2010-02-12
徹底検証 唐沢俊一追討日記 その2 頼近美津子
無礼千万追討記事、「とりあえず」二つ目
唐沢俊一がこの日訃報が告げられた人物が複数なのを受けて、こう書いたことは昨日のエントリにも書いた。
舞台やっている間に訃報いくつも。とりあえず、このお三方。
その「とりあえず」の二人目として挙げられているのが、頼近キャサリン美津子である。
さらに17日、元NHKアナウンサーの頼近キャサリン美津子、喉頭ガンの治療中の心不全により死去、53歳。
キャサリンと言う名は日系二世の父親が、”もし自分の娘が将来外人とつきあうと、そいつは外人のことだから勝手に娘に愛称をつけて呼ぶだろう。私以外の人間が美津子を好きに呼ぶなんて許せない“、という理由で、最初から呼称を固定すべくつけたミドルネームだそうだ。ずいぶんと先読みをする父親であるが、残念ながら娘のその後の人生まで先読みして守ってやることは出来なかった。
NHK『テレビファソラシド』で永六輔が、NHKの新旧女子アナの“新”の方として売り出した人(ちなみに“旧”の代表は加賀美幸子だった)である。NHKの権化みたいな加賀美アナの完璧なしゃべりと対比されることで頼近アナのたどたどしさがより目立ってしまったのだが、その弱点が視聴者に“萌え”(まだそんな言葉は無かったが)を感じさせ、またそのタレ目がNHKらしい冷たさを消し、
「可愛ければアナウンサーがしゃべりが下手でもいいじゃないか」
というコペルニクス的転換を視聴者にもたらした。
まさに、司会・企画の永六輔が目論んだ“NHK的なもの”への反抗が当たった形であったが、ことは永氏の目論見を大きく超え、テレビという視覚メディアの持つ特性(視覚的価値観が何より重視される)につながり、それはやがて日本文化の価値観そのものを変貌させるにまで至った、と私は認識している。やがてそのテレビ的価値観をかかげて一大旋風を巻き起こすフジテレビの御曹司、鹿内春雄氏が、彼女を見初め、妻としたのも故無きことではなかったのである。
しかし、その後の彼女の人生はどう考えても不幸なものだった。1981年(まだ『テレビファソラシド』の放送中)にフジテレビに移籍、記憶に残る仕事もそれほどせぬうちに鹿内春雄氏と結婚、フジを退社して家庭に入るが結婚生活はたった4年、春雄氏の急死で未亡人になる。その後はクラシック音楽普及の仕事や、何を思ったかお市の方役で大河ドラマに出たりしたが、結局、この人の人生は『テレビファソラシド』出演と、フジ移籍のあった20代後半の数年で華を使い切ってしまった感がある。死去報道の直後、ちょっとネットで自殺説が広まったのも、彼女の後半の人生にどうしても不幸の影が強く感じられたからに他ならない。
何はともあれ、若き日の私のあこがれの美女のひとりではあった。
美人薄命を地で行ったその一生に哀悼の意を表したい。
だらだら書いているが、要約すれば「見た目で売れた女子アナ第一号、晩年は不幸だった」といういつものパターン。
まず、頼近の死因は、食道ガン治療中の心不全。本名キャサリーン命名の由来は、
頼近って公家っぽいですけど、先祖は岩国藩菊川家のお侍です。キャサリンというのはクリスチャンネームではなくて、父が米国生まれの日系二世で、もしアメリカに住むことになったら勝手にミッチーなどと呼ばせたくないと思ったそうです。
(『データ・バンク にっぽん人』佐藤正弥 現代書林 1982)
将来付き合う外人(アメリカ人)対策というのは本当なのかしら。で、「その後の人生まで先読みして守ってやることは出来なかった」って、大概、親の方が先に死ぬのだから、先読みしようがしまいが、守ってやり続けることなんか出来ないだろう。
NHKの番組は「ばらえてい テレビファソラシド」である。頼近の人気は若さと美貌以外に、バイリンガルであること、かつて齋藤秀雄も認めた音楽の才能があること(ピアノ、チェロの演奏)にあったのだ。「可愛ければアナウンサーがしゃべりが下手でもいいじゃないか」なんて、一時期ウヨウヨ出てきた、ろくに歌も歌えないアイドル歌手と混同しているのじゃないか。
テレビという視覚メディアの持つ特性(視覚的価値観が何より重視される)につながり、それはやがて日本文化の価値観そのものを変貌させるにまで至った、と私は認識しているなんて大仰に書いているが、要はテレビだから見た目が大切だと、幼稚な持論を繰り返しているだけ。そして、頼近が所謂女子アナの元祖であるということに関しては、泉麻人が『アナウンサーのすべて 女性編』(共同通信社 1998)で、とうの昔に書いている。
で、お決まりの「フジ移籍のあった20代後半の数年で華を使い切ってしまった」晩年不幸説を開陳するが、実際はフジテレビに移籍した当時、『小川宏ショー』『ニュースレポート11:30』の失敗で、頼近の評判は最悪、局内で酷い苛めにあったと聞いている。つまり、ここで一回地獄を見ているのだ。唐沢はそんなことは全然知らないようだが。だから、鹿内春雄との結婚は、まさに起死回生、九回裏ツーアウトからの逆転ホームランみたいなもので、当時の週刊誌の中には「これから“女帝”の復讐が始まる」なんて見出しをつけたものがあったくらい。世間もそんな目で注目したものだ。春雄氏の急死、本人の罹病と、確かに晩年は不幸だったかも知れない。しかし、「若き日の私のあこがれの美女のひとりではあった」なんて、吐き気のするような総括をされちゃあたまらんよ。
なにが「なにはともあれ」だ、馬鹿。
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アナウンサーのすべて[女性編] ([MOOK21]シリーズ)
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2010-02-11
徹底検証 唐沢俊一追討日記 その1 滝平二郎
無礼とはこういうことを言うんだぜ
唐沢俊一はこの日訃報が告げられた人物が複数なのを受けて、まずこう書いている。
舞台やっている間に訃報いくつも。とりあえず、このお三方。
なにが「とりあえず」なのだろうか。誰もお前に訃報に接した感想文を書いてくれろとお願いした覚えはないはず。内容のない空疎な日記の埋め草に、無知を曝した無礼な文言を綴るのが好きなのは分かっていたが、どうしてこう無神経な口の利き方をするのだろう。
『モチモチの木』『ベロ出しチョンマ』など、斎藤隆介の絵本に切り絵の挿絵をつけて名コンビであった滝平二郎氏が16日、がんで死去、88歳。
斎藤隆介の絵本を初めて読んだのは小学三年のときの『八郎』である。山をかついで海に沈み、村を水害から守る巨人というイメージの壮大さには感動したが、自分の巨大さが、その身体を海に沈め死ぬことによって村人を救うためのものだった、と知った八郎が、何の疑問もなく海の方へと歩き出す自己犠牲精神の壮烈なことに、いささかの戦慄を子供心に覚えたことも確かである。
そして私の世代のトラウマ本になっている『ベロ出しチョンマ』。小学校の4年生のときだったか、給食時間の学校放送で、この話が宇野重吉によって朗読されたものが流れ、何が悲しうてこんな陰惨な話を給食時間に聞かねばならんのか、と理不尽に思い、絵本の方も読んではみたが、どうにも社会派的なテーマが鼻について(作者の斎藤隆介自身はこれは社会派の作品ではない、と言っているがどう読んでも社会派童話である)、何か辟易した。当時の担任がこの二人のことを“共産党員だからエラい”みたいなことを言ったこともあって、なおさらイヤになった。それ以来、斎藤隆介の絵本も、それに必ずついている滝平二郎の切り絵も、手に取るのをためらうようになってしまった。
その後10年近くたってからやっと読んだのが『モチモチの木』で、これも弱虫の子供が爺ちゃんを救うため、一世一代の勇気を振り絞る話だが、先の二作にない、どこか牧歌的なユーモアがただよい、オチもよろしく、ああ、これを先に読んでおけばよかった、と後悔したものである。表紙の切り絵も、孫をいつくしんで頭を撫でている祖父と、撫でられながらもおどおどした目線を横に走らせている子供の対比が出ていて、好感が持てる。
滝平氏の方は相変わらず、憲法9条を守る『九条の会』などに名を連ねていたが、もうその頃には、作者本人と作品は別、と割り切るくらいにオトナにはなっていたので、気にもならなかった。今、滝平氏の切り絵からこちらに伝わってくるのは強烈なノスタルジアであり、残虐な封建主義に農民・労働者が支配されていた筈の、『ベロ出しチョンマ』の時代への郷愁である。自らの作品の持つ力とはいえ、滝平氏はそういうイメージの皮肉をどう思っていただろうか。
書き写していて怒りが込上げてくる。子供だった唐沢には、斉藤隆介も滝平二郎の良さも理解できなかった。それはいいとしよう。しかし、「当時の担任がこの二人のことを“共産党員だからエラい”みたいなことを言ったこともあって、なおさらイヤになった」とはなんのことだ。田舎の小学三年生が、共産党というものにそんな拒絶反応を示すのは、家庭で右翼的な教育を受けてきたからに他ならず(まさか、その歳で共産党の政策を分析して否定的な意見を持っていたわけではあるまい)、それに唐沢が陰惨に感じたのは斉藤隆介の書いた物語と宇野重吉の朗読なのではないのか。滝平二郎はとんだとばっちりだ。
共産党に対して幼稚な偏見を持っていた自分が10年近くたって(18歳前後?)、『モチモチの木』を読んで「ああ、これを先に読んでおけばよかった、と後悔した」に至ってはとは、普通、子供時代に感動を得られる物語を、そんな歳になるまで理解できなかったという愚鈍を告白しているだけのことなのだ。しかも、「オチもよろしく」「好感が持てる」とか相変わらずの上から目線。そして、「滝平氏の方は相変わらず、憲法9条を守る『九条の会』などに名を連ねていたが、もうその頃には、作者本人と作品は別、と割り切るくらいにオトナにはなっていたので、気にもならなかった」と、全くオトナになっていないことを露呈している。しかし、馬鹿の極みは以下の文章だ。
今、滝平氏の切り絵からこちらに伝わってくるのは強烈なノスタルジアであり、残虐な封建主義に農民・労働者が支配されていた筈の、『ベロ出しチョンマ』の時代への郷愁である。自らの作品の持つ力とはいえ、滝平氏はそういうイメージの皮肉をどう思っていただろうか。
馬鹿の一つ覚えのノスタルジア。今のこの世の中に「残虐な封建主義に農民・労働者が支配されていた筈の、『ベロ出しチョンマ』の時代への郷愁」なんてものを抱いている、気がふれた人間がいるはずないだろっての。いるとしたら、唐沢、お前一人だよ。封建時代の物語に挿絵をつけても、読者はそれに郷愁(好感)を感じてしまうから、滝平が意図したような社会主義的な意味がない、と言いたいらしい。馬鹿がこんがらかって、いくところまでいっちまったようだ。だったら、白土三平にも言ってやったらどうかね。「わたしが『カムイ伝』から感じるのは「身分制度」のあった時代への強烈なノスタルジアでしかない」ってさ。
知りもしないこと、分かりもしないことを書いて文字を埋めるだけの日記。知能の低いファンが「へーカラサワセンセーって物知りだなあ」と騙されてくれればそれで良しなのか。
最近、小説は全然書いていないようだね。まさかあんな作品一作で満足しちまったわけではあるまいね。
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NNT
追悼文ならぬ追討文で、涙が出てしまうほど怒りに震えたのは初めてです。
藤岡真
>NNTさん
常に誰かを貶め、優越感に酔っていなければ生きていけない人間の、自転車操業が「追討日記」なんでしょう。
うさぎ林檎
>どうにも社会派的なテーマが鼻について
もしも本当の話なら、意味もわからず気取って逆張りしてしくじる阿呆な癖は筋金入りって事ですね。
「とりあえず」もう黙ってろ、とは思います。
藤岡真
>うさぎ林檎さん
小4の餓鬼が、何を偉そうに。しかも、数十年、なんの進歩もしていないって。
トンデモブラウ
アホの追討文には一切触れません。
で、滝平二郎氏の切り絵は、絵本として子供向けにしてはダークな雰囲気ですよね。
現在うちの娘用の絵本で、『花さき山』の英語バージョンがあるんですが、切り絵は結構怖い。
藤岡真
>トンデモブラウさん
滝平二郎の絵柄は、子供にとっては怖いものだと思います。滝平にしろ岩崎ちひろにしろ、その良さが分かったのは40歳過ぎてからです。だから、唐沢の幼児体験は別におかしなものではなかったはず。それを社会派の共産党のと、屁理屈をつけた自分語りにするから小癪なものになるんでしょう。
gureneko
私は郷里大輔さんのファンだったので、裏モノ日記に「追討記事」とやらの予告らしきもの(2010・1・18)が掲載された時は辛かったです。
でも実際には「郷里大輔氏の自殺は糖尿病を苦にしたのが原因らしい。 年齢から言っても自分も用心が必要。くわばらくわばら。」(2010・1・20)で済んでいました。
上から目線を保てない時はこうなるのか・・・と勉強になりました。
藤岡真
>gurenekoさん
唐沢が気にしなければならないのは、年齢ではなくて「持病」の方だと思います。「くわばらくわばら」という言葉遣いも変。
2010-02-10
唐沢俊一は読売新聞を購読しているのかしら
読売からパクり朝日に売る
唐沢俊一は朝日新聞を購読していない。自ら、こう書いている。2008年4月27日の裏モノ日記
を買おうとしたら、もうなかった。夕刊のない日はもう少し
遅くまで置いてくれればいいのに。
ちなみに、朝日は書評委員にも、掲載紙を送ってこない。
「新聞をとってください。購読費もギャラのうちに入ってます」
ということだそうである。しっかりしていらっしゃる。
購読費を受け取っていながら、定期購読もせず、今回はコンビニで買いもしない。これって一種の詐欺なんだが、いけ図々しく日記に書いている。唐沢は同じ日の日記には、こんなことも書いている。
書いてあった。
自分の書いた書評が載った朝日新聞を買い損なう人間が、わざわざコンビニに読売新聞を買いに行くとも思えず、つまり読売は購読しているようだ。廻り回って、朝日新聞から購読用にもらった金が、読売の購読料になっているのだから、朝日としては、事件は起こす、ガセは書く、購読料でライバル紙を買うと、いい面の皮だね。
さて、すでに唐沢俊一検証blogが取り上げたネタで恐縮だが、朝日から取材されたと日記で散々自慢していた「自分フィギュア」に対するコメントが、朝日新聞の2月8日号に掲載されたのだが、
フィギュア文化に詳しい作家の唐沢俊一さんは「自己愛の強い世代が大人になり、不況などで思い通りにいかない現実のなかで、『幸せな自分』『理想の自分』を偶像化している」と分析。こういった「自分」をターゲットにした商品の開発が、ネット上のバーチャルな世界などで進んでいくと予想している。
このコメントが如何に酷いものかは、リンク先の唐沢俊一検証blogを読んでいただきたい。今回問題にしたいのは、kensyouhanさんも指摘している、半年以上前の2009年7月6日の読売新聞に掲載された、森永卓郎のコメントである。
「自分フィギュア」の人気が高まっていることについて、経済アナリストの森永卓郎さんは「ライフスタイルの多様化で、消費は横並びで同じモノを購入することから、個性を発揮する手段へと変わってきた」と背景を指摘。写真シール作製機など「自分ターゲット」の商品が増えていることを挙げ、「他人には価値がなくても、本人には価値があるものを追求していくと、行き着く先の一つが『自分自身』になるのです」。
お分かりだろうか。森永卓郎の言っていることに、ほとんど目新しいことはない。個性を発揮するために消費するなんてことは、もう何十年も言われ続けてきたことだ。そういう文言を数え切れないくらい繰り返し企画書に書いてきたおれが言うのだから間違いない。没個性を目的に物を買う馬鹿はいない。大昔、アメリカの新聞の人生案内に「なんで若者は皆同じ格好をしたがるのか」と質問した老人がいて、回答者の女性(その世界では有名な方らしい)は、「個性を発揮したいから」と答えていた。なるほど。
閑話休題。
森永卓郎の発言で唯一目新しいのは「自分ターゲット」という言葉で、要は自分ならこの商品を買うか否かという視線で、商品開発をするということだ。他の誰がなんと言おうが、おれは(わたしは)この商品が欲しい! という視点である。唐沢の顔が付いた仮面ライダーのフィギュアを欲しがる奴なんかいないだろうが、唐沢は確実に買うだろう。唐沢のコメントは、ところが、「自分」をターゲットにした商品となっている。その自分は、『幸せな自分』『理想の自分』だというのだから、これではバブル期の「水増しした自己を対象にした商品」になっちまう。理想の自分なら、高級車だってブランド商品だってなんだって買えてしまうものね。
自分フィギュアに関して読売新聞の記事を思い出してネット検索し、その中の森永卓郎のコメントをパクリながら、劣化させてしまうのはいつものやり方だ。
「自分ターゲット」という言葉を知らなかったの? いや「自分」をターゲットというのは朝日新聞のミスなのかな。でも、事前チェックしなかったあんたが悪いんだよ。
えびす
「裏モノ日記」の記述が「朝日新聞文芸部」「朝日新聞文化部」と間違いだらけなのは、新聞を読んでいないからだったんですね。朝日の署名記事は、いつも「学芸部・○○」とあります。唐沢さんは何故仕事先の名称をわざと間違って、朝日に喧嘩を売るようなことをするのだろうと、不思議でしたが腑におちました。
日記から読み取れるネットニュース依存度の高さからすると、読売も購読していないと思われます。たまたま喫茶店に置いてあったのを手に取ったとか。ネットに比べ裏モノ日記に、新聞記事からの引用が少なすぎます。個人的な推測ですが、少なくとも近年の唐沢さんの情報源はネットが主で、活字を読む習慣は失われつつあるような気がします。
ちなみに読売の医療面は他紙より具体性に富み面白いです。唐沢さんは糖尿病治療に興味があるなら、まめに目を通されたらいかがでしょうか。
藤岡真
>えびすさん
コメントありがとうございます。
12月21日のエントリでも触れたのですが、唐沢はこんなことを書いています。
http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20091221/1261182176
>読売新聞の“編集手帳”は最近、朝日の天声人語よりずっと
>視点の質が高く、前にも言ったが引用の妙に膝を打つことも
>多いが、今日のはちょっと、エ? と首をひねってしまった。
朝日新聞を購読してもいないくせに「天声人語」について語る。そして、いつものやり方(なにかを貶してなにかを持ち上げる)で「編集手帳」を持ち上げる。このあたり、如何にも、自分は二紙を読み比べているのだという風を装っています。そもそも、それがどうしたといった話なのに、本人は自慢したい様子。それだけ、新聞というメディアにはコンプレックスをもっているようです。
粗忽亭主人
いまはどうだか知りませんが、数年前は讀売新聞は購読していたようですよ。裏モノ日記にちょくちょく記載がありました。特に書評欄の大原まり子さんにカラむものが。大原さんに対しても何らかのコンプレックスがあったのでしょうかね。
あと、讀売にくわえて産経も購読することにした、という記載があったことも記憶にあります。
2010-02-09
徹底検証 唐沢俊一『お怪物図鑑』その9 あるレスラーの死
おなじみのプロレスネタでござい P.32
この項、こんなふうに始まっている。
一九九九年一月、不世出のレスラー、ジャイアント馬場が世を去った。
そのほんの十数日前、ひっそりと一人の元悪役レスラーが同じく世を去っている。そっちのことを書く。
その名は芳の里。大相撲から力道山の後を追ってプロレス入りし、昭和29年、渡米、ゲタばき・ステテコスタイルの典型的な憎まれ役ジャップとして、アメリカでグレート東郷やハロルド坂田に続き人気を集めた。
この後、一ページ以上、芳の里の半生が書かれているから、当然、あるレスラーとは芳の里のことと、誰しも思うだろう。唐沢もそのつもりで書いていたに相違ない(そっちのことを書く。とは酷い言い様だが)。ところが、33ページの半ばを過ぎてから、芳の里の死後、直ぐにジャイアント・馬場が亡くなったために、プロレス雑誌の追悼記事も馬場一色に埋め尽くされたと書いた上で、
自分よりはるかに優れた人物が、常に数歩後ろから自分の姿を追いかけてきて、自分の足跡をすべて消し去ってしまう……運命の神様というのは、ときどき、そういう根性の悪いイタズラをしてほくそ笑んでいるようである。
……と、いうわけでジャイアント馬場選手が亡くなったことを書く。
おいおい。スーパースターの陰でひっそりと逝った芳の里のことを書くのが、B級愛好家唐沢俊一だったんじゃないのかね。いや、そう思って書き出したけど、資料不足で原稿が埋まらない。ナニ、タイトルは「あるレスラーの死」なんだから、馬場のことを書いたって一向に構わんだろうと、方向転換したわけだ。さすが機転が利く、と自画自賛しただろうことは想像に難くない。
で、ジャイアント馬場の話題なのだが。この記事、初出は『モノ・マガジン 1999年3/16号』、実は、以前のエントリに書いたように、馬場に関しては1998年7/16号に既にこう書いているのだ。
徹底検証 唐沢俊一『お怪物図鑑』その1 「日本人はサッカーをやめよ!」
猪木も前田も長州も、海外修行時代が長かったが、ついにあちらではトップの人気を博することができなかった。アメリカのマット界で、トップエベンターの座を得られたのはジャイアント馬場のみである。
で、今回も、馬場に関しては、P.34
力道山を含め、日本人レスラーで海外で名をあげた者は大勢いるが、MSGで観客を満杯にするスターにまで出世した(ヒールとはいえ)選手は馬場をもって空前であり、絶後であると言われている。
と同じことを書いて持ち上げている。前回、馬場を凌駕するスターとして、ザ・グレート・カブキの名前を挙げたのだが、ハヤタ隊員さんから、こんなコメントが寄せられた。
ハヤタ隊員 2010/01/24 15:34
>アメリカのマット界で、トップエベンターの座を得られたのはジャイアント馬場のみである。
アメリカでメインイベンターになった日本人レスラーには、キラー・カーン(小沢正志)がいますよ。アンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争は有名ですし、ボブ・バックランドともWWFヘビー級タイトルマッチをやってますけどね。
あと、グレート小鹿も西海岸ではメインイベンターですよ。ミル・マスカラスの好敵手でしたし、テリー・ファンクとタイトルマッチもしてます。
その通り。今回は「MSGで観客を満杯にするスターにまで出世した(ヒールとはいえ)選手」なんて限定したもんだから、ますます無知を露呈することになった。
キラー・カーンはニードロップでアンドレの足の骨を折った(とされているが、これもギミック)ヒールのスーパースターで、本当に馬場なんか問題にならないメインエベンターだったのだ。因みに、この試合の後、NHKの海外トピックスで「MSGのチャンピオン、アンドレ・ザ・ジャイアントの脚を折った、蒙古人レスラー、キラー・ジンギス・カーン」と紹介されていて苦笑させられた記憶がある。情弱は朝日新聞ばかりではないのだね。唐沢は馬場に関してどうでもいいことを書き連ねネタが尽き、再び芳の里について語りだす。
とはいえ、と著者(唐沢)は思う。やはり、一度は芳の里に、実際のところ、あのときの真相はどうだったんですか、と訊いてみたかったと。そして、あの世界の大巨人が、人生の後ろからピタリとくっついてくるという感想はどんなもんでしたか、と。
その恐怖は、相撲取りが自分をどこまでも追いかけてくるという、筒井康隆の『走る取的』をはるかに凌駕するものではなかったか、と思うのである。
『走る取的』
……おやまあ。この小説の持つ恐怖の本質が、全く理解できていない。いいかね、ゴジラのような巨大な怪物でもなければ、自分を凌駕する才能ある後輩でもない、文字通り得体の知れないなにかに、理由も分からずじわじわと追い詰められていく恐怖、それをスピルバーグの『激突!』以前に描いた大傑作なんだぞ。なにが「筒井康隆の『走る取的』をはるかに凌駕するもの」だよ、この大馬鹿が。
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2010-02-08
徹底検証 唐沢俊一『お怪物図鑑』その8 恐怖のカマキリ女
これを読んで思い出すのは『蟻屋敷』だ。昔、東京にそう呼ばれていた有名な奇建築があったという。奇妙な建築というと『二笑亭』が有名だが、この蟻屋敷はその上をいく凄さで、家を建てた人物が、アリを極端に恐れ、いつか自分の住居内にアリが侵入し、寝ている自分の体にたかるのではないか、ということを恐れ(『トムとジェリー』に何かというと“♪つー、たったかたー”という行進曲にあわせて列を組んでやってくるアリの群れが出てくるが、あれを連想してしまった)、家を自分で設計したのだが、そのコンセプトを「とにかくアリを一歩も邸内に入れない」
ということに絞り、そのための外観といい、内部構造といい、奇怪きわまるものになったという家である。
柱は全て三角錐の形をしている。これはもちろん、登ってくるアリを途中でふり落とすためである。また、家の中には三重四重に小さい堀がもうけられ、水が流れている。アリがたったかたー、とやってきてもこの堀で防ごうという考えである(どうでもいいが湿気がすごかったろうなあ)。われわれにとっては奇怪きわまる思想、そして設計だろうが、この住人にとっては正当な、というか、必要不可欠な作りなのである。
奇怪奇怪というが、さっぱりその外観のイメージがわいてこない。三角錐の柱というのはどこにあるのだろう。柱を三角錐にしたくらいでは蟻は平気で登ってくる。それに、壁はどんな具合に取り付けられているのだろう。大体、「とにかくアリを一歩も邸内に入れない」というコンセプトなのに、蟻の侵入を想定して堀が掘られているというのもおかしな話だ。「たったかたー」で笑いをとりたいのだろうが、この程度で奇怪きわまる内部構造と呼んでいいものなのか。室内に池のある家(例外なく錦鯉を飼っている)も見たことはあるし、特別奇怪とも思えない。
同じ蟻屋敷について書かれた文章があるのだが。
そう思っていた矢先に、数年前、さる席で建築家の磯崎新氏から耳寄りなお話を伺った。
というのである。その蟻屋敷なる家は、磯崎氏の説明では要塞堅固な二階建ての洋館で、建物そのものには別段異様なところは何もない。ただ、家の周りに幅の広い溝を幾重にもめぐらして、しかも溝の上には橋を架け渡していないから、どこから入っていいのかさっぱり分からない。
実は溝の下に秘密の地下道が通っていて、そこを潜って家のなかに入るのだ。ようやく家のなかに入ると階下はガランとしたホールで、二階から上が住居である。二階はいざとなれば取り外しのきく階段が通じており、不思議なことに階段の一番上には大きな水道の蛇口がにょっきりと突き出している。
用心に用心を重ねてこの家の主が屋内に入れまいとしている仮想敵は、実は蟻なのであった。家主はいつかは大量の蟻の一群がこの家に襲撃してくると信じてやまないのであった。
で、蟻の群が事実押し寄せてきたとしよう。まず水をいっぱいに湛えたいくつかの溝のなかで蟻どもは確実に溺れ死ぬことだろう。それでもしぶとく生き残った奴が這い上がってくれば、階段を外す。それにもめげず上がってきそうになったら、二階から水道の蛇口をひねって階下を水びたしにする。こうして十中八九蟻は撃退されるはずである。
うむ、これなら奇怪な屋敷であるな。ま、種村季弘と比べるのが間違いなんだろうけど、本当に唐沢って文章を書く才能がないね。
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唐沢俊一が元気だった頃
町山智浩氏の「唐沢俊一はサリンジャーに土下座しろ!」から派生したTwitterでの唐沢祭に対して、唐沢が、
一方で某所、展開が早すぎて発言についていくだけで大わらわ。
今、どこで誰がしゃべっているんだ? という感じで
ある。落ち着こうよ、みんな。
こんな言葉しか返せなかったことは、以前のエントリで述べた。無視していれば、知らぬ存ぜぬも通用しただろうに、こんなことを書いたために、結局自ら、反論したくても出来ないことを露呈させてしまったわけだ。『新・UFO入門』での盗作事件に端を発したP&Gの検証に対しても、なんら弁明、反論が出来ないのも同じ証だろう。
2003年2月27日の裏モノ日記に唐沢はこんなことを書いていた。
もうひとつ、今週号の『TVブロス』で、映画ライターの持永昌也が前号でポランスキーの『戦場のピアニスト』のユダヤ人の描き方を、
「この時絶滅させておけばよかった。戦場では生き残った者だけが勝者となる。死んだら負け。そんなユダヤ思想が良く分かるアンチ・ヒューマニズムな究極の恩知らず映画。胸に迫るのは、むしろドイツ将校の無念さだよ。かくして奴らは、ハリウッドはもちろんのこと、現在の世界経済までをも掌握したのであった。ナチよりもユダヤ人の方が極悪とオレは信じる」
と書いたことに対し、同じ雑誌にコラムを連載している町山智浩氏が、烈火の如く怒って、その論のトンデモ性と、ユダヤをそのように貶しながらユダヤ系が多くをしめるハリウッド映画の批評で商売をしている二律背反性をあばき、それでも飽き足らなかったか、
「ついでに君の立派な意見を広めるために英語に訳して各映画会社と外国人記者クラブ、サイモン・ウィーゼンタール・センターに送って、インターネットにもUPしといてやったぜ。感謝しろよ」
と書いている、ということがメールにあった。この件については、私も昨晩、待ち合わせの前に入った書店でブロスを立ち読みし、驚いていたところ。自分が書いている雑誌を消滅させる危険を冒してまでこういう行動を起こす、というあたりに、町山氏の怒りの度合いが見てとれるだろう。
私は今回の町山氏の怒りはまったく正当なものと思う。それは、持永昌也(この人物は別に差別論者であるわけではなく、暴論と辛口の区別がつかず、映画をケナしさえすればうるさ型と思ってもらえるとカン違いしているだけだと思うのだが)の愚かさの上にまさに落ちてしかるべき鉄槌であろう。だが、この最後の脅し行為に関してだけは、いただけないと思うものである。持永一人にその行為の報いがふりかかるのは自業自得として、これが本当に問題となり、世間も騒ぎたて、この原稿を掲載した編集責任が問われるということになり(なにしろ今、イスラエルは非常にピリピリしている状態なのである)、かの『マルコ・ポーロ』と同じく雑誌自体の消滅とでもいうことになったとすれば、持永の今回の原稿にはまったく関わり合いをもたぬ、ブロス関係者(デザイナー、編プロ、契約編集者、ライター、イラストレーター、出なくなった号にインタビュー等が掲載されるはずだった新人タレントたち等々)に、自分たちには何の責任もないのに大きな損害を与えることになる。自分も連載している雑誌なのだから、リスクは対等……という言い訳は通るまい。
週刊(隔週)誌仕事というのは、若いライターたちにとっては喉から手が出るほど欲しいものである。ブロスほどの大きな媒体で書く、ということでやっと、この業界での足がかりを得た者もいるだろう。編プロなどが関わっているとするならば、そこの社員たちにはかなり大きなウェイトをしめる仕事だろう。テレビ各局にとっても、春の新番組シーズンを控え、雑誌に大きく特集してもらうことで、視聴率への期待が高まっているところがあるだろう。それらが、一人のバカの所行をある人物が正義感から天下に知らしめた、という一事で全てパーとなったら。セ・ラ・ヴィ(それが世の中さ)で諦められるほど全ての人に余裕があるわけではない。この出版不況の中、次の仕事先を探すのがいかに難しいことか。いやしくも一誌の編集長まで務めたことがある町山氏に、それがわからないわけはないだろう。
われわれフリーのモノカキは、自分の知識と人格と文章の才能を世に問うて勝負している商売である。おのれの愚かさ、おのれの品格の低さ、おのれの才能のなさが原因でどう責められようと、それは甘受しなければならない。そういう覚悟を持たない奴は最初からモノカキなどになってはいけない。しかし、他人のそばづえで、突如自分の仕事がなくなるのは、若い人にとり、あまりに過酷すぎる。私も、十五年前、文章書きとして一人立ちし、結婚もして、やっと生活も安定したと思った矢先に、収入のほとんどを占めていた週刊誌連載が雑誌ごと消滅したときには、一瞬目の前が暗くなったのを覚えている。あの頃、あの雑誌(ちなみに『パンチザウルス』というやつだ)で一緒に仕事をしていたマンガ家やライターで、あれ以来、とんと名前を見なくなった人が大勢いる。私もあのとき前途を悲観して職業換えをしていたら、今、ここでこんな日記も書いていられないだろう。今回の件で、ブロスほどの受け皿が消滅すれば、二度とこの業界に帰って来られない人が大勢出ると思う。町山氏のあの最後の脅しは、単なる彼一流のジョークであってほしい。そう、切実に願う。彼の行動の根本が正義であればなおのことである。悪意は滅多に人を破滅させない。人を破滅させるのは正義である。ブッシュもビンラディンも、共に自らの正義のために、無辜の民を無数に殺した(殺そうとしている)のである。
“C'est La Vie”=それが人生だ
いや、この文章になにか問題があるわけではない。問題は、この日記を批判した人物が登場してからの話なのだ。『カンタン系』より。
●2003/03/01(Sat)
for better or for worseを読んでいたら(いつも楽しく読ませて頂いています。でも「網状言論F RePure」のレポートを書いてしまった身として、後ろめたい気分を抱え込みがちです)、唐沢俊一がTVBros.を廃刊に追い込むかもしれない町山智浩の行動と文章に対して的はずれな文章を書いているのを知った。
で、読んでみたら、本当に的はずれだった。なんか町山智浩を「正義」とか、そういう言葉で、保守的レッテルな言葉で片づけがちそうになっているのが的はずれにしている原因。町山智浩の文章は、問題のライターがユダヤ人差別をしたことを問題にしているだけじゃなくて、ハリウッドとユダヤ人の関係をしっかり文章にすることで、ハリウッド映画史をロクすっぽ知りもしないで知った口を聞いたような文章の書き手を批判している。だから、これは映画というものに対する扱われ方に町山智浩が苛立っていることだ。そこを見落としているのか目を瞑っているのかは知らないけれど、町山智浩の言葉をPTAのお母さんみたいな物言いみたいな「正義」に近づけているような唐沢俊一の文章はやっぱり的はずれだと思う。というか東浩紀に対して、オタクの歴史を知らないーとかあーだこーだ正しくない、間違えている、とか言っているひとがこーいう文章を書いてるというのは不思議だ。いや、そこら辺を踏まえたようとしてるのかもしれないけど、手抜きになってるんだろう。
しかし、こういう光景をかつて僕は見たことがあるなあ、と思って『闘争のエチカ』(河出文庫)を開くと、蓮実重彦が四方田犬彦による「カサブランカ」批評を批判している。四方田犬彦もハリウッド映画史を過って記述しているために蓮実重彦に批判されている……そしてそのあとにつづく蓮実重彦の文章を読んで、ちょっと僕は反省することがあった。うーん。
これに対する唐沢の反論が、2003年4月14日の裏モノ日記に書かれている。
……そう言えば、月が改まって、各検索サイトも、最近の日記サイトなどを挙げるようになり、いくつか手近の人名や件名を検索してみていたら、『カンタン系』というサイトで、私の日記の“的はずれ”ぶりを大いに指摘している文章を見つけた。面白いので読んでみると、例の町山氏のTVブロスの一件(2月の日記参照)についての私の指摘が的はずれである、と言っているのであった。私は町山氏を“正義”のレッテルで片付けようとしており、それは町山氏の文章の本質を理解していないためであるという。
「町山智浩の文章は、問題のライターがユダヤ人差別をしたことを問題にしているだけじゃなくて、ハリウッドとユダヤ人の関係をしっかり文章にすることで、ハリウッド映画史をロクすっぽ知りもしないで知った口を聞いたような文章の書き手を批判している。だから、これは映画というものに対する扱われ方に町山智浩が苛立っていることだ」
という解説はご丁寧なことだが、少なくとも、このサイトの主に比べれば、私の方が町山氏とのつきあいはずっと長い。お気の毒だが、そのような主張はとっくに理解 済みである。
私のあの文章を、町山氏の記事の“内容”の批判と思いこんでいるとしたら、この人の文章読解力はどうにも情けないものである。中学生程度の理解力がありさえすれば、私の批判は内容に向けられたものではなく(そのことは何度も文中で明言している)、それを“あえてあのような形、表現、手段で”発表することに対して向けられていることがわかるはずである。氏のその文章が一見痛烈で痛快であるが故に、一旦書き手の思惑を離れ、“正義”の名のもとに文章が一人歩きしはじめた場合の危険の可能性について、私は疑念と懸念を表しているのだ。その点に関してはあの日記中でも誤解ないよう言を尽くしていると思っているし、ちゃんと理解してくれた人(町山氏の古い友人の方々も含め)からの意見も数多く貰っていることからみて、さしてわかりずらい文章だったとも思えない。まあ、それでも主意を読みとれない、それこそ中学生以下の読解力の坊やたちの批判も幾つかあることは知っていたが、そういう類のものに対しては苦笑するばかりとして、さて、このサイトの主宰者も同じかと思うと、まるきりそうでもないらしいのは、
「いや、そこら辺を踏まえたようと(原文ママ)してるのかもしれないけど、手抜きになってるんだろう」
と、少し言い切りに足踏みをしているところだ。
この、少し言いよどんだあたりがちょっと興味深かったので、この人のサイトの他の文章を読んでみて、ナンダとわかった。どうもこの人は熱烈な東浩紀氏信者であるらしく、『網状言論F改』が出たとき、いち早くそれのミスを指摘した私をうらんでいるらしい(東氏擁護のために“やおい”の定義を女オタクまでに広げようとして挫折した文章もあって、これはなかなか傑作で笑えた)。つまり、この誤読は、自分が私のあの文章をそのように誤読することにより、東浩紀をケナす奴の正体はこんなもんだ、ということを、世間にアピールし、間接的に東氏を守ろうとするためのものだと推理できるのである。この人が本当に言いたかったのは、町山氏の考えウンヌンではなく、その後に唐突にくっつく、
「東浩紀に対してオタクの歴史を知らないーとかあーだこーだ正しくない、間違えている、とか言っているひとがこーいう文章を書いてるというのは不思議だ」
という一文なのではないか。イメージ戦略である。こういうのは結構。誤読する権利だって読者の方にはあるのである。ただ、彼のサイトから、私の日記に飛んで元文をあたった人から、こいつは読解力がない、と思い込まれるのもイヤなので、そこらへんの弱気が、“手抜きになってる”と、誤読の原因をこちらに背負わせるような手配もさせている、というあたりではないか。まあ、そこまで深読みしなくても、と言われるかもしれないが、なにしろイラク戦争からこっち“情報操作、情報操作”と繰り返されてばかりいるもので、最近は何を見ても、ひとまずは裏を読んでみよう、という気になるんである。
それにしても、東浩紀氏がうらやましい。自分の著書の中のあきらかな誤りをも、このようにかばいだてして、その指摘者を追い落とそうとするような忠義なファンが大勢いる。著者の人徳の差と言われればそれまでだが、私のファンなど、例えばこの日記などにちょっとでも誤記を発見すれば、鬼の首をとったかのように掲示板に書き込んでくる、そんな連中ばかりである。……まあ、私にとってはそういう人たちこそが宝なのである。毎度、宝に向かって“言い方ってもんがあるだろう”とグチってば かりの毎日なんである。
なんとまあプロのモノ書きが、アマチュアのサイトの文章に対して、よくもこんな悪口雑言罵詈讒謗が書けるものだ。まともな反論ならいざ知らず、言われたんだから言い返すぞとばかり「このサイトの主に比べれば、私の方が町山氏とのつきあいはずっと長い。お気の毒だが、そのような主張はとっくに理解済みである」なんて見当違いな自慢を書き、返す刀で東浩紀氏を斬る(斬ったつもりになっている)。
一言なにかを言われたら、倍にして言い返す。つまり、それこそが唐沢の本質なのだから、一連のP&Gに対して沈黙を守っていることは、自らそれを認めたということだろう。そして、何より今回の発見は、「例えばこの日記などにちょっとでも誤記を発見すれば、鬼の首をとったかのように掲示板に書き込んでくる、そんな連中ばかりである。……まあ、私にとってはそういう人たちこそが宝なのである」という言葉だ。肝に銘じて、検証を続けることにしよう。
トンデモブラウ
凄い自己批判ですねぇ。
『暴論と辛口の区別がつかず、映画をケナしさえすればうるさ型と思ってもらえるとカン違いしているだけ』
それは、オ・マ・エだよ。
藤岡真
>ちゃんと理解してくれた人(町山氏の古い友人の方々も含め)からの意見も数多く貰っている
嘘つくなよな、と言ってやりたくなります。
毎日
>手近の人名や件名を検索してみていたら (中略) 大いに指摘している文章を見つけた。面白いので読んでみると、
唐沢は『カンタン系』をたまたま見つけたように書いていますが、それは嘘で、ネチネチと自分検索をやっているのがバレバレですね。読む前に「大いに指摘している」と分かり、「面白い」と分かるという。
焦りを隠して余裕をかまそうとすると、文章がこんがらかるのも唐沢の特徴かと。あ、じっくり書いてもダメなのか。
藤岡真
>毎日さん
検索して見つけたって、読み込んで自分への批判と分かったとしたって、なんら問題はないはずなのに、余裕かましたポーズでこんな長文綴るから、もう焦っているのが見え見えです。
猫遊軒猫八
ああ、この件はよく覚えています。当時TV Bros誌を購読していて町山智浩さんに感化されて実際に戦場のピアニストを劇場で観てあちこちに投書しました。
ロクに知りもしないの偉そうな口を叩く唐沢の駄文を読んでいたら思い出し怒りがこみ上げてきます、困ったモンですね。
藤岡真
>猫遊軒猫八さん
まあ、唐沢がダラダラ書いているのは、町山氏が正義を振りかざしたおかげでTVBrosが潰れたら寄稿しているライターが気の毒だというだけのことなんですからねえ。本質的な議論が出来ないのなら、まざりに来るなといいたい。
NNT
懐かしいw。持永対町山、って、全然勝負にならないというw。
TV Brosはコラムが充実していて、色んな考え方があって良いってスタンスだったんだろうけど、いくらなんでもこの話はなーと思っていました。
>いやしくも一誌の編集長まで務めたことがある町山氏に、それがわからないわけはないだろう。
だからこそ、こういう記事を載せるBrosの腹の据わり具合を試していたって事だと思うんですけど…。
唐沢氏の小心者ぶりがよくわかってしまう。
藤岡真
>NTTさん
本質とは関係ない話を、大物ぶった傍観者の立場から語るのがかっこいいと思っているようです。そう思っているのは自分一人だけで、周囲の人間は苦笑していることに、未だに気付いていないという。
厨房のときに身に付けたもので、一生食っていけるはずないのに。
トンデモブラウ
『蟻屋敷』は、濠の位置が屋内と屋外で全く違いますね。
三角錐(を逆さにした)の柱も意味不明。
きっと何か別なものを勘違いしたか、伝聞なんでしょう。
一方、地下道の入り口で蟻が防げると思うのも釈然としませんが・・・
でも蟻の恐怖で言うと、最初に浮かぶのは「たったかた〜」じゃなくて『黒い絨毯』じゃないしょうか。
藤岡真
>トンデモブラウさん
実は、種村季弘の文章はこう続きます。
>この話聞かされたとき、私は立ちどころにチャールトン・へストン主演のアメリカ映画『黒い絨毯』の悪夢のような蟻禍を憶い出して、思わずゾッと肌に粟を生じた。
『黒い絨毯』で獣が襲われて、あっという間に骨になってしまうシーンは、ピラニアが牛を襲って骨にしてしまうシーンと共に、幼年期の2大トラウマでした。『ジャングル大帝』でも、アフリカ象が骨にされるシーンがありました(『黒い絨毯』だな、と子供心に思ったもんです)。
コペルニクス的「転回」ですよね。
よく知りもしない言葉を使うから……。
>コペルニクス的「転回」ですよね
おっしゃる通りなんですが、唐沢の場合、このレベルで突っ込んでいたら、きりがないといいますか。