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【さらば革命的世代】第2部(5)「民青」の宮崎学さん 「まるでファッションだ」 (1/4ページ)
このニュースのトピックス:さらば革命的世代
■近親憎悪
グリコ・森永事件の重要参考人「キツネ目の男」に警察当局から疑われて注目された作家の宮崎学さん(62)は早稲田大時代の昭和40年代前半、全共闘のような「新左翼」ではなく、「旧左翼」の側から大学紛争にかかわっていた。
日本共産党(日共)の学生組織「民主青年同盟(民青)」の秘密ゲバルト部隊「あかつき行動隊」。当時、日共は武装闘争路線を放棄していたが、「新左翼の暴力には暴力で対抗しなければ党勢に影響する」との正当防衛を理由に結成された。突然現れたゲバルト部隊に驚いた全共闘が、当時日共の機関誌などを印刷していた「あかつき印刷」の労働者集団と勘違いしたのが名の由来だという。宮崎さんは、その隊長だった。
「ヤクザの世界と一緒やな。全く別織組との抗争は簡単に手打ちできるが、同じ組の中での内部抗争はたちが悪い。左翼も新左翼も根っこの部分では同じであり、だからこそ近親憎悪の感情から対立が深まっていった」
初めて行動隊に動員がかかったのは43年9月、全学封鎖が進む東大だった。バリケードを築いて「大学解体」を主張する東大全共闘を排除するためだ。「非暴力で民主的な大学」を目指したはずの民青も安田講堂事件までの5カ月間、全共闘学生たちと同様にゲバ棒を振り回した。当時、民青の中にも「暴力」に飢えていた学生が多かったという。
宮崎さんは「日共は選挙の票がほしいがために『あれやっちゃいかん』『これもあかん』という制約が多すぎた。一方で僕らがなんぼデモで人集めても、赤旗の集金を多く集めた人のほうが評価される。ものすごく官僚的な組織だった」
ただ、官僚的であったがゆえに、行動隊は数千人規模の全共闘相手に200〜500人で対峙し、練られた闘争計画と結束力で圧倒することもあった。