18年間ウガンダで医療ボランティア、ユ・ドクチョンさん

 18年前の1992年、当時33歳だったユ・ドクチョンさんはウガンダに向かった。当時3歳と2歳の娘を抱え、3番目の子を妊娠していた妻のことが心配だったが、アフリカでの医療ボランティアは、ユさんの長年の夢だった。そして、ウガンダの首都カンパラのムラゴ国立病院に到着したが、そこには体温計や血圧計がなく、消毒液のにおいすらしなかった。1500床のベッドは、エイズや結核の患で溢れていた。

 「これほどひどい状況だとは思いませんでした。1日40-50人の入院患者を診察しましたが、薬がないため死んでいく人がほとんどでした。それでも病院に来られた人は幸運です。人口の60%が、1度も医者に診てもらうことのないまま死んでいきます。やりがいを感じるどころか、強い挫折を感じました」

 ユさんは慶北大学医学部を卒業し、軍医官として勤務した後、韓国国際協力団(KOICA)の政府派遣医師としてウガンダに派遣された。その後、2年契約を更新しながら、ウガンダに残った。2008年にKOICAが派遣制度を廃止した後も、ユさんはウガンダに残って診療を続けている。20年近く、アフリカで医療ボランティアを続けている人は珍しい。治安が悪く、病気にかかる可能性も高いからだ。ユさんは「エイズ患者を治療中、誤って注射の針を自分に刺したこともあるし、結核に感染し、肋膜炎でかなり苦労したこともあります」と話す。

 ユさんがウガンダに到着して、その8カ月後に引っ越して来た家族の苦労も、並大抵のものではなかった。特に、小学2年生の長女が脳炎にかかったときは大変だったという。娘はけいれんを起こし、呼吸もまともにできなかったが、人工呼吸器のある病院は1カ所もなかった。電気もなく、ユさん夫妻は暗闇の中で娘を見守ること以外、何もできなかった。

 「数週間後、娘が奇跡的に回復しました。もう帰国しよう、僕一人が頑張ったからといって、この地の状況が変わるわけでもないのだから、と思いました。しかし、帰ることはできませんでした。助けを求めるたくさんの人たちに背を向け、僕が韓国で心安らかに生きることができるだろうかと思ったのです。娘も『わたしはお父さんのお陰で治ったけれど、お父さんが帰ってしまったら、ここにいる人たちはどうするの?』と言いました」

 そこで帰国する代わりに、ユさんは「病院らしい病院を建てよう」という目標を立てた。ウガンダの病院の問題は、医療施設が足りない以前に、患者がまったく管理されていないということだった。「医師と看護師のコミュニケーションがまったく取れていない状態でした。薬や医療機器の盗難も多く、患者に与える食料もないため、患者は飢え死にしていくしかありませんでした。独裁政権は貧しい人たちの苦痛には関心がなく、力のある人たちは隣国に行って治療を受けていました」

 ユさんは2002年からウガンダに病院を建てるための活動を行っている。かつて医学部で時給9000ウォン(約700円)の講師をしながら貯めた給料を、すべてこの資金に費やした。そんなユさんがウガンダ政府から受け取ったのは、「内科分野最高の医師賞」(2000年)がすべてだった。韓国からの支援も皆無だった。「韓国政府からも数人がウガンダを訪問していたため、現地の事情や病院設立の趣旨を説明しました。説明を聞いた人は、みんな胸を痛めているように見えました。それなのに、数カ月後に舞い込んできたのは、『営利を目的とした個人病院を作ろうとしている』という内容の警告状でした。大使館も『面倒なことを引き起こして…』という反応だったため、政府の援助はあきらめることにしました」

 ユさんは昨年から、知人と一緒に募金活動を行っている。ベッド80床、6階建ての病院を建てる予定だが、2階の骨組みを立ち上げた状態で資金不足になり、一時帰国した。

 ユさんは韓国にもウガンダにも家がない。それでも「生きる目標があるから幸せです」と話す。「以前は僕のことを理解できないと言う人がたくさんいました。韓国にも貧しい人たちがたくさんいるのに、どうして家族を苦労させてまでウガンダにこだわるのかと。しかし、行ってみなければ分からないでしょう。韓国とはレベルの違う貧しさなのです」

 ユさんの三人の子どもたちは、隣国ケニアの国際学校で中学、高校に通った。現在、二人の娘は延世大学に入学するため帰国し、息子は、高校3年生だ。ウガンダには、夫婦二人が残り、医療活動に専念している。

キム・ナムイン記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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