2010-01-31
徹底検証 唐沢俊一『お怪物図鑑』その7 毎日毎日……
田舎者ブーメランの一撃 P.100
背の高い美人のお姉さんが、決まり過ぎるくらい決まったブランドものの皮(ママ)のコートに身を包んだまま、歩きながら鯛焼きを頬張っていた。片手に鯛焼きの入った白い紙袋を手に持ち、片手で鯛焼きをその中からつまみ出して、信号待ちの間にみるみる一個をたいらげて、二個目を口に運んでいた。
何か、すげえカッコいいものを見た気がした。働く女性はクレープなんて軟弱なものは似合わぬ。ミスタードーナッツでもまだスカしている。湯気のたった鯛焼きと美女の取り合わせが、映画の中のシーンみたいで、まことによろしき次第だった。
……ところで、これが男性と鯛焼きとくると、とたんに情けなくなる。キンタマのついたものが鯛焼きなど齧っていて、出世ができるか! と叱りつけたくなる。あれはどういうわけのものだろう。
どういうわけって、男は辛党、女は甘党だと思い込んでいるからだろ。唐沢はこんなどうでもいい前振りから、延々1ページを費やして、しかし、鯛焼きは江戸っ子の代表たる職人たちのオヤツだったのだという論を進める。そして、その結論が、P.102
取っ手つきの今川焼きは、こりゃ工夫だ、便利でいいと、大評判をとった。そして、誰かが、こりゃ鯛の形に(ずんぐりむっくりなのでカツオやサンマではなく、やはり鯛である)似ているなァ、と言い出したのだろう、いつしかこれは鯛焼きと呼ばれるようになり、やがてはその名に合わせて、より形も魚っぽくなり、目や口やウロコも描かれるようになった。取っ手は尻尾である。職人たちは、この尻尾の部分を持って、頭からガブリとやり、ムシャムシャ
食べた後は、その取っ手のところは道ばたの野良犬に放ってやって、手をパンパン、とハタき、また仕事にかかったのである。だから、尻尾は本来、アンコは入っていてはいけないものなのだ。よく、
「尻尾までアンがぎっしり」
などと宣伝する鯛焼き屋があって、それをまた褒める文化人などがいるが、鯛焼きの歴史を知らない田舎者もはなはだしい。
鯛焼きのルーツは今川焼きに取っ手をつけたものなのか。津市観光協会のサイトにはこんなことが書かれている。
今では庶民の味となっているたいやきですが津が発祥の地です。最初は大門の日の出屋食堂で出され、当時は東京や大阪のデパートにも出店していました。現在は鳥居町のびすとろぴあっとで注文販売によってなつかしい元祖の味を味わうことができます。
東京や大阪のデパートに出店していた店が発祥なら、江戸っ子なんてなんの関係もないし、況や今川焼きなんてどこから持ってきたのよ、である。もっとも、上の文章は随分大ざっぱだし、根拠も書かれていない。それでも、デパートに出店していたのが本当だとしたら、松坂屋のサイトにはこんな記述があるのだが。
わが国特有の名店街は、名古屋店が1936年(昭和11年)12月1日に開設したのが最初です。「いよいよ1日より開設『東西名物街』。古くから名代の老舗と謳はれる東西一流の代表的専門店を常設致しました」と広告にあります。
これが正しいとなると、「日の出屋食堂」が東京・大阪のデパートに出店したのは、1936年以降となる。そう考えると、鯛焼き鯛焼きのルーツは、この店ではないようだ。というのは、明治時代に書かれた泉鏡花や松井須磨子の文章に既に鯛焼きが登場しているからである。
昨年の週刊文春2月15日号の「THIS WEEK スイーツ」にこんな記事が載った。
たい焼きの元祖とされる麻布十番の専門店「浪花家総本店」が、今年で創業百周年を迎える。同店は昭和の名曲「およげ! たいやきくん」のモデルとなったことでも知られ、今も購入するのに一時間待ちもザラという人気店だ。
百二十軒以上のたい焼き店を食べ歩いたというマニアによると「浪花家に加え新宿『わかば』、人形町『柳屋』の三店は、たい焼き御三家と呼ばれ、行列の絶えない名店として知られています」(「たいぶろぐ」主宰・いとぅさん)。
その言葉通り、浪花家四代目店主の神戸将守さんは「歴史があっても味で負けたら意味がない。餡も皮も昔と同じ味を守り続けるため、毎日が戦いです」と、たい焼き一筋百年の重みを感じさせる。
となると、鯛焼き誕生は1909年。しかし、この記事もなんか怪しくて、というのも、読売新聞1976年1月28日17面(都民版)にこんな記事が載っているのだ。
作詞家の高田(註:高田ひろお、「およげ! たいやきくん」の作詞者)さん、飲み屋の帰りに練馬駅近くでたいやきを見かけ、ふっと、たいやきにドラマを与えてみよう…とヒラメイたという
もっとも、お店ではなくて、例のアニメの鯛焼き屋の親爺のモデルが先代の守一氏であるという説もあるのだが。いや、それよりも、この四代目、創業当時の話が取材するたびにコロコロ変わるとか、はなはだ評判がよろしくないようなのである(Webm旅 2007年11月号「たいやき研究ノート1」)。
「浪花家」がルーツであるか否かは措いて、どちらにせよ、今川焼きに取っ手をつけたという説は見つからない。
ところで、田舎者もはなはだしい。と罵られた、文化人は、誰あろう、アンツルこと安藤鶴夫なんである。アンツルは、四ツ谷の「わかば」という鯛焼き屋の鯛焼きが、尻尾まで餡がたっぷりなのを絶賛して、読売新聞に、いまどき、こんな誠実な店があるかと書いたのだ。わかばの包装紙には「鯛焼のしっぽにはいつもあんこがあるように。それが世の中を明るくするように。」という安藤の言葉が印刷されている。実は、あの山本嘉次郎がこれに反論し、尻尾に餡が入っていない「浪花家」の鯛焼きこそが本来のものだとした。これが大論争に発展したのは有名な話で、唐沢はこれを聞き齧ったのだろうが、江戸っ子の中の江戸っ子安藤鶴夫も、まさか後年、唐沢俊一ごときに田舎者呼ばわりされようたあ思わなかったろうな。ま、そのブーメランは、唐沢に突き立っているんだけどね。
※ときどき、お前は鎌倉生まれのくせに江戸っ子を気取りやがって唐沢と同類だと詰る奴がいるんで、一言添えておこう。うちはもともと本郷にあったんだけど、空襲で焼けてしまい、別荘だった鎌倉の家に移り住み、そこで(もちろん戦後だが)おれは生まれたのであって、先祖代々鎌倉に住んでいたわけではない。
※今回のエントリに関しては下記のサイトを参照させていただきました。
- 作者: 唐沢なをき,唐沢俊一
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四谷のわかばのたい焼きはうちの一家はみんな大好きです。
あんこがつぶあんでちょっとマイルドでうまいんですけど。
あと、甘味類は男女問わず人気があるんじゃないのかと。
花園万頭、追分だんご、切り山椒は新宿名物だし昔ながらの甘味処や団子屋が新宿は多いんですよ、唐沢俊一さん。
http://apricotgogo.seesaa.net/article/103839705.html
http://yusakutti.exblog.jp/i4/
以前、地元新聞に掲載のやなせたかしさんのエッセイで話題になってました。
各地で、色々な○○焼きがありそうで面白そうです
東京にいる各地方の人に聞いてみるだけでも色々ネタがありそうなのに・・・
それが勝手に「尻尾に餡があるのが正しいか正しくないか」大論争に発展しちゃったんですよね。
「およげ! たいやきくん」のモデルに関しては、浪花家総本店やそこで焼かれるたい焼きではなく、アニメの親父さんのモデルが当時の店主(先代の神戸守一氏)という話で、作詞の高田ひろおサンとは関係ない部分です。(モデルになっているかは、ちょっと微妙な感じですが)
神戸守一氏 http://livedoor.2.blogimg.jp/sitezaemon/imgs/8/6/86f23fed.jpg
1909(明42)年にたい焼きの元祖を作ったとされる浪花家総本店の初代・神戸清次郎は他にも飛行船ツェッペリン号が来日(1929年8月)すると「ツェッペリン焼き」、大学野球が流行ると「ホームラン焼き」とかアイディア焼きを色々考案したみたいです。
「ツェッペリン焼き」は去年、来日80周年記念イベントで当時の焼き型を使って再現されています。
「お怪物図鑑」では今川焼き→取っ手をつけて魚の形に似た物になる→たい焼きの誕生、となっていますが、今川焼きが江戸末期に誕生し、明治時代に入って金型を6角形にした六角焼き、それにデザインをして亀の形になった「亀の子焼き」など、色々な物が存在していたみたいです。
広島では「もみじ饅頭」がたい焼きとほぼ同時期1907(明40)年に誕生、「人形焼き」が最初、東京人形町で七福神焼きとして作られ始めたのが1917(大6)年という事で、当時色々な形の小麦粉+アンコという物が誕生したみたいです。
江戸ッ子の職人が食べるためにアンコが入っていない取っ手が誕生し、そこからたい焼きが……、という話はそういう意味でもウソという事になります。
※去年、今川焼き→たい焼きについて調べた事があり、色々資料に当たった結果です。
鯛焼きの尻尾の餡くらいのことで、よくもまあ、「田舎者もはなはだしい」なんて言えるもんです。他人様の葬式ではしゃいで、テレビに出ている人だと言われたなんてことを、いけしゃあしゃあと日記に書いて公開するような奴を田舎者ってんです。
仙台では、今川焼きのことを「回転焼き」と呼んでいます。広島のもみじ饅頭だって、形焼きですね。知泉さんが詳しく書いてくれています。
詳細な解説、ありがとうございます。今回のエントリを書くにあたって、書籍、サイトをちょっと調べるだけでも、知的好奇心が刺激されてワクワクしました。唐沢にはこうした想いは一生理解できないでしょうね。
前回のエントリでは『元祖「へぇ〜」716連発 知泉』を参照させていただきましたが、今読み直すと。唐沢があちこちパクっているのが分かり、誠に不愉快でした。
そんな田舎者が鯛焼きのシッポの話題を初めて活字で目にしたのは生家に転がっていた1960年代中頃の「暮らしの手帖」の読者投稿だったと思っていたのですが、この話題に触れたまんがをそれより前に読んでいたのを思い出しましたので、全て私の記憶違いと云う可能性はありますが、書かせていただきます。
手塚治虫氏の「W3」に登場する馬場のぼる氏モデルの馬場先生が主人公星光一の相談に乗る場面、鯛焼き屋で「良い鯛焼きはシッポまであんこが入ってる」とか言いながら鯛焼きを食べているところに、鯛焼き屋の親爺が鯛焼きのシッポだけ大量に出してくるというシーンがありました。
もう四十年以上前に読んだっきりなので、私の記憶違いかもしれませんが、この描写があったと仮定した上で、唐沢氏が「W3」を覚えていたのなら、手塚忌避の癖が働いてシッポまであんこが入った鯛焼きは邪道と決めつけたのではと、つい邪推してしまいました。
かつて唐沢の一行知識掲示板に、こんな書き込みがあったそうです。
2002/01/15 (火)ニコル
タイヤキの尻尾までアンが入っているのは邪道。
──────────
2002/01/15 (火)とばもり
職人さんとかが、おやつのとき汚れた手でも食べれるよう
今川焼きに尻尾が付けられたのがタイヤキの由来だそうです。
食べたら尻尾は捨ててたのですね。だからたぶん
○タイヤキの尻尾を食うのも邪道。
──────────
2002/01/15 (火)SgMori
あんこで甘くなった口直しのため、尻尾にあんこを入れないのが本当という話
も聞いたことがあります。諸説あるみたいですね。
──────────
2002/01/16 (水)dam
仕事の途中の職人が、汚れたままの手で尻尾をつかみ、
餡のつまった胴体を食べ、残った尻尾は、そこいらの犬にでもやり、
パンパンと手をたたき、仕事に戻る、
というイナセな姿があるべきすがた、だそうです。
──────────
なんか、これの丸パクリのような。
途中から俊一氏の書いたものに耐えられなくなってなをき氏の「物々冒険記」ばかり見ていたので、そのせいかもしれません。
ところで、「物々冒険記」57ページの「倒産社長の共通点」9項目のうち7項目が俊一氏にあてはまるのではないでしょうか(カッコ内は私の見たてです)。
?本業以外の儲る世間話を上手に話す(本業以外の劇団に入り浸っている話ばかり日記に書いている)
?刹那的で自分の言葉に責任を持たない(P&Gの山を築いて平然としている)
?女房といつの間にか離婚して黙っている(夫人と不可解な別居生活を続けている)
?自分の意見を強く言っても他人の意見は聞かない(心配した人の忠告に逆ギレ)
?自分の周りに口の上手な「イエスマン」を置きたがる(2ちゃんの通称ソバ岡女史やドラゴン某氏がこれでしょうか)
?相手に顔や目を逸らして話す(公開質問にも答えない。直接面会しても「コレハコレハ」と逃げる……)
?経費・無駄使い・使途不明金が目立つ(あの執筆量でどうやって生活してるのでしょうか)
……実の弟にまで予言されちゃってます…… 長文失礼
秋田書店サンデーコミックス版(初版S43)の第2巻P.230にありました。
『こんなのはいかん』『これもよくない』と言われた親爺が怒って尻尾の山盛りを寄越します。
すばらしい記憶力ですね。
これ予言なんでしょうか。暗に兄批判しているのでは、なんて思えてしまいますね。
>モザえもんさん
すばらしい記憶力、かつすばらしい調査力。
唐沢は恥ずかしくないんでしょうか。いや、ニートなんですよね。世間体は最低、人間としての誇りなどかけらもない人間。しかし、どうののしられようが、真面目に働く辛さよりはましだという。
わざわざのご確認有り難うございます。記憶が間違ってなかったとわかり、ほっとしております。
重要な事はすぐ忘れるかわりに些事だけは強く印象に残ると云う、虫喰いだらけの神の様な記憶力し私にはありません。
それでも正確な情報をお持ちの、或いは虫喰いの部分を埋めくださる方があれば、何かの役に立つかもと、時折書かせていただいている次第です。
唐沢氏という方はあまり存じ上げないのですが、煽りの部分はともかく、「職人たちのおやつ」というのはなかなか興味深い情報だな、と思いました。
人力検索でも書きましたが、おそらく鯛焼きは天ぷら、二八そば、すしなどと同様の屋台の食べ物ではなかったかという気がしているのです(日の出食堂に関しては、東海テレビでご主人自身が語っていたのであれば昭和創業のはずです)。上記のリンクのid:matsunagaさんは新聞記事から浪花屋以前に「店を構えていた」鯛焼き屋の存在を指摘していますので、明治末期には店を構えられるくらいの人気、資金が溜められた商売だったのではと思います。となると、職人が気軽に食べられるおやつで人気があった、というのはなかなか興味深い情報です。
では、それが「どこか」というのが非常に興味があります。
四谷はもともと武家の町でした。会津様がいた町です。その周りにいろいろと職人も住んでいたわけですが、鯛焼きを食べていたのは「どういう職人たち」だったのでしょうか。
今川焼き発祥、というか、その亜流であることは多分唐沢氏の言うとおりだと思います。
ただ、今川焼きに取っ手をつけたというのは「?」です。取っ手をつけなくてもきれいに食べられるものですし。粉をといてあんこを入れて焼くという単純な製法ですから形は自由にできたわけで、客が喜びそうなものを、という理由で、めでたい鯛、というので焼き型を作らせたのではと思います。
唐沢氏の論考については、皮肉ではなく純粋にどういう資料をもとにお書きになったのか知りたいと思います。鯛焼きだけでない、いろいろなもののヒントになりそうです。
コメントありがとうございます。
唐沢俊一という人は、平気で他人のサイトの文章や著作を盗用し、、しかもその際に、内容を検証しないため、ガセが書かれているサイトや文章までかっぱらってしまうという、文筆家としては最低の人間です。なにかのヒントに、この人物の書いたものが参考になることは100%ないと断言いたします。
お返事ありがとうございます。
盗用、剽窃はよろしくないですね。検証をおろそかにするのも感心しません。そういうことをなさっている方は相応のペナルティがあるでしょう。
それはそれとして、もし「職人」が登場するのであれば、かなりいろいろなことがわかるのです。江戸では屋台の食べ物については割と衛生的に無頓着なところがあったので、「取っ手」が喜ばれたとしたら、よほどばっちい仕事をしていた職人だったか、だとすればその地域や経路がけっこう特定されるような気がするのです。あるいは普通の仕事をしていた職人だったとしたら、それが喜ばれた時期が特定できるかもしれません。おそらくは幕末以降、明治ではと思うのですが。
そして、鯛焼きですが、昔は冬だけのものではなかったですか?私の小さい頃はそうだったような記憶があるのです。だとすれば、それによってまた特定される事実があるかもしれないです。
唐沢氏の情報の入手経路が上記にお書きになったとおりだとすると、原典を出すことはひょっとしたら無理かもしれないですが、その情報が事実だとしたら調べる価値はあるかもしれません。
鯛焼きはいろいろ調べて見たのですが、麹町の郷土資料館でもよく知らない、と言われてしまいましたので、何か資料がないかと思っている次第です。わからないままだと極めて気持ちが悪いので。
こちらでも何か出てきたらどこかにまとめて出すこともあると思いますが、藤岡様の方で何かお分かりになりましたら教えていただけませんでしょうか。よろしくお願い致します。
わたしは「タイ焼き研究家」ではありませんので、そうした意味でのお役には立てないと思います。唐沢がどこから自論を引っ張ってきたかも想像すら出来ません。本文中で引用した、blogは少しは役立つのではと思います。
http://q.hatena.ne.jp/1254549939
また、上の方でコメントを書いている「知泉」さんもたい焼きについて調べたそうなので、知泉さんのサイトに何かあるかも知れません。
http://tisen.jp/
http://www.kotono8.com/2009/10/09taiyaki.html
一方、唐沢俊一氏について、私は宝島文庫の『パクリ・盗作スキャンダル入門』で漫棚通信さんのブログ記事パクリ疑惑について書いています。
http://www.kotono8.com/2008/12/16pakuri.html
唐沢俊一氏は知ったかぶりで文章を書くのをやめた方がいいと思っています。
失礼しました。hatenaとなっていたので確認もせずにblogと書いてしまいました。訂正します。
唐沢はパクリとガセ以外に執筆のノウハウを持たぬのなら、筆を折るべきでしょう。劇団に脚本を提供しているようですが、その内容は不明です。高々数十人の動員の芝居なら、パクっていても気付かれる恐れは少ないでしょうから。