演奏家や作曲家のデビューの時ほど美しい時はない。みずみずしい音楽が一挙に花開くその瞬間は、本人にも、その場に立ち会う聴衆にも、忘れがたいものになるはずだ。3月9日の東京オペラシティを皮切りに、第78回日本音楽コンクールの優勝者たちが全国でデビューコンサートを繰り広げる。昨秋の本選を振り返りながら、彼らにさわやかな期待を寄せたい。(敬称略)【梅津時比古】
◆声楽部門
オペラが演出の時代を迎えたのは、皮相的に舞台を良く見せるためではない。演出のコンセプトとしての解釈や読み直しが、演奏や聴取において、音楽的に本質的なところへ踏み込む大きな要素になることが分かったからである。従って、歌唱だけにおいても、本来、演出の概念なくしてオペラ歌唱は成り立たないということになる。
いくつかのアリアだけを競演してゆくコンクールにおいては、従来、この演出の概念は無いに等しかった。本選のプッチーニ「蝶々夫人」から“ある晴れた日に”で佐藤康子はそこに踏み込んだ。驚くべきことに、従来の解釈と全く異なる新しい蝶々夫人像を、歌唱とわずかな所作で提示してみせたのである。
それは佐藤が、ミラノ初演版の研究を基に博士論文でも展開した<強い能動的な蝶々夫人>である。期せずして現代の女性像にも通じるその蝶々夫人を、今回、さらに磨き上げて見せてくれるはずだ。
◆バイオリン部門
日本の若手バイオリニストはなぜこれほど優秀なのだろうか。10代で世界を制する俊英が次々に現れ、20歳代では新進と呼べない気がしてくるほどだ。単旋律の線的志向性、楽器のサイズなどが日本人の資質に合うことは間違いない。
昨秋の本選は例年にもましてレベルが高かった。まず最初に登場した成田達輝がパガニーニの協奏曲第1番を圧倒的技巧でしかも繊細な美を極めて弾いてのける。世界の名だたるバイオリニストからもなかなか聴けない粋な個性がはじけ、これでは次に同じ曲を弾く青木尚佳はとても太刀打ちできないだろうと思われた。
ところが一転して青木はおくすることなく、全く正統的な表現で、パガニーニから見事に様式と音楽の融合を導き出した。対照的な成田の名演をむしろ自分にプラスにして1位を得たと言ってもいい。本選会場に詰め掛けた聴衆はパガニーニの正反対の極めつきの演奏を続けて聴くというまれな体験をした。青木はその後「ヴァイオリン・フェスタ・トウキョウ」にも出演、ヴィエニャフスキにあふれんばかりの音楽性を示し、1位がコンクールのあやで得たものではないことを自ら証明してみせた。今回はサン=サーンス「ハバネラ」。これまでと傾向の違うフランス物だが、今の青木は常に曲の本質を正統的に、しかも音楽的に体現するので、楽しみだ。
バルトークの協奏曲で本選の最後を締めた尾池亜美は、個性が躍動するスケールの大きな演奏で1位に。躍動しすぎて所々音程の悪い個所もあったが意に介さなかった。というよりも音程を気にすることで音楽が小さくなることを避けたようだ。彼女はポップス、ロックも弾くが、「あまり音程など気にしないその方法をクラシックでもやってみた」と悪びれない。これほど強力な個性の登場もコンクール史上珍しい。今回のショーソン「詩曲」では、「今度はぴたりと音程を合わせます」と心強い。そのうえで彼女なら官能的、陶酔的な、幅広い表現を聴かせてくれるだろう。
◆ピアノ部門
コンクール会場がコンサート会場のようになることは珍しい。伊藤伸のラヴェルの協奏曲ト長調を聴いているうちに、本選会場に付き物の熱気は湖をすべる波のように次第に鎮まり、やわらかく広がる響きのなかでピアニストが音をひとつひとつ紡いでいた。くすんだ色調の、時に退廃的ですらあるピアノの音が、ふと過ぎ去った時間を連れ戻してくる。幼いときになにかを探していたような時間。浸っていると、今度はクリスタルな音が響き渡り、未来にかけての情景も展開される。
5人のピアニストの華やかな競演となった本選で、最も静かな時間を作りだした伊藤が1位になった。彼のテクニック的な特徴は、さまざまなイメージを喚起できる奥深いタッチにある。それによって、独特の繊細な雰囲気と豊かな音色の交錯する場が、伊藤の指の間に生まれる。
今回のサン=サーンスの協奏曲第5番「エジプト風」は一見、イメージが想起しやすいようにみえて、なかなか満足できる演奏が少ない。伊藤の身体的感性で旋律線と和声をすみずみまで彩ることを期待したい。
◆トランペット部門
楽器には、歴史的経緯によって身分の差が生じている。たとえばシューベルトの歌曲集「冬の旅」の最後に登場する楽器のライアーは今はすたれたが、こじきの楽器として最も階級の低い扱いを受けていた。
トランペットは“神に近い楽器”として身分の高いものであった。宗教曲の輝かしい部分に使われていた。体力的な理由も加わって、トランペットは神聖な男の楽器だった。
稲垣路子は本選で、難曲のジョリヴェ「コンチェルティーノ」とハイドンの協奏曲変ホ長調を豊かな音色で、軽やかに吹いてみせた。しかも、「ハイドンは深みのある音で吹きたかったので」吹きにくいと言われるロータリー式のMUK型の楽器を選んだ。
今、各音大の管楽器専攻科には女性がひしめいている。日本音楽コンクール史上、この部門で女性として初めての覇者となった彼女は、時代が生んだトランペット奏者だ。今回はデザンクロで、“人間に近い楽器”としてのトランペットを堪能させてくれるだろう。
◆クラリネット部門
80年代のムジーク・テアーター勃興(ぼっこう)を機に、ダンス・舞踊や演劇とクラシック音楽が急速にクロスオーバーしてきた。音楽は身体で演奏されるという身体論が、音楽の場で問われ始めたのだ。
すでにスイスでハインツ・ホリガーなど最先端の管楽器奏者たちとの共演の場を持つ田中香織が、身体を志向するのも自然な流れであったろう。
「シュトックハウゼンの曲をステップを踏みながら吹いたとき、すごく受けた」ので、「ダンスや振りの付いた曲」にすっかり目覚めてしまった。前衛の曲でなくとも、今回の「カルメン幻想曲」などでも、その身体的音楽は生きるはずだ。跳躍する身体としてのカルメンを聴きたい。
◆作曲部門
近年、作曲を目指す若手の書法の進化には目覚ましいものがある。「いかに書くか」に関しては、「いかようにも書いてしまう」。だが、「何を書くか」と問われると、言いたいものが感じられない、というのも共通した課題だろう。
中辻小百合の作品からは、言いたいものが聞こえてくる。それは、彼女が模索する、音と言葉の新しい関係性だ。それは、従来の歌曲のように言葉を音で体現するのでもなく、前衛のように言葉と音を分節化するのでもなく、生き物のような言葉の全体の感触を音自体で表そうとするものだ。
北園克衛の詩をテクストにした受賞曲は、さまざまなイメージが消えてゆくところに、無いオブジェが浮かび上がってくるように感じられる。
現代曲が再演されることは少ない。演奏家が2度取り上げること、また聴衆が2度聴くことによって、作品への理解は一挙に深まるだけに、この貴重な再演の機会を逃したくない。
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◆東京公演 3月9日(火)午後6時半
(主催・毎日新聞社 後援・NHK 協賛・三井物産、毎日ビルディング)
※共演:現田茂夫指揮 東京交響楽団(作曲を除く)
受賞作品再演「消えていくオブジェ-北園克衛の詩による-」
演奏:板倉康明指揮佐竹由美(ソプラノ)東京シンフォニエッタ
サン=サーンス:ハバネラ 作品83
ショーソン:詩曲
プッチーニ:「マノン・レスコー」から“捨てられて、一人寂しく”「蝶々夫人」から“ある晴れた日に”
デザンクロ:トランペットとオーケストラのための祈祷、呪詛と踊り
サラサーテ、ボルヌ(アレンジ:ベカバック):カルメン幻想曲
サン=サーンス:ピアノ協奏曲第5番 ヘ長調「エジプト風」第2、第3楽章
※演奏順、曲目は変更になることがあります。
【入場料】S席3000円、A席2500円(全席指定)※前売り券は好評発売中。当日券は午後5時半から販売。未就学児の入場は不可。
【問い合わせ】東京オペラシティチケットセンター(〓03・5353・9999)チケットぴあ(〓0570・02・9999、Pコード616-527)
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◆他会場での開催と問い合わせ
青森公演 3月14日(日)午後2時
青森市民ホール(〓017・773・7300)
大阪公演 3月19日(金)午後6時半
堺市立東文化会館文化ホール(〓06・6346・8391)
名古屋公演 4月15日(木)午後6時半
愛知県芸術劇場コンサートホール(〓052・527・8081)
刈谷公演 4月16日(金)午後6時半
刈谷市総合文化センター大ホール(〓0566・21・7430)
大田原公演 4月18日(日)午後2時
那須野が原ハーモニーホール(〓0287・24・0880)
鹿児島公演 4月29日(木)午後2時
霧島国際音楽ホールみやまコンセール(〓0995・78・8000)
※公演会場により出演者、曲目、入場料は異なります
毎日新聞 2010年2月11日 東京朝刊