『一人はさみしい』は本当?
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今日は、『一人はさみしい』について考えてみます。
「一人でいる」=「さみしい」という風潮があります。
「人とのつながりを愛する」定型さんにとっては、「一人でいる」=「さみしい」が成り立つのは自然なことなのでしょうね。
さて、これはあすぺさんにも当てはまるのでしょうか。
私自身はどうかというと、当てはまりません。
人の輪に入って、神経を張りつめて、ムリに話をし続けることは、正直なところ「ものすごく疲れる」ことであって、「楽しい」とは言えません。
特に女性の雑談の場合は、話題そのものに興味がないことがほとんどです。他人のグチや悪口を聞くのは心が滅入ってしまい、人間不信になることもあります。
私の中で「話をする」というのは、「情報伝達」と「情報交換」でしかありません。
ですから、自分の「知識欲」や「向上心」を満足させてくれるような話題にしか興味がありません。
お昼ごはんも、一人で食べるほうが好きです。
私にとって、お昼休みは、頭の中で午前中の仕事について整理し、頭の中で午後の仕事を進める準備の時間なのです。
と、いうと、なんだかすごい感じがしますが、実際は、ご飯を食べながら"頭の中"で考えているだけなので、周りからは「ぼーっ」としているように見えます。
そうすると、気を使った定型さんが「一人でかわいそう」と思うらしく、声をかけてきます。
私にとっては、昼休みという時間を有効に使えなくなるので、午後の仕事に響くので、正直なところ「迷惑」です。
こういうと、「人の親切を迷惑だなんてひどい奴だ!」といわれてしまいそうです。
でも、この状況をよく考えてみてください。
私は、頭の中とはいえ、昼休みに"仕事の準備"をしています。
これが、頭の中ではなく、パソコンに向かって、かちゃかちゃと打ち込んでいたとしたらどうでしょうか。
仕事をしている人に、「一緒にご飯食べましょう」といって、「今忙しいから」と断っても、強引に誘った相手を「迷惑」だと感じても、不思議ではないですね。
問題は、私の行動(頭の中で仕事している)では、相手に「仕事していること」がわからないことにあります。
きちんと、外から見てわかるように、表現しないとわからないのですね。
定型さんには、「じっとしている」=「ひま」なんですね。私が「頭の中だけで仕事をしている」なんて想像がつかないのです。
(「頭の中だけで仕事をできる」という感覚も定型さんには理解し難いようです。私の場合は、紙に書き出したり、パソコンに打ち込む時点では、頭の中で9割が出来上がっている状態なのです。それまでは、ひたすら頭の中で考えます。傍から見ると、「ぼー」っとしているように見えるらしいですが…
これについては、また、後日、別の記事でお話したいと思います。)
つまり、定型さんにとっては、「親切」「思いやり」が、私にとっては、正直なところ「めんどう」「じゃま」だったりします。
なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。
それは、
定型さんとあすぺさんの感じる「幸せ」がちがう
からなのです。
定型さんが「幸せ」だと感じていることでも、あすぺさんは「不幸」だと感じることがあるのです。
もちろん、逆もあります。
(むしろ逆のほうが多いから世間で問題視されているのかな?)
しかし、定型さんの感じ方のほうが多数派ですから、それが"常識"となってしまっているのです。
そして、「一人はさみしい」という常識を、刷り込まれたあすぺさんは、自分の感覚を置き去りにして、「一人でいることはさみしいこと」だと感じようとします。
だから、ことさら「人の輪に入らなければ」とムリをしてしまいます。
そして、人の輪にうまく入れないと
「私は人の輪に入れない。一人だ。つまり、さみしい人なんだ。」
と思い込んで悩んでしまいます
実は、あすぺさんは、生育過程を見てみると、小さい頃から一人で黙々と何かに打ち込むことが好きで、そうしているときは、たのしい
と感じていたはずなのです。
ところが、
保育園、幼稚園、小学校と集団生活の教育の中で
「一人でいることはさみしいこと。」
「人の輪に入れないことはいけないこと。」
と刷り込まれます。
なぜか
「一人で黙々と何かに打ち込むこと」は奨励されません。
そうした教育の中で育つにつれて、
一人で黙々と何かに打ち込むことが「幸せ」と感じていたはずのあすぺさんも、「人の輪に入るのが幸せなのだ。楽しいんだ。」と、本当の自分の感覚を否定し、定型さんの感じる「幸せ」を求めなくてはならないと考えるようになります。
定型さんの「幸せ」を求めるために、人の輪に入る努力をします。
しかし、いくら努力して人の輪には入れたとしても、
「ぜんぜん楽しくない。疲れるばかり…」
でも、それが「幸せ」なのだと思い込まされているので
「疲れる」と感じる自分を
「これではいけない。楽しいはず。自分のやり方がまずいのだ。」
と、さらに完璧に人の輪に溶け込もうと努力を重ねます。
そうして、最悪の場合は、心が壊れてしまうのです。
「一人のほうが楽しいのになぁ」
と、思っても、それは「間違った感覚」といわれるのです。あるいは、「心を閉ざしている」なんて、言われるかもしれません。
たしかに、もともと人と交わることが好きだった人が、なんらかの事件をもとに、急に人と交わるのが嫌いになったのであれば、「一人のほうが楽しい」というのは、本来のその人の感覚ではないので、「心を閉ざしている」状態といえるでしょう。
しかし、あすぺさんの場合は、
生まれつき一人で黙々と何かに打ち込むことが「幸せ」
なのですから、
ムリに人の輪に溶け込もうとするのは、
本来の感覚とは違うことを求めることになります。
どうしても心に負荷がかかってしまいます。
このように、定型さんの「幸せ」は、あすぺさんには「不幸」であることを理解してほしいと思います。
とはいえ、そんなことを定型さんに伝えたら「人の親切がわからない奴だ」と避難をあびてしまいますので、難しいところです。
自分にとっての「幸せ」と他人にとっての「幸せ」の感じ方がちがう…
それだけのことなのですけれどね。
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それを実感できる身近な例は、
部屋のクーラーの温度設定でしょうか。
一般に、男性は暑がりですので、
「20℃でちょうどいい!」
けれど、女性は冷え性の人が多いですから、
「20℃なんて寒すぎる!」
これは、男性と女性で「暑さ」の感じ方が違っているために、「ちょうどいい温度」という「幸せ」を感じる温度がちがうのです。
どちらかの感覚が、
"まちがっている"わけではないですね。
ただ、男性の多い職場では、多数派の男性に合わせて低い温度にあわせられることが多いです。
女性は震えながら、ひざ掛けをしたりカーディガンをきたりして、がまんすることになります。
このときに、ある男性が、女性に対して
「20℃が快適な温度なんだから、ひざかけするな!」
と言ったとしたらどうでしょうか。
「自分の感覚を押し付けるひどい人」ですよね。
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つまり、定型さんがあすぺさんに「人の輪に入るのが幸せ」と勧めるのは、男性が女性に「20℃が快適な温度」と自分の感覚を押し付けているのと同じなのです。
この例を通して、
定型さんの「幸せ」≠あすぺさんの「幸せ」
場合によっては、
定型さんの「幸せ」=あすぺさんの「不幸」
であることを、少しでもわかっていただけたら嬉しいです。
そして、あすぺさんは
『心静かに自分の時間を楽しむことが幸せ』
と感じるなら、その気持ちを否定しないでください。
その感じ方は、間違いではありません。
定型さんには理解できないだけなのです。
自分の感じる「幸せ」を変える必要はありません。
あなたの感覚を大切にして生きてください
合言葉は、『がんばれあすぺさん!』
 
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