(NHK出版・3255円)
生誕二〇〇年、『種の起源』の刊行から一五〇年にあたるということで、去年はあちこちでダーウィンの名前を眼(め)にすることになった。関係する展示会や学会でのシンポジウムの他にも、雑誌での特集もあったようである。勿論(もちろん)ダーウィン関係の本も幾つか出た。
日本の中でもこうなのだから、本家のイギリスやアメリカではもっと盛大な騒ぎになっていたのではないかという気がしてくるが、実際にもそうであったらしい--新しい角度からのダーウィン研究が何冊も出て、日本の洋書店にもずらりと並んでいた。それをながめているだけで、改めてダーウィンの達成したことの影響の大きさを痛感することになってしまったが。ケプラー、ニュートン、アインシュタイン等とくらべてみるとすぐに気がつくのは、ダーウィンの仕事がさまざまの分野に与えた影響の幅の広さである。ダーウィンと哲学、宗教、社会思想、文学、そのどれでもが研究テーマとして成り立ってしまうのだ。
しかも、それだけではない。この数年のダーウィン研究では、それとは違うところにも眼が向き始めている。例えば、彼の名を同時代の人々に広く知らせる役割を果たした諷刺画(ふうしが)や美術との関係。更にダーウィンと写真(彼が一八七二年に出版した『人間と動物における感情の表現』には多数の挿絵と写真が使われている)。『種の起源』の中で提唱された自然選択の考え方とならんで重要な、『人間の由来』(一八七一年)の中で提示される性的選択の考え方--どうも適者生存、自然選択、進化論といったなじみの言葉ではとらえきれない側面が多々あるらしいのだ。
そうした新しい方向での研究、そして従来の正統的なダーウィン研究や伝記的な理解も含めて、激震を走らせたのが、二〇〇九年の初めに刊行されたエイドリアン・デズモンドとジェイムズ・ムーアという英米の二人の科学史家の手になる伝記『ダーウィンが信じた道--進化論に隠されたメッセージ』であった(日本語訳は去年六月の刊。この大冊にしては大変な速訳である)。
二人の著者はダーウィンの手紙やメモを徹底的に調べあげ、そこにひとつの関心が終始一貫して存続していることに注目する。地質学や動植物の進化へのあくなき探求心とならんで、もうひとつの関心が生涯にわたってずっと存続していたのだ--黒人の奴隷解放への関心である。二人の著者は、それを時代の歴史と丹念につなげてゆくことになる。そして動植物の進化、人間の進化のプロセスを説明しようとするダーウィンの脳裡(のうり)に、黒人と白人の関係の問題が、奴隷解放の問題がずっとあり続けたことを明らかにしたのだ。進化論とキリスト教の関係のみを云々(うんぬん)するというのは、結果的には、そのような側面を黙殺し排除することになってしまっていたのだ。
考えてみれば、ビーグル号の航海で彼が立ち寄った南米大陸のさまざまの町にはたくさんの黒人奴隷がいて、ダーウィンはそれを眼にしていた(因(ちな)みに、ブラジルが奴隷制度を廃止したのは一八八八年である)。同じビーグル号の船上には南米出身の黒人もいて、ダーウィンは日常的に会話もしていたのだ。そのことを考えれば、ビーグル号の航海といえばガラパゴス島をすぐに連想してしまうのは単純すぎると言うべきかもしれない。
しかも、ダーウィンが黒人を眼にしたのは航海のときが初めてではなかった。一六歳のとき、医学を勉強するために進学したスコットランドのエディンバラ大学の博物館で、鳥の剥製(はくせい)の作り方を数ケ月にわたって黒人から学んでいるのである。一八一七年に南米のガイアナから来た黒人が--ダーウィンはこの人物を「楽しい」人、「親しい人」と呼んでいる--何時間も一緒にすごす先生だったのだ。
この伝記は、そのような関係を可能にした歴史的背景を説明する。ダーウィン家の人々も、妻の実家であるウェッジウッド家(有名な陶器業者)も熱心な奴隷制度の廃止論者であり、そのための活動をしていたこと。一七八〇年代から約半世紀にわたる運動の結果として、イギリスは一八三八年に奴隷制を全廃したこと。それに先立って一八〇七年には、奴隷売買が禁止されていたこと。ダーウィンの仕事はこのような歴史的状況の中で続けられたのである。そのことを明らかにしたこの伝記のもつ意味ははかり知れないものであると言うしかない。後半の部分では、アメリカにおける奴隷解放に対する彼の関心についても説明される。
実は、二〇〇七年に、奴隷売買禁止令の成立二〇〇年を記念して、イギリス各地の博物館などで関係資料の展示がされ、政府もブレア首相の写真と文章つきのパンフレットを発行していた。そうした動きのもつ意味は日本では関心を引かなかった。当然ながら、それと二〇〇九年のダーウィン生誕二〇〇年との関係も注目されることはなかった。(矢野真千子・野下祥子訳)
毎日新聞 2010年1月31日 東京朝刊