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【さらば革命的世代】第2部(6)京大応援団長の青春 対立の果てに見たもの (2/4ページ)
このニュースのトピックス:さらば革命的世代
学生運動に加わらないのであれば、「なぜ自身はノンポリなのか」、応援団であるならば、「なぜ、自分は詰め襟を着て応援しているのか」を“理論武装”せねばならなかった時代。ただ、議論はみなうまくなったものの、応援団員そのものは減る一方だった。阿辻さんの入部当初は70人ほどいた大所帯も、1年後には25人に減っていた。
「大学の私兵」
全共闘は、大学ごとに結成されていただけで、きちんとした組織機構があったわけでも、加入脱退の手続きがあるわけでもなかった。同じ京都にある立命館大で運動に参加していた男性(59)は「『オレは全共闘』と宣言すればメンバーになれるし、『やめた』といえば、それで終わりだった。集会に出たかと思えば、次の日は体育会で猛練習という学生もいた」といい、中心的な活動家はともかく、その境界はあいまいな部分もあったという。
阿辻さんも「みんな最初から考えて行動していたわけではなく、寮の先輩から『おい、やれよ』といわれ『オッス』みたいなことがきっかけだった。それは体育会でも学生運動でも一緒だったと思う」。
ただ、いったん道が分かれてしまえばそれぞれの対立はどうしても激しくなり、大学当局側についた体育会系学生と全共闘学生との争いが目立つ大学は多かった。
日大全共闘のあるOBは「体育会の連中がバリケードに攻めてきて日本刀を振り回したこともあった。体育会や応援団は大学当局の私兵のようだった」と今もなお苦々しく語り、「彼らは活動費を大学に依存していたし、大学職員に体育会の先輩が多かったということもあった。体育会的なタテ社会の構造が大学機構の中にも貫かれていた」と振り返った。