本は元軍を撃減したわけではないが、軍事的には圧倒的に劣勢であったにもかかわらず、白然現象に助けられて、当面の危機から脱することができた。 その意味では、後世には悪用されたけれども、その後間もなく神風と評価する意識が芽生えた背景も理解できるだろう。 かかる元軍退去の報は間もなく京都や鎌倉にも伝えられたが、その間も朝廷や幕府ではそれたりの対応に追わ
れていた。 たとえば、亀山上皇は天皇陵や主な神杜に外敵退散を祈願し、福岡市東区に鎮座する営崎宮の楼門に
はその宸筆と伝えられる「敵国降伏」の額が掲げられている。 幕府は広範な動員を計画し、支配外にある本所領家一円地の住人といわれる非御家人をも含めた動員を行い、大友・島津両氏をはじめとする守護を九州に下向させた。 非常時にともなう措置とはいえ、これはそれまで不介入を原則としてきた範囲へ大きく踏み込んだものであった。 特に、非御家人への統率権も与えられたことによって九州における守護の権限は強化され、これは単に幕政の一段階を画するというにとどまらず、大きな影響を与えた。
一方、元は早くも日本再征の準備を進めていたし、翌建治元年には杜世忠を日本に派遣したが、幕府はこれを鎌倉竜ノロで斬首した。 これによって、元の再襲来は確実な情勢となり、戦時体制はさらに強化岩れた。 まず異国警固番役が定められ、御家人の重要な義務であった京都大番役を免除されるかわりに、春は筑前と肥後というように、九州の御家人は国ごとに守護の指揮のもとで輪番制の沿岸警備にあたることになった。 しかし、現存する番役覆勘状(ふつかんじよう)(勤務証明)によれば、必ずしも三か月で交替できたわげではないようであり、後には各国が年間を
通して番役につくようになった。 九州の御家人にとってこれはかなり重い負担であり、さらには後述のようた防塁の築造や保全にかかわる負担も課せられたので、これらはやがて彼らが窮乏する大きな要因となった。
この年末には元軍の基地である高麗に対する異国征伐が計画され、翌年四月ごろには進発する予定で、大将少弐経資は九州各国の守護に動員できる兵力やその算定規準となる所領内容などの注進を命じている。 肥後国の報告書の一部が現存しているが、それには御家人達の軍役負担をできるだけ避けたいとする意図がうかがわれる。
しかし、翌建治二年三月には博多湾の沿岸で防塁の築造が開始され、異国征伐とこれを同時に遂行することは不可能であったため、結局は異国征伐を中止し、防塁の築造を急ぐことになった。
当時の防塁は石築地と呼ばれ、西は今津から東は香椎に至るまでの延々二〇キロにも及ぶ海岸を国ごとに割り当て、非御家人などを含めた在地領主にその所領面積に応じて築造させた。 大隅国の例によると、所領一町に対して一尺の割合であったという。 筑前国の担当は博多地区で、秋月氏も動員されたことは確認できるが、それ以
上の具体的なことは明らかでない。 目標とされた八月までに完成させることはできなかったが、翌年にはすべて完成したようである。 そして各国の担当地域がそれぞれの武士の異国警固番役の勤務地となり、その補修は石築地役として室町時代初期まで続げられたが、それも同じであったといわれる。 前にも触れた『蒙古襲来絵詞』には防塁の上に座る武将の姿が描かれ、その様子をよく示している。 高さは2〜3m程度であるが、長く連なり、その上に楯を並べた景観を海上から見れば、それは一大域壁のように見えただろう。 現在では多くが崩壊
しているが、部分的に現存し、元冠防塁跡として国の史跡に指定されている。
弘安の役
南宋は長年にわたって日本と友好関係にあったが、1276年には元軍に首都臨安(りんあん)(杭州)を陥され、その三年後には完全に減亡した。 ここに元は日本遠征に南宋軍を動員できることになり、本格的な準備を進めた。 弘安二年(1279)に世祖は南宋の旧臣を日本に派遣し、入貢を迫ったが、幕府はこの使者を鎌倉にも送らず、博多で斬首した。 これは再襲来を覚悟し、あくまでもそれに低抗することの決意表明であった。 防塁をはじめとして防戦態勢を固め、非御家人を含む広範な人々が警固に動員された。 このようた態勢強化は九州だげでなく、山陰地方においても進められていた。
弘安四年五月、元は東路江南両軍をもって日本再征を開始した。 蒙古・高麗人を中心に四万人、九〇〇艘からなる東路軍は対馬・壱岐両島を襲い、壱岐島で江南軍と合流する計画を無視し、一部が長門方面に向かい、六月六日に主力は博多湾に襲来した。 しかし文永の役とは異なり、このころになると日本軍の指揮系統もかなり組
織化され、編制された戦闘を行いうるようになっていた。 元軍は防備の手薄な志賀島には上陸できたが、防塁に拠って防戦する日本軍に上陸を阻まれ、多くは湾内に仮泊せざるをえなかった。 日本軍は小舟に乗ってしきりに夜襲をかけ、いわゆるゲリラ的な戦法で元軍を悩ませたが、犠牲も少なくなかった。
『蒙古襲来絵詞』に「筑前国御家人あきつきの九郎たねむね(種宗)のひやうせん(兵船)」が描かれ、その舟には「関東御使かうたの五郎とをとしのての物」も同乗している。 つまり秋月種宗は幕府から派遣された軍奉行の合田五郎遠俊と行動をともにしており、活躍のほどがうかがわれる。 その舟を少弐経資などの兵船と比較すれぼ、見劣りがすることは否定できないが、すべての御家人が兵船をもちえたわげではない。 彼がどのようにして入手したかは明らかでないが、それなりの兵船をもっていることからすれぱ、秋月氏は既に有力な御家人に成長していたのであろう。 なお種宗の名は秋月系図に見えず、このころの秋月氏の棟梁である三郎種家と同一人物あるいは兄弟などとみなす説もあるが、詳細にっいては検討を要するので、ここでは紹介するにとどめる。
東路軍は船中に疫病も発生し、合流の予定日も近づいたので、いったん壱岐沖に退却し、江南軍の到着を待つことにした。 日本軍はしばしば海をわたって波状攻撃をかけ、東路軍もときどき沿岸を襲っていた。 江南軍は南宋人10万、3500艘からなり、予定からはかなり遅れて中国本土の寧波(にんぽう)を出発し、その間に作戦の変更などもあって、両軍は七月初旬にようやく平戸沖に集結しはじめた。 同月下旬、総勢14万、4000艘をこえる大軍が博多湾をめざして東進を開始し、日本軍の攻撃を撃退しながら、七月三十日には主力も肥前の鷹島に至ったが、その夜から大暴風雨となり、多くの軍船が風波に翻弄されて沈没し、数万の将兵が波にのまれた。おそらく大型台風が襲ったのであろうし、日本はまたしても自然現象に危機を救われた。 翌日から残敵に対して掃討戦を
展開し、溺死者も含め、元軍はその約四分の三を失ったという。 現在、志賀島などには蒙古塚が作られ、供養されているし、博多湾や唐津沖などではこのときの元船のものといわれる蒙古碇石が引き上げられ、さらに元軍は屯田軍となって日本を支配する計画であったのか、その鋤や鍬なども発見されている。
豪古襲来の影響
元軍が日本攻略に失敗した原因についてはいろいろいわれているが、ともあれ、日本は二度にわたる元寇の危機を脱することができた。 この合戦には全国の武士が馳せ参じたようにいわれることがあるが、それは誤りである。 実際に戦ったのは九州に所領をもっ武士だげであり、また戦場となったのも対馬.壱岐両島や北九州沿岸部の限られた地域であった。 われわれの郷土からも秋月氏が出陣したが、後世のようにそこは戦闘に巻き込まれたわけでないので、大多数の一般庶民にとってそれは遠い世界のことであったかもしれない。 その意味では直接的な影響こそ限定されていたにしても、その後の歴史展開に少なからぬ影響を与えたことも事実である。 たとえば、二度の失敗にもかかわらず世祖は三度目の日本征服を計画しており、日本は臨戦態勢を継続し、防塁を補修する石築地役と異国警固番役はその後も長く続けられた。
これより以前の蒙古合戦中に、九州や山陰などでは守護の大異動が行われ、多くは北条氏一門に交替した。 これは戦争指導などという臨時的なものではなく、戦後の状況からもうかがわれるように、北条氏が勢力拡大をめざしたものであり、九州支配はさらに強化された。 非御家人に対する軍役賦課権あるいは兵根米の徴収権が認め
られたことをはじめ、幕府は合戦中から政治的な権限を強化しつつあったが、これらの権限を直接に行使する守護職を集中的に独占することによって、権力は北条氏なかでもその家督家である得宗家(とくそうけ)へ集中された。
弘安七年(1284)に執権時宗が急死するという変事が発生したが、幕府は博多に特殊な合議機関を設置した。 鎮西御家人を異国警固に専念させるため、彼らには訴訟を理由とする上洛ないし関東への下向を禁じていたが、必ずしも効果がなかった。 そこで鎌倉から三名の引付奉行を派遣し、少弐・大友・安達という有力な鎮西守護を合奉行として組合せ、この三班にそれぞれ三国ずつの訴訟を担当させることによって、御家人が九州を離れることを抑制しようとしたのである。 これは異国警固態勢の弛緩をふせぐための措置であり、奉行の派遣を通して幕府が直接に関与しようとした点は注目され、その組合せにも配憶がなされている。 しかし幕府内部の抗争もあってこれは長続きせず、同九年に少弐経資など四人の奉行人からたる鎮西談議所が設けられ、最終的な裁決権
こそ与えられなかったが、所領に関する訴訟を処理し、やがて鎮西探題へと発展していった。
かつて蒙古合戦に従軍した武士は愛国精神にもとづいて滅私奉公したと強調されたが、これは全くの誤りである。 前に触れた『蒙古襲来絵詞』は蒙古合戦の様子を伝える絵巻として有名であるが、それは竹崎季長が二度の合戦におけるみずからの戦功と恩賞を与えられる経過を描いたものである。 これからもうかがわれるように、当時の武士は自分の戦功に対して恩賞が与えられるのは当然と考えており、恩賞こそが彼らに奉公を求めるための不可欠の要件であった。 ところが、幕府にとってこの合戦はいわば外国の侵略をかろうじて阻止したにすぎず、配分すべき新たな領土を獲得したわげではなかった。 弘安の役後に戦功調査を開始したが、また杜寺への報餐(お礼)もあって、なかなか進まず、配分地の確保にも苦慮しなければならなかった。
弘安八年十一月、幕府にとっては願ってもない事件が発生した。 得宗被官あるいは御内人と呼ばれる北条氏嫡流の家臣と御家人との幕政の主導権をめぐる対立から、御家人の代表ともいうべき安達泰盛がその一族や与党など500余人とともに討減されたのである。 この事件はその月の名をとって霜月騒動と呼ばれているが、この余
波は全国各地に及び、特に筑前ではこれに少弐氏内部の惣庶間の対立がからまり、さきの蒙古合戦でも活躍した少弐景資が泰盛方につき、岩門城(筑紫郡那珂川町)において兄の経資に反旗をひるがえした。 景資に味方する者も少なくなかったが、間もなく討たれ、この事件は岩門合戦と呼ぱれている。 その後も泰盛の縁老に対する処分があいっぎ、幕府では内管領平頼綱に代表される御内人の覇権が確立された。
恩賞の配分
この結果、少弐景資など安達泰盛方の武士の所領が没収され、幕府は苦慮していた蒙古合戦の恩賞地として配分する土地を確保できた。 そして翌年十月には鎮西談議所頭人である少弐経資と大友頼泰に一般の御家人に対する恩賞地配分の処置を委任し、それとともに主だった御家人に対して岩門合戦の没収地をもって最初の配分が行われた。 以後、徳治二年(1307)にかげて前後七回の恩賞配分が行われたが、多くは岩門合戦の恩賞と抱き合わせであった。 その中心となったのは正応元年(1288)から同三年にかけての第二次から第四次までの配分であるが、これは経資と頼泰に委ねられていた分である。
それは、田地10町・5町・3町の三等級を規準としてそれぞれに屋敷と畠地を加え、孔子(くじ)という抽籤によって配分地を機械的に決定するというものであった。 最初に早良郡比伊・七隅両郷(いずれも福岡市城南区)と長淵荘(朝倉町)や三奈木荘(甘木市)が豊後・大隅・薩摩、ついで筑前には肥前・肥後とともに肥前国神埼荘そして最後に筑前国恰土荘が豊前などというように、それぞれの御家人に配分された。 長淵荘は京都六勝寺の一つである尊勝寺領の荘園であったが、承久の乱によって幕府に没収され、その後は将軍家の所領である関東御領となっていたようであり、また三奈木荘も同じく関東御領であったと考えられる。 このように、恩賞地は北九州に集中しているが、これは異国警固を考慮したためといわれている。
しかし熟功賞とはいうものの、たとえば神崎荘が400余人に細分されたように、それぞれ個々の規模はきわめて零細であった。 しかも生活の本拠からは遠く離れた無縁の地で与えられ、二か所に分けて支給された例さえ見られる。 これはその地から生じる収益を得る権利つまり得分権を認めたもので、異国警固番役などの際にそこへ行く機会があったにしても、彼らがその権利を実体化することはきわめて困難であった。 三奈木荘を配分された豊後の志賀氏のように、南北朝時代においてもそれを伝領している例は見られるが、多くは不知行の状態であり、窮乏化しつつあった彼らにとって必ずしもメリットのあるものではなかったといわれている。 また不平や不満も少なくなかったらしく、その後も追って沙汰することを約束したげればならなかった。
農村の様子
しばしば述べているように、当時の村落の状況や農民の様子を示す具体的な史料は見られないが、基本的には一般的なそれと相違はないと考えられるので、ここでそれについて見ておこう。
貞永(じようえい)式目とも呼ぱれる御成敗(ごせいぱい)式目は幕府の基本法典であるが、頼朝以来の慣習法などを成文化したもので、当代杜会の特質を考える上で重要た史料である。 その第42条には農民支配についての規定が見られる。
それによると、百姓が年貢を未進したまま逃散したとき、領主などが逃毀(ちようき)と称してその妻子を抑留したり、資財を没収することは仁政に背くとし、所定の年貢やいろいろな物を納める公事に未済がない場合にはその身柄を拘束したり、妻子や資財を差し押さえることはできないとしている。 このような規定の存在はそのような行為が行われ、しかもそれが少なくなかったことを示している。 事実、地頭の非法を訴えた紀伊国阿氏川荘(和歌山県)の荘民の訴状は有名で、地頭は耳を切り、鼻をそぐという乱暴さえしたという。これは端極な例かもしれないが、おそらく当地方の農民もこれと大同小異の支配を受けたのであろう。
一方、このころになると、二毛作の普及に見られるように、農具の改良・普及など農業技術がかなり進歩し、生産は急速に増大した。 以前は貴族や土豪に限られていた牛馬を農耕に利用することも多くなったが、現実に牛馬を飼養できたのは名主と呼ぱれる有力農民に限られていたようである。 彼らは先祖相伝の広大た名田を有し、村内の主導的な地位を占めたが、これに対して弱小な小百姓は荘田の一年契約による請作、あるいは名田の一部の小作たどによって不安定な生計を立てていた。 前述のような被害にあっていたのはこの階層であるが、鎌倉後期になると彼らも成長し、村落構成員としての地位を獲得するようにたった。
生産力の向上によって余剰生産物が生まれ、それを取引するための定期市が交通の要地などで開かれるようになり、これは手工業や商業の発展につたがっていく。 因みに、甘木市の安長寺は正安元年(1299)に再興され、やがてその門前には毎月二・四・七の日の九度の市が立つようになったと伝えられている。 この市が当代に始まったとは断定できないが、起源はこのような余剰生産物の交換に求められるだろう。