どんな仕上げですかと聞いてもにやにや笑いながらベトナム産のパパイアを勧めるだけだった。パパイアは明治屋でも売れるほど甘く、いい香りがして、帰りに大きいのを五つも土産にくれた。
ベトナムは十九世紀末からフランスの植民地にされ、子供にも人頭税をかけ、赤ん坊が生まれても、葬式を出しても課税された。
フランスは塩、酒からアヘンまで専売品にして高値で住民に割り当て、麻薬中毒患者をたくさん生み出した。反対する者がいるとギロチンで首をはねた。
ただ、フランス人たちは賢いから、そういう恨みを買いそうな仕事は華僑に任せ、自分たちは手を汚すことはなかった。
華僑はその立場を利用して根を張りベトナムの経済支配を深めていった。
第二次大戦後、植民地支配を続けようとするフランスはディエンビエンフーの戦いに敗れて追い出されたが、彼らの忠実な部下を装ってきた華僑はその後も居座りベトナム経済を握ってしまった。
老将軍がいう「最後の仕上げ」とは、つまりこの華僑の追放のことを意味するのだ、と別の高官がそっと話してくれた。サイゴン陥落のあとにしばらく続いたボートピープルがそれだという。
しかし仕上げは完全ではなかった。六十万人の華僑がいたサイゴン・ショロン地区の灯は一時的に消えたが、それでも半分は残り、今、再びベトナム経済を振り回し始めている。老将軍が現在形で語った意味もそこにあるようだ。
英国植民地マレー半島にも華僑は進出した。彼らはやがて英国人と並んでスズ鉱山やゴム園を経営して現地マレー人を働かせ、その賃金はアヘンを売り付けて吸い上げる、という英国流の手法で財をなしていった。
後に駐日大使となったリー・クンチョイ氏の父もその成功者の一人で、氏の子供のころの思い出は「鉱山に働くマレー人が夕日の中でくゆらすアヘンの煙とにおい」だったと話す。
戦後、英国人が去ったあと、ここでも華僑は居残って経済実権を握ったが、マレーの土地っ子(ブミプトラ)はベトナム人と同じように彼らを拒否し、半島の先の小さな島を与えた。今のシンガポールである。それでもマレーシアには人口の四割を華僑が占め、マハティール首相をいらだたせる。
こういう状況はタイ、ミャンマーなどでも同じで、問題なのはこの生命力の塊のような彼らは居ついた国への愛国心よりは、彼ら同士の連帯意識の方をより大切にすることだ。
その好例が「クラ地峡運河」構想である。クラ地峡はマレー半島の最もくびれた部分で幅はわずか六十キロしかない。ここに運河を掘ればインド洋と南シナ海が直結され、今のマラッカ海峡からシンガポール沖を回る航路を二千五百キロも短縮できる。
古くは十九世紀半ば、インドで起きたセポイの乱のとき、香港の英国艦隊を向かわせる近道として立案されたほどの歴史をもち、戦後も、この地を領有するタイで何度か計画されたが、なぜかいつも立ち消えに終わってきた。
理由は簡単で、運河ができればマラッカ海峡の海賊が干上がってしまうこともあるが、その先の華僑の国シンガポールも“世界の場末”になってしまう。
しかも建設決定権をもつタイ政府の要人のほとんどは中国系タイ人(コンチン)つまり華僑たちで占められる。「計画は消えるために浮かぶうたかたと同じです」とタイ建設省のコンタイ(生粋タイ人)は話す。
今、混乱を極めているインドネシアも実は華僑が深く絡んでいる。オランダが植民地化すると同時に入り込んだ華僑はベトナムやミャンマーと同じようにオランダ人のよき下僕(しもべ)として仕えながら経済実権を握ってきた。
戦後、オランダが追われた後もよその国と同じに居座り、同じように追放や焼き打ちに遭いながらも、彼らはくじけなかった。
それどころか、彼らは植民地時代と同じ地位を再び確保したところがよそのアジア諸国に見られないパターンとなる。
彼らが新しい“宗主国”に祭り上げたのがスハルト・ファミリーで、リム・スイリョンなど華僑グループがそれを支えるという構図だ。インドネシアは時を経て、オランダからの独立戦争を始める時期と同じ形に戻されたともいえる。
必要なら時の流れも逆転させられる華僑。そのすさまじさがアジアを席巻している中で、「いやあ、どこへ行っても中華料理が食べられるのはありがたい」なんて能天気なことをいっているのは日本人だけかもしれない。