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2006年10月13日 (金)

仏教伝来・物部VS蘇我

 

欽明天皇十三年(552年)10月13日、朝鮮半島の百済の国の聖明王の使者が、仏像・仏具・経典を献上した・・・と、日本書紀にありますが、様々な研究から近年では、仏教の伝来は538年であるという説が有力とされています。

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欽明天皇に送られた仏像一式には、聖明王の手紙も添えられていました。

『この法は、他のどれよりも、入りにくく達しにくい物で、周公も孔子もこれを知らなかった。この尊い法は天竺(インド)から三韓(当時の朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の三つの国)に伝わった物で、皆が敬っている。仏陀の予言では、この法は東方へ流れると言われているので、貴国にこれを伝承する』

欽明天皇は「これほど、微妙な法を聞いた事がない」といたく感動して、仏教を崇拝するかどうかを、大臣たちに相談します。

すると大臣のひとりの蘇我稲目(そがのいなめ)は、「大陸のほうの国は皆仏像を礼拝しています。わが国も是非受け入れましょう」と賛成しますが、もうひとりの物部尾輿(もののべのおこし)は、「わが国の王は、神代の昔から天地におられる八百万(やおよろず)の神々を祭っています。

今ここで、他国の神を礼拝すれば、国神(くにつかみ)の怒りを招きます」と反対します。

Dscn1498 決めかねた天皇はとりあえず、蘇我稲目だけに私的な仏像礼拝を許しました。

稲目は、百済から伝えられた仏像をもらい受け、自宅を浄めて寺として、その仏像を安置し、礼拝する事にしました。

それが、日本初の寺と言われている豊浦寺です。

しかしその後、疫病が流行し多くの死者を出す・・・という事態が起こってしまいます。

仏教崇拝に反対していた物部氏派は、「それ、見たことか!他国の神を信じるからだ」と、ますます猛反対!

天皇は、仏像を難波の堀江に沈め、豊浦寺に火をつけて焼き払ってしまいました。

この頃はまだ、蘇我一族は朝廷の中では弱かったんですかね。
現在、明日香村に豊浦寺跡があります

それから32年後の敏達天皇十三年(548年)、百済に行った唐深臣(からかみのおみ)という人物が今度は弥勒菩薩像を持ち帰って来たのです。

時代はそれぞれの息子たちの時代に移っていました。

蘇我稲目の息子・蘇我馬子が、自宅の東方に仏殿を造り、仏像を安置したところ、再び疫病が流行ったので物部尾輿の息子・物部守屋またまた怒り爆発!

仏像を燃やし修行していた者たちを捕らえました。

しかし、今度の蘇我氏の長・馬子はちょっと強気。

それでも、礼拝をやめません。

しかたなく敏達天皇は、蘇我氏の私的な礼拝だけを許可しました。

この蘇我一族のかたくなな仏教押しにはわけがあります。

この時代に突然現れ一時代を築いた蘇我氏。

蘇我氏の系図は満智(まち)→韓子(からこ)→高麗(こま)→稲目と続き、この稲目が欽明天皇の時代に始めて大臣となります。

そもそも、この時代よりずっと前の5世紀頃から、日本にはたくさんの渡来人がやってきて、大陸の様々な技術を伝えていました。

文字や儒教を伝えた王仁(わに)氏、機織の技術を伝えた(はた)氏、仏像造りの細工技術や学芸に秀でた鞍作(くらつくり)氏など・・・。

そんな渡来系の人々の束ね役としてのし上がってきたのが蘇我氏なのですが、約5世紀頃の応神天皇の時代、百済の国で国政を荷っていながら、国王の母親と不倫をしたために国を追われ日本にやってきた木満致(もくまち)という人物。

彼は、日本で高級官僚として応神天皇に仕えるのですが、この人物が蘇我氏の系図の一番最初の人物・満智と、同一人物ではないか?と言われています。

そうなると、蘇我氏自身も渡来系の人々であった可能性も出てきますが、この時代、もはや渡来系の人々なしでは、日本の経済が回らない状況になっていたのです。

技術を伝えるだけではなく、その莫大な財力は大きな勢力となって、時の権力者を支える事になるのです。

対する、物部氏、大伴氏、中臣氏といった豪族たちは、天孫降臨の昔から天皇のそばについて政治を行ってきた一族です。

それぞれ、高天原にいた神様たちから枝分かれしていった神様の子孫たち。

彼らが、かたくなに神々を崇拝するように、渡来系の人々は仏教を崇拝したのでしょう。

蘇我氏にとっては、仏教うんぬんよりも、渡来人の技術力・経済力も含めた豊かな財源を確保する事が重要だった・・・そのための仏教押しだったと思われます。

宗教がらみで表面化した物部氏(守屋)VS蘇我氏(馬子)の構図は、それぞれがお気に入りの皇子の皇位争奪、政治と経済の権力の握り合いが複雑に絡み合って大きな戦争へと向かって行くのです。

そして、その戦いは蘇我氏が勝利を収める事となり、物部氏は滅亡します。

馬子の時代に名実ともに豪族のトップにのし上がった蘇我氏。

その後、馬子→蝦夷→入鹿と続き、入鹿が大化の改新の『乙巳の変』で、中大兄皇子(後の天智天皇)中臣鎌足に殺害され、蘇我氏も滅亡となるのです。

Dscn1503 豊浦寺跡近くにある物部尾輿が仏像を投げ込んだ『難波の堀江』とされる難波池(なんばいけ)

 

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コメント

 詳細な記述有難う。この内容の通りですね、且ってはハイテクは中国や朝鮮に有ったのですね、現在も、これらの国の日本観は変わっていないのですね。
 然し、蘇我家の時代は短かったのは、何が原因でしょうか。

投稿: yusaku | 2007年1月18日 (木) 10時35分

yusakuさん、コメントありがとうございます。

この時代の歴史は、「国記」「天皇記」が焼失した以上、やはりどうしても「古事記」「日本書紀」をベースに推理するしかありませんが、私は自分のHPの「聖徳太子の記事」や「消された神様の記事」の中では、蘇我氏の時代は、別王朝ではなかったか?と考えています。

蘇我氏の政権が短かった・・・というよりは、それまでがコロコロ政権交代があった末の天智・藤原政権が、正等な後継者となくべく万世一系に繋ぎ合わせ、自分たちが倒した蘇我氏のみを、朝敵としてその系図から排除したのではないか?と思っているのですが・・・。

投稿: indoor-mama | 2007年1月18日 (木) 15時43分

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